陸「歌子」
》一九一六年十一月十三日 八時十分 オスマン帝国・スタンボウル ――ѨЛѮ《
生き永らえるには、現地人と融合する他、方法が無かった。
幸いにして歌子はこちらに友好的で、喜んで体を貸して呉れた。
けれど、問題が発生した。
「パパ、やっぱりあの子が来るまで待とう!?」
西洋と東洋を繋ぐ街の宿で、歌子が父親に激しく反発する。
歌子は、ѨЛѮが思っている以上に、あの少年に感情移入している様子であった。
「私、あの子と約束したもの。必ず迎えに行くって!!」
ѨЛѮとしては、これは誤算だった。
ѨЛѮからすれば、現地人の命の一つや二つ、自身の身の安全に比すれば極めて軽いものだった。
少年が敵に捕らえられてしまったらしいことを感知したѨЛѮは、冷静に冷徹に、『Diva Driver』を次元の狭間を介して回収した。
が、歌子にとっては、そうではないらしい。
他方、渡瀬絃太郎には少年を待つつもりはないらしい。
愛する娘の命と、生きずりの少年の命を、天秤にかけた結果なのだろう。
絃太郎は歌子を引き摺るようにして旅を再開し、歌子は泣いて、泣いて、非道く塞ぎ込むようになった。
――結局、半年ほどの年月を掛けて、旅は無事に終わった。
少年を囮にして切り抜けたあの戦い以降は、ただの一度の襲撃も無く、ѨЛѮ――ヱリスと歌子と鉉太郎の三人は、日本は大阪、絃太郎の祖父・絃悟郎氏の工房に辿り着いた。
その頃にはもう、ヱリスはすっかり安定し、ほとんど眠らなくなっていた。
……そして逆に、歌子の方が善く眠るようになった。
歌子は眠り、覚めては少年を見捨てた父をなじり、彼女自身を罵倒した。
絃太郎はヱリスから見ても哀れなほどに落ち込んでいった。
「きっと時間が解決して呉れる」とは絃悟郎氏の言葉だ。
遠く西洋の地で興った『音学』なる新学問に興味を抱いていた氏は、云わばこの星における音学の最高の権威とも云えるヱリスの知識に、喉に、歌唱に夢中になった。
氏としても、ヱリスのお陰で可愛い孫が生き永らえていることは十分に理解しているらしく、「孫の体を乗っ取りおって」などとなじることはなかった。
父や母や、沢山の友人知人がみんなみんな死んでしまったことは悲しかったが、ヱリスは毎日が概ね楽しかった。
絃悟郎氏に音学を教え、氏が次々と生み出す音子回路の改善点を指摘して。
毎日沢山、美味しいものを食べて。
そのうち、弟子や従業員が増えていって、工房は賑やかになっていった。
ヱリスは『渡瀬歌子』を演じる機会が増え、歌子の眠りはますます深くなり、やがて自己と歌子との境界が曖昧になっていった。
いつの間にか、言葉はこの地の訛りを帯びていた。
――三年が、過ぎた。
最早歌子は数日に一度、数分程度しか目覚めないようになってしまっていた。
ヱリスがいくら呼び掛けても、彼女の意識は非道く眠そうに身じろぎをするばかりであった。
そして、ついに――――……歌子と、お別れする日がやって来た。
ある、陰鬱な雨の日だった。
朝、目覚めると歌子が呼び掛けてきた。
「パパと、話がしたい」
ヱリスは飛び起きて、すぐさま絃太郎の部屋に駆け込んだ。
きっとこれが最期なのだ、と直感していた。
「鉉太郎……歌子が、貴方と最期のお話がしたい、って」
♪ ♪ ♪
「御免なさい、パパ……多分これが、私の寿命なんだと思う」
「そんな、嗚呼、歌子……だとしたら俺は、一体何の為に――」
「ヱリスちゃんのこと、悪く思わないであげてね。だって三年間も生き永らえることが出来たのは、間違いなくヱリスちゃんのお陰なんだから」
ブツン、と頭の中で音がして、気がつけばヱリスは、表に出ていた。
それっきり、どれだけ呼び掛けても、心の中を探し回ってみても、歌子は見つからなかった。
――――――――次の日の未明、銃声で目覚めてみれば、絃太郎が自殺していた。




