くまちゃんは突然やってくる
いきなりの急展開で申し訳ないが、少々刺激的な場面からスタートする。舞台は特別教室。ここにいるのは血まみれの京と怯える咲。緊張を隠せない様子の菊と司。そして、ナイフを持ったくまのぬいぐるみ型の怪物『くまちゃん』と、それを興味深そうに観察する洋である。
少しばかり時間を巻き戻す。シンシとの遭遇から一日。『でぃぷ・らーくな』の面々は、司より『七不思議探索』の中止を宣告された。まあ、想定外で実害のある化け物が出てきてしまったのだから仕方のないことである。洋は衝撃を受けていたが、他の部員は予想していたようで、特に驚いた様子はなかった。
いや、もう一人驚く様子を見せたものがいる。京だ。普段は変わらない表情が、その時ばかりは目に見えて変化した。真っ赤な瞳をを少しだけ開いて、蚊の鳴くような声で「え」と漏らしたのだ。この、京の小さくも著しい反応を認識したものは残念ながら誰もいなかった。部員三名は顧問の司に注目していたし、司は、全体を見ながら彼女の変化に気づけるほど、まだ京の些細な表情の変化を読み取る技術を持っていなかった。
さて、洋は意外にも外にも冷静だった。なぜ、このような状況になったのか、詳細を司に尋ねた。
「延期じゃなくて中止?」
「ああ。お前たちが出会ったっていう、クマのバケモノ。ちょっと正体がつかめなくてな。ああいう学校側で対処しきれない可能性がある危険が出てきちまうと、続行は厳しいな」
「むむむ、あのクマが何者かわかれば続けられるのか?」
「すぐには厳しいな。ああいうのが出てきた以上。今後もっとやばいのがわかないとも限らない。安全が保障されていなければ、そうそう許可は出ないだろうな」
二人の話の中で、菊は一人、ある事に気が付いた。『正体がつかめない』『学校で対処』『安全の保障』。この三つの要素から察するに、学校側は『七不思議の正体を知っている』ということになるのではないか。少なくとも、許可を出した教頭先生は何かを知っているんじゃないか。
(あとで、職員室を訪ねてみましょう。もしかすると、洋君や京さんへの慰めになるものを得られるやもしれません)
さすがは神童様は、頭も気もよく回るものである。ここで口に出さず、サプライズにしようとするあたり、年相応の無邪気さが見えている……といってもよいのかもしれない。
咲は、七不思議探索の中止に内心ほっとしつつ、一方で京のことを気にしていた。あんなに楽しそうにしていたイベントを突然切り上げられて、彼女はどう思ったのだろう。
ちらりと様子を窺うと。すでにいつもの無表情。どこを見ているのかわからない真っ赤な瞳は微動だにしない。一瞬前の彼女を見ていれば、感じることも違っただろうが、これに対しては咲も『意外と大丈夫そうかな』と思うより他なかった。
「しゃーなし!俺はここに、作戦の『延期』を宣言する!」
「お、いつかは再挑戦するつもりですか?」
「『でぃぷ=らーくな』はやると決めたらやり抜くんだ!失敗か成功かでもすればいいが、『外部からの中止宣告』なんて中途半端な理由じゃあ打ち切るわけにはいかねえよ!」
「失敗はいいの?」
「失敗は成果だからな。今回は成果がカタメちゃんと友達になってシンシさんに会えたぐらいしかねえだろ。七分の二不思議だぜ。納得できるわけないだろ」
すると、洋はごろごろとホワイトボードを引っ張ってくる。黒のインクで、太く、でかでかと
『ここまでの反省と次回の計画』と書き記す。
「さあ、次のための準備は今からやっとかねえとな!これから、『でぃぷ・らーくな』緊急会議を始める!」
しばらくして。
まだ日も暮れないれない時間であった。突然の停電と共に、怪物は現れた。『らんてぃあ』メンバーは、反応すら許されなかった。それは、なんの前触れもなくナイフを京に投げつけ、その心臓部を貫いたのだ。
京は床に倒れ伏し、ピクリとも動かない。もともと動かないときは置物のように動かない少女なので離れた位置からでは生死を断定することはできないが、致命的なダメージを負っていることは間違いあるまい。
『くまちゃん』の攻撃性を確認した菊は、すぐに氷の刃を魔術によって作り出し、洋・咲・司を一歩以内で『くまちゃん』の攻撃から守りに入れる位置に陣取った。怪異と神童は向かい合って膠着状態。
幸いにも、司は思考する時間的余裕を手に入れることができた。しかし、この異常事態。未知に対する不慣れと命の危険にさらされている緊張が相まってなかなか行動に移れない。
(……京を助ける?無理だ。あの怪物のナイフ投げは精度も速度も凄まじかった。文字通り……などといえば縁起が悪いが、間違いなくミイラ取りがミイラだろう。そもそも私は怪我をした京を触れない)
司が京を触れないというのは、別に差別的な意味合いではない。彼女の体液は95%が特殊な魔力……言ってしまえば、強力な呪いで構成されている。漏れ出た血液に人間が触れようものなら一瞬で百の呪いに冒されることになる。教育委員会より正式に、一般職員による京の体液への接触は強く禁じられているのである。
(ならば、怪物を倒す?机かなんかを武器にして……いや、有り得んな。すでに武器を構えている菊が動いていない。倒せないのか、倒すべきでないと考えているのかはわからないが、菊が攻撃を躊躇う相手に素人の私が安易に手を出すわけにはいかない)
菊が小学生にして全世界最高権者となることを認められているのはそれ相応の理由がある。ここで必要な情報ではないので、あえて詳しく述べたりはしない。今の彼は、この場における圧倒的な最高戦力であると認識してもらえれば間違いない。そんな存在が慎重な行動を選んでいるというのに、まさか魔術の一つも使えない司が考えなく怪異に手を出すわけにはいかなかった。
結論として、司がすべきとしたのは可能な限りの子どもたちの安全確保。洋と咲を『くまちゃん』を刺激しないように気を付けながらここから逃がすことだった。
さあ、そうと決まれば一秒だって惜しい。菊を信頼して『くまちゃん』に背を向け、咲と洋に向き直った。
「洋、咲……取り敢えず、お前ら二人はこの部屋から出ろ」
「え、でも!京ちゃんが!」
「まずはお前たちに無事に逃げてもらわなきゃ動けないんだ。わかってくれ」
咲は青ざめた顔で京を見つめる。京はピクリとも動かない。……もう、死んでいるのではないだろうか?
嫌な想像にまたもパニックに陥りかけた咲の肩を洋がポンと叩く。
「咲、ここは戦略的撤退だ」
「洋……!でも……」
「いや、俺たちが残ってもなんもできねーから。少なくとも、今はな?作戦を練る時間が必要なんだよ」
何もできない。洋の言葉を咲は悔しく思ったが、それが事実であることも理解できた。彼女は賢い女の子だ。
「ごめんね、京ちゃん」
「咲さん」
菊が、目線を「くまちゃん」から動かさずに、声だけを発する。
「彼女は特殊な体質を持っています。心臓を刺された程度では死にません」
「え?」
「詳しくは後程……。今は、彼女が無事である可能性が高いという事実だけ理解して、行って下さい」
菊による、咲の心を落ち着かせるための最低限のフォローである。彼にとって、一番の不安要素は咲の暴走であった。非常時に、錯乱した人間のフォローなど、さすがの神童でもやっていられない。さらに今は、イメージをぶらさないことが何よりも重要な魔術を用いて怪異に応戦している。周囲の状況はなるべく静寂を保ちたかった。
菊の言葉に呼応するように、京が首だけをひょいと上げ、「ん」とだけつぶやき、再び地面に倒れ伏した。咲は、それを見て少し安堵したらしい。先ほどよりも強い口調で2人の声に応える。
「わかった」
咲は教室から出ようと扉に手をかけた。特別教室のドアは引き戸である。この空間からの脱出は、力なき彼女にとって、安心をもたらす行為であった。それは、くぼみに手をかけ、ガチャリと開けるまでの少しの時間。それは彼女の不意となった。
サクッ
咲が手をかけているくぼみのすぐ下にナイフがつきたった。咲はヒュッと息をのみ、涙をぽろぽろこぼしながら、動きを停止してしまう。
菊か司か、あるいは洋に助けを求めての行動だろう。涙目で彼女は後ろを振り返った。そして、彼女の足元には『くまちゃん』」。
「ぃあっ…………っ!?」
声にならない悲鳴とはまさにこの事。咲は大粒の涙をボタボタ流して、バイブレータの如くブルブル震え始めた。まさかの二体目である。この場にいる、誰だって予想していなかっただろう。『くまちゃん』は複数いたのだ。
くまちゃんは咲に向かって腕を振り上げる。その手にはしっかりと銀に輝くナイフが握られている。菊は今にもナイフを放り投げんと構えるもう一体を無視して咲を助けには行けなかった。洋は表情を変えずに静観している。。
「咲っ」
司は叫ぶことしかできなかった。さあ、銀の刃がいま、咲の体に突き立つ……。
ぽーん
しかし、その前に『くまちゃん』は妙にコミカルな擬音と共に教室の隅へ飛んでいった。それはそれで驚いた咲は、視界のはしに肩で息をしながらようやく立ち上がる影を見た。
「京ちゃん……?」
「にげて」
くまちゃんを吹っ飛ばしたのは京の魔術だったらしい。詳細は不明だが、『くまちゃん』の足元が爆発した。近くにいた咲には一切被害がないことが何とも不思議であるが、まあ、そういう魔術なのだろう。
さて、2メートルほど飛んだくまちゃんはすぐに立ち上がった。ナイフを一瞬で作り出し、この場における最大の驚異……京に狙いを定める。
菊は氷の刃を拡散させ、新たに魔力の球を複数作り出す。高威力だが、殺傷能力のない代物だ。こういった異形の魔物の中には「殺すと増える」「殺すと呪われる」「殺すと蘇って強くなる」という理不尽な性質を持つ者がいるため、安易に殺害してはいけない。しかし、複数いるとなると、膠着状態の維持も難しい。そして、何より厄介なことが一つ。
(強い)
菊は内心歯噛みする。司も警戒していた通り、『くまちゃん』はクマのぬいぐるみの頭部に3本の人間の足、長い2本の腕とアンバランスな見た目のわりに素早く、攻撃の精度が的確である。
菊ならば危なげなく倒せるだろうが、それ以外の『でぃぷ・らーくな』メンバーでは倒すどころか、動きをとらえることすら困難であることが予想される。……京はおそらく倒せるのだろうが、戦闘面に関する情報がなさ過ぎて戦力として換算することができない。守るべきものを考えるならば、ある程度のデメリットを覚悟してでも、追跡者の頭数を減らす必要があるだろう。
「日星月黒神光照我……一か八かになりますが、呪いの一つや二つ、甘んじて受けましょうや!」
「ひつようない」
菊が『くまちゃん』を討つよりも速く、京が作り出した魔力の塊がそれを貫いた。頭部の中心をすっかりえぐられた『くまちゃん』はぼろぼろと形を崩していった。後には、粉のような、灰のような黒いものだけが残された。
「じかんをかせぐ。ここはわたしにまかせて、みんなにげて」
「京さん!?」
「今日のお前、いつもよりペラペラ喋るな?」
菊の驚愕と洋の軽口を流し、彼女はどう!ともう一体のくまちゃんに肉薄した。普段の彼女からは想像もつかない瞬発力。しかし、くまちゃんの方もさるもので、上手く距離を取りながら無数のナイフを投げつけて小さな魔王を牽制する。
数本のナイフに体を貫かれながら、それでも京はくまちゃんを、小さな体をいっぱいに使って押し込めた。次の瞬間、彼女の姿はヤマアラシのようになった。
「京ちゃ……!」
「出るぞ、咲!洋も!」
「先生!京ちゃんが!」
またもや錯乱状態の兆候を見せる咲。一刻も早くこの場から彼女を逃がさんと、司はその手を引っ張って、半開きの扉を壊さんという勢いでガバリと開け放つと、バッと廊下に躍り出た。それに続いて、菊も教室から退出する。
京は教室から出ていく皆を見て確かに笑った。その笑顔を見たのは最後に教室を出た洋だけであった。
「……よくわかんないけど、大丈夫なんだろ?じゃ、応援するわ」
「ん」
去るリーダーと残る団員の会話はそれだけで終わった。京は『くまちゃん』を握る手の力を強める。彼女の握力は10キロ程度しかないので、『くまちゃん』のやわらかい頭部が、ふにりとゆがむ程度の効果しかなかったが、そこには確かに京の決意が見て取れた。
しかし、洋が教室を出たとたん、京は目を真ん丸に見開いた。
「……え、なんで?」
それは、彼女にしては珍しい、明確な驚愕の色を含んだ言葉であった。背中に赤褐色の刺を生やした彼女は、何事もなかったかのように体を起こし、閉じられたドアを見た。
そして、そのまま盛大に血を吐くと、その場にぱったりと倒れ伏した。
廊下に出てすぐ、司は異様な雰囲気を感じ取った。あまりにも静かすぎる。時計を確認してみれば、まだ四時にもなっていない。児童たちの総下校はもう少し後だ。こんなに校舎内がしんとしているのは明らかにおかしい。
咲のすすり泣くような声が聞こえる。極めて静かな声ではあるが、耳が痛くなりそうなほどの静寂の中では、ひときわ目立って聞こえるものだ。違和感はぬぐえないが、まずは彼女を落ち着かせることが先決だろう。そう考えた司は、菊とも話し合い、ひとまず保健室に向かうことに決めた。
さて、誰一人ともすれ違うことなく、三人は保健室にたどり着いた。これまたどうしたことか、中に人の気配は感じない。この時間ならば、養護教諭は基本的に保険室内にいるはずなのだが。
「ん?」
「どうされましたか?」
「開いてないみたいだ、職員室に鍵を取りにいかなくちゃいけないな」
「……開いていない?鷲島養護教諭は出勤されていましたよね」
いよいよ違和感が大きくなってきた。それでも司は職員室へ向かう。保健室からはそこまで遠くない。
司は、引き戸のくぼみに手をかけ、しばらくその体制のまま静止した。そして、職員室の扉を開けるどころかガタリと揺らすこともせず手を離した。
「どうしたのですか」
菊の問いに、司は沈黙で答えた。その表情は、心なしか青くなっているように見える。咲が不安そうに司の顔を覗き見た。
「えっと、鍵、もってくんですよね」
「そのつもりだったんだがな」
「あの、また、あの『くまちゃん』来ちゃうかもしれないし、早く……」
言いつつ、咲が先ほどの司と同じように扉に手をかけるが、彼女は、まるで熱いものにでも触れたかのように即座に手を放し、その場から飛びのいた。
「なんで!?なんであかないの!」
「……どうなってんだよ」
二人の反応を見て、菊が職員室の扉にそっと触れる。数秒だけ目を閉じて集中すると、すぐにパッと目を開けて「ううむ」と一つうねった後、ちょうど小学生が自分の失態をごまかすかのように、ぽつりぽつりと自分たちが置かれている現状を述べた。
「結界が……どうやら、閉じ込められたみたいです。今目に入る、どの扉からも、その先の気配を感じません。教室ごと、扉の先という概念がなくなっています。」
概念といわれても、魔術的知識のない二人にはピンとこない。読者諸君らも当然ピンと来ないことだろう。菊は、わかりやすく一言で、次のようにまとめた。
「閉じ込められました。この廊下から移動する手段がありません。」
実に簡潔な結論である。だからこそ、その言葉は、いやに直接的に二人の脳裏に刻み込まれた。
「いやああああああああああっ」
咲がしゃがみ込んで泣きわめく。わあわあと、言語能力を失ったかのように、その恐怖を、絶望を声ならぬ音で表現する。例の『くまちゃん』のような致命的な怪異がはびこるこの校舎内で、甲高い声で鳴き叫ぶのは非常にリスクの高い状態であるといえるだろう。しかし、彼女の日ごろの行いがよかったためだろうか。これは奇跡的によい結果を二つもたらした。
一つは、洋と司が冷静さを取り戻したことである。咲がどうしようもなくわめいているので、二人は却って落ち着いていられた。そして、もう一つ。
「ないているのは、だーれだ」
可愛らしい声が近づいてきた。ぺたりぺたりと、独特なゆったりとした足音を引き連れて。それは、確かに怪異であった。しかし、『くまちゃん』のような未知の異形ではなく、すでに見知った「不思議」である。聞き覚えのある声を耳にして、咲の泣き声がぴたりと止んだ。
「……カタメちゃん?」
「カタメさん?なぜ?」
「まだ四時四四分じゃないぞ」
洋が集めた、「七不思議」としてのルールを完全に無視して、和国小七不思議、カタメノフタツメことカタメちゃんが現れた。
三人の疑問の声に、カタメちゃんは頭にクエスチョンマークを浮かべつつ、こてりと首を傾ける。『らんてぃあ』の面々がなにに驚いているのか皆目見当もつかないといった様子だ。
「カタメちゃんって四時四四分にしか学校に出てこないんじゃ」
「わたしはーいつもーこのへんをーあるいてるよー」
咲の質問に、カタメちゃんはなぜかくるくる回りながら、歌うようにリズムよく答える。彼女の行動原理はいまだ不明なところが多い。紅茶を目から飲もうとするような奇行に興味がおありならば、ぜひ考察してやるといい。作中においては、言及を差し控える。
「そっか……なにさ。洋が作った奴、結局役に立たないじゃん。」
咲が珍しく悪態をもらす。前にも述べたことだが、咲は、自身が罪悪感を感じるとそのままひどい神経衰弱の状態に陥る。それは咲自身もわかっていることで、普段は人の悪口一つ言わない、根っからの「いい子」を通している。だが、余裕のない状況に陥れば小学四年生に過ぎない彼女の自制心などにどれほどの意味があるだろうか。
この悪態について、これが咲の本性などと言うべきではないだろう。今、彼女は誰かに責任をぶつけなくては、それこそ壊れてしまいかねない、危険な状態にある。加えて、実際に洋がこれを聞いていたとしても、彼が傷つくことはない。笑って、「いやー意外な発見があるもんだな!」などと悪びれもせずその事実を受け入れたに違いない。
これは、自分の心の防御を洋に求めた結果である。咲が強い口調で誰かを批判するのは、底抜けにポジティブな……「何を言われても絶対に前向きにとらえる」性質を持つ洋に対してだけだ。これは、「絶対に悪いことができない」咲にとっての「最大限の甘え方」であり、「最大限の信頼」の証左である。
カタメちゃんは「ようくん、やくにたたなーい」などと笑いながらいながら、やはりくるくる回っている。しかし、突然ぴたりと止まって、きょろきょろと辺りを見回しはじめた。
「で、そのようくんはどこいったの?」
読者諸君もすでに感づいていることだろう。先ほどから、洋が一言も声を発していない。語り手としての第三者的視点で見渡してみても、咲、菊、司とカタメちゃんの四名の姿しか見られない。職員室の前は広く、見通しの良い空間ができているというのに、だ。
カタメちゃんの疑問に対し、菊が困ったような声色で答える。
「途中で消えてしまったんですよ」
「おー、それはななふしぎ?」
「該当しそうなのは……『神隠し』系はいるっちゃいるけど、状況的に違うなあ」
菊によると、洋は特別教室から出た段階で存在を消失したそうだ。魔術的な追跡も不可能で、探す余裕もなかったため、彼に関しては保留状態になっている。手がかりのない少年の捜索よりも、咲の安全確保を優先した形だ。
「いや、私たちの現状がそもそも神隠しみたいなものか」
「そーなの?」
「まあ、外界との接続を完全に断たれていますからね」
「ふーん」
「せめて、保健室で咲を休ませられれば良かったんだが」
司がちらりと咲の様子を窺う。カタメちゃんの登場によって、いくらか気がまぎれたらしい。顔色自体は回復している。だが、いつものはきはきとした元気は感じられない。
やはり、少し休ませてやりたいところだが、どこの教室も完全に閉ざされ、扉はピクリとも動かない。はてさて、どうしたものか。司は、頭を抱えた。
「じゃ、ほけんしつ、いこー」
カタメちゃんが近くの壁に、ひょいと例のゲートを展開した。
「え?」
あまりに簡単に、強引な現状の打開策を提示したカタメちゃんに、三人ともが唖然とする。さらに、カタメちゃんは咲をお姫様抱っこで持ち上げると、すたすたとゲートの中に入ってゆく。
「え? え?」
「さんめーさま、ごあんなーい」
「日丸先生、追いかけましょう」
「いや、ちょ、おい、待って!」
歌いながら、軽々と自分より背の高い咲を抱きかかえて歩いていく怪異の少女。それを追いかけて、迷いなくゲートに入る菊。子どもたちの保護者となっている司は、まさか取り残されるわけにはいかない。現状を正しく把握しきれていないまま、大人にとっては少し小さめのゲートをくぐっていった。
菊は、すでに、ここから自分自身がどのように動くかは決定していた。まずは、京の救出。そして、『くまちゃん』の討伐が優先事項である。
同時に、菊はいくつかの違和感を覚えずにはいられなかった。きれいにたたんでポケットにしまわれている洋がまとめた「七不思議」の資料に目をやる。
(カタメノフタツメが一度も『遊ぼう』と言ってこなかった。今の彼女の在り様は、明らかにいままでの『七不思議』としての在り方に反するものだ。さらに、これまでに確認されていない新たな怪異『くまちゃん』。今後、この学校の安全確保の観点から考えても、教頭からは「七不思議探索」の延期を求められていましたが……この閉鎖空間脱出のためにも、彼らの由来について、ここで明らかにすべきなのかもしれません)
菊は、ゲートとゲートの間の、感覚にして三十メートルほどの真っ黒な空間を歩きながら、そんなことを考えた。真っ暗とは言い難い。前方を歩くカタメちゃんはよく見える。入口と出口は、黒といえば黒であるが、周囲の黒とは違うためはっきりと見えている。きっとこの空間は光度というものが無視されている世界なのだろう。
カタメちゃんは、怪異としての脅威度は低いが、力の強さだけで測るならば決して馬鹿にできるものではない。何せ、この力は異界との接続、ひょっとすると、在り得ない空間の創造を行っている可能性さえある。これだけでも、たかが学校にとりついた小怪異と侮ることはできないというものだ。
(七不思議とは、何なんだ?)
突如発生した異常事態。それに伴って現れた数々の「不思議」。ある意味では、菊の『七不思議探索』はここから始まったといっていいのかもしれない。
Tips くまちゃん
・クマのぬいぐるみの頭部から、人の足が三本、腕が二本はえている化け物。
・手には、常に一本のナイフを持っており、投げるなどして紛失するとすぐに再構成する。
・京が命名した。
Tips 氷の刃
・魔術名は「こおりやいば」。基本的な魔術はそのままの名前の物が多い。
・水の魔術で、菊の場合は表面をよく見ると研磨剤でコーティングされている。
・作中で当たり前のように維持しているが、菊以外は5~8秒程度しか維持できない。
Tips 京の体質
・体の95%が魔力。
・心臓を貫かれても死なない。全身串刺しでも死なない。
・触ると呪いに感染する血液を持つ。




