第三十九話「眠り姫はキスでは目覚めないようです」
ゆるりと自分の意識が返ってくるような感覚を鈴丸は覚えた。
薄く開いた瞼から光が飛び込んでくる。自分が眠りから覚めたのだと自覚したのはその頃であった。
どれほど眠っていたのだろうか。鈴丸は軽く目を擦りながらぼーっと考えた。いつもの数分だけの睡眠とは随分質が違うものだったことは嫌でも分かった。体が軽い。恐ろしいほどに、である。
「あ、お、おはようございます」
しばし、思考にふけっていた鈴丸を引き戻したのはそんな、梨花の控えめな声だった。
ん、を顔をしかめてから彼は自分の記憶にある限りの状況を思い出した。そういえば梨花の膝を借りていた気がする。それから自分の頭の下にある柔らかいものの正体に気付いて慌てて鈴丸は跳ね起きた。
きょとんとしている梨花を見つめながら鈴丸は恐る恐る尋ねた。
「……今何時」
「ろくじはんー」
と元気に返事をしたのはウルフだった。
何時ごろから眠っていたのかは鈴丸にはあまり考えたくない話題であった。頭を抱えながらちらりと梨花を伺う。
「お前ずっと膝枕してたの」
「べ、ベルさんいらっしゃらなかったので……」
はぁあ、と深々と溜め息を吐いてから「膝、痛くない?」
その問いに梨花は何度も勢いよく首を左右に振った。
「大丈夫です! そ、それに鈴丸さんよく寝てたし」
そんな言葉に鈴丸はさらに頭を抱えた。
「あのな」
しかし、どことなく満足げな梨花に、鈴丸は一瞬にして小言を言う気力を失った。そこまで自分を寝かせたかったのだろうか。なんにせよ、降りてこなかったベルに文句を言った方が早そうだ。
そう判断して、彼女の頭に手を置いた。
「ありがと、梨花。お陰様でぐっすり眠らされました」
「は、はい!」
ぱぁっと嬉しそうに顔を輝かせる梨花にはは、と鈴丸は苦笑する。
――そこまで見届けたところでやっと口を開いたのは太李だった。
「ところで俺たちいるんですけど」
「マジか」
声の方に鈴丸が視線を向ければ、確かにそこには太李がいた。それもなぜかその手にはトランプを持って、である。
扇状になった三枚のトランプに手を伸ばしていたのはマリアであった。さらにはその隣には巳令もいる。
「何、お前らもずっとそこいたの」
「はい」
巳令が返事をすると同時に、するりとマリアの手が扇状の一枚を抜き取った。顔をしかめた彼女はそれ以上何もせず、黙って巳令の方にカードを差し出した。
ふむ、と小さく唸ってから視線はカードに向けたまま、巳令は口を開いた。
「梨花先輩だけ残して帰るのもどうかと思いまして。みんなで適当に遊んでました」
「……つーか南波は?」
俺起きてたときいたよな、と顔をしかめれば「出かけた。多分よもぎも一緒」とだけぶっきら棒にマリアが答えた。
ふーん、と小さく返してからやっと立ち上がった鈴丸は大きく伸びをすると首を傾げた。
「夕飯食ってく?」
「あ、そういえば」
もうそんな時間ですか、と巳令は眉を寄せてからマリアの手から一枚カードを引き抜き、小さく息を吐いた。背中に手を回し、カードの順番を入れ替えてから、彼女はそれをまた扇状にして太李の前に突きだした。
迷わず右の方のカードに手を伸ばしてから太李はぴたりと空中で手を止めた。その手には明らかな迷いが生じている。それを誤魔化すかのように太李は彼女に告げた。
「鉢峰、どうする? 俺は別に食って行ってもいいけど、お前家に連絡とか。お前が帰るなら俺送るし」
「……んー」
「えーみれー帰っちゃうのー?」
つまんなーい、と口を尖らせるウルフに巳令は困ったように微笑んだ。それから「せっかくだしいただいていきます。家には後で連絡を入れます」
「おお、いただいてけいただいてけ。適当になんか作ってやる」
鈴丸がひらひらと手を振って笑う。それを見てから太李は意を決したようにやっと、一枚カードを引き抜いた。それから目を見開く。自分の手札と同じ数字のものだったからである。右端のカードと先ほど引き抜いたものとをすでに、先ほどまでで積み重ねられたカードの山に重ねる。
こうなれば、彼の手元に残ったカードは一枚だけである。げ、とマリアが顔を歪めた。
「うっわ、マジか」
「お先です」
機嫌良さそうに笑う太李に深々と溜め息を吐いてからマリアはそのカードを引き抜いた。これで彼の手元からカードはなくなった。おっしゃ、と太李が小さくガッツポーズをした、まさにそのときである。
休憩所の扉が勢いよく、それも乱暴に開かれた。誰だ、と視線を向けた梨花が一番に声を上げた。
「ま、益海くん!?」
そこにいたのは息を切らしている益海南波であった。それだけなら、梨花は驚きはしなかったろう。しかし、彼女の声に驚きを含ませた原因は、彼の背中にいる、春風よもぎである。
ただ事ではない、そう思って鈴丸は南波に駆け寄ってからぴくりとも動かないよもぎに顔をしかめた。
「何、どういう状況」
「俺が知りたい」
南波はよもぎの体を引き受けるなり、鈴丸は自分が退いたことで空きスペースとなったソファの上によもぎの体を横たわらせる。それからそっと腕に触れてみる。脈はある。死んではいないようである。
「よもぎー?」とゆさゆさとウルフの小さな手がよもぎの体を揺らす。しかし、彼女は一向に起き上がる気配を見せない。
荒れていた息を整えてから、南波は低く告げた。
「九条はどこだ」
「呼んだ?」
間髪入れず、開け放したままの扉から現れたのは九条柚樹葉だった。それからちらりと中の様子を伺ってから「なるほど」と察したように一つ頷き、白衣を揺らしながらよもぎの元へ歩み寄った。
「大人しくしておけばあと一日は持ったのに。まぁ結果は同じか」
「柚樹葉、どういうことですか?」
今まで黙り込んでいた巳令が尋ねる。「よもぎさんはなんともないのでは?」その巳令の声に柚樹葉は盛大に顔をしかめた。
「何、この子やっぱりそんなこと言ったの」
「……どういう意味だ」
「いばらはちょっと眠ってるです」
不愉快そうな南波にそう返したのはスペーメだった。柚樹葉の肩に乗ったまま、スペーメはさらに言葉をつづけた。
「今日のディスペアの攻撃に使われた針には睡眠薬が塗ってあったです。しかも強力な。それがいばらの体に入り込んでしまったですよ」
「心配しなくても、薬が切れたら勝手に起き上がるよ。でも、大人しくしてろって言ったんだけどなぁ」
どうして君らってこう私の言うことを聞かないんだ、とばかりに柚樹葉が肩をすくめる。なら、と口を開いたのは太李だった。
「よもぎちゃんは大丈夫なんだな?」
「まぁ、時間はかかるかもしれないが」
そう言ってまた白衣の裾を翻すと「鈴丸、悪いけどよもぎのことはあとで医務室にでも運んでおいて」とだけ告げれば「そういうわけだから、よろしく」とまた歩き出してしまった。
取り残されてしまった面々は、それぞれ、顔を見合わせた。
それから数時間後、南波は目に飛び込んでくる太陽の光の不快さに目を覚ました。
いつから眠っていたのか。彼の記憶は定かではない。一人だけの家に帰ろうにもなんだか後ろ髪を引かれるような、奇妙な罪悪感に襲われたのだった。
鼻についた薬品の匂いに南波は小さく息を吐いた。よく嗅ぎ慣れていた匂いだった。目の前の机に突っ伏していた上半身をようやく起こすと、彼は視線を前に向けた。
そこには真っ白な、飾り気のないベッドに、未だに規則正しい息をしながら眠っているよもぎがいた。
眠っているせいなのか、それとも眠っているだけなのがいけないのか、ベッドの色が悪いのか。よもぎの顔は南波の脳裏にあるより遥かに真っ白だった。それに触れようと思ってから彼はすぐに手を引っ込めた。なんだかそれだけで崩れ落ちてしまいそうな恐怖を感じたからだった。
それからふと、さらに奥の方に視線を向けてからよもぎが眠るベッドの縁に、顔を埋めて眠っているもう一人を見つけた。自分の記憶にある限り、彼女はこの場に居なかったのに。小さく息を吐いてから彼は低い声でその名を呼んだ。
「東天紅先輩」
その声に、もう一人――こと梨花は頭をあげた。眠たげに瞼をこすってから辺りをきょろきょろと見渡して、南波を見つけるなりびくっと小さく跳ね上がってから、ちらりとよもぎを見て、それから小さく返した。
「お、おはよう」
「あんたも帰らなかったのか」
素直に驚いたような南波の言葉に梨花はこくんと頷いた。
確かにバカップルと一緒に帰らないと言っていたように思う。ただそのときは鈴丸とマリアが「お前らは家の人間が不審に思うから帰れ」という言葉に大人しく従っていたのに。
「……家族は心配しないのか」
「お父さん、多分今日も帰って来てないから」
大丈夫、とどこか寂しげに頷いてから改めてよもぎを見て「や、やっぱり、まだ眠ってるね」
そうだな、と小さく南波が返事をした。意外な存在ではあったものの、話し相手がいることは決して彼には不快ではなかった。むしろ安堵したほどだった。しかもそれが梨花というのが彼にはなぜか幾分気楽だった。
仮にも先輩か、と南波が密かに思っているとがちゃりと扉を開いてウルフが顔を覗かせた。
「りかも南波もおはよー」
「あ、おはよう、ウルフちゃん」
「……ん」
それぞれ挨拶をかわしてからなぜか小さなリュックサックを背負ってやってきたウルフはぽすん、と一度背中からそれを下ろすなりチャックを開けて中身を取り出した。中に入っていたのは封の切られた菓子箱だった。一応中身は入っているようで、かさかさと音を立てながら先ほどまで南波が枕代わりにしていた傍らの机に積み上げられていく。つい、南波は尋ねていた。
「なんだそれ」
「元気がない人にはねーこうやってお菓子あげるのがいいんだよー」
それはいつか、自分が麗子にしたことだ。
元気がなかった彼女は自分がこうすればまたいつもの笑顔を浮かべて自分と遊んでくれたのだ。だからこうすればよもぎもきっと目を覚まして自分と遊んでくれるはず。
そんな考えがあるとも知らぬ二人はお互い不思議そうに顔を見合わせた。それにも構わずにどんどんと箱を積み重ねてからウルフは満足げに頷いた。
「早くよもぎもあちしとあそぼーね」
ぴょいとベッドの傍にあった椅子に座ってリュックサックを抱き締めてからウルフはそっとよもぎの頭を撫でた。とにかく、自分のされた嬉しいことをすればいいはず、と彼女の頭にあったのはそれだけだった。
それから、あ、と頭をあげたウルフはよもぎを撫でていた手を再びリュックサックの中に突っ込むと中から紙で包まれた何かを取り出して目の前に差し出した。
「これ! すずがもってけーって! あさごはんですよー! ピンクがりかで赤いのが南波!」
「わ、わあ、よかったのに……」
あとでお礼言わなきゃ、と梨花は包みの一つを受け取ってありがと、とウルフに微笑んだ。それに倣って、南波も黙って包みを受け取った。包みを開いてみると中から現れたのはハムやトマト、レタスが挟んであるサンドウィッチだった。「お茶もあるよー」と水筒からプラスチックのコップに危なっかしく注がれた茶を受け取りながら南波はそれに噛り付いた。腹が空いているかいないかで言えば、後者であった。ハムから感じるほのかな肉の香りや野菜の瑞々しさをマヨネーズがまとめあげる。すきっ腹には涙が出るほどよく染みる。二口目を飲みこんでから甘い香りを放っていた紅茶を口に流し入れ、南波はほっと息を吐いた。
「はぁ、おいしい……」
ふと目の前を伺えば梨花も幸せそうにサンドウィッチに噛り付いている最中だった。それをなんとなく視界にいれながらまた一口、南波が食事を進めているともう一つあったのであろうコップに口をつけてから梨花がぽつんと、言葉を漏らした。
「いばら姫ってどうやって目が覚めるんだっけ」
眠れる森の美女。そんな題名がふと頭をよぎる。
思い当たるものはあったものの、きょとんと不思議そうなウルフの頭を撫でつけながら「さあな」と返すのが今の南波には精一杯であった。
やっぱり寒いのは大嫌いだ。春風あけびは心からそう思っていた。
妹のよもぎが知り合いのところに泊まるのだという連絡を受けたのは昨日の夜だった。妹のことが何より好きなあけびからすれば面白くないことであったのは事実だった。とはいえ、夜遊びをしているわけでもなければ、一時期は家に居てばかりだったよもぎが、こうして外に出ていることはあけびとってはむしろ喜ばしいことではあった。
あった、ものの。寂しさは拭えない。しかも最近ではなんだかよもぎが一層自分に構ってくれない気がする。忙しいのはわかるが少しくらい相手にしてくれてもいいのに。
心の中でうっすらそんなことを考えながらあけびはコンビニの前にいた。よもぎがいないのならいないなりに楽しもう。そう思ったのである。
一歩コンビニの中に足を踏み入れるとまるで外が嘘のような温かさに包まれた。一年中、ずっとこうならいいのにとうっすらそんなことを考えながら、彼女は目の前の棚にあったポテトチップスの袋を手を伸ばす。
と、どうやらその袋を狙っていたのは自分だけではなかったらしい。誰かの手があけびの手に重なった。瞬時にぱっと手を引っ込めると、別に相手が悪いわけでも、自分が悪いわけでもないのに、なぜだか居心地が悪くなってあけびはついつい、謝罪の言葉を口にしていた。
「ご、ごめんなさい。なんか」
「いえ、こっちこそ」
と、同時に頭をあげ、顔を確認した相手にあけびは軽く目を見開いた。見知った顔であった。
「あ」と先に声を漏らしたのはあけびで、「あ」次いで相手が声を発する。
「和奈ちゃん」
「あけびちゃん!」
彼女の目に飛び込んできたのは宗本和奈であった。
中学時代の級友はなんら変わらぬ様子で自分に笑顔を振りまいていた。そういえばしばらく会っていなかった。特別仲が良かったというわけでもなかったので、当然と言えば当然なのであるが。しかし、不仲というわけでもなかった。それゆえに、あけびにとって久々の級友の顔というのは決して不愉快なものではなかったし、どちらかといえば嬉しい部類のものだった。どうやらそれは和奈も同じらしい。にこにことご機嫌そうな笑みを浮かべたまま、「元気だった?」という実に取り留めもないような言葉を放ってくる。
「うん、おかげさまで。和奈ちゃんは?」
「私も元気だよー」
ぶい、と手でピースを作って笑う彼女にあけびも思わず頬が緩んだ。誰にでも人懐こい彼女なのだ。変な気を遣わずに済むので、あけびはやりやすくて仕方なかった。本当に、彼女の幼馴染とやらにも少しくらいは和奈の愛嬌の良さを見習ってほしいものだ。心の中であけびはそう呟いた。口に出さなかったのはこの場に当人がいなかったからである。
「あ、よもぎちゃんは元気?」
唐突に、和奈はそんな問いを口にしながら首を傾げた。否、和奈からすれば特別急なわけでもなかったのだが、あけびからすれば予想外の人物からの質問だった。
が、特に隠すようなことでもない。あけびはすぐに返した。
「元気だよ。最近構ってくれないけど」
「あらら」
「年頃だからかねぇ」
難しいなぁ、と不満げに呟きながら彼女は息を吐き出した。それから、反撃、というわけではなかったのだが、ついあけびは問いかけていた。
「益海くんはどう?」
その問いに、和奈はしばし、黙り込んでから、やがて、
「うん、まぁ、多分、だいじょう、ぶ」
「……そうなんだ」
いささか違和感を感じる返答ではあったが、深く踏み込まなかったのはそこまで踏み込むのはマナー違反だと判断したからだった。
二人の後ろで「にくまんとあんまん一個ずつくーださい!」という幼い声が響いていた。
冷えた空気が扉の隙間から流れ込んでくる。一日中、暖房器具で温められた空気と混ざり合う感覚が柚樹葉が気持ち悪く感じられた。体が重い。重たい瞼を開けようとしたものの、またしても柚樹葉の瞼は重力で重たく落ちる。
耐え切れない。意識がどろりと、睡眠の沼に落ちていく。どれほど起きていて、どれほど眠っていたかも柚樹葉には曖昧であった。
しかし、柚樹葉の意識が再び沼に沈むことはなかった。柔らかく、温かなものが頭の上に圧し掛かってきたのだ。
「ぐえ」
奇妙な声をあげてから彼女の意識ははっきりと戻ってきた。そしてその正体にもすぐに気が付いた。頭に圧し掛かるそれを引き剥がし、顔をしかめつつ告げる。
「何やってんだ、デブ」
「スペーメデブじゃないですぅ」
不満げなアンゴラウサギの声に柚樹葉は完全に覚醒した。頭をゆるりと上げればスペーメの体はべちょりと音を立てながら机の上に落ちていく。
いつも以上に乱れた髪をがしがしと掻いてから柚樹葉は目前のパソコンを閉じる。それからその横で体を丸くしていたウサギの体を抱き上げる。
「起きた」
「ぐーすか寝てるですよ」
「まぁ起きられたら起きられたで困るけどいいけどね」
冗談めいた口調でそう告げる柚樹葉にスペーメは何も言わずにわずかに体を揺らすだけだった。余計なことを言わなかったのは彼女なりの、下手くそな冗談だと思ったからである。
胃の中に生まれた隙間がそんなときに柚樹葉に、自らの存在を主張してきた。何か口に入れようか、接着剤でくっつけられていたように重たい腰を持ち上げて、柚樹葉が椅子から立ち上がる。
同時に、扉が二回、控えめにノックされる。
誰だ。柚樹葉は思わず顔をしかめた。ベルや鈴丸はこうやって優しくノックしてきたりなどしないのだ。問答無用で扉を開けてくる。かといって、ウルフはそもそもここに来ないように言い聞かせている。
どうしたものか、と内心首を傾げながらも扉をわずかに柚樹葉が開けば、黒い髪が視界に飛び込んできた。
「ああ、なんだ、巳令じゃない」
「……私だと何か不都合が?」
「別にそうは言ってないけど」
珍しい、と柚樹葉は思わずこぼした。そこに対して否定はしないのか目の前にいる鉢峰巳令は苦笑するだけだった。
柚樹葉は試しに、と奥の方に視線を投げかけた。やはりというべきか、灰尾太李が呑気に手を振っている。彼女は一つ息を吐いてからきっぱり言い放った。
「何? 用件は短くして欲しいんだけど」
「益海くん来てません?」
部屋の中を覗き込むように見る巳令に柚樹葉は首を傾げた。
「よもぎのところじゃないの?」
「いえ、私たちもそうかと思って行ってみたのですが」
いなかったのか、と柚樹葉はわずかに白衣の裾を揺らしながら傍の壁に寄りかかった。
「スペーメ」声を掛けられ、アンゴラウサギが頭を上げる。
「チェンジャーの反応探せる?」
「押し付けるなんて卑怯なのです」
ぶつぶつ言いながらスペーメは目を閉じて、かくんと項垂れた。その体を抱き上げ、反応を待っていると「あれ」と太李が声を上げた。
「梨花先輩」
「あ、二人ともおはよ」
ぱぁっと一瞬、笑みを浮かべてから柚樹葉の方に改めて向き直ると、
「益海くんとウルフちゃんきてない?」
「……何、あの子もいないの」
ええー、と顔をしかめる柚樹葉とこの場にいた先客に梨花は首を傾げた。
「もしかして益海くんも?」
「はい。梨花先輩ご一緒だったのでは?」
「ううん、一旦朝ご飯の片付けに行って戻ってきたらいなかったから」
てっきりここかと、と顔をしかめる梨花に「もしかしたらベルさんたちのとことか?」と太李が首を傾げる。うーん、と梨花が唸った。
「んと、ベルさんたちはさっきミハエルさんに呼ばれてたから多分、違う、かな」
「……ならどこへ?」
「……さあ」
嫌な予感がする、と四人が顔をしかめると同時にスペーメがぱちりと目を覚ました。
冬の冷たい空気がウルフの頬を撫でる。思わず痛みを感じるほど冷え切った風に触れた小さな頬は、まるで林檎のように真っ赤に染まっていた。
口からこぼれた息が白く色づいた。たったそれだけのことが、ウルフには面白くて仕方ない。腰を掛けた公園のベンチが氷のように冷たいのにも構わずに、彼女は手元の白い袋に手を突っ込んだ。包みに入ったままのあんまんを自分の膝の上に乗せるとまだ重みを持った袋を隣にいた、無愛想な男に渡す。
「はい! みなみの!」
「ん」
南波の手がウルフの小さな手から袋を受け取る。
それを見届けてからウルフは包みからあんまんを取り出して、それに噛り付いた。
「あっふい!」
その瞬間、口の中に広がる熱にぎゃ、と短い声をあげてびくんと跳ね上がった。
思わず目を瞑り、ふるふる震えてから口いっぱいの甘味に対する感想を述べる。
「あまぁい」
「忙しいなお前」
呆れたようにそう告げながら自分の方に回ってきた肉まんを一口かじる南波に、ウルフはにこにこと笑い返すだけだった。まさにご機嫌、と言った様子で体を左右に軽く揺らしながら今度は、湯気が立ち上るあんまんにふーふーと息を吹きかける彼女は、「でもさー」と口を開いた。
「さっき食べたばっかなのにもう食べるの変だよー」
「いいだろ、俺が食いたかったんだから」
「すずの作ったのたりなかったのー?」
「今日だけな」
また自分より大きな一口で肉まんを食べる南波をウルフは不思議そうに見つめるだけだった。まぁ、甘いもの食べさせて貰えたしいいか、と自分の中で納得しながらまたあんまんに噛り付いた。
外に出てきたのはなんとなく、あそこにいるのが落ち着かなかったからである。眠り続けたよもぎをじっと見つめて暇が潰せるほど、南波は自分が忍耐強くないのを知っていた。それに着替えを取りに出たかった。これだけである。
こっそり出て行こうとしたのをウルフに見つかったのは計算外であったが、ともこもこのコートに身を包み、上機嫌のウルフを見ながらまた肉まんを一口齧る。そんな彼を見ながらまたウルフが口を開いた。
「あちしねー、みなみのこと前はちょーむかつくやなやつだって思ってた」
突然の言葉に彼はわずかに目を見開きつつも、極めて落ち着き払った声で、
「知ってる」
「でもねー、今は思ってないよ」
はむはむとあんまんを食べながら真っ青な空を眺めながらウルフは続けた。
「みなみも、他のみんなも、わるいこのあちしをいい子にしてくれるから」
「いい子になったのはお前の勝手だろ」
少なからず俺は何もしてない、と顔をしかめる南波に一瞬、言葉を詰まらせてからウルフはむすくれた。
「やっぱりみなみちょっとやなやつ」
「うるさい」
ふん、と顔を背ける南波を見ながら「だからねーあちし早くよもぎに起きて欲しいんだ」
なんとなく分かるような分からないような。子供独特の要領を得ない言葉に南波は何も返さずに肉まんを食べるだけだった。
あんまんを半分ほど食べ終えたところでウルフは改めて、顔を上げた。それから首を傾げる。
「ねぇ、みなみー」
「ん」
「きょーは寒いからみんないないの?」
確かに、公園という場所にしては不釣り合いなほど、人がいなかった。
ウルフの言葉に顔をしかめた南波は「いや」と軽く首を左右に振ってから、口元にかすかな笑みを浮かべた。
「お迎えだろう」
一口で食べきるには、少々残りすぎていた肉まんを口の中に無理やり詰め込むと、南波はベンチに凭れさせていた体を立ち上がらせた。
同時に、少し離れた場所から足音が、空に響く。
青かった空は灰色に染まっていた。やっと事態に気付いたウルフがあんまんを同じように詰め込んだ途端、低い声が響く。
「呑気にお散歩とはいいご身分だな」
「……そっちは徘徊か?」
南波が小さく口を動かせば、体が光に包まれ、人魚姫となった彼が現れた。
金色の髪を大きく振り払いながらゆらりと首を傾ける。
「うちの寝坊助ないばら姫を出来る限り早く、起こす方法が知りたい」
「単刀直入だな」
ゆらりと、南波の目の前に現れたのは、青髭だった。
風に揺られる金色のコートを見つめながらいつかのよもぎがそうであったとも知らず、南波は「趣味わる」と心の中で毒づいた。
青髭はたっぷりとした髭を手で撫でながらくつくつと笑い声をあげた。
「キスでもしてやればいい」
「生憎、俺は王子様じゃないんでな。却下だ」
「それはどうだろうな」
目の前の男の言葉に南波は不愉快そうに顔を歪めた。
ふざけやがって。のらりくらりとかわされていく言葉が面白くもなんともなかったのだ。
「まぁ、口を開く気がないなら別にいい」
自分の手に現れた得物を一振りすれば、矛先を相手に向けた。
「喋るまで付き合って貰う」
ふは、と低い笑い声がその場に響く。
ぱきぱきと拳を鳴らしながら首を軽くもたげた青髭の鋭い視線が奥にいたウルフの姿を貫いた。「だが生憎」ふわりと、青髭の体が浮く。
「俺が会いたかったのはお前じゃない」
男の体が南波の真上を通り過ぎていく。空中でくるり、体勢を整えれば振り上げた拳を振り下ろしながら地面にいる少女に叩き付けた。
土の地面が抉れ、破片が飛ぶ。土煙の中から勢いよく飛び出したのは赤い影だった。
「あぶない! しんじゃう!」
間一髪。飛び上がり、その拳を回避したウルフの姿を見て、南波はほっと息を吐いた。
「お前のはいたいからきらい!」
「当たり前だろう、痛めつけるためにやったんだから」
青髭は低い声で返しながら赤ずきんとなったウルフをじっと見つめた。
その様子を見てから矛先を再び、相手の前に突き出せば、男を睨み付ける。
「どういうことだ」
「裏切り者を処分することは悪の組織的には普通だろう?」
その言葉に顔をしかめながら静かに続ける。
「お前らのボスは好きにしろと言っていたと聞いたが」
「俺的には少し放っておけなくてな」
身勝手な、と内心吐き捨てながら元々か、と思い直した彼は「なんでまた都合が悪くなった」と問いかけた。
「答えると思うか?」
「いいや、ちっとも」
その答えを口にした瞬間、青髭の右拳が南波の腹部にのめり込んだ。
何かがせり上がってくるような不愉快な感覚に顔を歪めながら、南波は勢いよく後ずさった。口元にあふれ出た唾液を腕で拭いながら「女殴りやがって」と相手を睨み付けた。
「中身は男の癖によく言う」
「余計な世話、っだ!」
ぶん、と空気を裂いて南波の槍が青髭に向かって振り下ろされる。
ところがその槍は柄を青髭の、筋肉質な拳に掴まえられると空中で刃を止めた。押し付けても、ぴくりとも動かない。髭の下で歪に笑む男に南波が小さく舌打ちする。どうしたら、ウルフはその場で固まった。下手な動きをすればかえって状況は悪くなるだろう。どうしよう。そんな文字がもう一度ウルフの頭によぎったとき、南波の槍から手を離し、青髭がわずかに身を引いた。
刹那、二人の間にわずかな光を反射させ、煌めきながら細い刃物が通り過ぎた。
「人魚!」
刃物が飛んできた先にいたシンデレラ姿の太李を見て、バランスを崩してその場に座り込んでいた南波はそれがレイピアであることを理解した。さらに横に巳令と梨花がいることも、すぐに分かった。
「は、はいおおお」とウルフが安心したような声を上げる中、ゆらりと立ち上がった南波はすたすたと太李に近付けばじろりと彼を見つめた。
「普通に危ないだろうが」
「いや、なんつーか」
さっと南波から視線を逸らした太李が続ける。
「南波ならかわしてくれるかなー、とか」
その奇妙な信頼感から飛び出した彼の言葉に南波は少し黙り込んでから、ようやく息を吐き出して、
「馬鹿か」
「いで!」
すぐさま手刀が太李の首筋に落ちる。その様子を見ながら巳令は小さく笑った。
「案外満更でもないのでは?」
その問いには、何も答えずに南波は顔を背けるだけだった。
そんなやり取りを黙って眺めていた青髭はふぅ、と息を一つ吐き出してから、くるりと背を向けた。
「多勢に無勢だ」
「な」
「まぁ精々」
ひらひらと手を振りながら男はこう続けたのだった。
「しばらくはヒーローごっこを楽しむといい」
開け放したままの扉から南波が中に入れば、そこにはやはり、不気味なほど綺麗な顔のままで眠っているよもぎがいた。
別段、柚樹葉を信頼していないわけではない。ただ、なんとなく終わりの見えない日々を過ごすのは嫌だったのである。とはいえ、結局、手立ては得られないままだったが。
眠っているよもぎの髪を指で撫で、黙って顔を眺めた。
――キスでもしてやればいい。
そんな低い言葉がふと脳裏によぎる。昔読んだ絵本のストーリーと、よもぎの寝顔を見ながら、要は魔が差したのである。
そっと身を乗り出して、ゆるりと顔を近付ける。
瞬間、ぱちりとよもぎの目が開いた。




