第3話 顔を合わせなくてもよく知っている人です
レイラが身支度を終えてカーティスの部屋に戻ろうと早足で夫人の家を出ると、玄関の前に当の本人が立っていたので驚いた。
「旦那様?」
(急いだつもりだけど、時間がかかりすぎてしまったのかしら)
あきらかに自分を待ってたであろうカーティスに当惑する。彼はレイラを目にした瞬間、少し顔をこわばらせたように見えたからだ。
しかし、「お待たせしてしまいましたか?」と尋ねたレイラに、彼は柔らかく微笑して首を振った。
「私が勝手に迎えに来ただけだよ。ドレスを着たレディを、一人で歩かせるわけにはいかないだろう?」
そう言って差し出された手にレイラが自然と手を預けると、彼は満足げに目を細めて「とても綺麗だね」と囁く。その低く滑らかな声に全身を撫でられたように感じ、レイラは赤くなった顔を隠すように俯いた。
「恐れ入ります」
(さ、さすが旦那様。女性慣れしてらっしゃるわ)
彼の声に、生前祖父が『女性、特に妻はどんなに褒めても褒めすぎることはない!』と言っていたのを思い出すせいだろうか。
いやらしさがないカーティスの優しい声に、レイラはまったく不快な感じがしなかったことに気づいた。
顔を上げてみれば、カーティスもすでにパーティー用の装いであることに改めて気づく。今朝レイラが丁寧にブラシをかけたそれは、二日前に仕立てあがったばかりの夜会服で、うっとりするほどの麗しさだ。
ふと、その胸元のチーフが、レイラが今着ているドレスと同じ色であることに気づいた。
ドレスを選んでくれた夫人は、カーティスの今夜の装いも想定していたのだろう。
(さすが小母様だわ)
「旦那様も素敵です」
レイラが褒め返すと、カーティスは面白そうに左眉を上げた。
「そんな風に呼ばれると、君がまるで私の妻になったみたいだね」
悪くないと顎を撫でてニンマリする彼に、レイラの心臓が激しく暴れだす。使用人としては普通の呼び方ではあるが、パートナーとしては不適切であることをうっかりしていた。
「お戯れが過ぎますわ――か、カーティス様」
「おや、残念。まあ、名前で呼んでくれるのもいいものだね」
本当に残念そうに、それでいてなぜか「やっとだ」と呟いたカーティスの声は、きっとレイラの空耳だろう。
彼にエスコートされながら自動車の後部座席に座ると、馬車とは違うそれにレイラの目が輝いた。
実家で使っていた馬車や乗り合いの馬車だと、座席は向かい合わせに作られる。だがこの自動車は運転手と同じ方向をむいた一列だけなのだ。柔らかい革が張られたシートの座り心地がいいのも感心した。
チャドの運転でまずレイラのアパートに向かう間、見慣れた街を熱心に見つめる。同じ街なのになぜか輝いて見えた。
「自動車とは、素晴らしいものですわね」
興奮気味にカーティスにそう言うと、彼は「君に気に入ってもらえて嬉しいよ」と愉快そうに笑った。その楽しそうな笑い声にレイラもにっこり笑う。
臨時とはいえ、彼はレイラを正式なパートナーとして扱ってくれている。
業務外だと言ったレイラに時間外手当の提案もあったが、歌姫のコンサートなら三日分のお給金でも足りないくらいなのだ。受け取れるはずがない。
一方、パーティーの間は正式なパートナーとして扱ってもよいだろうかというカーティスの言葉に、レイラは戸惑いながらも頷いたのだが、実際にそう扱ってもらうと不思議としっくりくることに驚いた。
(彼は私の過去も実家も知らないはずなのに――)
それでも彼が「大丈夫」だと言った理由はレイラの物腰らしいので、何か気付いているのかもしれない。
靴を取りに寄ったアパートには、カーティスが少しショックを受けているようだったが、レイラはそこが王宮であるかのように泰然とふるまった。事実、今のレイラにとっては小さくても自分の城だし、将来のために貯金をするにはこれくらいがちょうどいいと思っている。
再び車で会場まで向かう間、レイラはカーティスと適切な距離を保ちながらも、ずっと隣に座る彼のことを考えていた。
初対面以降顔を合わせたことはなかったけれど、レイラはカーティスをよく知っている。
レイラの勤務時間は、彼が出かけてから帰る前の不在時だが、仕事をしていれば為人は見えるものだ。
朝はミルクの入った紅茶と果物を好むこと。
チャドがアイロンをかけた新聞を毎朝必ず読むこと。
きっと恋人が泊まることもあるのだろう。でもその痕跡は絶対に残さないこと。
音楽鑑賞も読書も好きで、書斎にはレコードも本も沢山あること。流行の小説も好きなようで、一番のお気に入りはトーマス・サムの冒険小説シリーズだ。
(意外と子どもっぽいのよね)
そして、それが好ましいとも思うのは、好みが不思議なくらいあうからかもしれない。
レイラが軽食用に作っておくフルーツケーキも彼の好物だ。
新聞や雑誌で紹介されるカーティスは隙のない男だし、多くの美女との浮名も流していた。レイラが来る前はたしか、熱心な崇拝者に追い回されて大変だったと聞いている。
「仕事はどうだい?」
そう尋ねるカーティスに「とても楽しいです」と答えるが、本心だ。
二年前、キャデラン夫人の紹介で通いのメイドとして雇われた。後見人がはっきりしているため、家名のないただのレイラでも雇ってもらえたのだろう。
臨時メイドを募集していたきっかけは、チャドの妻アニーが、結婚十年目でやっと子宝に恵まれたことがきっかけだった。子育てが落ち着くまで長い休暇をとってもいいというのだ。
その彼女に最近二人目の子どもが宿ったことが分かり、レイラの仕事も延長された。
(でも、私はあくまで臨時のメイド……)
休憩時間に、主人の本を読んだりレコードを聴いてもいい職場など他にはないだろう。食事は賄いとして、毎日様子を見に来てくれるチャドの妻と共に摂ってもよくて。新聞ももらえるから、世間のことも貪欲に学習することができる自分は、本当に恵まれていると思う。
本当だったら後一年もなかったはずの雇用期間が延びたことに、心底ほっとしたのも事実だ。
本物の自立をするための準備は進めている。
それでも今の環境はあまりにも居心地が良くて、気付けば傷ついていた心がいつのまにか癒されていたことに、レイラは気付いていた。