177 森の刺客
前方に陣を構える獣人たちを監視していた斥候部隊に本隊が追いついて合流する。その先鋒は盾を構えて一気に押し潰そうと前進をするが、その様子に気がついた獣人たちはまたしても散り散りになって逃げ惑っていく。
「見ろ、あの臆病な様子を! 我軍の本当の姿を見ればヤツらは逃げるしか能が無いのだ!」
勝ち誇ったような教国軍の将兵の声が上がる。彼らはこれが罠とも知らずにそのまま逃げ惑う獣人たちの姿を森の奥深くまで追いかけていった。
それに対して獣人たちは事前の演習通りに非常に巧妙に立ち回って教国軍を目的の場所まで誘導していく。幻狐部隊が魔法で作り出す幻影で時間を稼いでおいて先回りした猟犬部隊が反撃する振りをして矢を射掛けるので、教国側は完全に欺かれていた。必死で逃げ回る獣人を追い詰めて勝利は時間の問題だと誰もが考えている。
だが追いかけるのに夢中になっていた彼らは突然獣人たちの姿を見失った。まるで掻き消えるように目の前から姿を消してしまったのだ。一体何事だと誰もが考えていたその時、周囲を警戒していた兵士がふと森の様子が今までとどうも違っていることに気がつく。そこは確かに見た目は木に囲まれた森なのだが、どうも人間の本能として嫌な予感がするし、先程まで聞こえていた鳥の声が一切しない妙に静まり返った場所なのだ。
いつまでもこの場にじっとしている訳もいかないので見失った獣人たちを探しに前進しようとした矢先に、教国軍を取り囲む木からスルスルと蔓が伸びてくる。それも1本や2本ではなくて周辺の木が一斉に彼らを包み込むかのようにその触手を伸ばしてくる。
「何だ? 木が俺たちを捕まえようとしているのか?」
魔物に対する知識がない兵士は驚きの声を上げていた。この場のような広大な森が殆ど無い教国では森に住む魔物というのは一般にあまり知られていなかったのだ。
「不味い! トレントに囲まれたぞ!」
だがその存在を知っている者が声を上げる。
トレント、それは木に擬態する魔物。その蔓で獲物を捕らえて捕食する森を歩く者にとっては恐ろしい敵だ。そしてこの辺りの3キロ四方は獣人たちが絶対に近寄らないトレントの群生地だった。1本のエルダートレントによって繁殖した、根が全て繋がっている森の一角全体が一つの魔物と言っても差し支えない。
トレントは静かに獲物が全て自らのテリトリーに入り込むのを待っていた。そうとは知らずに教国軍は幻を追いかけて、うかうかと全体がトレントに取り囲まれる場所に足を踏み入れてしまったのだ。
「ギャーーー! 助けてくれーー!」
その蔦に足を絡め捕られた者が体を高く巻き上げられて悲鳴を上げるが、今はもう他人に構っていられる余裕は無い。次々に兵士目掛けて蔓を延ばすトレントに対して、彼らは必死で剣を振り上げてその蔓を斬ろうとするが、あまりに数が多過ぎて一人また一人と絡め捕られていく。
蔓だけではない、トレントは地面から根を伸ばして兵士の足を拘束して動きを封じていく。こうして阿鼻叫喚が巻き起こる地獄絵図が繰り広げられていった。兵士の中には魔法を使える者が居てトレントの弱点である火を放って何とか逃げようと試みるが、それでもその魔力が尽きた時がその者の終わりの時だった。
密集した多くの兵士が居る場所に点々と放たれた火が次第に燃え広がり始める。その炎は却って兵士たちの逃げ場を狭めて、トレントに捕まるか火に飛び込むかの2択を迫られる者も出る悲惨な状況が其処彼処で発生するという悲劇を生んだ。
程無くして火は辺り一面を埋め尽くしてトレントに捕まった人間ごと焼き尽くし始める。その勢いは徐々に勢力を増してトレントから逃げ惑う人間にも全く平等に襲い掛かり、多くの兵士が炎に囲まれて身動きもままならないままに無残にも焼き尽くされていった。
トレントと炎から何とか逃げおおせた者たちは来た道を引き返すが、体のあちこちに火傷を負って酷い有様だった。何とかトレントのテリトリーから抜け出して彼らは命拾いをしたと安心したのも束の間、待ち構えていた猟犬部隊が襲い掛かる。今まで逃げ惑っていた弱い獣人の振りはかなぐり捨てて、打って変わって勇敢に教国兵に飛び掛かって次々にその首を上げていった。トレントの襲撃で剣や盾を絡め捕られた者が殆どだった教国兵は全く太刀打ち出来ずに、猟犬部隊の前についに最後の一兵まで討ち取られて全滅していった。
「報告します。南部に侵攻した教国軍は全滅しました。ただトレントの群生地で炎が確認されております。いかがいたしましょう?」
司令部の元哉の所に入った通信内容はまたまた火が出たとのことだったので、彼は放っておく訳にもいかずに対応策を検討する。
「了解した、その件はこちらで対処する。諸君らは安全な場所に避難してくれ」
通信を終えて彼は無言のまま目で橘に合図をした。
「分かったわ、また火を消してくればいいのよね」
そう答えて彼女は部屋を出て行った。先日の森の入り口が燃えている件とは違って、今燃えているのは魔物なので大して急ぐ様子も無い。どうせならきれいさっぱりとトレントを燃やし尽くしてから火を消し止めた方が獣人にとっては有益だと彼女はわかっている。
これで南部の教国軍は壊滅したと一息をついた元哉だが、彼の目の前に手を握り締めて『今か今か』と出撃の機会を待っている存在に気がつく。その目は飛び切りのキラキラに輝いているが、そうそう元哉も甘い顔は出来ない。
「さくらお前の出番は明日以降だ。それまで大人しく待っていろ!」
元哉の素気無いフレーズにあからさまにガッカリとするさくら、橘に指令が下ったから次は自分だと張り切っていただけに落胆振りは見ていて気の毒なくらいだ。
「さくらちゃんは王様なんだから、そうホイホイと出撃出来ませんよ!」
ロージーの言葉に止めを刺されたさくらは自分の殻に閉じこもって膝を抱えながら、ソフィアから手渡されたお菓子を食べて何とか気を紛らわすのだった。
「報告いたします、南西方面に侵攻している教国軍の誘導を完了いたしました」
新たな報告が元哉に入ると彼は作戦の決行を指示した。そこにもトレントと並ぶこの森の最大の危険が待ち構えている。
南西にルートを取って進んでいた教国軍は南部の軍と同様に猟犬部隊と幻狐部隊に引き付けられつつ、森のとある場所まで到達していた。そこは樹木が疎らで見通しが良いので休息をとるには絶好の場だ。
「全軍この場で大休止を取る。見張りの者を残して体力の回復をを急げ!」
獣人たちを追跡してかれこれ4時間が経過しており兵士たちに疲労が蓄積していたので、部隊長のこの判断は間違ってはいなかった。兵士たちは重たい金属鎧を脱いで小隊ごとに車座に座り込み背嚢から取り出した保存食と水を口にする。僅か半日の行軍だったが、慣れない森を歩き回った彼らの疲れた体に冷たい水が染み渡って生き返るような心地だった。
「敵の休息を確認、今から行動に移るぞ」
地面に掘った穴の中に身を潜めていた熊人たちが動きを開始する。彼らは3人が入り込める大きな穴を掘ってそこに生活用具を持ち込んで3日前からこの場に待機していたのだった。
大柄な熊人がそっと穴に被せてある丈夫な板で出来た蓋を持ち上げて地面を這うような低い姿勢で目的の所に移動していく。
熊人は彼らの伝統として森の蜂の巣から蜜を集めて食用にしたり蜂蜜酒を作るのに長けていた。彼らは親から子に伝わる秘伝の蜜の集め方を熟知しているのだ。だがこの森に住む蜂は日本のようなミツバチとはわけが違う。キラーホーネットと呼ばれる体長30センチ以上もある特大の蜂だ。
熊人は優に一軒家ほどもある大きさの巣にそっと忍び寄ると、徐に立ち上がって木の棒で巣を思いっきり叩いた。巣を攻撃されたキラーホーネットはブーンという大きな羽音を響かせて次々に巣から飛び出してくる。
熊人はダッシュで穴に飛び込んで、蓋を持ち上げていた仲間が彼が飛び込んだ直後にその蓋を閉じる。その蓋は表面が木の葉や草で偽装してあって、一見しただけではそこに人が潜んでいるとはわからないように作られていた。
巣を攻撃された蜂は敵の姿を求めて夥しい数が飛び出していく。キラーホーネットは肉食の気性が大変荒い魔物の一種で、獲物を食べてその肉を体内で蜜に作り変える特性を持っている。それが巣を攻撃されて興奮状態で外に飛び出していった。さらにこの巣だけではなくて付近に在る大小30近い巣が一斉に攻撃されて、とんでもない数の蜂たちが敵の姿を求めて森に散っていった。
元々蜂はその飛び方や羽音で仲間と連絡を取り合うという習性を持っている。1匹の蜂が付近に休止している教国兵を見つけるのはあっという間だった。
「何か音が聞こえるけど何だろうな?」
遠くに響く低音はキラーホーネットが放つ羽音だったが、森の知識が無い教国兵はそれに気が付かないまま休息をとっていた。やがて彼らの前に1匹の蜂が姿を見せると、次々に姿を現した大群があっという間に彼らを飲み込んでいく。
1匹2匹だったら剣で対処も可能だが、付近の巣から1万匹を越えるような大群が現れたためまともな対処が出来ない有様だった。その上、大休止をとっていたために重たい金属鎧を脱いでいたのが彼らにとって命取りだった。体の何処か1箇所をその毒針で刺されると強力な毒で身動きがとれなくなり、やがては息絶える運命しか残されていない。
この地獄のような惨状から見張り役で鎧を着込んだままの兵士がほんの僅かに脱出することに成功したが、彼らは安全な場所に出たのも束の間待ち伏せをしていた猟犬部隊に討ち取られていった。
こうして僅か半日で教国軍は5つの方面に派遣していた部隊のうち2つが全滅するという大参敗を喫したが、連絡の術が無いために他の部隊や本部はまったくその状況を把握することが不可能だった。
次回の投稿は水曜日の予定です。