154 教国への備え
さくらが元哉たちと合流した後で先頭の彼女は馬車に乗り込んで獣人たちの隊列を率いて森に帰る道を進みだした。イフリートには再び空に上がってもらい、隊列の上空を旋回しながら広い範囲を索敵してもらっている。何か異常を発見したら念話でさくらに報告が入ることになっている。
馬車を引く馬に何かあった時のために予備の馬も連れていたのだが、さくらは敢えて馬に跨ろうとはせずに御者の隣に陣取って周囲を監視していた。さくら曰く『私がこの身を預けるのはマーちゃん号の背中のみ!』という理由らしい。どこの世紀末覇者だと突っ込みたいが、彼女は愛馬『マーちゃん』を心から気に入っており他の馬に乗る気はない。馬たちはさくらに向かって『自分の背中に乗ってほしい』と盛んに嘶きアピ-ルをしていたがすべて空振りに終わった。
それに対してさくらが横に座った先頭の馬車の手綱を取る熊人族の若者は、突然王様が横に座ったものだから今までの人生で一度も感じたことがない緊張に包まれている。何しろ大恩ある王様に失礼があってはならないと手綱を握る手がじっとりと汗ばんでいた。
「そんなに緊張しなくていいから、適当に馬を進めればいいよ」
何で緊張しているのかその理由にまったく心当たりがないさくらは気楽にして欲しいと声を掛ける。もうすでに馬車を引く馬たちは彼女が掌握して言う事を何でも素直に聞くようになっており、御者が居なくてもさくらが口頭で命じるだけで安全に馬車を運行できるのだが、そんなことを御者が知る由もない。彼は馬が暴走しないように気を使って必死で手綱を握っているのだった。だがそんな彼も村に帰ったら皆に自慢したいと考えている。何しろ隣に王様が座ってくれたのだ。こんな出来事は二度とないだろうと心の中は感激で張り裂けそうになっている。この夢のような時間を彼は一生の宝にするつもりだ。
元哉とロージーは殿を徒歩で進む。草原には小さな魔物しか出ないためその対処は獣人に任せて、彼らは万が一教国の追っ手がやって来た場合に備えていた。だが駐屯地を離れる際に武器の一切合財を剥ぎ取って元哉のアイテムボックスに放り込んであるので、まさか丸腰で追っ手を掛けるわけにはいかないだろうと彼らは当面は楽観的に考えていた。もし再度侵攻があるとすれば装備を整えて周辺の街からの応援を得てからの話になるだろうと予測している。
帰還の道のりは順調に進んで遠くに森が見えてくる。途中でワイバーンに乗った教国兵が5騎の編隊を組んで襲い掛かろうと遣って来たが、上空を旋回するイフリートの姿を見て我先に逃げ出した。巨大なドラゴンが待ち構えている所にワイバーンで突っ込んでいっても無駄死にするのが落ちだと彼らも理解していた。
「帰ってきたぞー!」
獣人たちは遠くに森を発見して、ようやく戻ってきたという実感がこみ上げてきたようだ。誰もが明るい表情で大きな歓声を上げながら喜びを表している。それもこれもすべて王様のおかげだと彼らはさくらとついでに元哉たちに深い感謝を捧げる。
一方森でも見張りをしていた者が戻ってきた馬車の隊列を発見したようで、出迎えのために獣人たちは草原に出て来てちらほらとその姿を見せ始めた。特に我が子を浚われた母親たちの姿が目立つ。彼女たちは子供が心配でいても立っても居られなくなり、草原に近い森の浅い所で帰還を待ち侘びていた。
「本当に戻ってきた!」
遠くに馬車を発見した誰かが声を上げると、彼女たちは一斉に森から飛び出して一刻も早く我が子を抱き締めようと待ち受ける。彼女たちだけではない、友人や知人が帰ってくるのを待っていた者たちもその後に続いて森から草原に姿を現していく。
一行が待ち受ける多くの人たちの前に到着すると『わーー!』という大歓声が巻き起こり、どちらからともなく見知った顔を求めて走り出していく。
「お母さーん!」
「メルク、よく帰ってきたね!」
あちらこちらで抱き合って感動の対面をする光景が繰り返された。
対面を果たして落ち着きを取り戻した獣人たちは、さくらが乗っている馬車の前に集まって跪きながら口々に礼を述べる。
「みんな、お礼なんていいから早く家に戻って休んでいいよ。それからまだ動けない人も居るから肩を貸してやってね」
さくらの一言で獣人たちは自分たちの集落に戻っていく。馬車に収容されていた体力が戻りきっていなかった者たちは森を見て元気が出てきたのか、皆知り合いに肩を貸してもらいながら何とか自分で歩いて家に戻っていった。
「王様、この度は本当にありがとうございました」
今度は浚われた獣人の集落の長たちがさくらの前に現れる。彼らは教国兵が森に侵入してきた時に何とか住民たちを守ろうとしたが、皇帝オーガの討伐で戦士たちは殆ど出払っているという最悪のタイミングに成す術が無く、なんとか半数の村人を逃がすのが精一杯だった。集落の代表として住民たちを守れなかったという忸怩たる思いがあっただけに、こうして拉致された者たちが戻ってきたことは彼らにとっても大きな喜びだった。
「お礼なんていいよ。私は王様だからね、このくらいはお安い御用だよ」
さくらはおだてに弱い。褒められると空高くどこまでも上っていくタイプの性格だ。『王様!』と皆から呼ばれてすっかりその気になっている。どっちにしても彼女にとっては皇帝オーガを倒すのも、浚われた獣人たちを救い出すのもお安い御用には違いないが。
「さすが我らが待ち侘びた王様です。一先ずは村にお越しください」
さくらの気風の良い言葉に感激している長は彼女を村に招こうとしたが、さくらはこの誘いを断った。
「これから急いで教国の連中がやって来るのに備えないといけないから忙しいんだよ。今度ゆっくり寄るから今は帰って待っていて。10日位したら戻ってくるよ」
さくらは元哉から3週間以内に教国が準備を整えて再び森に侵攻する可能性を指摘されていた。可能性なので無いに越したことは無いが、その時のために準備を整える必要を強く感じていたのだ。したがってここは一旦森を後にして、帝国と橘の協力を仰ぐ方針を決定していた。これはさくらの考えではなく主に元哉の考えが色濃く反映されている。獣人たちの装備を強化して、たとえさくらがその場に居なくても教国兵を追い払えるようにした方が後々のためになるというアドバイスだった。
さくらが一人で判断したら、彼女はこの場で教国兵を待ち受けて殲滅に及ぶのは間違いなかったが、彼女自身が絶対の信頼を置く兄の意見を素直に受け入れた結果だ。
さくらがすぐに発つと聞いた長の表情は残念そうに曇ったが、教国の再侵攻に備えるためと聞けば従うほか無い。彼は再度礼を述べて出発しようとするさくらを見送ることに決めた。
「じゃあ兄ちゃんとロジちゃん、準備はいい?」
僅かな休息の後、元哉はさくらと一緒にイフリートの背中に乗って、ロージーはワイバーンに跨って空に飛び出していく。ちなみにロージーのワイバーンは『森に潜んでいろ』と命じられて近くに待機しており、さくらが大きな声で呼ぶとのそのそとその姿を現した。
「兄ちゃん、まずは帝国だね」
さくらはイフリートの進路を東に向ける。このまま帝都まで一気に飛んでいくつもりだ。ロージーのワイバーンも彼女から魔力の供給を受けて必死に喰らい付いている。いくつかの街の上空を通り過ぎて約3時間の飛行で見覚えのある帝都の街並みが視界に飛び込んできた。ここまでかなり飛ばして来たので魔力を流し続けていたロージーはヘロヘロになっている。ハイヒューマンの魔力をもってしてもドラゴンに付いていくのは中々骨が折れる難事だった。
いつものように騎士学校の訓練場にふわりと舞い降りたイフリートに『しばらくここで待っていて』と声を掛けるとさくらは駆け出していく。時刻はもう夕方に近く、空を飛びながら元哉がアイテムボックスにしまってあった食料を口にしてはいたが、さくらのお腹はすでに限界を迎えていた。
「食べ物を寄越すのだー!」
山賊のような声を上げながら一目散に食堂に飛び込んでその姿を見て唖然とする訓練生たちを尻目にパクパクと食べ始めるさくら。舞い降りてくるドラゴンの姿を見かけて嫌な予感はしていたが、まさか食堂にいきなり乗り込んでくるとは思ってもみなかった訓練生たちは目を白黒させている。中には食事を喉に詰まらせて咳き込む者や口の中に含んでいた水を盛大に目の前の同僚に吹きかける者も出る有様だった。
こうして食堂を混沌の渦の中に叩き込んださくらは、ペロリと4人前の食事を腹に収めてから悠然と席を立って去っていった。
「一体なんだったんだ?」
「でもすぐに出て行ったところをみると、どうやら飯を食いに来ただけだな」
彼女の姿が見えなくなってからようやく再起動した訓練兵たちは大きく息を吸ってから互いにささやきあっていた。あの無茶な訓練は今日はもう無いと判断した彼らは失いかけた食欲を取り戻してようやく自分の食事に手をつけるのだった。
「さくらどこに行っていたんだ?」
何食わぬ顔で戻ってきたさくらを元哉が問い詰める。ついさっき彼らの元から風よりも早く走り去っていった彼女は、行った先でどうせ碌な事をしていないだろうという元哉の懸念を払拭する勢いで答える。
「ちょっとお腹が減ったから軽く腹ごしらえをして来たよ! 急いでいたから手早く済ませてきた」
人を待たせておいて悪びれた様子が無いさくら、彼女に『軽くが4人前か』という突っ込みは今更無用だ。それよりも騎士学校の食堂をその辺の定食屋か何かと勘違いしているさくらの頭の中の方が大きな問題だ。
「しょうがないヤツだな、まあいいか。これから帝城に向かうぞ」
元哉は彼女の食欲に関してはすでに諦めているのでもう何も言うつもりは無い。それよりも大事な用件を早く帝国の幹部たちに伝える必要に駆られていた。その一番の当事者であるさくらが腹ごしらえのために居なくなって待っていたのだ。
「さくらちゃんだから仕方ありませんね」
人目につかないところで元哉から魔力の供給を受けてすっかり顔色がツヤツヤになっているロージーも同様に諦め顔だ。
「よーし! お城に行こう! 今日はどんなご馳走が待っているのかな?」
城のもてなしに期待を寄せるさくら、ここへ来るたびにメインダイニングに通されて豪華な食事で歓待されている。その姿はもはや餌付けされているに等しい。それにしても先程食堂で食べた4人前の食事は一体どこに消えたのだろう。
用意された馬車で城に向かう一行、謁見の間ではなくて皇女の執務室に通される。急な訪問であったにも拘らず、手回し良く宰相と軍務大臣も顔を揃えて待っていた。元哉たちの訪問はいまや帝国にとっては最重要事項に格上げされているのだ。
挨拶の後で元哉がいきなり話を切り出す。
「急なことで申し訳ないが、さくらが獣人の王になった」
皇女をはじめとした居並ぶ帝国のお偉方たちが顎が外れそうになる程に大口を開けてポカンとした瞬間だった。
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