不在の時ほどなにかが起こる
既に外は美しいオレンジ色に彩られている。児童達の完全下校時刻はとうに過ぎており、校舎内は独特の静寂に包まれる。しかし、らんてぃあの四人は未だ下校せず、特別教室に待機していた。
勿論、勝手に居残りしているわけではない。そんなことは副リーダーの咲が許さない。リーダーの洋は、校長に確認を取り、夜間の活動届けを出している。
顧問としてやって来た教師が扉を開けるのに真っ先に反応したのは小さな魔王こと京であった。ゆったりと立ち上がり、目元にピースを添えて、ぽつりと声を漏らした。
「んちゃっ」
「おっ……!?おう。こんにちは……」
魔王と噂される少女の唐突な茶目っ気に戸惑いつつ、彼らの監督役はおずおずと特別教室に入室する。
それが合図とばかりに、洋が第一声にて始まりを通告する。
「時間だな。では、らんてぃあ『第一回夜間調査』を始めるぞ!」
「大分日も長くなりました。一八時をまわっても、存外明るいものですね」
既に、日中でのクラブ活動の時間でその内容は語られている。今日の活動は七不思議の一つ、保健室の『キサクナシンシ』に出会うことが目的として設定された。
「では、今回調査する七不思議のおさらいだ。とはいえ、今回は本当に安全。これまでに何らかの被害があったっていう報告が一度もない。カタメノフタツメとは違うパーフェクトセーフティミスティックだ」
「えー、ひどーい」
「今日は怖いのなしなんだよね?信じるからね?」
洋の言葉に、カタメノフタツメは不満を、咲は不安をそれぞれ口にする。そんな様子を見て、菊は彼らを見守る教師に話しかける。
「中々愉快なメンバーでしょう?」
「愉快すぎますね。京の様子にも驚いたが、ありゃなんだ。何でメンバーに化けもんが混ざってんだ」
今日の活動において注目すべき人物は付き添いを任された一四七十次郎だろう。警備教諭と呼ばれる特別な先生である。研修が入って、来られない司の代わりに、教頭からクラブの監督を任された。
もう一人注目せねばならないのが、今回の活動に何故か混ざっているカタメノフタツメである。なに、その理由は単純なものだ。少し前、洋がトイレにいくついでにカタメノフタツメが出現しているか確認したところ、低学年教室前廊下を退屈そうに歩く彼女が発見された。
『あ、ようだ』
『なんだよ、遊ぼーってこねえのか』
『え。…………あそぶ?』
『わあ、露骨に嫌そうな顔すんのなお前。この前のそんな嫌だったのか。悪かったよ、ごめんな』
どうやら、カタメノフタツメは遊びが絡まなくなると普通に対話が可能なようだ。鬼ごっこで二十メートルシャトルランを始めるよく分からない思考回路の奴と遊ぶ気など更々なかったカタメノフタツメは、皮肉にも非常に理知的な会話を洋とすることができた。
『俺たち、これから夜の学校探検するんだが、一緒に来るか』
『がっこうたんけん!そーゆーのやったことない!たのしそう!』
『飛び入り歓迎だぜ、カタメちゃん』
『いくー!』
その結果、飛び入り参加でカタメノフタツメ……カタメが混じることになったのである。最初の頃の恐怖はどこにいったのか、咲を始めとするらんてぃあメンバーはすんなりと彼女を受け入れた。
ちなみに、『キサクナシンシ』について、カタメは一切知らないらしい。それどころか、七不思議の存在をほとんど認識していないようだった。洋にとっては七不思議本人から面白い話が聞けるのではと期待していたので少々拍子抜けしてのスタートになる。
「さあ、目指すは保健室!皆、準備はいいか!」
「「おー!」」
「ん……?おー」
「元気だなぁ、こいつら」
「本当に。私も少しばかりはしゃいでみましょうかね?」
何ともバラバラなメンバーだ。唯一反応が同じだったのは、よりによって咲と飛び入りのカタメちゃんである。洋は自分こそ協調性などつゆほどもないのを棚にあげて、『こいつら協調性ないなー』とぼんやり考えた。
さて、さっそく七不思議探索開始である。許可された時間は一時間。何もしなければ長いが何かを為すには短い絶妙な時間である。明確な目的がある『でぃぷ・らーくな』は、一秒も無駄にはできないのだ。
「いちしなな先生?」
「これでにとびって読むんだ。数字が二つずつ飛んでるだろ?」
「なるほど、すげえな!」
十次郎は先陣をきって進む洋の横にぴったりついて世間話などしつつ、京とカタメの動向を中心に、『でぃぷ・らーくな』メンバーの様子を見ていた。特に気になっているのはカタメの存在だ。
(カタメノフタツメなぁ……こいつ噂では、目玉抜きの化けもんじゃなかったか?実在するとなると、こんなんが未だに巣くってるなんざ職員会議ものだろう)
しかし、本人は咲と和気あいあいと対話している。とても危険な様子は見られない。今の段階では、ただの奇形児だと言われても疑いようがないほど、怪異としての性質が表出していない。
だが、貴族である十次郎には魔力の質から、彼女が人ならざるものであることを確信していた。善悪の性質までは判断がつかないが、正直なところ、あまり子ども達に近づいてほしい存在ではない。
(いざとなりゃ、俺の魔術で渡り合えるかね?)
十次郎は攻撃魔術はそこまで得意ではない。いや、そもそも攻撃魔術なんて使い勝手の悪い代物、戦法の中心に持ってくることがそもそも間違いである。ただ一点、道具なしで遠距離攻撃が可能という一点においては優秀である。目眩ましにでもなれば、緊急時に時間稼ぎとして使える。彼は児童達を守る一つの手段として魔術行使という手段を選ぶ可能性をこの時点で考慮していた。
「さて、保健室か」
「あ、ほんとだ!だれかいる!」
「……ん」
保健室の前に来たところで、同時に反応を示したのはカタメちゃんと京であった。京は菊におんぶされながら、保健室をじっと見つめていた。
「何で、神童様は京をおぶってるんです?」
「階段を降りる過程で足がもつれたようで、転がり落ちそうになったところを救助しました」
「……っ。そうか。流石です、神童様」
十次郎は冷や汗を垂らす。危険性の曖昧な七不思議などに注意を逸らすべきではなかった。少し目を離した隙に、児童が怪我をしかけていたではないか。
(情けねぇ。児童が不必要に危険な目に合いそうになったじゃねえか。事がありゃ、日丸先生に顔向けできねえぞ)
一応、京の無事を確認しようと十次郎が踵を返したところで、ガラリと勢いよく保健室の扉が開かれた。
十次郎はまたも慌てた。七不思議などという訳のわからない存在に対してあまりにも不用心。洋はしきりに今回の調査対象は安全だといっていたが、悪どい本性を持っていたらどうする。今、彼らと共に仲良く廊下を歩いている穴空け少女だって、一歩間違えれば目玉を繰り抜こうとする危険な存在だというのに。
そんな彼の心配など知らぬ存ぜぬ、『でぃぷ・らーくな』のリーダーはその名を行動で示すがごとく、意気揚々と保健室に入って行く。
「シンシさんはいますかぁ!!」
「はいはい、いますよジェントルメン。おや、今日は可愛らしいお客さんが沢山だ」
さて、保健室にいたのは、うさんくさい喋り方をする礼装であった。
「……透明人間?」
「ハロー、ビッグミスター。透明人間とは私のことかね?それに対してはNoと答えざるを得ませんな。私はどこも透明などではありません。心の清さばかりが透き通る、見ての通りの紳士でございます」
つらつらと語る、シルクハット、スーツ、手袋、革靴。一礼する様は如何にも紳士然としている。
そんな不思議存在に対して洋を押し退けて前に出たのは咲だった。どうやら、ノックもせずに保健室に突撃した洋の無礼を看過できなかったらしい。なれない敬語を何とか駆使して、まるで自分が代表であるかのように一礼して挨拶をする。
「こんにちは、紳士さん。私は大村咲って言います。今日は、『でぃぷ・らーくな』という活動のメンバーで紳士さんに会いに来ました」
「こんにちは、ミス・咲。ほうほう、愛らしいばかりでなく、礼儀も心得ているらしい。素敵なレディにはやはりお洒落なティーカップと紅茶が似合う。ささ、一杯如何かな」
「え?……あ、ありがとうございます?いただきます」
紳士はどこから持ってきたのか不明なティーポットを傾けて紅茶を注ぎ、咲に渡す。咲はその中身を一切疑いもせず、一口啜った。十次郎はまたしても慌てさせられることとなった。こちらもこちらで、人を疑うことを知らなさすぎる。
「おっと、礼儀を心得てなくてごめんなさい。俺は君賀洋です。咲がいった通り、紳士さんに用があってきたんだ」
「ハッハッハ。元気があってよろしい。子どもかくあるべしといったところかな。そう固くならなくて宜しい。ゆっくりしていきなさい」
「ありがとう!」
紳士は洋にも紅茶を渡した。中々懐の広い紳士である。
「ふむ……アポ無しでの訪問、大変失礼いたしました。桜木菊と申します」
「……ん」
「ほほう。見るからに貴族然とした雰囲気……ミスター・菊は名のある家のご子息ですかな?いや、こちらこそ失礼。学校という場で身分の話など無粋にも程がありました。そちらのシャイ・ガールは……おや、どこかで見覚えが。んん、会ったことない?では、デジャビュというものでしょうか。まあ、なんです。こうして出会ったのも何かの縁。どうです、まずは同じポットの茶を飲んで友好を深めませんか」
『でぃぷ・らーくな』の団員四人に紅茶が行き渡る。十次郎は、自分も挨拶するべきなのか迷った。それでも、たとえ相手が怪しげな怪異の紳士だとしても、普段から挨拶挨拶と言っている教師が、子どもたちが礼を尽くした相手にまさか無愛想な態度をとるわけにもいくまい。
「……彼らの監督役の一四七だ。まあ、よろしく?」
「紳士です。生憎、名刺は作っていないのですよ。代わりに美味しい紅茶を振る舞うことで記憶に残ってもらうこととしています。どうぞ、あなたも一杯」
「はは、粋なことを言う奴だ」
十次郎は渡されてから、また暫く迷った。飲んでしまってよいのか。しかし、子ども達はきっちり飲んだ。見たところ、異常が起きた様子はない。ここで自分だけが紅茶を拒むのも、彼らにたいして心象が悪いだろう。南無三、十次郎は勢いに任せて紅茶を口にする。何のことはない。ただの紅茶であった。
「あたしねー、かためちゃんってよばれてるのー」
「ほう、よい名を貰いましたな。では、イグス・カタメ。あなたには命名記念の紅茶を」
「ぜんぶこうちゃじゃーん」
「イグスってなんだ?」
子どもたちの順応は早いもので、楽しそうに七不思議に質問などしている。通称「キサクナシンシ」も快く答えてくれている。
なんの、自分の猜疑心が誤っているなど十次郎は思っていない。自分には子どもたちを守る指名がある。録な根拠もなく、見ず知らずの怪異を信用するなら、それは優しさではなく無責任と呼ぶべきだろう。
それでも、こうして順応する子どもたちと自分を比較してしまえば、どうにも……言ってしまえば、「年を取ったな」などと思ってしまうのである。
「もう少し純粋に楽しんでみてもいいのかね……っ!?」
直後、十次郎に原因不明の腹痛が襲いかかった。直ぐに危険と判断した彼は腹を押さえながら保健室を飛び出した。実はプラスチック製だったお洒落なカップは、投げ出されても割れることなく静かに転がった。
「「「……」」」
「……うまー」
突然、腹を押さえて外に出た十次郎。同じ紅茶を飲んだ児童達が不安にならないことがあるだろうか。約一名、魔王の名に相応しく、堂々とカップを構えマイペースに紅茶を楽しむ児童もいるようだが、それは置いておこう。
残る三人は一斉に紳士をみた。紳士は沈黙を貫く。
「あの……」
恐る恐ると言葉を紡いだのは咲。失礼を承知で三人共通の疑問をなげかける。
「なにか、なかに入ってます?」
毒、とか……とまでは流石に言えなかった。しかし相手は人並みの知能があるらしい礼装の紳士。その言葉の意味することは当然汲んでいることだろう。
紳士はティーポットを手に取り、おもむろに蓋を開け、中を三人に見せた。その中には水滴一つ入っていない。間違いなく空だった。
「……水滴すら残っていない?どういうことですか?」
菊が訪ねるも、紳士は何も語らない。ただ、自分の紅茶をスーツのなかに流し入れ、空のはずのポットから紅茶のおかわりを注いだ。
咲も、洋も、菊もこれには驚く。咲と菊は、同時に気味悪さも感じた。結局、この紅茶の正体は何なのか。
「ミス・咲……君は、この紅茶に何をいれたか、を聞いたね?」
これまで無言を通した紳士がついに口を開いた。『でぃぷ・らーくな』の三人は息をのんでその言葉の続きを待つ。
紳士はゆっくりと、しかし緊張しているような声色で咲から投げ掛けられた問いに答えた。
「すまない、知らないんだ」
「はい?」
「これ、この保健室にいつの頃からか置いてあってね。いくらでも紅茶が出てくるから便利に使っていたのだが……え?人間には飲ませちゃいけなかったのかね?」
この場で最も慌てていたのは菊だったかもしれない。すでに魔力を用いた様々な方法で人体に一定以上の悪影響を及ぼす成分が入っていないかを検分していた。しかし、何も出てこない。ならば、目の前の胡散臭い紳士から聞き出してやろうと考えていたが、どうやら当の本人が本当に知らなさそうだ。
(最悪です。相手が毒性を理解していない。しかも、発症までの時間から考えて、我々と十次郎先生で効果自体が異なっている可能性もある。駄目ですね、対処のしようがない)
カップを手に青ざめながら硬直する咲、先生の出て行った方を無言で見つめる洋、紳士は慌ただしく保健室の棚を漁って胃薬を探し、カタメと京は我関せずとばかりに紅茶をクピクピ飲んでいる。そんな中、菊はなおも冷静であった。混乱というほどの状況ではない。咲とシンシを落ち着かせるのが先決と即座に判断して見せた。努めて明るく声を上げる。
「失礼ながら、見ず知らずの方からいただいたものを、無防備に口にできる立場にありません。事前に有毒物質の有無を調べさせていただきました」
「おお、それは確かに。私の方こそ気づかなくて申し訳ない。して、その上で紅茶を飲んだということは……」
胃薬を片手に、シンシは無い顔を菊に向けて次の言葉を期待する。菊が頷いて問題がなかったことを伝えると、咲の表情が戦慄から安堵に目に見えて変化した。
パニックにならずに済んだことに、菊は内心ホッとする。あとは、十次郎が帰ってくるまでこの状態を保てばいい。原因がわからない以上、この話は当人を交えて進めた方がよいだろう。
「よし、菊が大丈夫ってんなら、暫定的に大丈夫だと仮定する。とりあえず、先生が帰ってくるまでここに待機!いいな?」
洋も同じ考えに至ったらしい。それにしても、その考えをすぐに指示に変えて発信できるのは彼のリーダーとしての資質が見えるところである。
しかし、待機ができない者がこのクラブにはいる。他ならぬ、洋のことだ。
「じゃ、俺は先生の様子見てくるから!」
「リーダーがメンバーを置いて歩き回らないでください」
即座に菊は洋を諌める。単純な話、夜間活動である以上は子どもたちを単独にはできない。十次郎がいなくなった今、保護者の代わりを果たせるのは菊だけである。心は最初からバラバラのメンバーだったが、ここで居場所までバラバラにするわけにはいかないのだ。
……という旨を隠し、菊はリーダーがその場に残ることの意義を洋に語って聞かせる。
「いいですか。リーダーとは矢印なのです。メンバーは常に動き続ける点です。矢印が無くなったとたん、点はあちらこちらに散開し、収拾がつかなくなります。分かりますか?リーダーは基本的に、メンバーから離れてはいけないのです」
洋は、ふと前回の活動を思い出し、カタメちゃんに目を向けた。確かに、あのとき自分がいなくなった瞬間、咲に悲劇が起こったのだ。よく考えると、『でぃぷ・らーくな』のメンバーは「ムードメイカー」が自分しかいない。菊や京は傍観タイプだし、咲は流されやすいのでムードに「乗るタイプ」だ。
「俺がいなくなると、雰囲気に呑まれ易くなるわけだ。なるほど、この活動で俺の果たすべき役割ってのが見えてきたな」
成る程、点と矢印。道しるべがなくては点も不安になるというもの。特に、今回は未知を調べることが目的である以上、自分の果たすべき役割は意外と大きいのかもしれない。
「わかった、俺も待機しよう。」
「ええ、十次郎先生を待ちましょう。……先生といえば、鷲島先生はどこへ行ったのでしょう?普段、保健室にいるはずですが」
ふと、菊はこの「保健室」そのものに違和感を覚えた。保健室の主である鷹志は用事がない限り大抵の業務をここで行う。なにせ、数少ない冷暖房が設置されている教室である。あえて職員室にいく理由もないというものだ。
いや、そもそもの話である。
(この時間に保健室に入ることが『キサクナシンシ』に会うルールだというのなら、鷲島先生は毎日のようにあっているはず。他の先生方だって、一度も目にしたことがないなどあり得ないだろう)
しかし、彼についての話を先生方がしているのを聞いたことがない。『七不思議は子どもにしか見えない』などというありきたりなルールでもあるというならば話は早いが、それでは司や十次郎が遭遇できたことに説明がつかない。
(そういえば、京さんの話……『特別教室の怪異』……。あれは、京さんのことで間違いないでしょう。もしかして、彼女と一緒にいることで何かしらの条件を達成している……などという仮定はどうだろう?)
思考に余裕ができると余計なことを考え始めるのは菊の癖である。彼は、王でありながら学者でもあるのだ。ある種、職業病といってもよいだろう。
さて、十分程してドタドタと慌ただしい足音が外から聞こえた。バタンと雑に開けられた扉の前には、子どもたちが待ち望んでいた顔があった。
「おい!洋、あいつはなんだ!」
「先生!お腹は大丈夫なのか?」
トイレから戻ってきたらしい十次郎と洋が同時に声を発する。お互いにきょとんとした顔をして一瞬の静寂が発生する。
「……ああ!すまん。多分紅茶関係ねえや。普通に遅れて食った昼飯に当たったわ」
「あ、そう」
「んー、じゃあ大丈夫なんだね?これ毒じゃなかったんだね」
「そのようですね、あんまり慌てて出ていくものですから勘違いしました」
紅茶に毒など入っていなかった。入っていたら入っていたで新しい展開が始まりそうだったので少し残念そうにする洋。普通に胸を撫で下ろす咲、菊、シンシの三人。京は丁度紅茶を飲み終え、小さな声で「ごちそーさま」と呟いた。カタメは何やら隅っこでじたばた悶えているが、何があったのかはおそらく京しか見ていない。さらに言えば、今この瞬間にカタメの奇行を気にする存在は、咲ぐらいしかいない。
「で、あいつってどいつ?」
「包丁を持ったクマの頭のぬいぐるみだ!頭から三本足が生えていた!」
「何それ知らない」
「カタメちゃん、どーしたの?あれ、毒じゃないから大丈夫だってよ?」
「ん~!おめめにこうちゃいれたら、おもったより、いたかったぁ」
「何で入れたの……?とりあえず、水道のお水で目、洗お?」
一応描写したものの、カタメ&咲ペアの会話はここでは無視してくれて構わない。重要なのは十次郎が出会った『あいつ』の方である。
「あれですか、十次郎先生」
菊が示す先には何もいない。いや、数秒の後に現れた。クマのぬいぐるみの頭から、人間の足が三本、腕が二本生えた異形の存在が、開け放たれた扉の前にぬるりと姿を現した。その手には銀色に輝く諸刃のナイフが握られている。
「おう、あれだ。洋、お前七不思議のことは調べたんだろ。あれ、どうすりゃいいんだ」
「見たことも聞いたこともねぇなぁ。何あれ」
洋が興味深そうに顔だけが愛らしいクマのぬいぐるみを観察する。獲物に忍び寄る大きな蜘蛛のようにぬるりぬるりと近づいてくるそれは、どうも友好的な存在には見えない。
菊は無言で手元に魔力の光を点らせる。咲は半泣きになって硬直した。京はぼんやりと紅茶のカップを見つめている。カタメは目をゴシゴシ擦りながら何やら喚き散らしている。
さて、クマとのにらみ合いの中、始めに口を開いたのは洋だ。
「カタメ……はなんかダメそうだな。シンシさん!あれ何かわかります?」
「一つ言えるのは、お坊ちゃん方、お逃げなさい。私めの直感になりますが、あれはイヤリングの代わりに地獄への片道切符を渡してくれるタイプのくまさんです」
紳士はスッと前に出て、手袋を深くはめなおした。「腕はないが、覚えはある」と言って、意味ありげな構えをとる。
「ビッグミスター。何とか隙を見て子ども達を向こうのドアから外へ。時間稼ぎ程度ならできるでしょう」
それを聞いたとたん、十次郎は高速で炎の玉を作り上げ、クマの顔面に叩きつけた。温度は低いが、派手に爆発する『炸裂弾』である。外に出しては逃げる際に面倒だから、彼はあえて、クマが保健室の奥に吹っ飛ぶよう計算して魔術を発動した。予定通り、クマはナイフを取り落として保健室の隅の方へ吹っ飛んでいく。
「わかった、初対面なのに悪いな!おい、お前ら、今日は帰るぞ!」
十次郎が叫ぶと、わー、と咲は半泣きになりながら、洋とカタメは楽しそうに保健室から脱出し、玄関に向かった。菊はあることに気づいて立ち止まり、十次郎の名前を呼ぶと、保健室の方を振り返った。
一人、出遅れた者がいた。京である。なんと、移動速度で小学生に劣ると言われているカタメちゃんより遅く出てきた。しかも、保健室を出てしばらく進んだところで転んだ。おまけに、そこで力尽きた。
「きゅう」
「弱っ!?おい、勘弁してくれよ魔王様!」
ここで、早くもクマはひょっこりと保健室から顔を出した。キサクナシンシは戦闘面では役に立たなかったらしい。
「くそ、もう一回か!燃焼……酸素と有機物と高温状態……爆発力上昇、温度低下。よし、『炸裂弾』」
クマは一歩、また一歩と近づいてくる。十次郎は炎の球を手元に出現させ、一か八か迫り来る驚異に投げつけた。
この世界における魔術は術者のイメージによってその「効率」が変わる。現実にある物質からかけ離れたイメージのものを作ろうとすれば、異常な魔力量を必要とし、「顕現」できても「維持」ができなくなって活用するに至らなくなる。故に、「単なる炎の球をつくる」程度のシンプルな魔術を行使する方が成功しやすく、応用も利きやすい。この『炸裂弾』は熱エネルギーを幾分か衝撃波に変換させた、『固体化』した炎。……意外と情報量が多いが、攻撃魔術の中ではシンプルな方である。
クマは炎の塊を身に受け、大きく後ずさった。その隙に、菊が韋駄天もかくやという駿足で京に駆け寄り、無事に保護した。
「ナイスアシストです、十次郎先生。さて、今倒す必要はありません。撤退に集中しましょう。」
「わかりましたよ、神童様!」
十次郎がもう一度クマの方に目をやれば、ひどく不格好な様子でクマを牽制している怪異の姿がそこにあった。紳士がまさかの再戦を申し込んでいるようだ。刃物持ち相手にあのへっぴり腰では、時間稼ぎどころか秒殺されそうだ。さすがに助けにはいるべきか、義理堅い男は迷った。
その直後である。
「ヴォオオオォォォっ!?」
凄まじい爆音がろうかに響き渡った。それと同時に、何か重量のある存在が高速で近づいてくる音が聞こえた。
やや遠く、廊下の角から姿を表したのは、3メートルはあるかという大男。本来首があるはずの場所には額縁が置かれ、その額縁からは、目玉が三つある人の頭から二本の馬の足、二本の左腕を生やした不気味な存在がだらりと飛び出している。
「やっぱり、俺も逃げるかな!」
既に、菊は逃げている。自分が退避すれば全員無事に帰還できることとなる。シンシには悪いが、命は惜しい。生き残っていれば、借りはいつか返すと心中で誓いつつ、十次郎は全力で逃げ出した。
しかし、現れた大男は、十次郎が思っていたよりもずっと速かった。
「ぴぎゃ」
「おぅ!?雄々しき美術品にクマさんが轢き潰されてしまいましたぞ!」
十次郎は後ろから怪物が近づいてくるのを感じていた。目測だが、時速25キロはありそうだ。ただ走っていては逃げ切れない。
ならば魔術で牽制をと、十次郎は再び右手に炎の球を出現させた。さて、ぶちかましてやろうと振り向いた瞬間、絵画の怪物は彼の横をドカドカと音を立てて走り去っていった。
「しまった!狙いは子ども達か!?」
子どもたちの方には菊がついているはずだ。全てにおいて規格外の神童。戦闘能力もどこで身に付けたのやら、プロの十次郎を軽く上回る神の子である。手も足も出ずやられることはないだろう。そんなことを、十次郎はわかっていた。その上で、やはり不安は拭いきれない。万が一がなくとも、億が一がないとは誰も言い切れないのだ。
「この野郎……!」
十次郎は炎を手にしたまま走った。魔術で作り出したものを維持し続けるのは非常に困難である。少しでもイメージが揺らげば、暴発の危険すらあるので、基本的に一発打ちきりで用いることが多い。
十次郎はそのあたり、正しくプロフェッショナルだったといえよう。化け物に対して、出会い頭の一発を見舞ってやろうと、用意した炎を拡散させることなく、二〇秒間も維持し続けた。
かくして、右手に炎を携えた警護教師は子どもたちのもとに辿り着いた。
「大丈夫かお前ら!」
「ああ、全員無事だぜ、十次郎先生!……って、なにそれ!かっこいい!」
燃える右手にはしゃぐ洋。巨人の姿は影も形もなかった。折角維持した炎だったが、安全が確認できれば用済みである。ささっと手を振って魔力を霧散させた。
「あぶねーから、近づくな……よし、全員の無事を確認。今日は帰るぞ」
「まったく知らない怪異だった。この学校にはまだまだ不思議がありそうだな!」
洋は、こんな状況も楽しんでいるらしい。咲も、今回は友達と一緒であったためか、息を切らしながらも錯乱する様子は見せなかった。菊と京も普段通り。
短時間のミーティングののち、今日の『でぃぷ・らーくな』の活動は終了。そのまま解散となった。十次郎は子どもたちに被害がなかったことを何より喜ばしく思った。
それと同時に申し訳ない気持ちにもなった。この後、彼は教頭に今回の出来事を報告する。そうすれば、彼らの七不思議探索は暫く中止させられることになるだろう。
「さて、どうやって洋を説得するか……頑張れよ司先生」
十次郎は、この後の苦労を全て司に押し付けることに決めた。全く、『でぃぷ・らーくな』の顧問が自分じゃなくてよかった……彼はそう思わずにはいられなかった。
しかし、物事は大抵、誰の思い通りにもならないものである。十次郎はこの後も、まだまだこの件に関わり続けることになる。
十次郎は、辺りを見回した。もう一人、いたはずの存在が見当たらない。
「カタメちゃん……だったか?どこいった?」
聞いてみようにも、『でぃぷ・らーくな』の面々はさっさと帰ってしまった。わざわざ探す意味もなし、もともと正体不明の怪異の女の子だ。
「そういうもんなんだろうよ」
空は流石に暗くなっている。もうカラスさえ泣いていない。子どもたちに関しては心配ない。菊の家が送るのだという。
十次郎は、あんなものを見たあとに夜の警備は嫌だなぁなどと思いつつ、職員室へ向かった。この日、彼がこれ以上怪異に会うことはなかった。
Tips キサクナシンシ
・夕方、保健室に出現する。
・不思議なポットを使って紅茶を振る舞ってくれる
・戦闘能力は平均的な成人男性の1.05倍程度。
Tips 一四七 十次郎
・和国小学校の警備教師。
・貴族で、炎の魔術が得意。実家は農家。
・34歳で独身。彼女募集中。
Tips 貴族
・魔術が使えれば貴族。『京』と『菊』を除く。
・魔術が使用できるため、それが活用できる職種への就職に有利。
・『貴い人々』ではなく『貴ぶべき力をもつ人々』のこと。
・貴族(農家)や貴族(浮浪者)も当然います。身分の話じゃないからね。