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袋小路

作者: 柚木

 1918年は私にとって激動の年だった。


 前年に露西亜(ロシア)帝国は終焉を迎え、共産主義をよしとしなかった父は一族郎党を引き連れて日本に渡ることを決めた。


 私にとって日本なる国は極東にぽつねんと浮かぶ島国であり、そこでの暮らしなど想像もつきはしなかった。


 父とて日本に伝手が在った訳でもなく、私達は見も知らぬ土地で一から生活を始めねばならなかったが、同じ境遇の露西亜人は私達一家だけではなかった。


 実を言うと純粋な露西亜の亡命者は少数派であったが、日本人から見れば、皆(ひと)しく露西亜語を操る熊のような風体(ふうてい)の異国人であったことだろう。




 そんな私達一家の生活は、順風満帆とはいかなかった。


 日本に渡航したのち、程なくして母が病に倒れ、父の稼ぎだけではどうにもこうにも立ち行かぬ事態になった。


 私は長女であり、弟も妹も働くには若すぎたので、やむをえず職を探した。


 この如何(いか)にも異国人然とした容姿で就ける仕事は異国人専門のカフェーの女給ぐらいだった。


 カフェーと聴いて珈琲を連想した私であったが、よくよく聴けばこの国のカフェーは酒と軽食も提供するものらしい。


 しかも女給は料理を運ぶだけではなく、男をちやほやするのが主な仕事であるらしい。


 私は元来愛想のない人間なので向いているとも思えなかったが、女給の稼ぎは悪くないし、客から貢がれる品々を質に流しまくって稼いでいる者も多いと聞く。


 背に腹は代えられぬ。


 かくして私は銀座でカフェーの女給を始めたのだった。




 異国人専門のカフェーの客は異国人が主ではある。


 しかし時々物珍しさからか日本人も来店する。


 彼――オチアイも、そんな日本人の一人だったが、給仕についた私を気に入ったらしく、足繁く店に顔を出すようになった。


 随分後で聞いたところによると、物欲しげに視線を絡めてくる女給達の中にあって、私の憮然とした表情は逆に魅力的であったそうだ。


 とはいえ、彼は私にそういった(・・・・・)下心を持って近づいたのではなかった。


 初めて彼のテーブルについた時、彼が私をまじまじと見つめて言い放った言葉は――未だ日本語が不自由だった私は、首を傾げただけだったが――お前、男顔だな、だった。


 彼は訝し気に見つめる私に、露西亜語で訊いた。


「そのはっきりした目鼻立ちは、露西亜人だろう?」


「はい」


 私は素直に頷いた。


 オチアイは露西亜語が堪能であった。


「日本語、教えてやろうか」


 ずい、と顔を近づけて彼はにやりと嗤った。


 何せこの店には異国人ばかりが来るので、私は日本語を学ぶ機会がなかった。


 どんな見返りを要求されるのか分からなかったが、彼の申し出は願ってもないものだった。


「いいのですか」


「ああ。その代わり……いや、代わりじゃねえな。日本語ができるようになったら、俺と組まないか」


「組む?」


「女給より実入りはいいぞ」


「娼婦でもさせる気ですか」


「まあ、時には色仕掛けもあるかもしれんが、主には――」


 彼は声を低めた。



「密偵と殺し、だ」




 ◇ ◇ ◇




 写真の中で、その男は仏頂面を披露していた。


 上林五郎(かんばやしごろう)


 ご立派な家族写真を撮っていることから察しはつくが、身分ある家柄だろう。


 そして裏社会から狙われるのは、長子でない者と相場が決まっている。


 家を継ぐわけでもなく、親の金でふらふらしているうちにご立派でない(・・・・・・)道に足を踏み入れてしまった者達。


 まあ、「五郎」という名前で長子でないことは明白なのだが。


 そんな推測を(のたま)うと、オチアイはご名答、と口笛を吹いた。


 華族の五男で、表の顔は芸術家、裏では何らかの組織の元締めをやっている。


 オチアイの調べによれば、どうも阿片の売買に絡んでいるというのが有力な説らしかった。


「こいつが今度の標的?」


 私はオチアイを睨むように見上げる。


「ああ。何で恨まれてるんだか知らねえが、阿片絡みなら納得ってもんだろ。奴は大体銀座をうろついてる。行きつけのカフェーに通えば、接触できるだろう」


「カフェーだと? ()は珈琲が嫌いだ」


 私は顔をしかめた。


「酒も出すだろうが」


「ふん。この国に来てから旨い酒にはとんと巡り会っていないが」


 私がそう言って鼻を鳴らすと、オチアイは素知らぬ顔で煙草を咥えた。


「で、こいつの顔の好みは――」


「女の影はなかった。そのままで行け」


「は」


「男のなりで近づけ」




 ◇ ◇ ◇




 通りを歩いているうちに、段々と日が暮れてきた。


 銀座のカフェー・プランタンはこの国のカフェーの走りである。


 目抜き通りに堂々と佇み、当代の芸術家達のサロンと化したカフェー。


 周囲の店もショーウィンドウを設けており、私のような庶民もきらびやかな世界を垣間見ることになる。


 もっとも私は飾られている服飾品にはまるで興味がなく、(もっぱ)ら姿見のようにウィンドウを使わせて貰うだけだ。



 そこに映るのは、紛れもなく少年(・・)の姿である。



 私はカフェー・プランタンを横目に一本裏道に入っていく。


 カフェー・ブリュム。


 カフェー・プランタンに集う者が一流ならば、ここには三流ばかりが吹き溜まりのように集まってくる。


 画家崩れやら、自称小説家が大多数を占めるが、実はその中には、芸術家に擬態したならず者が隠れている。


 男のなりをしていると、女給は容赦なく寄って来て、私を美少年だと褒め称える。


 私が勤めていたカフェーの異国人女給よりも、ここの日本人女給達は大胆であった。


 客の膝の上に乗って誘惑してくる者までいる。


 女給達の誘いをかわしながら、私は標的を観察した。


 写真の男――上林は奥まった席で一心に本を読んでいた。


 女給が近づこうとしても、不機嫌そうに追い払っている。


 良家のあぶれ者がこれほどのめり込んで何を読んでいるのか、純粋に気になった。


 オチアイからはじっくり腰を据えて取り組めと言われていたが、私は早々に声を掛けた。


「熱心に読まれているが、その本にはそんなに興味深いことが描かれているのですか」


 今度は誰が読書の邪魔をしに来たんだとばかり、不機嫌な様子を崩さずに本から目を上げた男は、少し目を見開いた。


「……漱石の『吾輩は猫である』だよ」


 何だ、と私は思った。


 てっきり実用的な書物の類かと思ったが、小説であったとは。


「奇遇ですね。俺もその小説、好きです」


 これは、嘘ではない。


「ほう、何故だい?」


「何故と言われても……猫が好きなもので」


 私の答えが不満だったらしく、上林は唇を歪めた。


「僕は猫の最期が好きでね」


 猫はビールの残りを飲んで、水甕の中に落ちて死ぬ筈だ。


「あれの何処が良い死に方なのですか? あまりに無様じゃないか」


「猫は言うだろう? 太平は死ななければ得られぬ、と」



 成程。


 この男は、死ぬことに憧れているのか。



「太平」


「ああ、太平だ」


「それって、さぞつまらないんでしょうね」


「……心休まる日々も、悪くないだろうよ」


 こいつはどれだけ休まらない日々を送っているのだか。


「君、名前は?」


 私は少し考えて、言った。



「未だありません」




 ◇ ◇ ◇




 その日から私は、不審でない程度にカフェー・ブリュムに出入りするようになった。


 上林はこの店に入り浸っているのか、いつも同じ席で同じように読書をしていた。


「同じ本ばかりで飽きないんですか」


「おや、名作というのは何度読んでも新しい発見があるものさ」


「へえ」


 私は運ばれてきたライスカレーを一口食べる。


「仕事をしてるようには見えないけど、芸術家なんですよね? ここの女給に聞きました」


「女給共も口が軽いな。これだから女は」


 自称芸術家というのは秘密でも何でもないであろうに、上林は不快そうに言った。


「女は苦手ですか? こういう店に来て一人で本を読んでいるだけなんて、珍しいですよね。珍しいというか、勿体無いというか」


「この店の味が好きで通っているんだ。君も女給目当てじゃないだろう?」


「まあ、そうですけど」


 私は肩を竦める。


「君こそ、毎日ではないとはいえ、カフェーに通う資金はあるようだ。君は学生のようにも見えないが――」


 ガシャン! と窓硝子が割れる音を感知した瞬間、私は上林の腕をぐいと引っ張ってテーブルの下に潜り込んでいた。


「危ない」


 投げ込まれた手榴弾からもうもうと白煙が上がる。


 硝煙の臭いが辺りに立ち込める。


 旧式の黒色火薬か。


 遅れて悲鳴があちこちで上がり始める。


 流石に数メートル以内にいた者は無事ではすんでいないだろう。


「君……」


 上林が呆然とした声を出す。


「はい?」


「女なのか?」


 この状況下では、随分と間の抜けた質問に聞こえ、私は内心噴き出してしまった。


 流石にこれだけ密着すれば悟られても仕方ない。


「――残念ながら」


 上林の顔に朱が差した。


「……ここは危険だ。僕の家に行こう」


「あら、いいの?」


 私は微笑む。


 しかし、別口の殺し屋が現れたとなると厄介だ。


 標的が死ねばそれでいいというわけにはいかない。


 もっとも、あれだけでは上林を狙ったのかどうかも怪しいのだが。


 いずれにしろ、獲物を横取りされるのは本意でない上、長引けば別口の殺しに巻き込まれて自分の命を危険に晒しかねない。


 じっくりとやれと言われたが、そうも言っていられないようだと、私は息を吐いた。



 ◇ ◇ ◇




「女嫌いじゃなかったのね。こんな風に家に連れ込んで」


 上林の家は思いの外質素なものだった。


 布団が硬いのはちょっといただけない。


「本名を教えてくれるかい」


 上林の指が私の乱れた黒髪に絡む。


「……ジナイーダ」


「驚いたな」


 上林は目を丸くした。


「完璧な日本語だ。一体何処で教わったんだ?」


「何処でもいいじゃない」


 もう潮時だろう。


 私の名はdead end、獲物は袋小路に追い込んだ。


 後は始末するだけ。


 依頼人も、上林自身も、それを望んでいるのだ。


 罪悪感が湧いてくることはなかった。



 外の空気を吸って帰ってくると、上林は既に寝息を立て始めていた。


 幼く無防備な寝顔を見下ろす。


 私が使うのは、日本海軍流れの黄色火薬である。


 私は呟く。




「俺は貴様を殺す。何が起きても、俺の目前を誰が妨害しようとしても……俺は貴様を殺す」






 ――それは楽しみだ。


 微睡みの中で、僕は薄く嗤った。



 僕に太平をおくれ、告死の天使(アズラエル)






 何処からか漂ってきた硝煙の臭気が鼻を掠めた。

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[良い点]  まさかあのハチャメチャなお題をご自分の得意なフィールドに持ってきて昇華するとは。まず出だしからそこに驚きましたし、あっぱれでした。  日本人男性から日本語を習ったから一人称が「俺」という…
[良い点] お久しぶりです。 死とは甘美なるもの――みたいな言葉を思い出しました。 大正ロマンみたいな雰囲気も相まって、面白かったです。
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