描くその手は鉄のよう
「じゃあこんな感じで進めますんで、連載頑張りましょう」
担当編集者はそう言うと、わたしの漫画原稿を整えてそっとプラスチックのケースにしまった。
「はい、ありがとうございます」
「アシスタント云々についてはまたこちらから連絡します。要望があれば言ってください」
「ええ、特にはないですけど」
担当は近くにいたネスタ―型を呼び止めて自分の荷物を渡した。
「これを私のデスクまで持っていってくれ」
ネスタ―は無言で頷き、金属製の細い腕でそれを受け取った。
「最近この会社にも増えましたよね、ロボットが」
わたしの言葉に、彼はふっと息を漏らした。
「どこも増えてますよ。そして人が減りました。ロボットにできる仕事は極力ロボットにさせるようになってきてますから、代わりにリストラされる人間もいるんです。まあ私らみたいな編集はまだ人間の仕事ですから大丈夫ですけど。そういう意味じゃあ、まだロボットは少ない方ですね」
「ロボットと仕事しているとどんな感じなんですか?」
「ぶっちゃけ私はあまり好きじゃないですねえ。動いてないときは、何もないところをじっと見つめたままで、それがなんか不気味なんですよ。まだ人間の形をしたやつの方がいいかもしれませんね」
「へえ、そんなものなんですか」
「ま、仕事は滞りなく進むんでいいですよ。ロボットはミスとかすることがほとんどないですから。人間より扱いやすいというのはあります」
「そのかわり、人間の採用枠が減ったんじゃありません?」
「でしょうね」彼は肩をすくめた。「今時求められる人材とかいうのは、人間にしかできないことをできる人間のことでしょうからねえ」
「大変ですね」
「しょうがないですね。ロボットのおかげで人件費が思いっきり削減できるんでしょうし」
それから、担当は向き直って聞いた。
「どうしてロボットのことなんかを?」
「いえ、今日うちに家庭用ロボットが届くことになってるんです」
「それはそれは、結構高いんじゃありません?」
「はい、かなり高性能らしいので」
「妻もほしがってたなあ。でも家の中までいられるのはなんだか好きじゃないですわ」
彼はすくっと立ち上がった。
「すみません、長話が過ぎました。じゃあまた今度よろしくお願いします、永島先生」
「こちらこそよろしくお願いします」
わたしも立ち上がって礼をした。
永島ゆずき。二十五歳。漫画家。
以前は四年ほど連載を続け、そこそこ知名度のあった作品を描いていた。最近また新しい作品を描き、近いうちに新連載を始めることになった。
わたしは人付き合いが嫌いではないが得意でもない。担当編集者は気さくそうな人で話しやすくて良かった。あとは一緒に仕事するアシスタントが良い人たちならいいのだけど。
帰り道、街中で、あるビルの壁に大きな垂れ幕がかけられているのが見えた。書かれている言葉は、「ロボットに仕事を奪わせるな」だった。
ここ数年のうちにロボットの普及率はぐんと高まった。今や一家に一台といわれるほどで、道を歩いていればロボットとすれ違うことはよくある。当然家庭用だけでなくあらゆる分野の労働でも扱われるようになった。
特に産業の工場では、ロボットが使われていないところなどほぼない。ロボットの運用によって生産効率は格段に上がった。その結果として、失業者が世に大量にあふれ、企業での就職率も低下していった。
ある思想家はこう言った。誰にでもできる雑用はロボットに任せ、人間は人間にしかできない文化的な技を磨こうと。でも、つい先日まで明日の食事を得るために、細々と働いていた者が、そんなことを突然言われても、無茶の追い打ちだろう。
こうしたロボット・リストラの原因から、ロボットに悪感情を抱く者は少なくない。
わたし自身は、ロボットは嫌いじゃない。むしろ好きな方だ。ロボットによる仕事の侵食も、漫画家の自分には心配事ではなかった。それに、実家にいた時から、旧型ではあるが家庭用ロボットを使っていたので、何かと馴染みもある。
ロボットが本当に感情を持っているわけではないことはわかっている。それでもロボットとの会話は楽しい。ロボットと話すときは、無駄に気遣いをしなくてすむので、正直、人よりも話しやすい。しかし、そんなところがコミュニケーション能力の低下につながると、また問題にされている話も聞いた。
自宅に帰ってから、漫画用のネームを書き始めた。連載開始までまだ期間はあるけど、この先のいくつかの話についてもストーリーを考えておきたい。
そんな矢先に玄関でベルが鳴った。そういえばロボットが今日届く予定だった。慌てて扉を開けに行く。
「商品のお届けに参りました」
宅配業者はにっこり微笑んで隣にそびえ立つ荷物を見上げた。二メートルほどあるその巨大な段ボールの箱は、これから持ち主となるわたしを見下ろしている。
うちの中に運び込み、床の上に何とか寝かせた。棺桶のように見えなくもないその箱には、「USRM」と、ロボットメーカーのロゴが書かれていた。
頑丈な包装を取り除いて、目当てのものはついに顔を出した。そこには男性の身体が横たわっていた。
思った以上に人間に似ていたので、顔が現れただけでびくっとしてしまった。
取扱説明書を読みながら、記憶チップやバッテリーなどの初期セットアップを行った。すべてが万全に整うと、電源を入れる用意をした。
「電源オン」
バッテリーをセットしてしまえば、あとはそう呼びかけてやれば勝手に起動すると書いてあった。
低い音楽が鳴った。胸の奥から転がるように響く音程で、音楽と呼べるかもわからない起動音だった。
「TK6181513T 起動します」
その目が開かれ、口を動かしながら言葉を発した。
最初はかすかに、だが振動がこちらまで伝わってきそうな、低い回転音が聞こえた。しかし、それもじきに聞こえなくなった。
「彼」の上体は、ふわっと浮き上がるように起き上がった。そしてゆっくりと立ち上がる。
「彼」はわたしの方を向いて喋った。
「マスター認証。永島ゆずきさんで間違いありませんね?」
「え?は、はい」
どうやらわたしの情報はすでに入っているらしい。まあ会員登録して買っているのだから当たり前か。
「TK6181513Tです。よろしくお願いします。タクトと呼んでください」
「よ、よろしくお願いします」
相手はロボットだというのに、思わず敬語を使ってしまった。
見かけは平均身長並みの青年。長くも短くもない髪形で、綺麗に整った顔立ちをしている。
服は最初から着せられたままで、グレーのシャツに黒のズボンを身に付けていた。
彼の発声や口調は非常に流暢だった。ただのロボットと違うだけでなく、人間以上に人間的で柔らかな声と言ってもいいかもしれない。
「まるで人間にしか見えないわね」
「はい、最近の人間型のなかでも特に最先端の性能を持つ型として開発されました」
「ああ、そう…」
まあ近頃は、人間と見違えるほどのアンドロイドも見るようになった。より親近感を持たせて、ロボットに対する感情を和らげるためにも、その外見は大いに役立っているのだろう。ただ、ほとんど変化を見せないその表情以外は。
さっきまでやりかけていた仕事を思い出したので、再開することした。
「じゃああたし、まだ仕事が残っているから…」
そう言って机に向かうと、タクトは聞いてきた。
「ゆずきさんのお仕事は何ですか?」
「漫画家よ」
「ということは、何か連載されているのですか」
漫画とか連載とか、どんなことまで機械は知っているのか。
「いや、今はまだだけど、もうすぐ始まるの」
「どのような作品をお描きになるのか、聞いてもよろしいですか?」
「ええーと…」
作品について人に話すことは少し気恥しい。でもよく考えたら相手はロボットなのだから、別に言ったって笑われることはないだろう。
「学園コメディものよ。兄妹でも親戚でもないのに顔がそっくりな男と女のキャラクターがいて…」
その先をうだうだと語ったが、ロボットの彼が、言葉足らずのわたしの話を、うまく捕捉して理解したかわからない。結局、既に仕上がっている一話目の原稿を彼に見せることにした。
読み終わって一言、タクトは言った。
「なるほど、とても興味深いお話しです」
興味深いってなるような漫画じゃなかったと思うんだけど。それともロボットの視点で何か気付いたことでもあるのか。
「すみませんが正直に言わせていただくと、私にはこういったものが面白いのかどうかということがわかりません」
「まあ、そうでしょうね」
「ただ、何度も見続けることで、人間が何に面白いと反応するのかを理解する、ということはできるかもしれません。そういったロボットの例は確認されています」
「いいわよ、無理にわかろうとしなくたって。漫画ってのは娯楽だから、頑張って読むものじゃないし」
そこでふと、気になったことができた。
「あなたって結構、あっさりと正直なことを言うのね。他のロボットならむしろお世辞を言ったり、褒めるたりするだけで、『人間の反応』とか『ロボットの例が』とかいう、ドライな言い方なんかしないと思うけど」
「お気に召しませんでしょうか」
「いや…むしろ正直に率直に言ってくれる方があたしにはいいけど」
「あなたが、そのほうがいいという方だという情報が入っていますから」
「情報って、誰がそんなことを言ったの?」
「あなたの実家で使われていたロボット、EN-4による記録からです」
わたしは驚き呆れた。
「昔のあたしの生活が記録されてたってこと?」
「もちろんUSRM社の規約に則ったとおりにです。会員制ですから、それぞれの顧客に合ったロボットにし、より満足度を向上させるために、あなたの性格的傾向を量った記録を私も共有しています。個人情報ですので絶対に露見させたりすることはありません」
もちろんそうじゃないと困る。
ため息がでた。つまり彼はわたしの性格をお見通しなわけだ。正直にはっきり言ってくれとは言ったけど…。
いや、知らなかったはずはない。わかっていたはずだけど、この手の会員登録の類は日常的に利用しながら意識していないだけだ。
ロボットと話す気も疲れて、彼に言った。
「じゃああたしはしばらく仕事するから、夕食の準備でもお願い」
「承知しました。なにかメニューのご希望はありますか?」
「えーと、なんでもいいです」
どうせ何でも作れるだろうし。ロボットの物覚えは便利なものだ。
しばらくして、台所から野菜を切る音が聞こえてきた。すとん、すとんと規則的に音が響く。
それを聞いていて、つい思ったことをタクトに言った。
「あの、別に作業している時まで人間らしくしなくていいから。効率よくやってくれた方がいいし」
「わかりました」
そう言うが早いか、即座にシュタタタタという音がした。見ると、思った通り、一瞬にして薄切りになった玉ねぎがまな板に並んでいる。
「うん、まあ、怪我はしないように」
「大丈夫です。正確に動きを合わせていますから。それに私の指は切れませんし」
ロボットは、誇った顔をするまでもなくそう言って、料理を続けた。
食事の味は十分満足だった。
テーブルにはわたしの向かい側にタクトが座っている。ロボットである彼の前には、当然食器はない。
彼はただ、こちら向きにじっと座っていた。何も動かず、ただじっとしているとき、やっと彼がロボットなのだと納得できる。彼には、人間の、いわゆるふらふらした動きというのが全くない。わたしが食べている間、瞬きぐらいしか動きらしい動きをしてないといってもいい。
その顔は無表情で、彫刻のように固まっている。満員電車の中でただ立っているだけなら、人間と全く区別はつかなそうだけど。
それでもやはり外見は人間なので、まるで人に凝視されているような気がして落ち着かない。見た目が機械の相手なら、こんなこともないはずなのに。
食事中は全く会話がなかった。わたしは沈黙が嫌いではない。しかし相手は今、食べることも、暇つぶしに携帯電話をいじることもせず、ただわたしが食べ終わるのを待っているだけなので、さすがに気まずくなった。タクトはそんなことを感じたりはしないだろうが。
「あなたは食べたりできないの?」
沈黙に耐えかねて、思わずこんなことを聞いた。
「食べるふりをするアンドロイドもいますよ。私にもできますけど」
唐突の変な質問にも、彼は顔を変えることなく答えた。
「食べるふりって、飲み込むの?」
「ええ」
「そしたらどうなるの?」
「どうにもなりませんよ。細かく砕かれて、後で取り除きます」
どうやって取り除くかは聞かなかった。腹を開けて取り出すのか、あるいは人間と同じ方法なのか。どちらにしても気持ちのいい話ではなく、ばかげた質問をしたことを恥じた。
「私も一緒に食べたほうが良かったですか?」
「うーん、どうなんだろう」
「あなたにとっては、食材を無駄にしてまで、人間のふりをする必要はないかと思いましたので」
「まあ、そうよね。だけど、あなただけ何もしてないのも変な感じで」
「おひとりで召し上がったほうがいいでしょうか」
「それはあなたに悪いし」
そう言いながら、相手がただの機械だということを忘れていた。
「料理はとても美味しかったわ。味がわかればあなたも食事を楽しめたかもしれないわね」
「そう言っていただき、光栄です」
彼はにこりと微笑んだ。それまで無表情だった美しい顔は、一瞬だけ、魅力的な笑みを見せた。
タクトのそんな顔を見るのがなんだか意外だった。奇妙な感慨にとらわれる。ほんの小さな微笑なのに、人間でも見ることのない魅力を感じさせた。さっきまで全く表情を表してこなかったからこそ、その笑顔は不思議なものに見える。
彼の顔は、いつの間にか真顔に戻っていた。いつも表情を出してさえいれば、もう少し人間らしく馴染みが出るかもしれないのに。
「どうかしましたか?」
あんまりじろじろ見ながら、ぼーとしていたので、さすがにタクトに呼びかけられた。どうやら、彼の顔に見とれていたようだ。
「なんでもないわ。ごちそうさま」
妙な話を思い出した。
アンドロイドと疑似恋愛に陥るケースの多くは、独身の者にみられるらしい。機械に恋愛感情はないが、主人の望みを察して、あたかもその気があるかのようにふるまったという。
わたしもしっかりしなければ。
ロボットとの生活はすぐに慣れた。
どんな形をしていても結局機械は機械だ。だから窮屈な思いをすることはなかった。
ある時のこと。
「お仕事の方は順調にいきそうですか?」
タクトと散らかった仕事場を片付けた後、仕事を始めようとしたところで、彼は尋ねてきた。
「まあ、それなりにはね」わたしは曖昧に答えた。
連載開始の時までは、ゆっくりと近づいてきている。
「あとはアシスタントが決まればだけど、どんな人たちになるかがちょっと不安なんだよねえ」
わたしもアシスタントの経験はあるが、以前の仕事場では、どうもぎすぎすした空気感が流れていた。人との関わりが得意じゃないわたしにとって、あまり良い思い出とは言えない。
「そんなことがあるのでしたら、何もここに呼ばなくても、ネットなどでやり取りをすればいいのではないですか?」
「あたしそういうの苦手なのよ。ただでさえ人に指示するのも大変だから、ネットでうまく伝えられる自信ないし」
「そういえば作業のやり方も、最新のペンタブレットなどをお持ちでありながら、基本的には手描き作業ばかりですね」
「ええ、デジタルで描くのがどうも下手だから。それはちょっとした手直しとか、背景作りとかに使っているわ」
わたしはタクトを見てぼんやりと考えた。彼は今のところ与えられた仕事を何でもこなしている。万能な家庭用ロボットである彼は、絵すら上手に描けたりするのだろうか。
「あなたは絵とかは描けるの?」
「絵をですか?」
「そう、自分の手で。ちょっと何か描いてみてよ」
そう言って紙と鉛筆を差し出してみた。
「何かと言われましてもよくわかりません。具体的な指定はありませんか?」
それもそうか。
「じゃあそこから見える景色とか」
もし彼が描けるのだったら、その絵がどんなものになるのか、少し予想が浮かんだ。
もし描けないのであれば、難しいリクエストだったかもしれない。
だが、彼は紙と鉛筆を受け取った。
タクトは鉛筆を持った手を、紙の上でひたすら前後や左右にすばやく往復させ始めた。右手だけでなく左手にも鉛筆を持って、その動作は続けられた。
みるみるうちに、紙の上に模様が刷り上がっていく。そこから、二階の窓から見える景色が浮かんできた。
全体の輪郭がはっきりし、細部まで綿密に描き込まれ、その絵は完成した。紙の上には、まるで白黒写真が写っているような鉛筆画ができていた。
「これじゃまるで印刷ね」
わたしは呆然としながら、出来上がったものを見た。
「画像とは直線の集合体ですので、鉛筆で描こうとすればこのようになります」
タクトは自慢げもなく言った。
「でもこれじゃあ、つけペンとかでは描けないわね。デジタルでやってもこの方法だと読み取れないでしょうし」
「デジタルで描くのなら、私の中のイメージを直接送り込んだ方が早いですよ」
「それは絵とは言わないでしょ」
「そうでしたね」と彼は言った。
「でも描き方を教えてくだされば、私もお手伝いすることができるかもしれません」
わたしはそれを少し考えてみた。
「漫画の絵を描けるようになるの?」
「ゆずきさんの描き方を真似できればですが」
それは面白そうだ。もし彼が漫画の技術を身に付けられれば、申し分のないアシスタントになるかもしれない。
「覚える気があるなら、教えてあげるけど」
「はい。これでお役に立てるなら」
こうして、わたしはロボットに漫画の描き方を教えることになった。
タクトの習得はとてつもないスピードで行われた。
彼は、わたしが絵を描き終えるまでの工程を、ひとつ残らず記憶に焼き付けて、完璧にその通りに再現するようになった。ロボットは、最初のうちはそうやってわたしの描いたものをコピーするだけだった。
彼にはペンの種類も教えたが、結局使い分ける感覚がわからなかったらしく、一つの絵につき、ずっと同じペン先を使っていた。また、タクトは全く新しいものを描くことはできないようだった。何度も描いていたわたしのキャラクターでも、再現じゃなく新しく描いてと言うと、彼は戸惑った様子を見せた。
やっぱり、ロボットに人間のような創意工夫を求めるのは難しいのかと思った。
でも彼は、わたしの過去作や漫画の設定画などもじっくり読むようになり、ひたすら何かを描き続けるようになった。
そしてある時、彼は一枚の絵を見せた。
「どうしたのこれ?」
タクトは静かに言った。「ゆずきさんが前に描かれたラフスケッチを、丁寧に清書するとこんな感じになるかと思って描いてみました」
その絵の構図は、もともと私がイメージをつかむために描いていた、落書きのものとそっくり同じだった。
わたしは信じられない気持ちで聞いた。
「この絵、あなたが一人で描いたの?背景まで?」
「はい。背景の場所については、この場面に最もしっくりくる場所を、あなたの既に描かれた漫画の中から予測して作り上げました」
「この表情や、服装もあなたが自分で考えたの?」
「表情も、下書きの絵と一致しそうな顔を、キャラクターの感情傾向から推測して描きました。服装はあなたの漫画から選んでいます」
どういうやり方なのかは全然わからなかったけど、わたしは心を奪われたようにその絵に見とれた。これはまるで、自分が理想とするイメージそのものでもあった。わたしならこのように描きたいという想像をほぼ完璧に体現している。
「ほんとにすごいわね。これなら立派な漫画家になれるわよ」
「私に想像力があるわけではないので、それは無理かもしれません」
「でも本当にアシスタントならできそうね」
「ええ、何でも指示してくだされば、お手伝いすることができると思います」
タクトに、試しに連載用の原稿を何枚か渡してみた。まずベタ塗りをやらせてみると、難なく仕上げた。効果線を描くことも、スクリーントーンを貼ることも、ペン入れや背景描きまで、ほぼすべて、わたしの望んだ通りにこなせるようになっていた。
しかもそのスピードは極めて早かった。彼が絵を描き始めてから、まだ三日しかたっていないというのに、一本一本の線は丁寧に、それでもあっという間に作業を仕上げていった。
このようにして、タクトはアシスタントの仕事を当たり前のようにこなしていくことになった。ロボットに適えば作業の効率と正確さは人間以上に発揮できるのだろう。
おそらく頼めば、キャラクターの描画までできてしまえると思う。だけどさすがに、自分の描くべきところは、できるだけ自分でやるようにした。そうでないと、自分の漫画である意味が消えてしまいそうだ。
いつの間にか、人間の漫画家であるはずのわたしは、タクトのように描ければいいのにと思うことも、しばしばあった。望んだイメージを狂いなく正確に形にし、質を落とすことなく素早く完成させられるのが、漫画家としては羨ましい限りだった。
「ロボットにアシスタントをやらせるって、本気ですか?」
担当編集者の亜木は、信じられぬという面持ちを見せた。
「はい、そうしようかと」
「ロボットが絵なんか描けるんですか?」
「ええ、すぐに描けるようになりました」
「でも、漫画家の仕事みたいな複雑な仕事を、ロボットなんかがこなせますかね」
「大丈夫です。むしろ、人間以上の素早さと正確さで仕事をこなしていますよ」
亜木は眉を寄せた。
「ロボットが漫画家みたいな絵を描けるっていうことですか?」
わたしは軽くうなずいた。
「うちのロボットはそれができます」
「本当にそうなら、そのロボットおかしいんじゃないですか?」
予想外の返答に、わたしは困惑した。
「何もおかしくはないですよ」
「いや、だって…」彼は少し口ごもって言った。「ロボットらしくないじゃないですか。自分で勝手に何かを描くなんて」
「指示は出してますから、勝手じゃないですよ」
「そうじゃなくて…」
亜木は難しそうな顔を作った。
「漫画描くなんて、人間でもセンスがないと難しいのに、ロボットにそんなセンスがある方が変な気がします」
「性能のいいロボットならあるんじゃないでしょうか?」
わたしも自分でもよくわからないまま言った。
亜木は疑うような様子を見せた。
「変なロボットか、やばいロボットなんじゃないですか?」
「そんなことはないですよ」
確かにタクトは、漫画の絵描きについては、彼なりの創造力とセンスを持ち合わせていると思った。そうでもないと、無感情なはずの機械が、自分で考えて何かを描くことなんてできないはずだ。それができるタクトは非常にユニークなのだろう。
「逆に得体が知れなかったりしませんか」
「大丈夫ですよ」
「急に何か起こるんじゃないですかねえ」
それは無意味にロボットを怖がる、フランケンシュタイン・コンプレックスというやつでは?ロボットが人間を傷つけることは、プログラムの根底から不可能ということにしているらしいのだから、そんなことを恐れるのは迷信的といえる。人に反抗するどころか、危険を防ごうとするくらいなのだから。
亜木は笑みをこぼした。
「まあちょっとは冗談ですけど」
あらそうですか。
「だけどそれ、これからもずっと続けられるんですか?受け取った原稿はなかなか良かったですし、あれの一部をロボットが仕上げたなんて、それはすごいですけど。これがいつまでも続くんですかね」
「大丈夫なはずです。彼は技能がありますし、仕事は早いですし」
「まあ、毎回この調子で原稿を仕上げてくれれば、言うことはないですよ」
そして、わたしの漫画の連載が始まった。
アシスタントは誰一人としてつけなかった。ロボットを数に入れるなら、タクト一人だけということになる。
連載の出だしは順調だった。タクトのおかげで、仕事は滞りなく進んだ。彼は上手に仕上げるだけではなく、作業の連携も取りやすかった。彼はいつも、わたしの指示を正確に受け取り、タイミングよく作業を仕上げる。
前に読んだことのあるロボット心理学の本にこんなことが書いてあった。高度なロボットは、常に人間を観察し、自発的に人間の望み通りに動こうとすることがあるらしい。タクトは、わたしの描き方や漫画を見て、隅々まで分析をしたから、わたしに合わせた描き方ができるのかもしれない。
最近では、彼は他の作家の漫画も読むようになった。本棚に置いていた漫画を読んだりしたり、わたしにおすすめの漫画を聞いてきて、電子書籍を探したりもした。よりわたしに合った良い作画をするために、技術をアップグレードして高めているんだとか。
タクトは普段の家事をするだけでなく、わたしの仕事も手伝うという、割とハードワークをこなしているので、彼の疲れがないか心配になった。それに対して、
「すり減るような仕事ではないので、疲れるほどのことはありません」
と、彼は平然と返した。
わたしの方も、彼に対する信頼度は増してきた。人間でも大変なような作業でも、安心をもって頼むことができたし、ストーリーに行き詰まると、とっさに彼に相談に乗ってもらったりもした。
そして連載の調子はすこぶるよく、わたしはこの仕事生活をなんだかんだ楽しんでいた。
ある時、わたしは急に体調を崩して寝込んだ。原因はインフルエンザらしい。いい年してこんな目に遭うなんて情けない。
意識が朦朧として、気分が悪く、頭も体も全然働かなかった。医者にも、そしてタクトにも、絶対安静にするように言われたので、ずっと寝続けるしかなかった。
その状態が何日間か続いたある時、すでに締め切りがかなり迫っていることに気が付いた。残り時間は少なく、体調も戻っていないのに、まだできていないページが多く、ネームも決めていないところがあった。締め切り時間を少し伸ばしてもらったぐらいでは、とても間に合わない。
今更遅いけど、編集者に連絡して事情を話さないと。もう、今回は休載にしてもらうしかない。わたしはよろよろと起き上がって、電話を探した。
「どうしました?何かありましたら私がやりますから、ゆずきさんは寝ていた方がいいですよ」
タクトに呼び止められた。
彼のわたしへの看病は非常によくやってくれていた。医者に連れて行ってくれたり、着替えを用意してくれたり、スポーツドリンクを買ってくれたり、おかゆを作ってくれたりなどと、いろいろ助けてくれた。少し過保護気味になったくらいだ。
「もう締め切りに間に合いそうにないから、亜木さんに電話しなきゃいけなくて…」
「でしたらその必要はありません」
「え?」素っ頓狂な声が出た。
彼は穏やかに言った。
「漫画の原稿ならもう仕上がっています」
まだぼーっとしていたわたしの頭は、言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
「どういう意味?」
「この通り、すべて描き上げました」
タクトは漫画の原稿用紙を見せた。そこにはわたしの漫画が描かれていた。
大きな衝撃が頭の上にゴーンと降ってきた。このネームはわたしが描いた覚えがない!
「こっ、これって、どういうこと?」
「掲載分の残りのページを、すべて私が描き上げました」
わたしは彼から原稿をひったくると、すべてのページを一枚一枚、そして焦りを追いかけるように手早く見回した。
最初の方はわたしが自分で描いていた漫画だった。でも途中から、絵は確かに私の絵柄なのだけど、筋書きは全くの知らないものになっていた。ちょうどわたしが寝込んでから、全然手を付けてないあたりからだった。
「ここから…、あなたが描いていたの?全部ひとりで?」
「はい、そうです」
「でもストーリーは?ここからのところ、あたしはネームも描いてないし、考えてなかったのよ」
「それも私が考えました。ゆずきさんがよく私に相談している話をもとに、キャラクターが今後どのように動けば、ストーリーにしっくりくるかを自分で推測してみました」
しばらく間があった。わたしの頭が理解に追いつくのには、まだ時間が必要だった。
やがて、タクトが口を開いた。
「私が勝手に描いたことは申し訳ありません。お仕事をお助けできるかと思ったのです。今の原稿に、お気に召さない点がございましたら、おっしゃってください」
わたしは手に持った原稿をぼーっと眺めていた。
「漫画の内容は全然悪くないわ。むしろとてもよく合ってるぐらいよ」
「それはありがとうございます」
「でもこれ…!」
何かを訴えようとしたけど、言葉が続かなかった。
原稿には何一つ悪いところはなかった。いい話の収め方だったし、わたしだったらこうするだろうと思えるくらいだ。これからの展開にも、悪い影響をすることはない。
でも彼の漫画は…、そう、「彼の」漫画なのだ。いくらわたしの描く通りに描かれていても、これはわたしが描いたものではない。
ロボットは相変わらず落ち着いた顔で、わたしの反応を待っている。
彼には何の悪気もない。むしろ主人のために考えて、最善の行動をとったのだ。実際わたしは、このまま締め切りに間に合うし、これから描く上でも何の問題もない。悪いことは何一つないのだ。
言ったことは一つ。
「ありがとう。助かったわ。でも今後は事前に言っといてね」
「了解しました。お役に立てて良かったです」
そのときの原稿は、通常通り雑誌に掲載された。担当編集者には、ロボットが途中から作っていたということは言わなかった。
事実がばれるのが怖かった。誰か鋭い人が、編集者や、読者が、途中で本当の作者が変わっていることに気が付くかもしれなかった。
でも誰も指摘してくる人はいなかった。担当も、違和感を見せる素振りはなく、普通にオーケーを出していたし、知り合いに感想を聞いても、普通に面白かったよと言われた。
安堵と同時に、もやもやとした感覚が降りてきた。自分が描かなかった罪悪感だけではなく、自分の漫画が自分の手から離れていったような感触がある。
彼に盗られたと思っていたのだろうか。しかし、ロボットが盗ろうなんてするはずもないことはわかっていた。
ただわたしの漫画は、機械にも作れるという事実をはっきりと見てしまったのだ。
体調は良くなっても、気分がしばらく重いままだった。
ネームを描こうとしても、全然しっくりくる話が出てこなかった。考えようとしているだけで、どんどん時間が過ぎていくばかりだ。今まではこんなことはなかったのに。
搾り出したアイディアはつまらないものばかりで、今まで通りの調子のストーリーにするには、どれも今一つになってしまう。なにか一場面でも想像して、イメージを描いてみようと思ったけれど、それもうまくつかめない。
完全に行き詰まってしまった。
これは、前回タクトが話の締めを勝手に作ったせいで、その先の展開が進めづらくなったというわけでは、絶対にない。彼の描き方は完璧だった。むしろ理想的だったとも言える。
でも、今わたしが描けそうな気分でない原因は、タクトのことが引っかかっていたからではあると思う。あれから、ときどきふと、この漫画はわたしが描かなくても成り立つんじゃないかと、考えるようになってきた。その心の揺らぎが、作品を考える力を妨げているのかもしれない。
「ストーリーに行き詰っているのですか?」
なかなか話が決まらないわたしに、さすがにタクトも不調を感じ取ったらしい。
「そう、なかなか思いつかなくて」
「では、わたしの方に案があります」
タクトにアイディアなんてできるのかと思ったが、病気の時に、彼に話作りの力まであることを見たのを思い出した。
「ちょっと前に触れた、マキヤの妹の話についてはどうでしょう。この間のサヤの話の後にもつながりますし、いいタイミングだと思いますよ」
「それで、具体的にどんな話にすればいいの?」
「私が少々考えてみたネームがあるのですが」
わたしは少し顔が引きつった。もう既に考えていたとは。
「いいわ、見せてみて」
タクトは私のパソコンを少し操作した。直後に、パソコンが何かを受信したらしい。おそらく、ロボットの電子頭脳から何かデータを送ったのだろう。彼は、ファイルを開いて画面に映し出した。
そこには、ハンコ絵のように簡略化はされているものの、キャラクターがセリフをしゃべり、コマ割りされた画像が現れた。
「私なりにイメージしたネームです」
タクトは、誇る顔も浮かべずに、わたしに画像を見せた。
ネームは一話分、丸々話を完成させていた。ストーリーについては、まったく言うことが見当たらなかった。なにしろ、以前の話と被ることなく、いつものようなわたしの作風がそこにはあったからだ。
「す…すごいわね…」
他に何を言えば良いか、出てこなかった。
「今回の掲載分としては使えるでしょうか」
たぶん使える。この話で描いても、誰もが、いつも通りわたしが考えた話だと思うだろう。
「そうね、じゃあこんな話で描いていこうかしら」
「分かりました。早速取り掛かりましょう」
タクトは主人に対して、にこりと微笑んだ。
なんだかもう、何も考えたくなかった。
わたしはとにかく、タクトのネーム通りに描き進めていった。自分のネームを原稿にしていくときと、何ら変わらなかった。
だけど今のわたしは、もはやただの作画担当だ。それも作画の仕方は、タクトの方がよっぽど早くて安定している。そのタクトは、ストーリーを完全に一人で作ってしまった。もうこの漫画における、わたしの立場が分からなくなってしまった。
「いやー、今回もいいですねえ」
担当編集者の亜木は原稿を眺めて満足そうだった。
「連載始まる前は、ロボットをアシスタントに使うとか言われて、どうなるかと思ったけど、あれからいつも絵も話も安定して出来が良いですから、さすがですね永島先生」
「いえ…」
まさかほとんどをロボットが作ってしまうようになるとは思わないだろう。
「じゃあそのロボット君にもよろしく言っといてください。また次回もお願いしますよ」
亜木は原稿を受け取り持って行った。
わたしに何か言えることがあっただろうか。いや、もう何とも思えなかった。
わたしの中にあったはずの大事なものが、いつの間にか搾り取られたように思える。物語を描こうとしてもけだるくなって、片鱗すらも思い浮かべなくなってしまった。
そして今回分もまた、タクトが話を作ってしまった。
タクトが自分のネームについて説明するのを、わたしは心ここにあらずといった状態で聞いていた。
このやり取りも一体何度目だろう。今やタクトがストーリーの作者で、わたしは作画を手伝っているだけに過ぎない。この漫画はもう彼の漫画だ。きっとわたしがいなくたって、彼は最初から最後まで、一人で仕上げられるだろう。
ロボットとは、人の代わりに仕事をするために生まれたものなのだから。
タクトを見た。彼の顔。主人に向けられた優しい整った顔。あくまで自分の役割の一環として、仕事を手伝おうとする顔。
そのポジトロン式電子頭脳には、どこまで、出来る限り主人への奉仕に尽力するように、プログラミングされているのだろう。わたしの、漫画を描くという唯一のアイデンティティを奪ってまで、わたしの役に立とうと思っているのか。
おかげで、わたしは何もしなくてもよくなる。何もしなくても生きていける。そして、ずっとずっと空っぽのまま、その人生には何も「無い」。
怖くなった。そしてわたしの中で、何かが大きく吹っ切れた。
取り戻さなければいけない。取り返さなければいけない。目の前にいる、この善意の機械から、わたし自身を。あれはわたしからすべてを奪おうとしているんだ。このままだと抜け殻にされてしまう。
「もうやめて」
最初はか細い声が出た。
次にはっきりした声が出た。
「もうあたしの仕事に触れないで」
タクトはわたしの言葉に振り向いた。
わたしは相手に突き進み、顔を近づけた。機械の、あるかもわからない魂の奥底に響けというつもりで、目をのぞき込んで言った。
「命令。電源オフ」
その瞬間、彼の顔は硬直した。そして、くるりと向きを変えて部屋を抜けていった。行った先には、寝台のような充電装置があり、その上に身を横たえて動かなくなった。
わずかな回転音がしたが、それもすぐ止み、やがて家中に静寂が流れた。
しばらくの間は仕事に手が付かなかった。それでもやっと、タクトの残したネームを使って、時間をかけて一人でその一話を完成させた。
話作りの方も、少しずつ自分でまた考えられるようになってきた。
そして次からは、アシスタントを雇い始めることにした。物分かりの良いタクトとは違って、人間相手に指示を出すのは大変だと改めて実感した。それでも仕事は滞りなく進められていくようになった。
わたしはもう、本来のやり方で仕事をする普通の漫画家だ。ロボットを使って描くという斬新な方法をとっていたことは、結局、担当の亜木にしか知られていない。タクトがいなくなってから、わたしの作品は画力が落ちたと言う噂も聞いたような気がした。それでもわたしは自分の力で、本来あるべき描き方になれたことにほっとしている。
そんなはずだったのに、自分の気持ちは未だどこか上の空だった。
アシスタントと仕事以外の話をすることはほとんどない。仕事が終われば彼らは帰り、わたしは家に一人きりになる。仕事の作業、日常生活の合間で、タクトだったらどうしただろう、何を言っただろうと思うことがしばしばあった。
結局わたしは、彼との生活にどっぷりとした安心感を得てしまっていたのだ。わたしの中で彼の存在は思ったよりも大きかったらしい。弱い自分は、タクトの、作られた優しさにでさえ心を預けていた。それがなくなってしまった今、わたしは心の預け場所を欲してしまうようになった。
彼をもう一度起こしてみようかと思った。けれど彼が現れると、わたしは再び彼に依存してしまいそうだ。彼はまた当たり前のように仕事を手伝おうとするだろう。わたしは自分のためにタクトを消したのに、寂しさに負けたからまたすぐ呼び戻すなんて、相手がロボットとはいえ身勝手すぎると思った。
それでももう一度彼に会う正しい理由を考えていた。タクトに会いたいのなら、最初に起動させた時のように、彼にひと声かけて電源を入れさせればいい。あれはロボットなのだから、悩む必要なく、さっさと電源を入れるなり消すなりすればいいはずなのに。
そうして、タクトを起こすか起こさないかの押し問答を自分の中で繰り返しているうちに、彼がいなくなってからかなりの間が経過していった。
ふと、タクトのことを思い出し、あれから数カ月は経ったかと思う時のことだった。タクトはあの時、どんな考えをしてあのようにしていたのかが急に気になった。
自分の仕事をやらせるという、使い方が悪かったのか、おとなしく何でも任せてしまえば良かったのか、何ともわかりかねなかった。
USRM社のロボット製品相談所に聞いたところ、タクトのような事例はこれまで起きたことはなかったらしい。自分でアイディアを出して、漫画を描いたロボットなど前代未聞だそうだ。これはタクトが、ある種の異常なロボットだったと意味しているのだろうか。
ちなみにそのとき、会社から、タクトを引き取って代わりを用意すると申し出されたが、断った。
タクトは今も物置のような部屋の一隅で眠り続けている。埃がかからないように上からカバーが掛けてある。
カバーをかばりとめくり上げた。タクトの整った顔が、下に眠っていた。数ヶ月の間、顔も体勢も変わることなく横たわっている。まるで死体か人形のように思わせた。
わたしは顔を近づけ、文字通り、死体に息を吹き込むように呼び掛けた。
「電源オン」
低く、転がるような音程の起動音が鳴った。目が開かれ、最初に点けた時と同じ言葉をしゃべった。
「TK6181513T 起動します」
タクトはゆっくりと起き上り、そしてわたしの方を向いた。
「永島ゆずきさん」
「久しぶり。タクト」
「お久しぶりです」
こうして話すのはいつぶりだろう。もう長いことタクトの声を聴いていなかった。
まず何から話せばいいのか。タクトには言いたかったことや聞きたかったことがあったはずなのに、急に彼を見てしまって、軽く動揺してしまっている。
「ゆずきさん、私は…」と、タクトの方から口を開いた。「なぜあの時電源を切られたのか分かりませんでした」
彼の方から単刀直入に切り出された。
「え、ええと…それは…」
なんだかすごく気まずくなる。
タクトは続けた。
「そこで私の方に、ゆずきさんに対する不備があったのではないかと考えました」
「不備とかそういうのじゃあなかったんだけど…」
「それはわかりました。私のサポートは確かに常に完璧でした」
彼はきっぱりと言い放った。
「ですが、それはゆずきさんの手間を省くという点においてというだけでした。私は、活動を楽に効率よくしていくことが、人のためになるのだと認識していました」
それはそうだろう。ロボットは人の仕事を楽にさせるためのものなのだから。
「ですが、このことは必ずしも、あなたにとって正解ではなかったのではないかと思うのには、時間がかかりました」
タクトは自分の頭を指差した。
「私の電子頭脳は、電源を切っても一部分だけアップデートのために動き続けているんです。そこでゆずきさんが電源を切ってからの間、ずっと考え続けていました」
わたしは目を合わせずに、黙って彼が喋る言葉を聞いていた。
「私は、漫画を描くことはゆずきさんにとっての重要なライフワークであるということを、まったくわかっていませんでした。私はゆずきさんの仕事を奪っていたのです。人には、何かしら生きがいとすることがあるはずだったのに」
人には?タクトはまるで、人がどういうものなのかを、もとから知っていたかのような口ぶりで話す。わたしにだって、あの人はどんな人間だとか、ロボットはこう考えるものだとか、結局はわからなかったというのに。
「知ったようなことを言わないでよ。あなたがあたしの何を知ってたっていうの?人の何を分かってたっていうの?所詮ロボットのくせにわかったような顔をして!あとから分析すればあたしの心を理解したつもり!?」
気が付くと、石を投げつけるように言葉が飛び出していた。
ほんの束の間、静かな沈黙が二人の間に流れた。
「すみません」
タクトは声を低くして謝った。それが妙に人間臭く感じさせ、わたしは声を上げたことに恥と罪悪感を持ちそうなったが、これもまたこの機械が見せる技だと考えて、それを振り払おうとした。
それからもロボットは淡々と続けた。
「私は今でもゆずきさんのことを理解してはいません。生きがいというものも、辞書にある言葉でしか知りません。漫画の仕事はゆずきさんにとっての生きがいなのだと気付いたのも、結局のところ推測でしかありません。わかったところで私にできることは、ゆずきさんの手間を省かせるということだけなのですから」
「でもその手間を省くためなら、あたしよりもいい漫画だって描けるんでしょ。その方がいいのかもしれない。あたしみたいな不安定な人間が描くよりも、人の心を予測して、確実で、効率よく描けるあなたが描いた方が」
わたしはふっと息を吐き出した。その息は震えていた。
「だからやっぱりあなたのしていたことは正しかったのかもしれない。それをあたしは嫌だったから、あなたの電源を消した。でもやっぱり寂しかったからまた電源を付けた。結局あたしってただのわがままね」
タクトは一歩近づいた。彼の、なだめるような静かな声が流れた。
「あなたが気にする必要はありません。私はただのロボットであり機械です。
ですから、あなたよりも優れた漫画なんて描けるはずもありません。私はただ、人が何に面白いと感じるかを知って、それを物語の中に取り込んで、あなたの真似をして描いていただけに過ぎません。このまま私が描いていたとしても、同じものの繰り返しになるだけです。やはりゆずきさんの漫画をこれ以上面白くできるのはゆずきさんしかいないでしょう。
私のことは気にしないでください。なにかさせたい時だけ申し付けて、頼りたいときに頼ってくだされば結構です。そのときはできる限りの尽力をします。どのくらいお助けすればよろしいのかは、これから知っていきたいと思います。不要であれば電源を消していただいてもかまいません。あなたの意志を損なうことなく、お役に立てれば幸いです」
どこで覚えたのか、ロボットのくせに達者な言葉で安心させようとする。でも、わたしは気づけば彼の肩にすがってすすり泣いていた。
時計の音、扇風機の音、パソコンの音。周囲の機械の音だけが静寂の中で響いているが、タクトからは音を感じなかった。
あれ以来、タクトが漫画の手伝いをすることはなくなった。アシスタントは数人の人間に任せ、ほとんどはわたしが描くようにしている。
わたし以外には描けない、わたしだけの作品になっているかはわからない。タクトは、その気になればすぐにわたしの漫画を真似することができた。今だって、これからだってそうかもしれない。
わたしはタクトの存在に安堵し、タクトの技量に嫉妬した。ロボットは人に安心をもたらしてくれるが、いつか、ロボットが漫画まで描くようになったとき、漫画家は嫉妬しているばかりではいられない。