305列車 大動脈の沈黙
今日は教育に一環である。沙留や萌を始め新たにPatrol要員になる人の講習会が行われる。その一環で来た場所は何と滋賀県の真ん中あたりだ。その場所を通る新幹線の線路がある場所に来ている。辺りは真っ暗で、時折蛍の明かりがチラチラと見えるだけである。
「まだサクジタイにはなりませんか。」
「うーん、ならんなぁ・・・。」
そう言っているのはPatrol隊課の課長を務めている名取誠二。その隣に座っているのは夏潮斉史主任だ。
「・・・。」
僕は二人の言っていることをほとんど聞き流していた。右から左に入ってきたことは頭をそのまま通り過ぎる。それよりも気になっているのがこれから入ろうとしている新幹線の線路の方だ。
滋賀県の真ん中は東海道新幹線で言えば、米原~京都間に当たる。この間は新幹線の中で最も駅間のある68キロメートル。さらに線形と周辺環境がとても良好であることから過去の試験走行では時速330キロ、営業最高速度も270キロである。
新幹線はこの最も長い距離をわずか20分で走破する。今、僕たちはその中央付近にいるのである。いや、中央はいいすぎか。中央より少し南に位置した位置にいる。
そんなことを考えていると風切音がし、新幹線が走り去るときの独特の音を残していく。
「終列車ですね。」
夏潮主任がそう呟いた。
終列車か・・・。東海道新幹線最速の部類に入る「のぞみ265号」の通過である。「のぞみ265号」は東京駅を最も遅く発車する新大阪行きの「のぞみ」である。これが通過したということはこれで今日の東海道新幹線の運行はすべて終了するのだ。
時間は現在23時20分を少し過ぎたぐらいだ。京都駅の発射は23時32分。停車時間を考えれば、京都に入る時間は23時30分ぐらい。米原~京都の中間ぐらいとあって、所要時間もその半分だ。
「ナガシィ。」
萌は小声でそう言いながら、僕をつついた。
「此れからあの中に入るんでしょ。どう思う。」
感想を聞きたいようだ。
「どう思うって・・・。ワクワクするに決まってるじゃん。」
これはあくまで鉄道ファンとしての視点である・・・。本来ワクワクすることではない。あくまでこれは教育の一環で入るのである。ゆえにワクワクしていては仕方がない。だが、本来はいることの出来ない場所である。その秘密の場所へのドキドキは隠せないものである。
(考えてみれば、ここにこういうことで入らない人間もいるんだよなぁ・・・。)
そんなことを思った。
此処に来る前日綜警の大阪支社では座学が行われている。基本JR東海がどういう会社であるか。そこを警備するものとして最低限の知識を蓄えるという意味での教育を受けている。当然、その中にはこの中に入ったという事例も挙げられた。
自殺、興味本位、悪意。だいたい新幹線の中に入るのはこの3つぐらいに絞られると思う。事実、入った人間はだいたいこんな理由だった。自殺するためなら有刺鉄線の痛みなんてどこ吹く風だったり、悪さをするためなら如何なるセキュリティも突破する。脅威本位は・・・何で入ったんだろう・・・。
鉄道に興味がなくても入ったらどうかなるんだろうなと思っている人は多いだろう。当然新幹線のこの中に入れば法により罰せられる。その罰金は大体5万円と定められているが、ご注意だ。罰金は5万で済んでも、損害賠償は含まれていない。また新幹線であるがために損害賠償だって億単位に達する。早い話、この中に入って5万円で支出が収まることは無いのだ。
「米原、京都間は作業時間帯に入りました。」
ノイズの入る男声が車の中に響いた。
「ほら、聞いてみ。」
そう言って名取課長は一つの箱型の機会を僕たちの方に向けて、音量を上げた。
「米原、京都の間が作業時間帯に入ったって言ってるだろ。」
「米原、京都間は作業時間帯に入りました。」
男声はそれともう一つの文章を繰り返し話している。
「此れで、作業時間帯に入ったからさぁ入ろうってやったら、警察が飛んでくるからな。」
名取課長はそう言った。
なお、これは何もフィクションの中だけの話じゃない。本当にあること、あったことなのだ。新幹線の線路の中に正当な理由なく入るなって話だ。
名取課長は携帯電話でどこかに電話をかける。それがすべて終了したのか、携帯を閉じると、
「よし、入ろうか。」
と言った。
入ろうとしている門扉の前には僕たちが到着する前から門扉の前で待っていた作業員の姿を見ることが出来る。毎夜、こうして新幹線の保守に当たる人が新幹線の線路に入っていく。その総数は平均約3000人。それだけの数の人がこの大動脈を陰で支えているのだ。此処にいるのはそのうちの10人ほどだ。
その人たちが門扉から入り、鍵がしっかりかかっているかを確認してから階段を上がっていく。その人たちが盛り土の上に行ったところで、僕たちはぞろぞろと車から降りた。
名取課長がもっている鍵で、さっき作業員が占めた扉を開ける。そして、すぐに全員が新幹線の柵の中に入った。それを確認してからすぐに鍵を締める。
「沙留、上行って。」
名取課長はそう声をかけた。階段の一番上にいる沙留が一歩一歩階段を上っていく。僕たちも名取課長たちの道を開けるために一歩、一歩階段を踏みしめながらあがっていく。
だんだんと日々270キロで飛ばしていく線路が近づいてくる。
そして、盛り土の頂上に来た。目の前には先程「のぞみ265号」が時速270キロで走り去っていった線路がある。この上を一日に何百本と言う新幹線が通り過ぎて行っている。そして、階段を上がって僕のいる位置から線路はとても近い位置にある。
(此れは・・・。こんなところ270キロで通り過ぎられたら、怖いなぁ・・・。)
それが率直な感想だった。
今は来ないからちっとも怖くはないのだが、想像しただけで背中に寒気を感じた。
東海道新幹線の時速は秒速に直せば75メートル。1分あれば4500メートル走る。1キロは13秒程度だ。そんなスピードで16両の鉄塊が突き進んでくれば、誰もが恐怖を感じるだろう。
線路を東京方面から大阪方面に見てみるとちょっとアップダウンがある。その上に線路は少々琵琶湖側が盛り上がっている。アップダウンは建設時の関係だろうが、線路の盛り上がりは高速走行を補助するための「クルーズコント・・・」。違う、高速走行時の遠心力を相殺するためにあるのだ。
「ちょっと東京方行こうか。」
そういい、名取課長を先頭に東京方面に向かって歩きはじめる。
東京に向かって行く通路は人間一人が通れる幅ぐらいしかない。尚、昼間にこういう状況と同じように線路のすぐわきを歩く場合僕たちは努めて新幹線と対抗して歩かなければならない。それは当然安全を考えた故の理由である。雑学だが、新幹線のヘッドライトはろうそく1万~2万本と同等の明るさを持っている。はっきりと視認できる距離は2キロ。線形がいい場所なら発見から脇を通過するまで約26秒の猶予がある。しかし、此処だけは勘違いしないでもらいたい。26秒しかないのである。そして、新幹線の制動距離は約4000メートルであるため見えたときには急ブレーキをかけても自分を通り過ぎてから止まるということを忘れてはならない。
すると1台の車が細い道に入ってきた。
「先輩たちだな。」
名取課長はそう言った。
車の中にいる人間もこっちがいることに気付いたのかLEDの懐中電灯の明かりをちょっと回した。
(こんな場所を通って行くのか・・・。)
そんなことを思った。辺りは真っ暗だ。道にある光源と言えば、蛍光灯が切れ気味の街灯が1本あるだけだ。他の光源は全部新幹線の盛り土と線路を照らしている。
車がその暗闇の中に消えて行ってから、その真っ暗な中に黄色い光が帯のように伸びた。そして、其れは段々と向きを変える。そして、車は新幹線の線路の方に近づいてきて、線路の下に消えていった。
全て光の乏しい空間で行われていることである。此れからこういう仕事をすることになるのである。
春風隊長は「鍵を引っ張るだけの簡単な仕事」とは言っていたが、簡単なことではなさそうだ。まぁ、まず自分はほとんど運転したことの無い車の運転に慣れなければならない所から始まるのだ。
「ちょっと上り線側に行こう。」
名取課長はそう言い、線路の中に入った。僕たちもそれに続けて線路の中に入る。新幹線の線路。しかも本線の線路を自らの足でまたぐなどまずない経験である。
大動脈が通り過ぎる線路はよく使う面がきれいな色を保っている。白色照明に照らされる鉄はキラッと輝いていた。辺りにはバラストを踏みしめる靴の音と、眠ることの無い動脈を叩く鉄の音が響いているだけだった。
今回からの登場人物
日綜警大阪支社JR業務部課長名取誠二
同主任夏潮斉史
大動脈も時には静かなのです。




