176 森への侵入
獣人たちの夜襲に気がついた本陣と森の間で見張りをしていた教国の兵士たちは、彼らが撤収を開始した頃にようやく事態に気がついて逃げ出す猟犬部隊を追跡するが、獣人と人族では基礎体力が違う上に重たい鎧を装備していることもあって簡単に振り切られてしまった。
逆にまんまと夜襲を成功させて拠点に戻ってきた犬人族の戦士たちは出迎えた仲間たちに胸を張って戦果を報告した。彼らは云わば先陣を切った形なので大変な名誉と受け取っている。
「報告いたします。夜襲に出た第1陣が戻ってまいりました。こちらの損害は軽微で敵の兵士を500人ほど討ち取った模様です。明朝を待って次の集結地点に移動を開始いたします」
司令部の全員が寝静まっているが、その一室に置かれた通信機の声に報告を待ちながら待機していた元哉がホッとした表情で応える。
「ご苦労だった、この戦いの成否に大きく関わる緒戦を無事に成功に終えた諸君らに敬意を表する。明朝を待って速やかに次の行動に移ってくれ」
訓練中は一度たりとも獣人たちを褒めた事が無かった元哉からの思わぬ賛辞を受け取った部隊長は感動のあまり直立不動で涙を流した。彼の頭には過酷な訓練の日々が走馬灯のように駆け巡るが、全てはこの戦いに勝つためであると改めてその思いを強くした。
翌朝、さくらを筆頭に食卓についている一同の元に元哉がいつもより少し遅れて姿を現す。
「すまない、先に食べていてよかったんだぞ」
昨夜はかなり遅くまで報告を待っていたので彼にしては普段よりも眠そうな表情だが、本人は大して気にも留めていない。
「兄ちゃん、私は先に食べていようって言ったんだけど、みんな兄ちゃんを待っていたいって言うもんだからこうして待っていたんだよ。もうお腹の限界だよ!」
さくらは獣人たちの夜襲のことよりも自らの空腹の方が大問題だと言わんばかりだ。だが彼女は決して獣人たちを蔑ろにしている訳ではない。自分が短期間ながらもしっかりと鍛えた獣人たちと元哉が立てた作戦を信じていた。だから夕べは安心して先に眠りに就いたのだ。決してお腹がいっぱいでこれ以上起きていられなかったという訳ではない。たぶん本当のはずだ、本人もあまり自信は無いが・・・・・・
「すまんすまん、昨夜の話は食べながら報告しよう」
元哉の一言でいつものように朝食が始まって、夜襲が成功裏に終わった事などが皆に伝えられた。
「それで次はどうするの?」
橘は作戦書の内容は覚えているが、戦いは生き物だ、敵の出方によってどう変わるか分からないので、その点を元哉に確認した。
「そうだな、一先ずは敵の出方を伺って、まだこれでも動かないようだったら今夜も彼らに一暴れしてもらう。もっとも、遣り方を少々変える必要があるだろうな」
そう含みのある言葉のみを皆に伝えて、何を考えているのかは明かさないまま不敵に笑う元哉だった。
「敵が何処からやって来たのかすら分からないのか!」
教国軍の陣では昨夜の夜襲で受けた被害の大きさに将兵たちは愕然としながら、その後始末と対策に追われていた。特にこれだけ厳重な警戒をしていたにも拘らず、それを嘲笑うかのように本陣を蹂躙した獣人たちの接近の際の隠密性と鮮やかな引き際は幹部たちの頭を悩ませるに十分だった。
ともかく昨夜の監視体制では不十分ということが分かり、3倍の歩哨と兵士の4分の1を寝た振りで待機させる方針を固めた。それだけではなく明るい内に森の内部に5個中隊の偵察隊を出して森の様子を知るとともに、半数程度の兵士が留まれるような拠点の整備も実施が決定された。
「報告いたします。教国軍の偵察部隊と思しき500人程が森に踏み込みました。如何いたしましょう?」
元哉の陣取る司令室に教国の動きを監視する者からの連絡が入る。彼らは焼けた森からさらに奥まった部分で敵に動きが無いか監視していた。
「予定通り内部に踏み込ませろ。手出しは無用だ。諸君らは安全確実に遠くから監視を続けろ」
現在森に住む獣人たちのうちで入り口近くの集落に居た住民たちは全てパークレデンスの仮設住居に移動を完了しており、監視および待ち伏せをしている獣人部隊以外は入り口から50キロまでは無人地帯だ。そこで好きに強国に動き回らせながら、知らず知らずの内に内部に引き込んで仕留めようというのが元哉の戦術だ。獣人たちにとっては自分たちの森が教国に侵されるのは非常に腹立たしいことではあるが、今に吠え面を搔かせてやるという思いで耐えている。
そうとは知らずに森に入った教国軍は浅い部分を警戒しながら進む。昨日の出来事で『獣人たちは奇襲や夜襲といった卑怯な戦い方をする』という思いを全ての兵士が植え付けられていたのだ。元哉にとってはそれは逆に思う壺で、敵兵が疑心暗鬼にかかってくれた方があの手この手が打ちやすいという思惑があった。彼はこれから正規軍によるゲリラ戦を展開しようと考えている。彼はこの世界にやってくる前はテロリストの殲滅に従事することが多かった。つまり敵であったゲリラやテロリストの手口に最も詳しいのだ。それに森という環境自体ゲリラ戦には最適である。何も知らない教国軍は元哉が作り上げる泥沼に嵌っていく未来が待ちうけていたのだ。
半日かけて森の探索をした教国の偵察部隊は、何処も彼処も木ばかりでまったく敵の姿を見つけられないまま本陣に帰投する。
「報告いたします。森の内部およそ3キロ地点まで偵察を行いましたが、集落及び敵の拠点らしきものは皆無でした」
中隊ごとに違うルートで5つの方面に渡って偵察を行ったが収穫は何も無く、ただ深い森だけが延々続いているだけという報告に幹部たちは頭を悩ます。敵でも出てくれば一戦交えるのだが、全くその気配も無いままに偵察隊は戻ってきたのだ。果たして軍を率いて何処まで深く森に入っていけばよいのやら見当がつかない。
結局この日も教国軍は具体的な方針を決定しないままに夕暮れを迎えることとなった。
その夜も深けた頃、教国の陣地にそっと接近する極少数の影がある。敵陣を監視していた猟犬部隊の一個小隊に先導された闇猫部隊だ。音を立てないように彼らは敵陣から500メートル離れた場所で小声で最終確認をする。
「いいか、俺たちが指示する場所に矢を撃ち込んでくれよ。司令部の指示で5発のみだ、くれぐれも間違うなよ」
打ち合わせが済むと犬人を先頭に猫人五人がその後を着いていく。闇猫部隊の隊員の手には先日支給されたボウガンが握り締められている。彼らは通常の矢の射程から遥かに離れた地点で立ち止まると、ボウガンに矢を番えて発射の合図を待った。標的は指示されており仰角45度の最大射程で引き金に指を掛けている。
「撃て!」
合図とともに5本の矢が放たれた。いずれも矢尻には魔石を取り付けたお馴染みの爆裂術式が込められた矢だった。椿たちがせっせと作成した性能は折り紙つきの一品だ。
「ドカーーン!!」
敵陣の5箇所で続けざまに大きな爆発音が上がり、暗がりに映る篝火よりももっと明るい光が一瞬巻き起こる。そこに映し出されたのは無残にも吹き飛ばされていく教国の兵士たちの姿だった。
「敵襲!」
敵の姿など全く見えない所で突然起きた爆発によって教国の陣内は大混乱に陥っていた。吹き飛ばされた者が上げる呻き声と『敵は何処だ!』という罵声が飛び交う中、慌てふためいた兵士の中には同士討ちまで引き起こす混乱振りだ。それを尻目に獣人たちは闇に紛れてそっとその場を後にするのだった。
翌朝、教国軍の将兵は混乱の果てに酷い有様になった自陣を見て再び愕然とした。爆発に巻き込まれて死傷した者も数多いが、それよりも味方同士で斬り合って死傷した兵士が圧倒的に多かったのだ。
さくらたちの襲撃によって切り札だった戦車がいとも簡単に失われ、この二日間の夜襲で全兵力の一割以上を失うという惨憺たる有様だ。
「このままではヤツらに狙い撃ちにされます」
ことに昨夜の爆裂術式は幹部たちには応えたようだった。彼らはまだ何も戦果を上げていないうちから獣人たちにいいようにして遣られている現状に歯噛みしていた。
「おのれ! 卑しき獣人の分際でわが国に楯突くとは許し難い冒涜だ! この仇は何倍にもしてやるぞ!」
教国の武力の前では何も出来ずに蹂躙される筈だった獣人たちの思わぬ抵抗が、これまで比較的慎重に構えていた幹部たちの冷静な判断を奪い去っていた。その根本的な原因は彼らに根差す頑迷な差別意識だ。ミロニカル教を信仰する者以外は蛮族という彼らの信仰心そのものが、その差別意識を作り上げていたのだった。
「こうなれば全軍を挙げて一気に森に攻め込むぞ! こそこそと隠れるしか能が無い獣人どもを戦場に引っ張り出すのだ!」
今回の侵攻の責任者が叫ぶと幹部たちは全員が同調する。もしこの場に一人でも冷静に意見する者が居れば話は違うのかもしれないが、全員が言ってみれば狂信者だ、ひとつの方向に進むと歯止めが効かなくなる。その上今回の侵攻は教皇の声掛りという側面もある。教義上の最高権力者の意向は是が非でも成し遂げなくては教義に反する重大な犯罪行為だ。
こうして無事な教国兵たちは1週間分の食料を背負って次々に森の内部に突入を開始した。偵察の時と同じように5方面にそれぞれ1000人規模の部隊が森に入り、残りの人員は本陣の守備及び補給の役割を受け持つ。
教国軍の中で最も森の南側に進んだ部隊は地図も無い森の中を下草を掻き分けながら進んでいた。
「敵の侵入を確認、規模は約1000人でひと塊で南に移動中」
司令部の元哉に南部に展開中の猟犬部隊から連絡が入る。元哉の表情は『ついに痺れを切らせたか』という実にメシウマ顔だ。
「了解、幻狐部隊と協力して例の場所に引き込め」
「了解しました」
元哉からの指令を受けた猟犬部隊は早速動き出す。一個中隊が教国軍の行く手を阻むように布陣して先頭目掛けて矢を放つ。これは闇猫部隊に配備されているボウガンではなくて、以前元哉がナバーロの街の武器庫から鹵獲してきた物だ。木々の間から盛んに矢が放たれるが、頑丈な金属鎧と盾で防がれて大した効果を挙げられない。攻撃が通用しないと見るや猟犬部隊は算を乱して逃げ惑う芝居を打つ。
「見ろ! 愚かな獣人たちは昼間だと何も出来ないぞ! この先に集落があるに違いない。ヤツらを其処まで追いかけて住民ごと根絶やしにしろ!」
その演技にまんまと引っかかった教国軍は獣人たちを小馬鹿にし切った様子でその後姿を追いかけるが、何しろ重たい装備を身に着けている上に森の中で獣人たちにそう簡単についていけない。彼らはすぐにその姿を見失ってしまった。
「止むを得ないな、この場で小休止をして斥候を出そう」
部隊長は部隊を一旦休ませてから、小隊を5個選抜して前方の様子を見に行かせた。慎重に歩を進めた彼らは前方約2キロの地点に集結している獣人を発見すると、半数をその場に残して本隊に報告をしに戻らせる。
「報告いたします。前方に獣人どもが布陣して待ち構えております」
「そうか、ヤツらを一気に踏み潰す良い機会だ! 全軍前進!」
部隊長の声で教国軍は一斉に動き出す。目標は前方に陣を張る獣人たちだ。
だが彼らは知らなかった。それは幻狐部隊が彼ら独特の幻を操る魔法で作り上げた幻影で、その先には獣人たちが絶対に近付かない恐ろしい場所が待ち構えているとは・・・・・・
次回の投稿は日曜日の予定です。