68話 デートと柔道
繋いだ手が、なめらかで柔らかい。
人口が百万人を超えると言われている王都では、複数の商業エリアが栄えている。ここもそんな商業エリアの一つで、馬車が4台はすれ違える幅の道の左右には、数多くの店舗が立ち並ぶ。
多くの通行人が店先をのぞきながら歩き、その流れの空白地帯には屋台もたくさん出ていた。
「絶対にわたしの手を離しちゃダメだよ?」
僕の手を引いているのは、マイナ先生である。僕はまだ背が低いので、この人混みの中だと少し離れるだけで、すぐにマイナ先生を見失う。
つまり、手をつなぐ必要がある。
「わかってるよー」
僕はマイナ先生から離れないように手を握りなおし、ニヤける表情を隠す。
これはデートだ。誰が何と言おうとデート。
こんな大きな街に来るのは初めてなので、一度街へ出てみたい。そう思って溶錬水晶の工房を見学したいと言ったら、メガネに興味津々だったマイナ先生がついてきた。
僕としても、王都は初めてなので、道案内がいるのはありがたい。
それがデートだと気付いたのは、街に出てからだ。
「あ! あんなところに本屋さんができてる! ちょっと寄ってみようよ」
工房にアポをとっているわけではなく、二人きりしかいないので、興味のある店をみかけると寄り道が発生する。
それが楽しい。
意識している異性と二人きりの楽しいデートなんて初めてだ。
マイナ先生に強く手を引かれて、本屋に入る。店内には大きな本棚が二つあるだけだった。
一方の本棚は装丁はバラバラだが「聖典」と「聖典の手引き」という背表紙の本がぎっしり詰まっている。もう一方は剣術や槍術、弓術の本や、魔物辞典、絵本めいた表紙の本が分類されないまま、隙間だらけで置かれていた。
手に取って見ると、ページの紙質はお世辞にも良いとは言えず、少し癖のある書体は完全に手書きだ。
店内を見回すと、店に置かれた机で二人が本を筆写している。
「わ! 数秘術の本がある!」
マイナ先生は、隙間のある方の本棚から一冊引き抜いてパラパラとめくって、何やらうなずいていた。横からのぞくと、台形であったり、三角形であったり、何やら図形が書かれている。解説を読むと、どうやら畑の面積計算と収穫予測のやり方らしい。
数式がないから違和感があるが、数学の公式の本ぽい。何に使うのだろうか?
「すいません! これいくらですか?」
マイナ先生が、紙に覆いかぶさるように一心不乱に筆写していた店員に声をかける。
顔を上げた店員は、あまり良い人相ではなかった。目を細め、眉間に皺を寄せてこちらを睨んでくる。
「どれですか?」
感じの悪い表情だが、声だけはハキハキしていた。
「左側の棚の数秘術の本です」
せっかくのデートだ。ここはプレゼントした方が良いだろうか? 女の子のプレゼントを考えるとか、何だかワクワクする。
「金貨5枚です」
金貨5枚!? すさまじい大金だ。 石鹸の利益の分け前が全部残っていれば、何とか買える金額だ。
王都に来る途中の街で皮鎧のサイズ調整と補強をして、刃が欠けていた武器を研ぎに出して、気に入ったサンダルを買ったら、あっという間に銀貨で60~70枚分ほど減ってしまった。
なので、手持ちでは足りない。
「高いですね」
「ええ。それは『ログラムの賢者』と呼ばれるゴート・コボル様が書かれた本の写本です。図形の再現性も賢人ギルドで売られている写本並ですので、どうしてもそのお値段になってしまうんです」
ん? 一瞬、マイナ先生が固まった気がしたけど、気のせいだろうか?
「あ、ですが、今なら金貨4枚にさせていただきます!」
それなら僕でも買える。これを買ったらマイナ先生は喜ぶだろうか? 僕は内容をパラパラめくる。
内容は小難しくてほとんど頭に入らなかったが、一つだけ見覚えのある図形があった。内容は直角三角形の各辺の長さ計算である。何に使うかは知らないが、こちらの世界にもこんな事を考える暇人はいるらしい。
「あ、3平方の定理だ」
これに金貨4枚出すのはもったいないけど、数学の教科書から抜粋したら、似たようなものが作れそうな気がする。
だけど、これはプレゼントだし、ここは思い切って買った方が良いのだろうか?
「イント君? 知ってるの?」
僕の呟きを聞きつけたマイナ先生が、小声で囁いてくる。
「うん。教科書にあったと思う。金貨4枚ならギリギリ買えるけど、僕がプレゼントしようか?」
小声で囁き返すと、笑顔で頭を撫でられた。
「ううん。気持ちだけで充分だよ。そのかわり、後でその『叡智の書』、見せてね」
何が「かわり」なのかよく分からないけど、一緒にいられるのはうれしいので、とりあえずうなずいておく。
「あの? それで、どうなさいます?」
店員がおずおずと言ってくる。相変わらず目つきが悪い。
「あ、手元に同じような本があるようなので、やめておきます。ありがとうございました」
マイナ先生はウキウキを隠せていない声で店員さんに告げて、店を出る。
店を出ると、再びはぐれないよう手をつないだ。
少し離れた馬車道を、馬車が人間の小走りぐらいの速度でのんびりと走り抜けていく。交通量はそれなりにあるようだ。
馬車道は、ぜんぶで4車線。内側の2車線は行き違いの走行用で、歩道側の車線は停車用になっているらしい。
よく見ると、どの馬車にも紋章が描かれているが、あれはナンバープレートのようなものだろうか?
「馬車道がめずらしいの?」
マイナ先生が話しかけてくる。
うちの村に、こんな大きな道はなかったし、シーゲンの街もメインストリートは一本だけだったし、そもそも4車線もなかった。
「こんな道がたくさんあるって、王都はすごいね」
車道は馬の糞尿が垂れ流しになっているせいか、少し臭い。
「この国1番の都会だからねー」
少し離れたところで、革鎧を着た男たちが何やらもめている。冒険者というやつだろうか?
マイナ先生は、揉め事を無視してズンズン進んでいく。笑顔はカケラも崩していない。
ちなみに、フォートラン伯爵から教えてもらった溶錬水晶を作っている工房は、王都の西側を流れる川の傍に広がっている鍛冶屋街にあるらしい。
治安は、貴族街、商業街、職人街、貧民街の順に悪くなる。僕は前世とコンストラクタ村しか知らないが、両親は短剣だけは持っていけと言っただけで、マイナ先生と二人で職人街へ行くことには反対しなかった。
美少女な15歳と8歳。よくよく考えれば、揉め事に巻き込まれたら大変だ。金貨も持ってきてしまった。
昨日合流したパッケあたり、護衛に来てもらったほうが良かったかもしれない。だけど今日はオバラ院長の手配で、王都の治療院ギルドへ行っている。
王都でも熱中症やレイスウィルス感染症が深刻化しているからだが、物資の不足は深刻だが、対処方法はすでに確立されているようで、僕に声はかからなかった。
―――ふと、名前を呼ばれた気がして、周囲を見回す。
「ーーーイーくぅーん……」
やっぱり呼ばれていた。少し前で馬車が止まっている。手を振りながら馬車を降りてきたのは、ユニィだ。
続けて降りてたのは、武装した大人の男と侍女。その後によく知らない男の子が続く。男の子の身なりはかなり良く、レイピアを下げているので、おそらく貴族だろう。
だが、少し臆病そうに見える。降りて来てから、さかんに周辺を気にしていた。
「イー君!」
ユニィが嬉しそうに走ってきて、抱き着いて来る。普段はこんなことをするタイプじゃない。何か怪しい。
「ユニィ、何があったの?」
受け止めてから、小声で尋ねる。
「リシャス様、馬車の中でずっとイー君の悪口を言っているのです。不愉快なのです」
ユニィも小声で返してくる。リシャス様、ということは、ユニィの婚約者か。やっぱり厄介だった。
確か名前はリシャス・パール。伯爵家を筆頭とした有力貴族一門で、アモン監査官が本家の四男なのに対し、リシャスさんは分家の子爵家の嫡男だ。
「なんで婚約者の前で抱き着いてくるのさ!?」
リシャスさんの憎々し気な視線が突き刺さってくる。貴族については最近勉強しているが、アモン一門は古典派である。
対して、僕らもシーゲン家も王族派。前の戦争で、現国王の王太子と王族派は、古典派からクーデター同然に実権を奪った。
以来、王族派と古典派とは対立している、らしい。
「あいつ、もう現実が見えなくなっているのです。あいつをぶっ飛ばして、目を覚まさせてやってほしいのです」
もう小声でも聞かれかねない距離まで、リシャスさんが近づいてきていたので、ユニィの要求にはもう答えられない。
しかし家同士は対立。それだけならロミオとジュリエットだが、本人たちの相性も最悪ときた。なんでこんなことになっているのか。
「君がイントか。僕のユニィと随分と仲が良さそうじゃないか」
声が冷たい。それはそうか。ぼくもマイナ先生がリシャスさんに抱きしめられていたら、きっとこうなる。
しがみつこうとするユニィをひっぺがし、リシャスさんに向き直った。
「初めまして。リシャス様。おかげさまで仲良くやらせていただいています」
僕は男爵家の嫡男、相手は子爵家の嫡男だ。マイナ先生ともども、深々と頭をさげる。
「ほう。成り上がりの貴族でも礼ぐらいはとれるようだな。ユニィから話は聞いているぞ。田舎で赤熊や魔狼などと戦ったそうだな」
まるで当然のように言ってくるが、内容は嫌味っぽい。
「はい。我が領地は『死の谷』と隣り合わせですので、子どもの頃から魔物と戦う術を身に着けております」
「フンッ。冒険者上がりにはお似合いの領地だな。ということは、剣にも自信が?」
マイナ先生より少し年上ぐらいだろうか。なかなか偉そうに育ってるな。
「いえ、剣には自信がありません。2歳下の妹にも負けてしまうほどでして」
答えると横からユニィにこっそりつねられた。
「ユニィ? 本人はこう言っているようだが?」
「リナちゃんはすごすぎるけど、イー君は無自覚なのです」
どうしてユニィはおおげさに言うのだろう。リシャスさんは見るからに年上だし、アモンさんよりは痩せていて素早そうだ。僕は小さい頃から親父の訓練は受けているけど、同じく訓練を受けている人に勝てるとは思わない。
「はっはっは。まだ言うか。ではイント。あのいざこざを収めてこれるかな?」
リシャスさんが指差す方向では、中学生ぐらいの男女が、整備の行き届いていない革鎧を着たチンピラたちに絡まれている。チンピラの数は二人、見たところ仲間はいない。
さっきも似たような光景を見たので、ここでは当たり前の光景かもしれない。実際のところ、あまり関わりたいとは思わない。
「ああん? オメェ何言ってんだ。ざっけんな!」
チンピラは男の子が持っている包みを払いのける。
地面に落ちた包みからは、カシャン、と何かが割れる音がした。
おや? 割れる音が焼き物より軽い。聞き覚えのある音だ。
「イー君。チャチャッとやってくるのです」
「ちょっと、これから工房行くんだから、服は汚さないでね」
ユニィとマイナ先生が左右から言ってくる。僕が負けるとは思わないんだろうか。
「どうした? できないか? では僕がいって———」
思惑に乗るのは癪だが、あの音、どのみち捨て置けないか。
すでに男の子は胸倉を掴まれている。
「いえ、ちょっと行ってきます」
僕の武装は腰に短剣が一本、サンダルに投げナイフが2本。まぁ人間相手に使うのはいろいろまずい。
(体育の資料集、柔道のページをひらいて)
僕は柔道の技のイラストが描かれているページを見ながら、人混みを抜けて、揉め事の中心地に近づいていく。課題は揉め事を収めること。チンピラが話を聞いてくれれば良いけど。
「えーと、ちょっとすいません。何があったので?」
僕が声をかけると、チンピラたちは少しびっくりしたようだった。
が、チンピラたちは僕の全身を舐めまわすように見て、こちらに歩み寄ってきた。
「何だぁ? オメェはこいつらとどんな関係だぁ?」
「いやぁ、知り合いってわけじゃないんですけど、何があったんです?」
チンピラの視線がチラリと短剣に向く。なるほど、武器は警戒されるのか。
「ガキはすっこんでろ!」
僕はチンピラに軽く突き飛ばされて、少しよろけた。チンピラの動きはうちの家族と比べて遥かに鈍いし、木刀が当たるよりは痛くない。
「おい! その子は関係ないだろ!?」
胸倉を掴まれていた男の子が、小突かれた僕を見て暴れ、もう一人のチンピラに殴られた。
この世界にも正当防衛はある。そしてはっきりとした身分制のあるこの国では、特にはっきりと。
小突かれた程度で仕返しして良いのかわからないけど、とりあえず、この場を収めればいいのだ。失敗しても、リシャスさんたちが助けてくれるだろう。
中学の時の授業は数回。しかも、ほとんど受身の練習ばかりだったので、投げ技の経験はさほどない。しかも、僕とチンピラの体格差はかなりある。
まぁでも、一回これで親父も投げてるし、僕は前世より身体能力高いし、何とかなるだろう。
「えーと。小突かれたということで、正当防衛成立ですかね?」
「はぁ? 何言って———」
僕は全力で踏み込むと、腕を伸ばして襟と袖をしっかりと掴み、そのまま脛の裏を思いきり足をかけ、勢いと体重を乗せて思いきり投げる。
ズシリと、腰にチンピラの体重が乗る。足が挟まれそうになったので、ギリギリで引き抜く。
意表を突かれた男は、間抜け面のまま石畳に叩きつけられた。僕はチンピラ上に乗った状態から一回転して起き上がる。
「てめぇっ!」
チンピラその2が、男の子を放り出して突進してこようとしたので、こちらも踏み込む。
自分のナイフを抜くほうにチンピラその2の注意が向いていたので、着地しようとしている足を払ってやった。
「ぐあっ」
これは柔道で言うなら出足払いだが、どちらかというと義母さんにもよくかけられている技だ。
良かった。僕の見た目に騙されて、奇襲は思っていたよりずっと簡単に成功した。
「こ、この野郎」
終わってその2はまだ起き上がってこようとするので、とりあえずナイフを蹴り飛ばしておく。
チンピラその2は起き上がろうとして、自分の身体に何かの破片が大量に突き刺さっていることに気がついた。
「痛ってぇ! 何だこりゃ!? いてえええええ」
チンピラその2が倒れたのは、男の子が持っていた包みの上だった。中身の破片が刺さったのだろう。
男はうずくまって、肩に刺さった破片を抜いている。もう僕は見えていないようだ。
そういえば、その1も受身を取れていなかった。ここの地面は石畳だからかなり痛かっただろう。
見ると、チンピラその1も身動き一つしていない。もしかして、僕はやりすぎた?




