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私のあなた  作者: 十夜凛
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三章 音楽祭

 葉桜が作る青い影の下に、紺色のかばんを肩にかけた青年が一人、立っている。こういうときは、どこまで近づいて声をかけたらいいのだろう。迷った末、トークアプリを開いて「着きました」と送信すると、彼は手にしていたスマートフォンから顔を上げて、私に気づいてそれをポケットにしまった。

「群山さん」

「ごめん、待たせたみたいで」

「全然。俺もさっき着いたところだから」

 片山くんはそう言って、腕時計を確認した。十二時を少し過ぎたところだ。キャンパスからは外に食事を摂りにゆく生徒たちが、ぱらぱらと出てきはじめている。

 三限の講義を互いに取っていないと分かったこの日、私と片山くんは、かねてからの約束通り食事に出かけることになった。数日前、片山くんからの連絡があって、とんとん拍子に決まった話だ。今度ごはんでも、というありきたりな約束が実現される確率は低いと思っていたので、本当に連絡があるとは思わなくて少し驚いた。

 慣れない会話にぎこちなさを見透かされまいとして、却って時間がかかり、素っ気ない態度の返信を何度もしてしまったように思う。片山くんは気を悪くした様子もなく、この間と変わらない笑顔を見せてくれて、安心した。

「ちょうど昼時だね。ちょっと混んでるかもしれないけど、俺たちも行こうか?」

「うん」

「群山さん、何食べたい? この辺でおすすめとかあったら教えて」

 お腹が空いているのか、挨拶もそこそこに歩き始めた片山くんと連れ立って、私も葉桜の影を抜け真昼の遊歩道へ踏み出す。人の流れに沿って駅前へと向かう道すがら、大学に入ってから誰かと食事に行くのは初めてだという片山くんに、私もそんなものだと答えてから、一度だけ経験があったのを思い出した。

 今どこ、とだけ電話で訊かれて、答えた喫茶店に久藤くんが来たことがあったのだ。終始たいした会話もなくて、ただ何かに疲れたように黙々とハヤシライスを食する彼の前で、私はエッセイを読んでいた。それだけの一時間足らずだ。そういえばちょうど、去年の今ごろだった気がする。

 どうしたのと訊いたら、しばらく間があってから、あなただったら人の少ない店を知ってるだろうと思って、という返事が返ってきた。そこは読書に最適な、学生にはほとんど知られていない、珈琲と軽食で昼の三時間だけ営業する喫茶店だった。

 この人も慣れない環境に戸惑ったりするのかな、と、当たり障りのない言葉で答えながら内心驚いた記憶がある。後にも先にも、久藤くんが人付き合いにうんざりした姿を見せたのはそれきり。あれを「友達との食事」というのは、些か無理があるかもしれない。

 除外するなら正真正銘、私にとってもこれが、大学生になって初めての友達付き合いだ。友達、という響きを言い聞かせるように噛みしめながら、通り過ぎていく自転車の起こした風に舞い上がるスカートを片手でおさえた。



 片山くんとの食事はそれから、なんとなく毎週の恒例行事のようになり、気づけば一ヶ月が経とうとしていた。火曜日の夜になるといつも連絡が来る。明日なに食べる? という、一緒に出かけることの確認を省いた連絡。

 実を言うと、私は三限が休みなのではなくて、毎週水曜日は午前授業しか入れていない日だった。最初の頃に慌てて返事をしたせいで行き違いが生まれていて、片山くんは私も四限があると思っている。

 今さら言い出すことのできない私は、毎回一緒に昼食を摂っては一度学校へ戻り、片山くんの姿が見えなくなってから駅へ引き返すという、仕様もない嘘をつき続けていた。本当は遠くの図書館に通うため、まとめて時間を取った曜日なのだが、きっとそれを言ったら片山くんを恐縮させてしまうだろう。

 何より、彼が毎週のことをとても楽しみにしてくれているようなので、言い難い。門に着くと必ずと言っていいほど先に来ていて、私を見つけると、少年のような笑顔を浮かべて手を振る。

「群山さんってさ、本とか好きだったよね」

 今日も、結局その顔に押されてしまって、いつものように駅前へやってきてしまった。片山くんは見た目よりもずっと良く食べるので、基本的に大通り沿いの、学生をターゲットにした洋食屋から選ぶ。

「え……、うん。そうだね、好きかも」

「高校の頃、教室で読んでた記憶があってさ。同い年なのに、厚いの読むなぁって思ったんだ」

 チーズののったハンバーグや大盛りのナポリタンが並ぶメニューから、器が一番小さそうなラザニアと珈琲のセットを選ぶ。私はそれでも片山くんの皿が先に下げられていくのを見送りながら、冷めた残りの数口を少しずつ口に運んでいた。

 彼から「本」という単語が出て、一瞬あの置き忘れた小説のことが頭をよぎったが、片山くんが話したいのはそのことではないようでほっとした。彼はかばんから、教科書に挟んだ何かのパンフレットを取り出して私に向けた。

「何これ。〈物語の音楽祭〉……?」

「明日、すぐそこの文化ホールでやる演奏会なんだけど。有名な小説とか、童話の音楽を生演奏するっていうコンサートらしいんだ」

「知らなかった。そんなのあるんだ」

「小さい楽団らしくてさ、あんまり宣伝してないみたい。俺も今朝、駅で配ってたパンフレットもらって知ったばかりなんだけど……どうかな、興味あったりしない?」

 これはもしや、一緒に行こうという意味で訊かれているのだろうか。人付き合いの経験が薄い私にも、じっと見つめて首を傾げられれば、それくらいは察しがついた。予想を後押しするように、片山くんは私の返事を待って静かに微笑む。

 パンフレットに並んだ、覚えのある小説のタイトルと、その中に登場した楽曲たち。興味がない、と言うには、あまりに食い入るように見てしまった。

「ある、けど」

「都合悪い?」

「……分からない」

 絞り出した返事に、片山くんが怪訝な顔をする。言ってしまってから、私もおかしなことを口にしたと思った。

 自分の予定が、明日のことさえ分からないなんて普通ではない。でも、事実だったのだ。

 私にはいつ、どんなときに、久藤くんという飼い主の呼び声がかかるか分からない。水曜日の午後だけは以前「なんで空けたの」と問われ、図書館へ行く日にしたいからと答えて以来、連絡が来たことはない。でも、その他の曜日に関しては、私は自分がいつ久藤くんに呼び出されるのか、まったくもって事前に把握する術がないのだ。

「もしかしたら、急用が入っちゃうかもしれなくて。ドタキャンみたいなことに、なっちゃうかも」

「ふうん? 何か、忙しい?」

「そういうわけじゃないんだけど。時々、外せない用事が入るってだけで……」

 しどろもどろになってしまって、言えば言うほど、意味ありげな発言をしてしまう。素直に「久藤くんのモデル」と言えば良かったか。でもそんなもの、普通の友達同士なら一回くらい断れるはずだ。

 これ以上深く追及されたら、久藤くんとの関係が突き詰められてしまいそうで、どうしたらいいか分からなくなって下を向いた。空になったラザニアの皿が、通りすがりの店員さんに下げられていく。やがて正面の席から、じゃあさ、と気を取り直した声が言った。

「俺は興味があるから、一人でも行くから。群山さん、用事がなかったらおいでよ」

「え……」

「ホールの入り口で、六時頃。見かけたら声かけて」

 これあげる、とパンフレットが差し出される。片山くんは空いたスペースにメニューを広げて、俺も何か飲もうかな、とドリンクの欄に視線を落とした。

「あの、ありがとう」

「全然?」

 そうして何事もなかったように笑って、私の珈琲を置きに来た店員さんに、カフェオレを追加で注文した。変わらないな、と熱いうちに一口飲んで、胸に湧きかけた熱をごまかす。

 明るくて誠実で、高校生のときの、私が好きだった片山くんのままだ。なんの関わりもなかった私にも、教室で一言二言話すとき、まるで友達同士のように気さくに接してくれた。今はもう関わりがあって、距離感だけが昔と違っている。

 まったくどうして面白いなあ、と傾けた珈琲の湯気が、眼鏡のレンズを曇らせながら私の前を昇っていった。

 迂闊な恋を、またもしてしまいそうになる。高校時代のことはただの、恋と片山くん、その両方への憧れが生み出した淡い思い出だと分かっているのに。それでもやはりこの人は、私の好きだった人に変わりないのだ。


 その日の夜、私が図書館から帰って部屋に一人でいたときだった。テーブルの端で充電器に挿してあったスマートフォンの画面が、着信を告げるモーションと共に明るく光った。

 風呂上りの濡れた髪を拭いていた私は、タオルで手のひらの水滴を拭いてスマートフォンを取り上げた。久藤くんだ。画面に表示された名前を見て、急いで電話に出る。

「はい」

「あ、もしもし、未央? 今いいかしら」

「うん、大丈夫。なに?」

 通話口のむこうはこちらと同じで、物音がほとんどなく静かだ。久藤くんも家からかけているのかもしれない。

「あなた前に、シェイクスピアの全集みたいなの、読んでなかった?」

「文庫のやつ?」

「そう。今度授業で提出するレポートに使いたくて、おすすめがあったらどれか一冊、貸してもらえないかしら」

 思うに、久藤くんほど私の読書癖を知っている人は他にいないだろう。待ち合わせの場所で、ごく稀に出かける電車の中で、私は久藤くんの前で何かと本を読んでいる。きゃあきゃあと話題が弾むような関係ではないし、そのわりには一緒にいる時間が長い。ようは、沈黙を潰すための手段でもあるのだ。私はモデルをしているときでさえ、久藤くんが構わないと言えば本を読んでいた。

「いいけど、たくさんあるからどれを勧めたらいいのか……どんな傾向とか、長さとか、何か絞ってくれない?」

「短くても長くても読むわ。シェイクスピアといえば悲劇……っていうのは、読み慣れない人間の勝手な印象?」

「悲劇だけではないけど、でも、私の好きなのは大体悲劇。オセローとか、ハムレットとか、ドラマチックで胸が赤いリボンで締めつけられるみたいなの」

「じゃあ、それにする」

 久藤くんはあっさりと決めた。滅多に思い入れも持たないけれど、広く浅く、大概のものは勧められたら読むし好む人だ。多分私が何を見立てても、それなりに気にいるだろう。

 彼が持っていたら似合うのはどっちかな、と思って、オセローに決めた。オセローはハムレットよりも、鮮烈な感じがする。物語も、タイトルの響きも、冷えたナイフの温度と同じ、シルバーのアクセサリーに通ずるところがある。

 ふと、前に久藤くんから感じた、氷のような冷たさを思い出した。

「助かるわァ。代わりに何か、うちにあるのを貸しましょうか」

 ぞくりと、思い出し寒気とでもいうのか、湯上りの背中が冷えたような心地がした。でもあれ以来、もう時間も経っていたし、あまり明確に思い出したわけではなかった。通話口のむこうから聞こえる久藤くんの声が、ぼんやりとした回想をかき消す。えっと、と考えていると、本棚を探っているような音が聞こえた。

「最近増えたのは、川瀬巴水とか若冲とかかしらねェ」

 滑らかな表紙の、厚い本を抜く音。彼が書棚に揃えているのは、多くが画集や展覧会の図録だ。美術書は値が張るので、文芸書で散財しがちな私は、なかなか自力で手を伸ばせないジャンルの書物である。ゆえに時々、貸し借りを持ちかけられると、社交辞令ではないのかと疑いながらも、誘惑に負けてしまうのだ。

「ああ、ダリもあるわよ」

「ダリ!」

 通話口から聞こえた名前に、私は思わず感嘆の声を上げた。久藤くんが、これにする? と厚い画集を抜く音がする。私は迷わず、うん、と答えていた。

「このあいだ読んだ本にダリが出てきたの。あ、推理小説なんだけど。美術品に詳しい犯人が残していった手がかりのひとつが、ダリの柔らかい時計でね。他にも色々、ダリにまつわるものが手がかりや、手がかりの象徴として使われてて――」

 そこまで話して、はっと口を噤んだ。訊かれてもいないことまで、べらべらと話していたことに気づいたからだ。電話のむこう側は誰もいないかのごとくしんとしている。まずい、何か言わないと、と喉を引き攣らせたときだった。

 クス、と笑う声が、かすかに漏れ聞こえてきた。

「それで?」

「……え?」

「続きを聞かせて。あと、ついでにその本も貸して。面白そうだもの」

 優しい声だった。まるで眠る前のホットミルクみたいな、温かくて甘い催促だった。一瞬、誰と話しているのか、頭から飛んでしまいそうになった。久藤くんの声なのだけれど、別の人のようだ。普段、面と向かって話すときの、冷静さや重さはない。かといって、彼が他の人たちに向けるような、華々しい明るさがあるのでもない。

「……主人公は、潰れかけの美術館に勤める学芸員なの。その美術館に、ちょっと特別な思い入れがあって、目玉の絵が盗まれたことをきっかけに探偵稼業に足を踏み入れることになっていくの」

「へえ」

「事件に関する推理も勿論なんだけど、読者は主人公の台詞や行動から、主人公の生い立ちを想像する必要が出てくるんだ。まるで私たちも推理を求められているみたいで……すごく面白かったなって。だから、その……」

「未央?」

「見られるの、楽しみ。ダリの画集、ありがとう」

 促されるままに一頻り話してから、私は久藤くんにお礼を言った。物語に出てきたものを実際に目で見たり味わったりするというのは、読書の先にある大きな楽しみのひとつだ。物語が世界と繋がって、自分の体を通して循環する喜び。ものや場所、料理、音楽もそう。

 ただのお礼よ、と久藤くんは言った。その声がまだ、鼓膜を包み込むみたいに優しくて、私は少し迷いながら口を開いた。

「あの、久藤くん」

「なあに?」

「明日、ね……」

 言いかけて、何と言ったらいいのか分からなくなる。片山くんと出かけるから、モデルはできない、と言いたかったのだ。

 でも、頼まれているのを断るわけではない。もし久藤くんに用事があって、元より明日は私と会うつもりなどないのだとしたら、それがどうしたという話だ。そもそも今までだって、不定期な用事を事前に報告したことなどなかった。ただ、私に遊びに行く相手やアルバイトなどがなかったから、久藤くんからの連絡に答えられないことがなかった、というだけで。

「未央?」

 訝しむような声が、通話口を通ってくる。私はとっさに、彼を目の前にしているわけでもないのに、顔を上げて笑った。

「ごめん、なんでもない」

「え? でも――」

「えっと、明日。本、明日持っていけばいい? って訊こうと思ったの。持っていくね」

 レポートで使うというのなら、少しでも早く渡すに越したことはないだろう。大学で渡しておけば、休み時間に読めるかもしれない。それじゃあ、と切ろうとする私を、久藤くんが遮った。髪から落ちた水滴が、足の甲に当たって跳ねる。

「いいわよ、重いし」

「文庫だから」

「そうは言っても、あなたいつも本持ってるんだから、二冊三冊になるじゃない。どうせ同じ駅なんだし、わざわざ持ち歩かないでも、今度うちに来るときに持ってきてくれたらいいわ」

「そう……?」

「私も、学校に画集持って行くのは重いし。そんなに急ぎじゃないから」

 久藤くんがそう言うなら、そうさせてもらおう。実際、本を持ち歩くのは慣れているけれど、決して軽い荷物ではない。歩いているときは平気なのに、電車に乗るとかばんの重さをずしりと感じる。

 分かった、と返事をした私に、彼はええ、と心なしか穏やかな口調のまま答えた。

「それじゃ、課題やるわ。おやすみ、未央」

「あ、うん。おやすみ、久藤くん」

 誰かと寝る前の挨拶を交わし合うのなんて、実家を出て以来、なかったかもしれない。久しく口にしていなかった言葉に躓きそうになりながら、私は切れた電話をテーブルに置いた。

 おやすみ、がひどく似合う声だったな、と思う。何か機嫌の良くなることでもあったのか、何なのか。あまりに穏やかに喋るから、何だか私と彼の関係を忘れて、余計なことまで色々と話しそうになってしまった。

 片山くんという友達ができて、話し癖がついたかなあ、などと考える。ドライヤーを取って髪を乾かし、私は一応、本棚から『オセロー』を出しておこうと手を伸ばした。



 文化ホールはT大から駅を越えて反対側の、果物屋や靴屋など、昔ながらの商店が並んだ通りの終点にあった。このホールの前までは商業地域だが、ホールを越えると建物の雰囲気が一気に変わる。住宅地が広がっているのだ。一軒家は少なく、ほとんどが近隣の学生の利用する小さなアパートだが。

 スマートフォンの画面を最後にもう一度確認して、私はホールの入り口に立っている人の前へ足を進めた。

「片山くん」

「……群山さん!」

 声をかけると、パンフレットを片手にスマートフォンを操作していた彼は、弾かれたように顔を上げる。私が来ないものだと諦めかけていたかのように。おはよう、という時間でもないのでお待たせ、と言えば、彼は全然と首を振った。

「行こう。もう開場してる」

 見渡せば、同じT大の生徒らしき人たちを中心に、親子連れや初老の夫婦など、それなりに観客が集まり始めていた。〈受付〉と紙を貼った小さなテーブルに、チケットを求める列ができている。

 私たちは学生証を手に、列の最後尾に加わった。ホールの扉からは本番に向けて音色の調整をする、トランペットやチェロの音がかすかに聞こえてくる。


 コンサートは六時半に開演し、ドヴォルザークの交響曲〈新世界より〉で幕を開けた。一曲目ということで、年齢層を問わず紹介しやすい小説に登場する曲を選んだのだろう。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』が、奏者たちの背景に青く光らせたスクリーンの中を、白抜きの文字となって天の川のように流れていった。

 音楽はすべてを演奏するのではなく、有名なフレーズを上手に繋ぎ合わせて編成した楽譜が使用され、オーケストラにあまり馴染みのない私たちのような若者にとっても、飽きの来ないプログラムが組まれていた。〈雨だれ〉〈きらきら星〉〈フィガロの結婚〉……旋律を思い出せなくても、どこかで聞いたことのあるタイトルが続く。演奏が始まって少し経つと、ああこの曲か、と分かるものがほとんどで、私と片山くんはその度に目を合わせて無言で微笑み合った。

 一時間半余りの、充実した演奏会だった。最後に配られたアンケートを記入して受付に投函し、私たちはホールの回転扉をくぐった。しっとりとした梅雨の夜の風が手足に纏いつく。空はすっかり暗く、一等星の銀色に私はフルートの音色を思い出した。

「楽しかったね」

「うん」

「小さいコンサートだって聞いてたけど、思ったよりずっと立派だったな。正直、もっと軽いのを想像してた」

 熱の冷めやらぬ様子で、片山くんが言った。私も同じ気持ちだ。地域の合奏団が開くコンサートなどというから、チケット代も安かったし、さほど大きな期待はしていなかったのに。予想を遥かに上回る演奏に、すっかり圧倒されてしまった。

「群山さん、この後は?」

「後って?」

「なんか、夕飯とか食べて帰る? もう遅いかな」

 余韻に足を掴まれていたから――というわけではないが、私は片山くんの言ったことがすぐにはぴんと来ず、夕飯、とまで言われてから意味を理解した。そうか、友達というのは用事が済んだら解散ではなく、一緒に食事をしたりぶらぶらしたりするものなのか、と焦ってかばんを漁る。

 スマートフォンを探したのだ。私はあまり腕時計をする習慣がなく、いつも画面に映るデジタル時計で済ませていた。指先に当たった硬質な角を掴んで、慣れた手触りでボタンを押す。ぱっと画面が点灯した。瞬間、私はさあっと血の気が引いて、かばんの中からスマートフォンを引っ張り出した。

「群山さん?」

 着信が二件、入っている。久藤くんだ。一件は一時間前、もう一件はつい十五分くらい前。演奏中は振動音も意外と響くかもしれないと思い、サイレントにしてあったのがいけなかった。途中でこっそり確認しようと思っていたのに、コンサートが思いのほか楽しくて、失念してしまっていた。

「群山さん、どうかした?」

「あ……っ、ごめん、ちょっと電話してもいい?」

「ああ、いいけど」

 焦りに気づかれないよう、笑顔を作る。片山くんに背中を向けて、無意識に縋るものを探して街灯の下に歩いていき、片手を柱に添えて折り返し発信のボタンを押した。

 呼び出し音が三度、四度と静かに響く。

「未央?」

 やがて機械音が唐突に途切れ、久藤くんの声が「もしもし」もなく私を呼んだ。

「久藤く……」

「どうしたの。……なんでそんな小さな声で喋ってるの? あなた、今どこ?」

 矢継ぎ早に問われて、びくりと肩が縮こまる。電話に出なかったことを、怒っているのだろうか。剣呑な声は、昨夜とは違う意味で別人みたいだ。日頃の明るい久藤くんからは、想像もつかない。

 ちらりと後ろを向けば、少し離れたところで待っている片山くんと目が合った。久藤くんとの電話だと察されたくない。急いで切り上げなくてはと、口を開く。

「えっと、出かけてて」

「どこ」

「……っ、T大の傍の文化ホール。コンサートに……片山くんと」

 一瞬、通話口のむこうが水を打ったように静まり返った。息遣い、というほどのものではないけれど、電話をしていれば自然に感じられる気配のようなものが消えて、ふっと空気が温度を下げる。

 それは昔、出来心で塾の帰りに寄り道をしたとき、母親からかかってきた電話の冷やかさに似ていた。叱られる、と感じた私は、咄嗟に先回りして口を開いていた。

「思ったより遅くなっちゃって。あ、でも今終わったから、もう帰るところだから」

「そう」

「何か用事だったなら、今からそっちに行く。家でも大学でも……」

「いいえ、大丈夫よ。何でもないならいいの……、あなたが」

「え?」

「ああ、いえ……かけ直させて悪かったわ。宗を待たせてるんでしょう? 切るわね」

 ほとんど一方的に、久藤くんは言うが早いか通話を切った。まだ何か話をするとばかり身構えていた私は、突然の終了に追いつけなくて、ツー、と繰り返される機械音をしばらく耳に当てて聞いてしまった。

 怒っている、と感じたのは勘違いだったのだろうか。切られる直前に感じた慌ただしさに、久藤くんのほうが逃げていったような、何とも腑に落ちない感覚を覚える。一体どうしたのだろう、とスマートフォンをしまって、私は片山くんを待たせていたことを思い出し、慌てて後ろを向いた。

「ごめん、お待たせして」

「いや、いいよ。大丈夫?」

「うん。大丈夫なんだけど、今日はもう帰るね」

 話の勢いとはいえ、久藤くんに今から帰るところだと言ってしまった。気が変わってもう一度電話でも入ったときに、また片山くんの前にいて出られなかったらと思うと、後が怖い。

 そう、と片山くんは心なしか残念そうな顔をした。大学生にもなって、夕食も摂らずに解散なんて付き合いが悪いと思われたかもしれない。連れ立ったままホールを出て駅前へと流れていく他のグループを見送りながら、私は居た堪れなくなって「それじゃ」と片手を上げた。

 その手を、片山くんがぱっと掴んだ。

「また誘ってもいい?」

「片山く……」

「次は……、デートとして」

 思いがけない言葉に、息を呑む。今、なんと言ったのか。私は自分の聞き間違いだとしか思えず、受諾も拒絶もできずに、呆然と片山くんを見上げていた。

 片山くんはそんな私の手首を、なおも熱のこもった手で握った。

「俺、群山さんのこと好きなんだ」

「え……っ」

「いきなりこんなこと言われても、ビビるよね。でも俺にとっては、いきなりっていうわけじゃなくて」

「片山くん……」

「覚えてる? 高校一年のとき、電車で一緒になったの。俺と群山さん、それと八積。偶然三人で乗り合わせたときが、あっただろ」

 忘れもしない、それは私と久藤くんの関係を大きく変えた日のことだ。見えない首輪の感触が喉元にかかって、怯えた表情を浮かべた私に、片山くんは躊躇うように眉を下げた。彼は私が、痴漢に遭ったことを思い出したと思ったのだろう。申し訳なさそうに、しかしはっきりと、今言わなくてはならないのだと決心しているように続けた。

「不謹慎だって軽蔑されるかもしれない。でもあの日以来、群山さんのことが頭から離れないんだ」

「どうして……?」

「君が、俺を見たからだよ」

 まっすぐに、私を捕えたまま、片山くんは言った。その顔が、あの頃いつも目で追いかけていた、高校生の彼と重なって揺れる。電車の中で片山くんを見たときの、助けを求めたい、そんなことはできないと交錯した想いが胸に甦った。ああ今私は、あのおさげ髪の私と同じ目をしているに違いない。

「あのとき、八積に連れ出されて電車を降りていく君を見て、もしかしたらって思ったんだ。もしかしたら、群山さんは俺に助けを求めていたんじゃないかって」

「あ……」

「なのに俺は何も気づけなくて、群山さんがホームに降りていったときも、他人みたいに呆然として見ていることしかできなかった。一人で電車に乗りながら、じわじわ情けなくなって、吐きそうになったよ。八積がいなかったらどうなってた? 俺は群山さんを見捨てたみたいなものじゃないか、って」

「違う。片山くんは気づかなかっただけ。何も悪くないよ」

「そんなふうに思えなかったんだ!」

 遮るように、片山くんが叫んだ。ホールから遅れて出てきた人が数人、私たちのほうを見た。

「片山くん」

 声をかけると、彼は我に返ったように眸を揺るがせた。注目は次第に薄れ、人の流れはもう誰も私たちを気にしてはいない。

「ごめん」

「ううん」

「……でも、そうなんだ。俺は悪くなかった、仕方なかったなんてふうには思えなくて。気づきたかったって思った。俺が守るべきだったって」

「……片山くん」

「それから群山さんのことが忘れられなくなって、いつも目で追いかけて、気づいたら好きになってた。ひどい理由だって思われるかもしれないけど、本心だよ」

 かすかに汗の滲んだ手が、私の手をそっと離した。ぬるい夜風をそこだけが冷たく感じる。私の中には、片山くんが危惧したような怒りや失望は湧いてこなかった。ただただ、動揺していた。頭の先から足の先まで、体中が心臓になってしまったように、逸る鼓動の音で全身が震えていた。

「きっかけがどんなものでも、そんなふうに想ってもらえて、嫌なわけがないよ」

「群山さん」

「ただ、びっくりしちゃって。少し……、考える時間がほしい」

 片山くんは勿論、と頷いた。彼の顔にどこか、力の抜けた笑みが戻ったので、私も何だかほっとして一緒になって笑った。

「急かさないから、今まで通りに付き合いながら、考えてほしいんだ」

「分かった」

「ありがとう」

「ううん。……私こそ」

 自分の人生の中で、こんな瞬間が本当に訪れるとは。星の数ほど可愛い子がいる世界で、私はあの夜空に溶けた、肉眼では見えない星のように目立たない存在だ。目を留めてくれる人がいるなんて、考えたこともなかった。いつかきっと、なんて期待をしていては辛くなるだけだと、子供の頃から学び続けて――いつしか、恋愛なんて自分には無縁の喜びなのだと諦めてしまったのだろう。

 奇跡が起こったようなふわふわとした気持ちだ。夢の中にいるかのようで、今返事をしたら、その喜びだけで片山くんの気持ちに応えてしまうと思う。だから一度、落ち着いて考えたい。恋愛への憧れだけではなく、片山くんに、好意を抱くことができるかどうか。

「帰ろうか。駅までは一緒だよね」

 片山くんは少し照れくさそうに、でもすっきりした様子でそう切り出した。私たちは再びコンサートの話題に戻って、明かりの消えた商店街とT大を越え、反対ホームの電車に乗って別れた。


 駅に着くとホームの時計は八時半を指すところだった。夕方と夜中のちょうど合間、人気が一瞬少なくなる時間帯だ。数人のサラリーマンと私だけが電車を降りた。短い階段を、慣れた足取りで下りていく彼らを先に通して、夜風の中を走り去っていく電車を見送りながら改札へと向かう。

 頭の奥をまだ、片山くんのまっすぐな目や好きだと言った声が駆け巡っていて、今日の音楽に重なりながら浮かんでは消えていく。仕方ないことだ、まだ三十分も経っていないのだから、と言えたらいいのだけれど、きっとこの混乱は一晩眠ったくらいでは収まらないのだろうなという予感もしていた。

 足取りは自然とゆっくりになり、とっくに誰もいなくなった改札を通る。ICカードが軽快な音を響かせ、残額を表示した。そろそろ足しておかないと、と券売機を探して顔を上げたとき。

「え……」

 正面に思いがけない姿を見て、私の足は張りつけられたように止まった。漏れた声に、下を向いていたその人が顔を上げる。金の髪から覗く、深い眉の彫りの陰の眸。一瞬、射抜くような鋭さを持っていたそれが、私の姿を見とめてふっと和らいだ。

「未央」

「久藤くん……、どうしてここに?」

 もしかしてまた、電話を無視していただろうか。慌ててスマートフォンを取り出し、画面を確認したが、新しい着信は入っていなかった。ほっとしてしまう私の前に、柱から背中を離した久藤くんが大股に歩いてくる。

 白地にグレーで模様を空かした長いTシャツに、細身のダメージジーンズ。ホワイトタイガーが近づいてくるみたい、と息を呑んだとき、正面にやってきた彼はぴたりと足を止めた。

「電話。ちょっと言葉足らずに切っちゃったから、あなたが私の呼び出しを無視して、怒られた気でいるんじゃないかと思って」

「あ……」

「さっきは邪魔したみたいで、ごめんなさいねェ?」

 白い指で前髪をかき上げて、久藤くんは視線を合わせないまま言った。邪魔、という表現に片山くんの言い残した「次はデートとして」という発言が被さってしまい、頬がわずかに熱を持つ。

 久藤くんに悟られたくなくて、さっと下を向いた。彼はそれをどんな反応と捉えたのか、短いため息をついて、腕組みをした。

「用があったわけじゃないから、気にしなくていいわ」

「そうだったの?」

「昨夜、あなたが何か言いたげだったような気がしたから……ちょっと気になって、かけておいただけ。そういうことだから、忘れて頂戴」

 昨夜。私がその電話の内容を、詳しく思い出すのを待たず、久藤くんは片手に持っていた紙袋を私に押しつけた。慌てて抱えるように受け取ると、ずしりと重さが両腕にかかる。ダリの画集だった。

「あっ、ありがとう。えっと、私も今持ってくる?」

「いいわよ。明日の夕方は? 何か予定が入った?」

「ううん」

「じゃあ、モデルをして。本はそのときに持ってきて」

 分かったと頷いて、紙袋の取っ手を片腕に通す。私はその間にも画集の表紙が気になって、ちらちらと何度も見て、綻びそうになる顔を抑えていた。

「帰り道に読むんじゃないわよ」

「借り物だもの、大事に読むよ」

「そういう意味じゃないけど。……それじゃあね、また明日」

 背中を向けた久藤くんは、私が「うん」と言う頃にはもう歩き出していた。一度こちらを振り返り、私と目が合うと、無言で遠ざかっていく。

 夜の陰に消えていくその後ろ姿を、なんとなく見えなくなるまで見送りながら、私はふと画集を持ち上げてみて気づいた。

 紙袋の底が、重さで今にも抜けそうに突き出している。久藤くんはいつから、ここに立っていたのだろう。


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