二章 片山宗
「どうもー、こんにちは。演劇サークル・劇団アルファでーす!」
「テニスサークルです! そこの君、一年生? もうサークルとか決めてる? よかったら見ていくだけでもどう?」
学食に繋がる昼休みの中庭に、明るい声がいくつも響いている。春は新入生のやってくる季節だ。どのサークルも、一年生の獲得競争に身を乗り出している。
「ねえ君……」
「け、結構です。すみません」
差し出されたビラを何のサークルのものかも見ずに断って、私はただ学食へ行きたいだけの一心で人混みをかき分けて歩いた。見た目が垢抜けないせいか、人の多さに怖じ気づきながら一人で歩いているせいか、先ほどから一年生に間違われてあらゆるサークルの勧誘を受けている。
寝坊してお弁当を作れなかったからといって、安易に学食で済ませようとせず、どこかへ買いに行けばよかった。良すぎるノリはどうも苦手だ。返事が追いつかずに愛想笑いを浮かべているうちに、どんどん話を進められてしまうのが恐ろしい。去年もそれでいくつかのサークルに連れていかれて、散々説明を聞かされながら、頭の中ではどのタイミングでどう言って断ろうか、そればかり必死に考えていた。もう同じ思いはしたくない。
入ったら入ったで、楽しいものなのかもしれないな、と思わないわけではないけれど。
人混みを抜けきって、ほっとしながら振り返り、勧誘に立っているサークルを一通り眺めてみた。スポーツには無縁だけれど、文化系サークルには心を惹かれるものもいくつかある。天文、映画、ミステリー研究会なども面白そうだ。でも、どれも少し気になるだけで、実際に入ってみようという思い切りは湧かない。
「おっと、すみません」
新しい場所に入っていくことが、二十歳になっても、とうとう苦手なままだ。諦めて学食のほうへ足を向け直したとき、すぐ傍を通りかかったらしい誰かにぶつかってしまった。
「こちらこそ……」
「あれ?」
ずれた眼鏡をかけ直して頭を下げた私に、相手がふと気づいたように声を上げる。
「もしかして……、群山さん?」
「片山くん?」
その顔を見て、私はすぐに一年前まで彼が着ていたブレザーの襟を、ネクタイの緑を、彼の顔の下にありありと思い出すことができた。やっぱり、と片山くんが笑顔を浮かべる。まったく変わっていないその顔に、驚きと懐かしさが溢れた。
「久しぶり。群山さん、ここの大学だったんだね」
「うん。片山くんもそうだったの?」
「この春からね。俺、一浪してたんだ」
水色のシャツ、ベージュのパンツ。なんの変哲もない恰好なのに、記憶の中にいる彼よりずいぶんと大人びて見える。顔は変わっていない、と思っていながら矛盾しているようだけれど、彼はあの頃と同じままで、けれど確かに大人になっていた。
「髪、下ろしたんだね。一瞬分からなかったよ」
まるで私の考えが伝染したように、片山くんはちょっと笑って、自分の首元で髪を下ろす仕草をした。高校から大学に進学して、私が唯一変えたところだ。いい意味で言ってくれたように感じたけれど、お礼を言ったらいいのか謙遜をしたらいいのか分からなくて、曖昧な笑い方をして視線を背けてしまった。
片山くんはそんな私に、それとなく話を変えた。
「すごい数のサークルだよね。ちょっと校内を見て回ろうと歩いてただけで、こんなに」
大小様々なビラを、彼は薄いノートくらいの厚さにして持っている。もらいすぎて二枚も三枚も同じのが入っていそうだ。断らずに受け取っていたら、私もきっとこうなっていただろう。
「群山さん、サークルとか入ってる?」
「ううん、私はどこも」
「興味のあるところとか、ないの?」
「気にはなってるけど、もう二年だし……今さら入りづらいし」
一年生を入れるつもりで勧誘しているところに、自分から入っていく勇気はない。片山くんはああ、とちょっと納得するような反応をした後、明るい表情になって言った。
「じゃあさ、俺と見学に行かない?」
「え?」
「いくつか気になってるのがあるんだけど、俺もほら、一年とは言っても歳が上だからさ。どういう感じでいったらいいのか、まだ手探りなんだよね。同い年の群山さんがいてくれたら、行きやすいなって思うんだけど」
どうかな、と誘われて、思いがけずどきりとしてしまった。こんなことで、と自分に呆れるが、図らずも相手は高校時代に淡い恋心を抱いていた、あの片山くんである。
運命だなんて大それたことは思わない。でも、偶然とはいえ今日を境に何かが動き出すような、そんな予感を想像してしまったことくらいは、仕方がないのではないだろうか。これとか、これとかさ、と片山くんが何枚かのビラをピックアップする。その中にミステリー研究会のビラを見つけて、思わず頷きかけたときだった。
「ダーメ」
「ん……っ!」
うん、と言いかけた口が、突然うしろから塞がれた。唇に触れる、ひやりとした指輪の感触。
「八積!」
振り返るより先に、片山くんが顔を上げてその名前を口にした。同時にぱっと、手が離される。背中にあった誰かの体の感触も離れ、代わりにふわっと、かすかな油絵具と香水のにおいが漂った。
「久しぶりねェ、宗!」
「うわー、お前派手になったな! T大にいるとは聞いてたから、もしかしたら会えるかもとは思ってたけど」
「ちょっと髪色明るくしただけよ、大袈裟なんだからァ。今年から入ったの? あなたってJ大に行ったと思ってたけど」
「そう、一回は入ったんだけど、やっぱ第一志望が諦めきれなくてさ。一浪して新入生だよ。よろしく、先輩」
ビラを片手に持ち替えて、片山くんが握手を求める。久藤くんの色白でアクセサリーだらけの手がそれに答えた。なにこの指輪、と笑いながら、片山くんは思い出したように、私にも握手を求めた。
「あなたみたいなカワイイ後輩なら、大歓迎よ」
「お前ね、そういうこと言ってるから男からの告白が絶えないんだろ」
「あら、私は別に男でも女でも可愛ければアリだもの」
「アリっていうか、来るもの拒まず去るもの追わずって感じだろ、お前の場合」
「うふふ、難しいこと言われちゃうと分かんないわァ? 宗は百点満点中百二十点だから、いつでも可愛がってあげる。……でも」
肩に手がかけられて、頭上で久藤くんのクス、と笑う気配がした。傍から見れば至って綺麗な、華のある笑みだっただろう。
でも私にはなぜかそのとき、ぞくりとした冷気が感じられた。後ろにいるのが久藤くんではなく、大きな氷の塊なのではと錯覚するほど。
久藤くんはそんな空気など微塵も感じさせない、いつもと変わらない、晴れやかな調子で言った。
「未央を勝手に勧誘されるのは、ちょっと困っちゃうのよォ」
「あれ、そうなんだ?」
「私、油絵の同好会に入っててね。未央には私の専属モデルをしてもらってるの。だから今、この子を連れていかれちゃうと、展覧会に間に合わなくって」
へえ、と片山くんが驚いた顔をする。私が久藤くんの絵のモデルをしている。片山くんは単に、その事実が意外だったのだろう。
私は別のことに驚いていた。久藤くんがそれを、明言したことだ。彼は何度となくポーズモデルに私を使ってきたけれど、そのことを周りには一切言っている様子がなかった。顔立ちや髪型はいつも、絵に合わせて調整され、久藤くんが公言しなければ誰も私がモデルになっているとは分からないように描かれていた。
だからきっと、私などをモデルにしていると分かったら不都合なのだろうと思い、私も誰にも漏らさなかった。もっとも、言う相手もいなかったわけだけれど――それでも、久藤くんの絵に私が描かれていることは、暗黙の了解で秘密にしておく事柄なのだと思っていたのだ。
「そうだったんだ。それは知らずに、悪かった」
「分かってくれればいいのよ、私こそお喋りに水を差してごめんなさいねェ?」
「いや、会えてよかったよ、八積。油絵同好会だっけ? 今度ぜひ、お前の描いたのも見せてくれよな」
勝手にそう感じていたのは、私だけだったのだろうか。薄いベールのような秘密をあっさりと公開した久藤くんに、もう先刻感じたような冷然とした雰囲気は見当たらない。嬉しそうに二言、三言、片山くんと会話をして、人混みのむこうから呼ばれた声に返事をした。
「はーい、ごめん! 今行くわァ」
「何か用事?」
「勧誘よ。私もここに集まってるサークルと同じ、新入生を捕まえに来たアリクイってワケ」
はい、と片山くんにポストカードを一枚手渡して、久藤くんは赤い舌で唇を舐めた。長いTシャツの、どう見ても実用ではなくデザインで作られたポケットに、何種類ものポストカードが詰め込まれている。
「はいはーい、油絵同好会よォ。ピッカピカの一年生もボロボロの留年生も、男の子も女の子も見にいらっしゃい!」
奥で勧誘をしている仲間の元へ向かう道すがら、頭の上でパンと手を叩いて、久藤くんは声を張り上げた。人の壁が自然に開き、皆が彼に注目する。慣れた足取りでその中を悠然と歩いていく後ろ姿を眺めて、片山くんが感心したように呟いた。
「相変わらずだな、あいつ。ていうか、さらに磨きがかかった感じ」
「そうだね」
「群山さん、仲良かったんだね。意外だった」
肯定するでも、否定するでもなく、私は曖昧に笑って返した。片山くんはそれをどう捉えたのか、少し考える顔を見せてから、躊躇いがちに訊いた。
「付き合ってたり、する?」
「えっ? まさか……!」
「ごめんごめん、だよね。群山さん真面目だし、八積ってタイプではないか」
私がよほど慌てた様子で首を振ったらしい。片山くんは苦笑して、ちょっと疑っちゃっただけだから、と弁解した。私がどうこうというより、久藤くんが私を選ぶなんて冗談でもありえないことだ。彼の周りにはいつも、華やかな男女が溢れているのだから。
「モデルをしてるのは、ちょっとした利害の一致というか」
「ああ、そうなの?」
「ただの、バイトみたいなものなの。久藤くんは……誰でも良かったんだと思う」
多分彼は、絵を描かれたくらいで特別な関係になったと舞い上がったりしなくて、見返りに彼の時間や気持ちを求めたりもしない。そういう相手を、モデルに使いたかったのだろう。その点、私なら問題がない。私が久藤くんに頼まれることは、それ自体がすべて、私の秘密に対する見返りなのだから。
片山くんはそれ以上訊かずに、ふうん、と頷いた。そうして人垣から飛び出した久藤くんの頭をちらと見て、笑った。
「八積はああ言ってたけどさ、別に毎日アトリエ籠りってわけでもないんだろ?」
「それは、まあ」
「じゃあ、今度時間の合うときに食事でも行こうよ。久しぶりに話したいし、大学のこと色々教えて」
すっかり冷めていた熱が頬にぶり返しそうになって、私は分かったと頷く恰好で下を向いた。高校時代には毎日顔を合わせていてもこんな展開はなかったのに、久しぶりに会ったというだけでそれが食事に行く理由になったりするのだから、時間は不思議だ。私も片山くんと、積もる話などないのにもっと話していたいような気持ちになった。
私たちは片山くんの提案で連絡先を交換して、それじゃあまた、と目的地に向かって別れた。人垣のむこうでは久藤くんの周りに、新入生がぞくぞくと集まり始めていた。
スウ、とカンヴァスに下書きの線を引いていく音が、秒針の歩みと交ざり合って響く。シンプルな黒の壁掛け時計が示す時刻は、午後五時半。窓から差す光はまだ昼のように明るい。
春の時間はゆっくり進む。あと三ヶ月もすれば日の落ちるのが早くなって、今頃は夜の入り口になるだなんて、考えもつかない。
ふと、視線を部屋の中心へ向けたら、淡い影に沈んだ眸と行き合った。強さがあるけれど、燃えるような強さではなく、どこか冷たい静けさを湛えた眸。私は、その目に見られるのは慣れている。描く絵の構図によっては、真正面から何時間も向かい合っていたこともあるからだ。
でも今、久藤くんは〈モデル〉ではなく、〈私〉を見ていた。
「……何?」
問いかけると、唇の端がクスッと上がる。普段、モデルの間は自分から口を利かない私だが、今日の視線は何だか突き刺さるようで、黙っていられなかった。
「分かるの? ちゃんと手は動かしてたのに」
「でも、下のほうで描いてるもの。……顔の位置じゃない」
「ああ、そうよねェ。……薔薇を描いてたの」
言われて、私は肘をついたテーブルの上にある花瓶を見た。そこには今日、この部屋に来たときから、三本の薔薇が活けてある。これを参考に、配置だけ変えているのだろうか。でも、久藤くんが見ていたのが薔薇だとしたら、私と視線が合うことはなかっただろう。
「二十三分ぶりよ」
「え?」
「あなたが私のほうを見たの。ずっと、何を考えてたの? 心ここに在らずみたいな顔をして」
指摘されて、はっともう一度時計を見た。そういえば、最後に時間を確認したときは、五時少しだった気がする。
あれからもう、三十分近く過ぎていたのか。ずいぶんぼうっとしていて、十分が一瞬のような感覚さえした。まばたきを数回しただけのような気がする。読書に没頭したときの、嘘のような時間の経ち方とよく似ていた。
「当ててみせましょうか」
細く薄く、線を引き足しながら久藤くんは言う。いくらこの人にだって、人の心など、そう簡単に見えるものか。押し黙っている私に、彼はイーゼルの奥で音もなく脚を組み替えた。
「宗のことでしょ」
「……違う」
「嘘ね。私だったら考えずにはいられないわァ? 偶然の悪戯は、必然よりずっと心を掻き乱す。だって覚悟していない出来事だもの。違う?」
反復するように、彼はカンヴァス越しに眸を細めて囁く。図星を指されて、脆い盾は呆気なく破られる。
そうだ。ずっと、片山くんのことを考えていた。水色のシャツを着て、少し大人びたあの元同級生のことを。何を思い出すともなしに、過去の光の底に沈んだ蜜色の教室を思い返したり、廊下や階段の角々に彼の姿を描いてみたり。そうして昼に会った青年と重ねては、彼の声を、連絡先を、取り留めもなく思い出していた。
ずっと、片山くんと会ってから、ずっとだ。今だけではなく、午後の講義中も帰り道も久藤くんのアパートへ来るまでの道程も、同じような回想を繰り返している。
ポーズを崩してテーブルに突っ伏した私に、久藤くんは怒らなかった。代わりに、私の目を人形の目でも覗き見るみたいにじっと見つめて、ガリ、とカンヴァスに鉛筆を滑らせた。
「今でも、宗が好き?」
「……まさか」
「違うの?」
「昔の話でしょ? 高校のときだって……最後まで好きだったのか、って言われたら、よく分からないのに」
正直な気持ちだった。過去の片想いを思い出してどきりとはしたが、私は今このとき、片山くんが好きかと言われると、そうは思えない。彼に片想いをするのは、誰にも秘密の楽しみみたいなものだった。でも、それが久藤くんにばれてしまって、私はあの電車での出来事以来、片山くんを目で追うのをやめた。
そうして目に入らなくなって、学年が変わってクラスも離れて、私の中で片山くんの存在は次第に薄くなっていったように思う。たまに廊下ですれ違えば、胸の奥が淡く震えるような心地はした。でも、その程度だった。遠い存在であることを寂しく思ったり、なりふり構わず彼を目で追っていたいと思ったりは、しなかったのだ。
中心点のはっきりしない片想いだったから、輪郭も実にぼやけたもので、いつ終わったのか明確に説明することはできない。でも、今でも好きかと訊かれたら、それは違うと思う。
たどたどしく答えた私に、久藤くんは「そう」と短く返事をした。それきりしばらく、黙って絵を描いて――私は彼が何も言わないので、ポーズを崩したままでいた――唐突に、口を開いた。
「薔薇の花言葉を知ってる?」
いくつか、思い当たるものはあるような気がしたが、確信がなかったので首を横に振った。
「〈恋〉っていうのよ」
「恋……」
「今度の絵はね、〈恋〉を描いてるの」
それはまた、私などがモデルを務めるには不釣り合いなテーマだ。ああもしかしたらそれで、私が片山くんに惚れているなら、何か引き出せるものがあるかもしれないと思ったのだろうか。
ふ、とわけもなく寂しくなって笑った私に、久藤くんはまたしばらく、黙って描き続けた。彼が次に口を開いたのは、時計の針が六時を指したとき。
久藤くんはどんなに集中していても、六時になると切り上げて片づけを始める。そして絵具のついた作業着のまま、踏切まで私を送って帰る。今日は踏切を渡ってすぐに遮断機の下りる音がして、振り返るとまだ線路のむこうに細い影が立っていた。
私は、何か挨拶をすべきか迷って、数秒そこで足を止めた。踏切の音が間隔を狭めてきて、電車が走り抜ける。銀色の車体がごうごうと風を吹かせて過ぎた後には、まだ同じ影が立っていて、私の姿を見て無言で背中を向けた。