193 大魔王の帝都訪問3
大魔王橘をはじめとする一行は帝国との懸案についての話を終えて元哉以外は控室で休息を取っている。現在元哉だけは宰相や軍務大臣と引き続き安全保障に関する協議を行っている最中だ。さくらは当然のような顔でメイドが運んできた軽食の3回目のお代わりを実行中だ。まだこの程度では彼女の腹の虫は到底満足するには至っていない。軽食なのにこれだけ食べると、それは最早『軽食』とは呼べないのではないかと危惧する声も部屋の一部から聞こえてくる。
帝国のお偉方との対面を終えたロージーはゲッソリとした表情でソファーにもたれ掛っている。根っからの庶民の彼女にとっては、非常に緊張する席だったのだろう。しばらくは声も出したくないような有様だった。
そこへ部屋のドアをノックする音が響く。橘お付きのメイドがそっとドアを開くとそこには小さな姿がたった一人で立っていた。
「皆さんおくつろぎのところ失礼します。お邪魔してよろしいでしょうか」
先ほど謁見の間で紹介されたまだ幼い皇太子が伴も連れずに一人でひょっこりとやって来たのだった。
「どうぞお入りください」
橘は笑顔で小さな賓客を迎え入れた。その姿を見たロージーは慌ててグデーっとした態度を改めるが、その様子に皇太子はクスリと笑って『どうかそのままで』と声をかける。だがいくら本人に『楽にしてくれ』と言われても、皇族の前でみっともない姿を晒す訳にはいかず、再びロージーの緊張の時間が始まった。
「皇太子様はいかがなされましたか?」
橘はその伴も連れずに訪問した目的を尋ねる。今頃さぞかし皇太子の近習は慌ててその姿を探しているだろうと想像して自然と笑みが零れた。
「実は僕はまだ色々と勉強中で政治に関することにはまだ全く触れていないので割と時間の余裕があるんです。せっかくの機会に皆さんのお話を聞いておこうかと思っておくつろぎのところをこうして訪問させていただきました」
これから多くの事を吸収していく年齢の皇太子は橘やさくらから将来に役立つ話が聞けないかとわざわざやって来たようだ。
「まあ、勉強熱心な皇太子様ですね。どのようなお話をいたしましょうか?」
橘は彼に諭すような態度で皇太子に問われるままに自らの経験の範囲で治世に関する話を始める。その先進的な政治姿勢に皇太子は目を丸くして聞き入っている。特に西ガザル地方の街の代表を住民の選挙で選ぶなど、この世界でもおそらく初の試みに非常に興味を示していた。
橘から一通り話を聞き終えた皇太子はさくらに向き直る。
「さくら様は獣人を統治するにあたって、心掛けていることはありますか?」
目の前で話しかけている皇太子を前にしてさくらは当然のようにその言葉を聞いてはいない。さっきから夢中で目の前の食事をせっせと食べ続けている。
「さくらちゃん、皇太子様からご質問ですよ」
ディーナから脇腹をつつかれてようやく我に返ったさくらは『一体何事?』とキョロキョロと周囲を見渡して、ようやく皇太子がそこに居ることに気が付いた。
「なんだトレ君来ていたんだ! それでなんだっけ?」
全くまだ子供とはいえこの世界最大の帝国の皇太子に対して・・・・・・ いやこれ以上はやめておこう。
「さくら様が獣人を統治するにあたって心掛けていることを教えていただきたいのですが・・・・・・」
さすがにこのような対応を受けた経験が無い皇太子は苦笑いを浮かべて改めて質問を繰り返した。全く子供にここまで気を遣わせるとはどういう神経をしているのだろう。
「ふむふむ、いい質問だね! ところでディナちゃん、『統治』ってなに?」
今度こそ皇太子はひっくり返った。何とも子供らしい可愛いリアクションだ。だが今までさくらに抱いていた彼の中のイメージがこれによって大きく音を立てて壊れていく。
「さくらちゃん、『統治』というのは政治を行うという意味ですよ」
ディーナは彼女の脳内に存在する『さくらでもわかる国語辞典』の引用で彼女が理解できる言葉で説明した。もうこれで分かってもらえない時は橘を頼るしかない。
「なんだそういう事か! 私は獣人のみんなから愛される王様だからね! みんなと仲良くすればいいんだよ!」
確かに獣人の森ではその通りかもしれないが、果たして皇太子が求めた答えとして合っているのだろうか? だが、さくら本人は自信満々の様子だ。
「なるほど、確かに国民から愛されるのは大切な事ですね。勉強になりました」
どうやらギリギリ答えとして合っていたらしい。果たしてどこまで彼の将来に役立つかは全く保証できないが。
その後も様々な質問を投げかけられて、さくらによる珍解答も多々あったが、皇太子は満足した表情でこの後の舞踏会での顔合わせを約束して自室に戻っていった。
「勉強熱心なのはいいですが、あまりさくらちゃんの意見を参考にはしない方がいいのではないでしょうか」
ディーナは心配そうな表情で皇太子の後姿を見送っていた。誰よりもさくらのいい加減さを知っている彼女ならではの気遣いだが、それはこの部屋に居た者全員の共通認識でもあった。
時は過ぎて城の最も大きなホールでは着々と舞踏会の準備が整えられていく。忙しく働きまわるメイドや給仕の姿に混ざって、すでに招待客の姿もちらほらと見掛けられるようになってきた。時間が経つにしたがって、着飾った貴婦人やそれをエスコートする紳士の姿がホールを埋めていく。今回は皇帝の代理の皇女が主催する同盟国の元首をもてなすこの国最大級の舞踏会だ。この場に招待されてだけでもその人物にとっては最大の名誉と受け止められている。
集まった彼らは知り合い同士で固まって歓談の時間を過ごしている。そのもっぱらの話題は大魔王の事と先日その地位に就いたばかりの皇太子の事で占められていた。だがそれとは別にもう一つ特に上位の貴族たちの話題に上るのは、今夜の舞踏会で皇女が誰と一番最初にに踊るかという事だった。特に結婚適齢期の男子を持つ貴族たちの間では、まだ婚約すらしていない皇女の気持ちを引き付けることが出来れば大変な権力がその手に転がり込んでくるのだから誰もが必死だった。
高位の貴族たちの入室を知らせる触れの声が響くたびに、ホールの中は華やかなムードが広がっていく。そしてすべての招待客が集まったのを待っていよいよ皇族と今夜の主賓の入場が告げられた。
最初に登場したのは元哉にエスコートされた皇女アリエーゼだった。これは彼女のたっての希望で実現した皇女にとっては夢のようなひと時だった。元哉は紋章を取り外したこの国の騎士の礼服を着用して真面目な顔で皇女の手を取って静々と歩く。手を引かれた側の皇女は頬をバラ色に染めてウットリとした表情だ。その蕩けそうな表情の前にはこの日のために用意した純白のドレスも霞んでしまいそうだった。
一旦皇女を席までエスコートした元哉は再び部屋の外の出て、今度は橘を音楽に合わせてその手を取りながらホールに導いていく。その後ろには皇太子に手を取られたさくらが続き、さらに元哉の婚約者軍団が続々と入場する。
この姿を目撃した貴族の中には早々と皇女の気を引くのを諦める者が出た。彼女をエスコートした存在が誰なのか知らない世情に疎い者だけが訝しむ表情で『あれは一体誰なのだ?』と元哉の素性を周囲に尋ねている。
入場が無事に終わると帝国を代表して皇女の挨拶が始まり、続いて橘の謝辞が述べられる。更にこの日初めて社交界にデビューした皇太子の紹介が行われて、いよいよ乾杯の時間だ。この瞬間を待ち侘びていたさくらは中央のテーブルに一直線に突入して、皿に山盛りの料理を載せて勢いよく食べ始める。彼女は『ご馳走が待っている』という橘のささやきでこの舞踏会に参加していたので、心往くまで料理を食べ尽くす所存だ。他の事は一切眼中にはない。
あちこちでグラスを手に歓談している貴族たちの笑い声が響く中、楽団による心地よい演奏が始まる。
「すまん、橘。約束だから行ってくる」
元哉は隣に居る橘に断わってから、皇女の元にやって来て手を差し伸べる。だがその表情はちょっとしたサプライズを準備した表情だ。
「アリー訓練生、一曲踊っていただけませんか?」
紳士的な元哉の態度だが『アリー訓練生』と呼ばれた皇女は目を丸くして元哉を見つめている。その胸の内にあの苦しくも今では楽しい思い出の元哉の訓練の日々が蘇って涙が零れそうななったのをぐっと堪えて微笑む。その笑顔は皇女としてではなくて、今の一瞬だけ個人としての自分に向けられた元哉の誘いに心からの喜びを表していた。
「もちろん喜んでご一緒させていただきますわ、元哉教官」
最後は少しイタズラっぽい笑い顔になったアリエーゼは心に秘めた思いを胸にそっと元哉の手を取った。
演奏に合わせて踊りだす二人、元哉のリードに身を預けてアリエーゼは心から幸せを噛み締めている。『この時間が永遠に続けばいいのに』と心の中で願い続けている。だがその願いとは裏腹に最初の曲はすぐに終わりを迎えた。
「教官、もう1曲いかがですか?」
自分に許されたささやかな幸せの時間を惜しむように皇女は元哉にアンコールをねだっている。黙って頷いた元哉は再び彼女の手を取って曲に合わせてリードを再開した。
そしてそのアンコールがもう間もなく終わろうとしたその時、元哉の耳元でアリエーゼがささやく。
「教官、私の一生のお願いです。どうかこの私を娶って下さいませ」
皇女の仄かな思いは感じていたものの、いきなりの彼女からのプロポーズに一瞬元哉は声を失う。何とか曲が終わるまでに精神を立て直した彼は今度は逆に皇女の耳元でささやいた。
「その話はあとでゆっくり話し合おう。殿下に恥はかかせられない」
その言葉が意味するところがもう一つ理解出来なくて不安な表情を浮かべるアリエーゼだが、元哉は彼女の頬に手を添えて『そんな心配そうな顔をするな』と一言告げて席に送り届ける。
夢のような時間が終わってもその頬に添えられた元哉の手の温もりと感触を思い出してその美しい顔を赤らめるアリエーゼ。そこに居るのは最早帝国の全てがその肩に載っている彼女ではなくて、去っていく後姿の元哉の事以外は一切考えられない年相応の一人の娘の姿だった。
次回の投稿は水曜日の予定です。