霞の先は
数百年の昔、霊山としての呼び名も高い山の奥で戦いの火蓋が切って落とされた。
襲い掛かるは山犬軍。数百、数千とも言われる山犬の大群が鋭い牙と爪で敵を殲滅する。そして、それを迎え撃つのは妖狐の軍勢であった。妖狐軍は数こそ少ないものの、その変化能力をふんだんに使い、敵を翻弄した。頭脳と力のぶつかり合いである。
戦の始まりは、ひょんな出来事からであった。
人間に餌場を追われた山犬が、妖狐たちの縄張りへ迷い込んだのだ。
山犬の境遇を哀れんだ妖狐は、彼らを受け入れ、共生することを望んだ。しかし、山犬はその提案を跳ね除け、妖狐たちの棲みかを奪おうと侵略を開始した。成り行き上、妖狐たちも己の土地を守るために立ち上がらざるを得なくなり、永い戦が始まったのだった。
「敵軍の様子はどうじゃ」
凛とした声が問いかける。声の主は、九つの尾を持つ鮮やかな栗色の毛並みの妖孤軍の大将、栗姫であった。
「はい。奴らも狐火には慣れたのか、今ではあまり効果が見られません。ですが、変化の術で連中の姿に化ける作戦はなかなか順調のようです」
栗姫のもとで報告を終えた七つ尾の深影は後方へ宙返りしながら山犬へと姿を変えた。そして、頭を軽く下げると遠吠えをひとつ上げて山の奥へと駆け出す。
「――戦は、早く終わってはくれぬものかのぅ……」
憂いげにため息と共に言葉を吐き出すと、栗姫も姿を変え山へ向かった。
「おい、こいつぁオレたちの仲間じゃねぇぞ」
鼻をひくつかせていた轟牙が、一匹の仲間の身体を軽く爪で引っ掻く。
じわり、毛皮の下に薄く血がにじんだ。
他の仲間たちもその山犬の周りを囲むと、轟牙同様に鼻をひくつかせ、本当だ、と口々に言い合った。
囲まれている山犬は身を竦ませると、じり、と後ずさりをする。しかし、足を退いた先には他の山犬の鼻先が待ち伏せており、尻尾を甘噛みされる。
――奴らは、俺を嬲り殺すつもりだ。
全身から噴出す冷や汗に、自然と心拍数が上がる。一か八か、と全ての力を振り絞ると、大きく飛び上がりざまに火の玉へと姿を変えた。
山犬たちは輪の中心へ落ちてきた狐火に反射的に身を引くが、すぐさまそれが安全なものであったことを思い出し、再び鋭い爪を向けた。
「姫様、これ以上戦が長引けば我々一族は滅びてしまいます。ここは、一旦どこかへ身を隠す方が賢明なのではないでしょうか」
深影が栗姫に進言すると、栗姫の表情が曇った。
「そう、してよいのか」
「仕方がないでしょう。そうする他、我々が生き延びる術はないのですから」
歯切れの悪い栗姫に、深影は力強く頷いて見せる。
「だが、故郷を捨てることに反対する者も多かろう」
「それは……そうでしょう。ですが、姫様のご決断とあれば皆付いて行きますよ」
深影の言葉に、一層栗姫の表情は暗いものとなった。
「何を恐れていらっしゃるのですか。さあ、ご決断を」
促す深影の声を振り払うように栗姫は頭を大きく振り、少し時間をくれ、と言って姿を消してしまった。
「姫様……」
その日は午後を過ぎたあたりから雲行きが怪しくなり始め、日が沈む頃にはしとしとと雨粒が落ちてきた。
「撤収だ」
轟牙の一声で山犬たちは体の向きを変え、ねぐらとする岩場の洞穴まで駆け戻った。
「この雨じゃ、さすがに奴らの臭いは嗅ぎ分けられないからな」
仕方ない、とばかりに轟牙は肩をすくめる。ここを襲われては為す術もないが、妖狐たちがそんな真似をするはずもないと思い込んでいる山犬たちは思い思いにくつろいでいた。
ガラガラ、と音がして、上から岩の破片が崩れてきた。
「敵か!?」
グルルと威嚇の声を上げながら視線を岩山の上へ向ける。
そこには、若い人間の娘がへたり込むように座っていた。
轟牙は訝しげな顔をしながらゆっくりと岩を登り、娘に近寄る。
「お前、何者だ」
人間の言葉で問いかけられたことに驚いた表情を見せた娘は小さく身を後ろへ引くと、小刻みに震えながら答えた。
「この先の……村に住んでいる娘でございます」
「そんな者が何をしにここへ来た」
「隣の村へ用事がありまして、その帰りでございます。雨が降って参りましたので、近道をしようと……」
言われてみれば、娘はよそ行き用と思われる着物を身につけている。では、ここは人間が近道として使っている道のひとつであるのだろう。
「行け」
娘への疑いをなくした轟牙は鼻先をクイッと動かして彼女の帰るという村の方向を示した。
娘は顔を伏せたまま小さく頭を下げると、立ち上がろうと腰を浮かして小さく声を上げた。見れば、顔をしかめている。
「どうした?」
「いえ……」
娘は小さく首を振ると再び立ち上がろうとするが、やはり顔を苦痛に歪めた。
「足を痛めたのか」
「……そのようです」
恥ずかしそうに答えた娘を背に乗せると、轟牙は振動を与えぬように気をつけながら岩山を下り、寝床へ娘を運んだ。
「この先の村の娘だそうだ。足を怪我しているらしい。今夜はここで休んでもらう」
他の仲間達に告げると轟牙は娘を下ろし、今日仕留めた狐の肉を娘の前へ置いてやった。どうやら、丁度食事の時間であったらしい。
しかし、彼らが咥えている狐はどれも尾が多く、普通の狐ではないことが一目で見て取れた。娘の前に置かれた狐も例外ではない。尾が七つもある化け狐だった。
「……っ、いりません」
口元を着物の袖で覆った娘は、一瞬息を飲むと、大きく首を横へ振って拒絶の意志を示した。
「食え。他に食料はない」
言いながら、轟牙は他の狐の肉を噛み千切り咀嚼する。
その度に轟牙の口の周りの毛皮が狐の血で赤く染まっていった。
「人間は生肉を食べないんじゃ……」
山犬の一匹が言うが、この中に火を起こせる者などいない。
「私は明日には村へ帰ります。一晩であれば食事を抜いても平気ですから……」
娘の表情は足の痛みに耐えていた時よりも辛そうに見えた。獣の血の臭いにあてられたのだろうか。
そんな娘の様子を見て、無理強いするのはよくないと分かった轟牙は彼女の前から狐の死骸を引きずって持ち去った。
その後、山犬たちはこれと言って何かもてなしをするでもなく、そのまま床へ就いたり、雨を恨めしげに見つめながら他の仲間と話し込んだりと皆思い思いに時間を潰し始めた。
これといってすることもなく、かといって眠るには早すぎるこの時間を、娘は洞穴の岩壁に身を預けて山犬たちの様子を見ることで埋めようとした。
しかし、一人で寂しげにしている彼女に気付いた轟牙が機転を利かせ、話し相手にと名乗り出てくれた。
「そういえば、名前を聞いてなかったな」
「あ……、すみません。名乗りもせずに。私はクリといいます」
「クリ、ねえ。オレは栗は嫌いだ。あのトゲトゲしたイガとはどうも仲良くなれそうにねぇな」
轟牙はくくっと笑いを漏らす。
「そう……、ですね。ですが、栗は悪くありません。彼らが自分の身を守るにはどうしたら良いか考えた末の結論なのでしょう。栗は栗で生き残るのに必死なのです」
ゆっくりと言葉を紡いだクリの表情は、どこか寂しげだ。
「貴方は、轟牙さんですね」
「ああ。……だが、何故オレの名前を?」
「うちの村で知らないものはありませんよ。貴方の武勇は様々聞いています」
轟牙の表情に疑問の色が浮かぶ。
「戦をなさっているのでしょう?」
「……」
クリの言葉で、警戒から轟牙の全身の毛が逆立ち、体が一回り以上大きく見えるようになった。
「警戒なさらないで下さい。私たちもあの悪戯狐には手を焼いていたのです。それが、今回の戦に必死のためか収まったので貴方たちには非常に感謝しているのです」
優しく微笑みながらクリは轟牙の毛皮に触れる。
毛並みに沿って撫でてやっているうちに、段々と毛のかさは減り轟牙の警戒が解けていくのが分かった。
そして、今度は逆に轟牙が狐を援護するように語り始めた。
「妖狐は悪い奴らじゃぁねえ。むしろ、この山をここまでのものにできたのはあいつらがいたからこそだ」
「では、なぜ戦をするのです」
問い詰めるようにクリが言う。
「長い話になるぞ」
いいか、と轟牙が問いかけると、クリは首肯で答えた。
「オレたちは元々、ここじゃなくて別の山で暮らしてた。だが、そこは人間たちのせいでダメになっちまった。……棲みかがなくなっちまったんだよ。
だから、新しい場所を探して色んな所を歩いて回った。そん中で一番よかったのがここだ。でも、ここには先客がいた。それが妖狐さ。
気のいい妖狐の頭はオレたちと一緒に暮らそうって言ってくれたし、オレらだって乗り気だった。それなのに……。
仲間の一人がな、勝手に侵略を始めちまったんだよ。そっからはもう、売り言葉に買い言葉って言うのか? あっという間に戦争さ」
語り終える頃には周りに他の山犬たちまで集まってきており、皆一様に悲しげな表情をしていた。
「その山犬はどうなったのです」
「追放したよ。折角うまくやるチャンスだったのに」
憎々しげに吐き捨てると、他の仲間たちまで同意するように唸り声を上げた。
「原因になった者はもういないのですね。それなら、和解をすればいいのではないですか?」
クリの言葉に、山犬たちの表情が曇る。
「そんなこと、できると思うか」
「ええ。きちんと話せば分かります」
「無理だ。もう手遅れなんだよ!」
轟牙が吠えると、鋭い牙が剥き出しになった。
「クリ……そいうえば、妖狐の頭も栗姫とか言ったな。あいつは仲間を何十と殺されてるんだぞ。そんなに簡単に許せると思ってるのか?」
「……許すほかありません。でなければ、どちらかが滅ぶまで戦は続くでしょう?」
「だろうな」
「それはどちらにとっても辛く、後味の悪いものです。一度、話し合いの場を設けては……」
「無理だといってるだろ? 仮にもオレたちは誇り高き山犬の一族なんだ。そんなことできない」
轟牙の言葉を聞いたクリは悲しげな表情をすると、ゆっくりと腰を上げた。
「では、そのように伝えよう。もしや、と甘い考えを抱いた私が悪かった。そちらが気に負うことはなにもない」
急に口調の変わったクリは、足の怪我など嘘のように洞穴の入り口まで歩んでいく。
そして、小さく後方へ宙返りすると、娘の姿は消え、代わりに鮮やかな栗色の毛並みの九尾狐がそこに現われた。
雨は小降りになり、途切れた雲の隙間から月光が降り注ぐ。淡い月明かりに照らされたその姿は、まさに霊獣と呼ぶに相応しいものだった。
「……栗姫」
ようやくその名を喉から搾り出した轟牙は、ゆっくりと歩み寄る。
「そうじゃ。私が栗姫じゃ。山犬の王轟牙よ、我ら妖狐一族はこの山を去る。我らの代わりにこの山を守ると誓え。それで戦は終わりじゃ」
凛とした栗姫の声に、轟牙は一瞬気おされたように押し黙る。
先ほどまで異様に戦をやめるように諭してきた娘。彼女が栗姫と知らなかったとはいえ、仲間である狐の肉を差し出したのはまずかった。
それが、真っ先に轟牙の頭に浮かんだことであった。そして、彼女との対話を思い返す。
あれが本心なのであれば、彼女は戦など望んでいなかった。……いや、それだけではない。停戦まで申し込んできていたのだ。そこでつまらない意地を張ったがために、妖狐族はこの山を去ろうとしている。
「待ってくれ……いや、待って下さい」
霞に紛れるように姿を消し始めていた栗姫を、轟牙が呼び止める。
「なんじゃ」
「戦の原因を作ったのはオレたちです。出て行くべきなのはあなたたちではなくオレたちだ。どうか、あの日あなたが語ってくれた妖狐と山犬の共生する山を……」
「無理じゃ。そちらは言ったな? 『誇り高き山犬の一族』じゃ、と。それは我らとて同じ。これだけの仕打ちを受けて許すことなどできぬ」
静かな栗姫の言葉には、底知れぬ怒りがこもっていた。
「そこをどうか……」
「無理じゃと言っておろうに!」
栗姫の怒声に、辺りは雷が落ちた後のように静かになる。栗姫からは妖気よりも強い殺気が立ち上り、山犬たちはじりじりと洞穴の奥へ身を潜らせる。
「一つ教えてやろう」
冷たい声で栗姫が言う。
「そちが差し出したあの七つ尾の狐、深影は我が夫じゃ」
鋭い視線の先の轟牙は、ハッと息を飲むと身を硬くし、死をも覚悟した。
「……私はもう仲間が死ぬのを見るのは嫌じゃ。山をよろしく頼んだぞ」
それ以上はもう山犬の言葉など聞き入れずに、栗姫は霞の中へ溶け込むように姿を消した。
「姫様」
明るい声が脳裏に浮かぶ。
思えば、いつだって側には深影がいた。いつしか二人で居るのが当たり前になり、夫婦になっていた。
これといって想い出があるわけではないが、どれもかけがえのない日々だった。
その深影の姿が見えないとなって不安に駆られて山犬の寝床へ足を運んでみれば、案の定の結果だ。
雨とも涙とも知れぬ頬を伝う液体を拭うと、栗姫は妖狐の里へ入った。
里へ入ると、すぐに狐たちが集まってきて栗姫の言葉を待つようにそこへ座る。
「……戦は終わりじゃ。我らは明日、日の出と共にこの山を去る。それで、よいか」
たくさんの思い出と共にあるこの山を、捨てることは心苦しいことだ。しかし、これ以上仲間を失いたくはない。その思いのほうが遥かに大きかった。
散々批判を受けることになるだろうと覚悟して放ったその判断に対して帰ってきたのは、暖かい言葉だった。
「もちろんです。姫様のためなら、どこまででも付いてゆきます」
「お辛い判断でしたでしょうに……。姫様、ありがとうございます。これで私たちも安心して暮らすことができます」
里の者たちの言葉に、自然と涙が溢れる。
「皆の者、安心するのはまだ早いぞ。新しい里を見つけねばならぬ」
口元を綻ばせながら、涙声でそう言うと、栗姫は皆に荷をまとめるように促した。