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私のあなた  作者: 十夜凛
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五章 檻の三日間

 とめどなく流れる水の音が、屋根の外と内側、両方から聞こえてくる。タン、タタタン、と薄い庇や樋を伝う雨の音。いつからか雨が降り始めて、部屋の空気も湿度を増した。

 足を括る紐だけほどかれて、ソファに座らされ、私は無限に鼓膜を震わせるその雨を聴いていた。目隠しと手首の戒めは解かれておらず、何もできることはない。二つ並んだクッションのあいだに背骨を沈めるようにして、置物のように静かに、膝を抱えているのみだ。

 ざあざあとシンクから流れていた水の音が、ふいに止んだ。陶器と金属の触れ合う音がいくつか、楽器のように響き合い、大股な足音が近づいてくる。

「できたわよ」

「何が……」

「夕食にしましょ。今は夜の七時」

 いつかの日暮れに、踏切で見た久藤くんの姿が瞼を過ぎった。今夜は帰れないことを漠然と察した私に、久藤くんは何か――おそらく絵を描くときの丸椅子と可動式のテーブル――を引っぱってきて、向かい合って腰を下ろした。そういえばずっと、空っぽの胃をくすぐる匂いがしていたなと思う。足をほどかれて、ここに座ってから、なんだか夢の中にいるみたいにぼうっとして無関心だったけれど。

 ガサガサと何かを開ける音が聞こえて、味噌の香りが辺りに広がった。どうやら料理があるらしい、とのろく動く頭で理解して、ソファの上に上げていた足を下ろす。

「久藤くんが作ったの?」

「そうよ? ……ああ、別に何も入れてないけど、不安なら私が先に――」

「あ、違うの……! そういう意味で訊いたんじゃ、ないよ」

 慌てて両手を振ろうとして、手の自由が利かないことを思い出した。そんなミステリー小説めいたことを想像していたわけではない。ただ、思ったままのことが口から出ただけだ。言い換えるなら「料理、するんだ」という言葉になる。

 意外と言えば意外なような、そうでもないような。久藤くんが自炊をするのかどうか、考えたこともなかったな、と思った。絵を描くときと、学校にいるとき以外、どういう生活をしているのかまるで知らない。上京してからは、それこそ家族よりも長く一緒にいるのに。

「未央」

「あ、ごめん、なに……」

「口開けて頂戴」

 ふと、久藤八積という人間の、私の知らない空白の多さに目を惹かれていたとき。唇に温かいものが押し当てられた。反射的に開くと、上下の歯のあいだに滑り込んできた箸が、柔らかい塊を舌の上に置いていく。

 味噌の味と、慣れ親しんだ魚の味が口の中に広がった。ホイルで包み焼きにした、鮭の味噌焼きだった。

「手、出して」

「ん」

「飲み物はこれ」

 テーブルにのせた手の先に、ペットボトルが触れる。キャップを外してストローが差されたそれを、一括りにされたままの両手でぎこちなく掴み、私は与えられるままに飲んだ。冷えた緑茶の味が、喉を滑り落ちた。

「あの、自分で……」

 自分で食べるから、と言いかけた唇に、次の一箸が押しつけられる。拘束を解く気はないから、黙って食べろということなのだろう。諦めて口を開けると、鮭の身と一緒に、味噌を絡ませた玉葱が入ってきた。噛みしめると小さな音と共に、瑞々しい甘さが溢れる。玉葱だけでなく、キャベツや人参も使っているようだ。かすかに混ざった香りが、それを教えてくれた。

 思い出したように温かいご飯を何口か食べさせられながら、私は目の前にいるのが誰で、自分が何をしているのか分からなくなりそうだった。雨音を聴いていたときの、ぼんやりとした感覚に似ていた。わずか数時間前に久藤くんの家を訪ねたことが、遥か遠い過去の話のように霞んで、それから今までの時間がすべて、他人事のように漠然としている。

 所謂、キャパオーバーというものだろう。脳が我が身に起こったことを処理しきれなくて、あれこれと難しく考えるのをやめたがっているのだ。証拠に、こんな状況だというのに私は実家の母が作る味噌焼きのことなど思い出していた。久藤くんの料理は、そういう少し古くてありふれた、何ら特別なところのない家庭の味がした。

 彼は普段から一人で、こういう食事をしているのだろうか。今日のメニューは定番なのだろうか、初めて作ったのだろうか。淡々と箸を運んでくるばかりで、一向に自分で食べている気配がないけれど、後で食べるのだろうか、それともこれは食べないのだろうか。五年も傍で見てきたのに、そういえば好きな食べ物さえ知らない。

 普通の友達同士のように、テーブルを挟んで食事をすることなんてほとんどなかった。それに私は、この人の前では、ほとんどの場合もの思いに耽っているか、本を読んでいるかだったのだ。会話は、静かな夜道でぽつぽつと表れる街灯のようなもので、その大半が久藤くんの灯したもので、私は求められたときだけそれに応えるのが常だった。

 今、彼がどんな顔で私の前に座っているのか、これっぽっちも想像がつかない。よく知ったはずの人と一緒にいるのに、私の中の彼には、知らない人のように空白が多い。五年間で、久藤八積の何を見てきただろう?

「もういいの?」

 寂しいような悲しいような、無性に苦しい気持ちに襲われて、私は胸がいっぱいになり、それ以上食べられなくなった。頷くと、箸を下げる音が聞こえる。多分、半分も食べられなかっただろう。

「あの……」

「何?」

「ご馳走さまでした。……美味しかった」

 残してしまったことを詫びる代わりに、口に合わなかったのではないことを伝える。皿を片づけていた音が、一瞬止まった。それからかすかに、笑ったような声が聞こえた気がしたが、あまりに小さかったので確信は持てなかった。

「そう、良かった。あなたにしては、しっかり食べたほうじゃない?」

 大学ではお弁当を持って行ったり学食に入ったりするが、元来あまり食の太くない私は、家に帰るとほとんど料理をしない。ご飯だけ炊いて漬物で済ませたり、冷奴をひとつも食べれば、満腹とまでは言わなくても眠れる程度には満足してしまったりする。休日など、夜まで珈琲だけを注ぎ足しながら、ビスケット一袋で一日中でも本を読んでいる。

 確かに、こんなにきちんとした夕食は久しぶりだった。うん、と言うと久藤くんは、今度こそ確かに笑った。

「私も食べるから、先にお風呂入って頂戴」

「えっ、でも私、タオルとか洗顔とか何も……」

「この状況で持ってるとは思ってないわァ? 必要なものがあれば明日用意するから、今夜はうちのを使って」

 さりげなく「明日」と聞こえた気がして、こんな生活が二十四時間後にも続いている予定なのかということを改めて想像したが、それは曇った望遠鏡で覗く水平線のようにぼやけた、実感の沸かないものだった。

 立って、と促されて肩を押され、ドアのほうに向かって歩いていく。ドアからリビングへ繋がる途中の短い廊下沿いに、小さなドアで仕切られたユニットバスがついている。

 久藤くんは段差があることを告げて、私を先に入らせるなり、後ろから腕を回して私の手首の拘束を解いた。

「目隠しを取るのは、私がドアを閉めてからにして」

「どうして?」

「あの絵が描き終わるまで、あなたの顔を見たくないの」

 迷いのない声だった。背中から回した腕で、心臓に矢を手ずから刺されたみたいな痛さがした。

 絵が描き終わるまでということは、すなわち私たちの関係が終わるまでということだ。それはもはや、今度永遠に、私の顔を見たくはないと言われたことと同義だった。

 背後でドアの閉まる音を聞いてから、結び目に手を伸ばして、目隠しを外す。浴室の白い光が、ずっと覆われていた目に沁みた。確かめるように、自分の手で目元に触れてしみじみと思う。

 次にこの両目が久藤くんを見るとき、私たちはもう、最後なのだ。



 目覚めたとき、瞼が開かないのはどうしてだろうと思って目を擦ろうとした。そうして上げたつもりの右手に、左手もついてきたのをおかしく思って、ようやく自分の状況を思い出した。

 二日目、朝。私は眠ったときと変わらない、視界と両手の自由が利かない状態で目を覚ました。ソファで眠るなどという慣れないことをしたせいか、背中が痛い。起き上がって伸びをし、足元に落としてしまっていたらしいクッションを拾った。

「久藤くん?」

 声をかけてみるも、部屋の中はしんとして、人が動いている気配はない。今は何時だろうか。光が差している温もりは感じたが、耳を澄まして外の音を聞いてみると、まだ早い時間なのかもしれないと思った。車や自転車の音が、ほとんどしないのだ。近くには小学校があるはずだが、子供たちの声も聞こえない。

 久藤くんはまだ、寝ているのかもしれない。

 そっと隣室の方向を向いてみたが、物音はせず、起きている気配はなかった。眠っているか、出かけているかのどちらかだ。私は一瞬、ドアの場所を思い出そうとして、脳裏に浮かんだ考えを曖昧に振り払った。逃げて、どうしたいのだろう? ここから出たあとにすべきことを、自分がどうしたいのかを、上手くまとめることができなかった。

 それよりも、お手洗いに行きたい、という現実的な欲求が体の中を巡っていた。勿論、昨日も何度となく行ってはいるのだが、いつもより我慢していたのは否定できない。人の家、という認識が言い出しにくくさせていたし、何より久藤くんにドアの前まで連れていってもらって、外で待っていてもらうのが耐え難かった。最低限の回数で済ませよう、とはしていたと思う。そのせいかどうか分からないが、今朝はあまり長く我慢していられそうになかった。

 今一度、隣室のほうを振り返ってみるが、起きてくる気配はない。私は探るように足を左右へ動かしながら、ラグの上に降り立った。

 両手を拳銃でも構えるみたいに正面へ突き出して、辺りの空間を探り探り、慎重に歩き始める。目隠しをされているとはいえ、一応、勝手知ったる家だ。リビングを出ればすぐにあるお手洗いくらい、辿り着けないことはないだろう。

 ずり落ちそうになったズボンを引っぱり上げて、ゆっくりと歩く。昨夜、パジャマの代わりに貸されたものの中で、辛うじて着られたのがこの久藤くんのジャージの上下だ。私も実家にまだ残っている、高校時代のものである。作業着にしようと思って持ってきたのだが、大学に入ってからも背が伸びて、結局一度も着ていないと彼はぼやいていた。とはいえ、私が着るには袖も裾も有り余る。

 踏んで転ばないようにしないと、と足元を気にしていた私は、ズボンばかりに気を取られていたのかもしれない。ふいに何か、重いものに足を取られてよろめいた。そういえば廊下に雑誌のラックが、と思い出したときには、すでに遅かった。

 辺りの景色が何も見えない状態で、体の中心が失われていく感覚に、私は溺れたような錯覚をおぼえて悲鳴を上げた。暗い川に落ちて手をもがいているような、一瞬が数十秒にも感じる長い感覚だった。気づいたときには床に手をついて、這うような恰好で倒れていた。

 バン、とけたたましい音を立てて、背後でドアが開いた。

「未央!」

「あ、久藤く……」

「あなた、一人で何やってるの? 怪我は!」

 のろのろと起き上がるよりも早く、肩を掴んで振り向かされる。半ば怒鳴られたような剣幕に怯んでしまい、束の間、何を言われたのか頭が動かなかった。我に返って、首を横に振る。痣くらいは作ったかもしれないが、どこも派手にぶつけたり、切ったりした痛みがあるところはない。

 久藤くんはじっと、私を見下ろしているようだった。私は倒したラックを手探りで元に戻そうとして、久藤くんの手にそれを奪われた。

「ごめん」

「それは、何に対して謝ってるのかしら」

「何って?」

「あなた、躓かなかったら今頃、どこにいるつもりだったの?」

 ラックのこと以外頭になかった私は、ぽかんとして顔を上げた。けれどすぐに、久藤くんの言わんとしていることが閃いて、慌てて首を振った。

 私の歩いていた廊下の先には、玄関のドアがあるのを思い出したのだ。久藤くんは、私が逃げ出そうとしたと誤解している。

「違うよ。私は外に行こうとしたわけじゃなくて」

「じゃあ、何?」

「ただ……お手洗いに行こうって。それくらいは、黙って行ってもいいかと思ったの」

 疑いをかけられるよりは、言い難いことでも正直に言ったほうがましだ。言い澱みながらも、あまりもじもじして余計に怪しまれては困ると、私は彼の誤解をできるだけ簡潔に指摘した。

 久藤くんはそれを聞いて初めて、この廊下には玄関のドアの他にもドアがあることを思い出したみたいだった。腕を掴んでいた手の力がはたと弛んで、暫時の沈黙の後に、私の体を引き上げるように動いた。

「立てる?」

「うん」

「こっちよ」

 怪我はしていないと言ったのに、おっかなびっくり、まるで子供を立たせるみたいな慎重な手つきだった。私はもう一度ラックを蹴飛ばしてしまわないように、廊下の反対側に寄ろうとして、久藤くんに軽くぶつかった。

 ごめん、と言って離れようとした背中を後ろから押されて、お手洗いの前に連れていかれる。ドアノブは私の手がさまよっている間に、久藤くんがひねった。小さな段差を踏み越えて、外から閉められたドアに、手探りで鍵をかける。

 とん、と廊下の壁に背中を預けるような音がして――足音がスリッパを履いていないことに気づいた。私の転んだ音で目を覚まして、ベッドから素足で飛び出してきたのだろうか。

 そんなに慌てなくても、逃げたりしないのに。逃げて、久藤くんの行いを明るみにして罰したいような気持ちは、私にはない。上手く言えないが、私は彼に制裁を加えて、謝ってほしい気持ちなど微塵もないのだ。そのことに思い至り、自分でもどうしてだか分からなくて、困惑した。

「あなたが何を考えて一人で来ようとしたのか、大体は分かっているつもりだけど」

 ドアの外で、久藤くんの声が言った。

「もっと事務的に私を呼んでいいのよ。恥らったり、躊躇ったりする必要はないわ」

「でも……」

「今のあなたがどんな理由で私を使ったとしても、同情されこそすれ、詰ったり馬鹿にしたりする人はいないんだから」

 それは、耳を疑うような冷静な言葉だった。私をこの状況に陥れた当人の発言とは思えない、まっとうで客観的で、私への労りさえ感じられる言葉だった。久藤くんはあくまで私を被害者として見ていて、対称にいる加害者が自分であることを理解しているのだった。

 自分が、社会の倫理感から外れたことをしていると。おかしいのは自分のほうなのだと、だから私は何も心苦しく思う必要はないのだと、今の言葉は暗にそう言ったようなものではないか!

「自覚があるのに、まだ続けるの?」

 ドアを挟んで用を足し、また手探りで鍵を開けながら、私は心の内を吐露するように訊ねていた。拘束された両手では、ドアノブは回しづらい。外側からそれが回る音と共に、ドアで隔たれていた声が、真正面から聞こえた。

「ええ、そうよ」

「どうして……」

「生憎と、奇異の目で見られることには慣れてるの」

 私たちはその日、朝を最後に、会話らしい会話をほとんどしなかった。パンと珈琲で朝食を済ませ、一日中、画家とモデルの関係に専念していた。久藤くんは昼頃に部屋からパソコンを持ってきて、動画サイトに上がっているラジオドラマを流し始めた。

 懐かしくてどこか儚い、中学生の頃に読み漁った児童文学のような朗読劇だった。私は淡々と流されるその物語に聞き入り、けれどその狭間で、ずっと久藤くんのことを考えていた。



 洗面台の鏡に映る顔は、寝不足で少し浮腫んでいる。三日目、朝。私はユニットバスの横に備えつけられた洗面所で顔を洗い、寝癖のついた髪を整えて、言いつけ通りに目隠しをして内側からドアをノックした。

「終わったよ」

 声をかけると、外で待っていた久藤くんがドアを開け、私に手を貸して段差を降りさせる。顔を洗うとき、お風呂に入るとき、歯を磨くとき。一日に何度となく繰り返されるこの奇妙なやりとりにも、三日目ともなれば慣れはやってきて、私はほとんど抵抗なく久藤くんに連れられてリビングへ戻った。

 ソファに座らされ、手首にハンカチを回される。体温の低い指と、それよりもさらに冷たいシルバーリングが肌を掠め、彼の手が私の手首の上に結び目を作っていることを教える。

「朝ごはん、パンでいいかしら」

「うん、何でも」

「用意してくるわ。苺とマーマレード、どっちが好き?」

 私は少し迷って、苺と答えた。久藤くんは短く、そう、と答えて立ち上がる。キッチンへ行くのだろう。でも視界を奪われている私には、その大股の足音が、やけに遠くへ行くように聞こえた。

 遠くへ行って、呼んでも帰ってこないような気がして。

「あの、さ」

「何?」

「手伝おうか?」

 気がついたら、普段なら到底言えないような冗談を口にしていた。結び合わされた両手を上げて、ちょっと自虐的に笑ってみる。久藤くんは呆気に取られたのか、押し黙って何も言わなかった。けれどやがて、息を漏らすような笑い声が聞こえて、しんと張り詰めていた辺りの空気を揺らした。

「フォークもろくに握れないくせに、なに言ってるの。いいからあなたは座ってて」

「はい」

 彼はそれきり、またキッチンに向かって背中を向けたようだったが、私の中にはもう先刻までの寂寞感はなくなっていた。オーブンのタイマーを回す音や、冷蔵庫を開ける音が響く。ジャムの蓋を回す音、フォークかスプーンを用意する音。

 久藤くんの発するそれらの音に交じって、窓の外から登校する子供たちの笑い声が聞こえた。本来ならば私たちも学校へ向かっているはずの時間だけれど、久藤くんの口から「大学」という言葉が出てくることは、昨日に引き続いてなさそうだ。

 次回の授業のとき、教壇へ行ってプリントをもらわなくてはならないのが少しだけ嫌だな、と思った。授業を休むことが嫌いな理由に、そうやって前へ出ていって注目を浴びるのが苦手だ、というのがある。まあ、だからこそ無遅刻、無欠席を貫いていたし、一週休んだくらいでは成績に影響はないだろうが。

 試験範囲の発表などが行われていないといいけれど、などと取り留めもなく考えていると、テーブルにお盆の置かれる音が聞こえた。

「お待たせ。さ、頂きましょ、簡単なものだけど」

 引き寄せられたテーブルから、珈琲の香りが漂う。今朝は少し、深みだけでなく甘みが強い。なんだろうと思ったら、カフェオレだった。カップを傾ける久藤くんの手から、水盤に嘴を差し出す鳥みたいに水面を啄んで、ほっと息をつく。目覚めの珈琲は頭をすっきり冴えさせてくれるが、ミルクが入ると緩やかな覚醒に変わる。どちらも違った良さがあって好きだ。

「未央」

「……ん」

 焼きたてのバターロールの香りが鼻をくすぐって、口を開けてと言われるよりも先に、ねだるみたいに口を開けていた。苺ジャムを薄く挟んだバターロールが、一口大に千切られて舌の上に収まる。生の苺は酸味が強いが、砂糖で煮詰められると酸味が嘘のように忘れ去られて、この世の宝石みたいな赤くて甘い透き通ったジャムになるのだから不思議だ。

 やっぱり好きだな、と味わって飲みこむと、唇にひやりとしたものが触れた。一瞬、シルバーリングが脳裏を過ぎったが、それはスクランブルエッグを積載したスプーンだった。バターとマヨネーズをたっぷり効かせた塩気が、カフェオレとジャムで甘くなっていた口に心地いい。

 昨日は一日、まとまりのないことを考え尽くして疲れていたせいか、昨夜の食事は上の空であまり食べられなかった。そのせいかいつもよりお腹を空かせていた私は、バターロールを二つと、それと同じくらいのスクランブルエッグを食べ、カフェオレも飲みきって用意された朝ごはんを完食した。

 交代で久藤くんが自分の朝食を摂り始めたものだから、二人きりの部屋には彼が動かす食器の音しか聞こえなくなって。

「久藤くんって、さ……料理、上手だったんだね」

「なあに、いきなり?」

「何となく」

 虚を衝かれたような声に、ふふっと笑う。私から話しかけたことなんて滅多になかったから、不信感を抱かせたのかもしれない。肝心の会話の答えについては、肯定も否定も返ってこなかった。でも、私は望んだものを耳に入れていたので構わなかった。

 即ち、久藤くんの声を、である。

「いつも自分で作ってるの?」

「まあ……そうね。外で済ませるとき以外は」

「知らなかった」

「あまり言ってないもの。お弁当とかも持って行かないし」

「なんで? 安上がりなのに」

「面倒でしょ? 食べてみたいとか言って、色んな人に上がり込まれるの」

 仰々しく振る舞うほどの腕でもないし。そうつけ加えた語尾が、珈琲の香りの底に消えていく。確かに、パーティー料理といった趣ではない。でも久藤くんが振る舞うと言ったら、品書きに関係なく、この部屋に二十人は人が詰めかけるだろう。

 友達の多い人には、多いなりの苦労がある。そっか、と相槌代わりの返事をしながら、私はソファに背中を沈めて、窓のほうに首を向けた。

 視界がないというのは、不思議なものだ。いくら外ではたくさんの物音がしているといっても、この部屋にいるのは私たちだけで、私以外の音を立てるのは久藤くんに他ならないのに。沈黙が続くと、ふと、誰と向かい合っているのか分からなくなってしまって、確かめるためにその声を聞きたくなる。

 電話で双方が黙ってしまったときと同じだ。受話器の向こうにある、かすかな気配は本当に先刻まで話していた人なのか。そうでないことなどあり得ない状況だと分かっていても、不安になって、声を聞くためだけに、どうでもいい話題を思い出したかのように振ったりする。

 見えない世界では、話すということが、一人きりではないことの証明に繋がる。暗い夜の波間に浮かんだ誘導灯のように、久藤くんの声は今や、私の世界を照らすものだった。

 馬鹿げた理論かもしれないが、今の私には、久藤くんの存在が有難かったのだ。久藤くんがいるから、こんな状況下でも一定の落ち着きを保っていられる私がいる。私は彼の存在に支えられて、彼の作り出した状況を乗り切るだろう。

 加害者であり、救済者である彼に対して、私の感情は錯綜している。怒りが喜びに、恐怖が感謝に、困惑が安堵に、殴打されて抱きしめられて、二度と剥がれない粘着性を持って混ざり合ってしまっている。

 ああ、そうか。だから私はこの人を制裁できないのだ。私は今さらながらに悟った。でもその悟りの中にさえ、制裁できなくてよかったと安心する私がいた。

「自分が二人になったみたい」

「どうして?」

「こんなことされても、まだ久藤くんを嫌ってない私がいる」

 お皿を片づけていた音が、数秒、止まった。それからひどく困惑した声で、久藤くんが言った。

「こんなことされなくても、あなたは私を嫌いだったんじゃないの?」

 私は――その質問に、どんな答えも出すことができなかった。空から突然、月が落ちてきたような衝撃で、頭が真っ白に焼けてしまって何も言うことができなかった。

 強いていうなら、考えたことがなかった、のかもしれない。自分が久藤くんのことを、どう思っていたのか。久藤くんから見れば、私は言うことをきくだけの犬。私は、私と彼について、それしか考えたことがなかった。


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