第四話「俺はなりゆきでしたが図書委員には何やら事情がありそうです」
粘土の入った段ボール箱を床に置いてから梨花はふぅと息を吐いた。
「なんだか、不思議な感じ。あたしがヒーローだなんて」
「そうなんですか?」
その上に巳令が段ボールを積み重ねて首を傾げるとこくんと梨花が頷いた。
「うん。なんか、あんまり今までと変わらないから実感湧かないっていうか」
「まぁ、確かにすぐ自覚しろっていう方が難しいかもしれませんね」
積み重なった段ボールを見ながら巳令が「そういえば、残り二人とスペーメは?」
「えっと、九条さんはあたしのチェンジャー少し調整するって。スペーメもついていっちゃった。灰尾くんは、今日は用事があるからって」
「そうですか」
クラスの違う柚樹葉はともかく太李なら自分にくらい一言言ってくれればいいのに、と思いながら一番上の段ボールを開けて差し出された粘土を受け取った巳令は「そういえば、梨花先輩」
「な、なぁに? あ、あたしなんかしちゃったかな?」
「いえ、その」
恥ずかしそうに視線を逸らしながら巳令は「呼び名、なんですけど」
「う、うん?」
「……その、よかったら、私のことも名前で」
巳令の言葉に梨花はきょとんとしてからやがて「あ」と声を漏らした。
「え、ええと、い、いいのかな?」
「も、勿論です!」
何度も頷きながらそう言う巳令に梨花は困ったように笑った。それから自分の分の粘土も取り出すとじゃあ、と言葉を続ける。
「み、巳令さん、でいいのかな?」
「はい!」
嬉しそうに微笑む彼女に梨花はくすくすと笑い出した。
それに巳令が首を傾げると梨花は口元に手を当てながら答えた。
「あ、ご、ごめんね。ただ、そういうの気にするんだって思って。なんだか意外で」
「だ、だって」
顔を俯かせながら巳令が返す。
「私は梨花先輩、って呼んでるのに先輩は私のこと鉢峰さんって他人行儀かなって。せっかくはじめてできた同性の仲間なのに」
仲間、という響きに梨花は途端に嬉しくなった。
そうだ。自分と彼女は今や同じ目的で戦わなければならない仲間となったのだ。まだよくわからないことも多いもののそれが事実だ。
自覚するなり梨花は「よ、よーし!」と一人で意気込んだ。
「巳令さん!」
「はい、梨花先輩!」
「今日も部活も正義の味方も頑張ろうね!」
「はい!」
頷き合いながら二人は意気揚々と陶芸室に入って行った。
一方、太李は電車を乗り継ぎ、病院にやって来ていた。まだ慣れない土地にある病院は大きめで設備もそれなりに整っているようだった。薬品の匂いに顔をしかめながらかばんを持って廊下を歩いていく。
知らされていた病室に入るなり、彼はがっくり肩を落とす。
「あ、おにいー」
両手をふりふりと振るセーラー服姿の自分の身内に「紅葉、お前な」と彼は呆れかえった。
「えへへぇ、面目ない。いや、せっかくだから転校生らしくかっこいいとこ見せようかと思って」
「アホ」
溜め息をつきながらすみません、と彼は頭を下げた。カルテを覗き込んでいた医師が「いえいえ」と首を左右に振った。
「捻挫で済んでよかったですね、安静にしてればすぐによくなりますよ」
「見たかおにい! 紅葉ちゃん最強なのだ!」
「うっさい」
こつんと彼女の頭を太李が軽く小突いた。
紅葉は小突かれた部分を押さえながら「なんだよおにい! 実の妹に暴力振るう奴があるかよ!」
「妹がこんな馬鹿じゃ兄の俺だってどうしようもねーわ! ったく、母さんも騒ぎすぎなんだよ」
その電話はちょうどホームルームが終わったとき、突然太李に掛かってきた。
彼の両親は共働きで母親が職場からかけてきた電話だったのだがその内容は中学生の妹である紅葉が怪我をして病院に行ったというものだった。母親があまりにも切羽詰った様子だったのでこれはただ事ではないだろうと思い、太李は梨花にメールだけを送って、一度家に帰ると財布と保険証だけを持って慌ててここにやって来たのだ。
そして、太李にとっては案の定というべきか紅葉は大した怪我でもなかったのである。
病室で言い争いを終えて、念のためと渡された松葉杖をつきながら紅葉ははぁーと溜め息をつく。
「みんな心配しすぎなんだよなぁー。ちょぉっとマットで着地失敗したくらいでさ」
「あのな、それで迎えに来なきゃいけない俺の気持ちも考えてくれ」
頭を抱える太李を見ながら紅葉は「てへぺろ」と軽く舌を出した。殴ってやりたい、という衝動を太李が押し殺していると彼女は「でもさ」と笑った。
「なんだかんだでおにいは心配してきてくれるんだよね、自慢の兄ですたい」
「はいはい」
「なんだよ冷たいなー」
ぶーぶーと唇を尖らせた紅葉は壁に凭れ掛かりながら続けた。
「学校、どうよ?」
「どうよって」
難しい質問だ、と太李は思った。
まさか転入初日にいきなり女になって、それ以来ヒーローとして戦い続けているとも言えず「別に」と誤魔化すように告げた。
「普通」
「ふーん。おにい部活入ったんだっけ?」
「陶芸部」
「陶芸部ぅ?」
きょとんとした紅葉は黒い瞳を丸くさせながら「おにい焼き物に興味あったんだ」
「んーまぁ、成り行きっていうか」
「あ、じゃあさ、彼女できた?」
「うっせーぞませガキ」
「あいて」
こつんと太李の拳が再び紅葉の頭を捉えた。
軽く叩かれて紅葉は頬を膨らませながら「なんだよ教えろよケチー」
「いねーよばーか」
「やっぱり。おにいモテないもんねー」
「余計なお世話だ」
事実だけど、と彼が心の中で付け足したと同時に「灰尾紅葉さーん」と受付の看護師が彼女の名を呼んだ。
その声に太李の方が紅葉に背を向けた。
「俺、お会計してくるから。ここで待ってろよ?」
「待ってろと言われると逃げたくなるな」
「そういうのいいから」
やれやれ、と心の中で呟きながら太李はカウンターの方まで行って手早く会計を済ませた。
あれだけ大騒ぎしていた母親にどう説明したものだろうかと考えながら彼が財布をしまいながら元の場所に戻ってくるともうすでに紅葉の姿はなかった。
薄々予想はしていたが本当にどっか行きやがった。どうしてこんな妹に育ってしまったのだろうかと太李は嘆きながら辺りを軽く見渡した。
意外にも紅葉はすぐに見つかった。
「紅葉」
「あ、おにい……」
振り返る紅葉の横には幼稚園児ほどの少女が自分の服を掴みながら涙目で立っていた。
「どうした?」
「いや、お人形さんをね、なくしちゃったんだって」
「人形?」
太李が聞き返すとこくんと少女が頷いた。
「リサのミネラルレイモンドちゃんいなくなっちゃったの……」
何その名前、とツッコみたいのを太李はぐっとこらえてしゃがみ込んで問いかけた。
「ええと、そのミネラルちゃん、はどこで?」
「わかんない」
「ええー……」
探しようがないじゃないか、と太李は困った。恐らくは紅葉が狼狽えていたのもこのためだろう。
行ったところをなんとか思い出させて歩き回ったりした方がいいのだろうかと彼が考えていると太李と彼女の間にずいっと何かが差し出された。
太李がよく見てみるとそれは黒い熊のぬいぐるみだった。ぱぁっと少女の顔が華やいだ。
「ミネラルレイモンドちゃん!」
ぱっとその熊を受け取ると彼女はそれを嬉しそうに抱き締めた。
よかった、と息を吐きながら「あ、ありがとうござ」と言いかけて太李はぴたりと固まった。
そこに立っていたのは太李と同じ学ランを着た男だった。そこまではよかった。問題はその男が頭に被せていたものだった。
可愛いと呼ぶにはあまりにも不気味で、しかし気持ち悪いというのも少しためらうような中途半端なウサギの被り物で顔を隠していた。
そのウサギの被り物がわずかに傾いた。それで合っているか? と尋ねているようだと太李は思った。
同じことを考えたのか少女はぎゅっとぬいぐるみを抱き締めながら「ありがとうウサギさん!」と満面の笑みを浮かべた。それに一回だけこくんと頷いた男は立ち上がると黙って太李たちに背を向けて歩き出してしまった。
声をかける間もなく、立ち去ったウサギ頭の男に太李と紅葉は顔を見合わせた。
翌日の放課後、陶芸の資料を借りたいという梨花に付き合って図書室までやって来た太李は同じく付き合いだった巳令の肩を突いた。
「なぁ、鉢峰」
「なんですか?」
彼女は手元で開いていた『ファンタジーネーミング大百科』という本を閉じて首を傾げた。
「いや、うちの学校にさ、キモいと可愛いの中間みたいなウサギの被り物被った奴っていないかな?」
「……は?」
何を言ってるんだお前はとばかりの巳令の視線に「うん、居ないよね、知ってた」と太李は肩を落とした。
不思議そうな巳令に仕方なく太李は昨日の経緯を説明した。ふむ、と頬に手を当てた彼女は「気になりますね」
「気になりますか」
「ええ。よかったら今日その病院に連れて行ってくれません?」
「完全に興味本位だな、お前」
とはいえ、自分も半分好奇心で巳令に尋ねたので分からないでもない。
しかし、彼女の返答は意外なものだった。
「いえ、そうではなくて。柚樹葉がこの間、それと似た特徴の適応者の話をしていたので把握しておきたいかなと」
「似た?」
「はい。柚樹葉はトカゲの被り物だって言ってましたけど」
なんじゃそら、と太李は顔をしかめた。
しかし、仲間になる可能性があり得るのならば知り合っておきたいのは太李にとって事実だった。うーんと唸っていると「お待たせ」と分厚い本を何冊も抱えながらよろよろと梨花が二人に歩み寄ってきた。
「うわ、ちょ、梨花先輩大丈夫ですか?」
「ご、ごめんね……なんだか見てたらどれも凄くよくって」
えへへと小さく笑う梨花に「俺、持ちますから」と太李が何冊かを手に取った。
「あ、ありがとう」
「いえ」
「それじゃさくっと借りて病院に行きましょう」
「え、病院? どこか悪いの?」
不思議そうな目で二人を見比べる梨花に「あとでちゃんと説明します」と巳令が言い放った。その手元には先ほどまで読んでいた本が収まっている。
「……それ、借りるのか?」
「はい。技名考えるなら語彙力くらいつけておかないと」
「そもそもつけなくていいから」
必殺技ですら口が勝手に動かなければ言いたくないのに、と太李は溜め息をついた。
貸し出しカウンターまでやってくると図書委員という腕章をつけた男子生徒が小説を黙ってめくっていた。カウンターの前に立つなり、巳令は手慣れた様子でこんこんとその端を指で叩いた。
彼はその音で本から視線を逸らした。それから呆れたように低い声で告げる。
「またお前か、鉢峰」
「いけませんか? そんなに怖い顔しないでください」
「これは生まれつきだ」
ふん、と巳令から視線を逸らした彼は次いで太李に視線を向けた。虹彩の部分がやや小さめの三白眼はどこか攻撃的な印象すら与えてきた。
「見ない顔だな。二年か」
「最近転校してきたんです。知りませんでした?」
「他のクラスなんて気にしない」
「そうですか」
手慣れた様子で巳令の持ってきた本の貸し出し手続きをする彼は「名前は」と低い声で太李に問いかけた。
「え、えっと、灰尾太李」
「……じゃあ灰尾、ここに名前と組番号」
ん、と差し出されたカードには図書貸し出しカードを書かれていた。あ、と声を漏らして首を左右に振る。
「いやいや、借りるのは俺じゃなくて」
「ん?」
目を細めた彼は後ろにいる梨花に気付いたらしく、「ああ、東天紅先輩か」とだけ呟いて棚の中の物色を始めた。
「あ、あの、できればその苗字で呼ばないで欲しいっていうか」
「はい」
「あ、うん、ありがとう……」
カードを受け取りながら小さくなる梨花を見ていると「まぁ、いい。灰尾、一応書いとけ」と太李は促された。まぁ、少し書くだけならと彼はカードに傍にあった鉛筆を走らせた。
書き終えてから「書けたぞ、えっと」と声を詰まらせた。カードを受け取りながら彼は太李が自分の名前を知りたがっているのに気付き、表情を変えずに答えた。
「益海、益海 南波だ」
「……二年生、だよ、な?」
「文句あるか?」
「いや別にそうは言ってないけど」
とんだ図書委員だ、と太李は素直に思った。
図書館で本を借り、梨花に事情を話して三人は再びあの病院へとやって来た。
本来ならばこの場に柚樹葉も連れて来たかったのだが彼女は用事があると先に帰ってしまっていた。
「しっかし」
壁にもたれながら太李は頭をかいた。
「またそう都合よく来るかね」
「来ます、絶対来ます。私のゴーストがそう囁いてます」
「なるほど勘なんだな」
分かってたけど、と太李は腕を組んだ。
分厚い本を目を輝かせながらめくる梨花を一瞥してから巳令が言う。
「今日来なくても明日、明日が駄目なら明後日と張ればいいんです」
「でも昨日一回だけだったかもしれないだろ?」
「たかだか一回だけならこんなご立派な病院に来る必要はありません。通院か、あるいはお見舞いか。きっともう一度来る可能性は高いでしょう」
「そうだろうけどさ」
「これもフェエーリコ・カルテット成立のためです!」
やっぱりそれが目的か、と太李は頭を抱えたくなった。
しかし、それを終えるより早く、視線を奪われた。
「鉢峰、あれ」
「ん?」
太李が指を差す先にはウサギ、ではなく猫の被り物をした例の男が居た。
彼は特に三人に気付くでもなく、すたすたと病室の方へと歩いて行ってしまった。
「どうする?」
「追いましょう。梨花先輩」
「ふぇ?」
本から頭をあげた梨花の手を引きながら巳令が歩き出す。そのあとに太李は黙って続いた。
「おかしいですね、確かにこっちの方に来ていたのに」
病室が立ち並ぶ廊下で足を止めながら巳令はうろうろと辺りを見渡した。
「もうどっかの病室に入ったのかもしれないな」
「く、この私としたことが不覚でした」
悔しそうに唇を噛み締める巳令を「とりあえず今日は撤退しようぜ」と太李が覗き込んだ。
むむ、と唇をアヒル型にする彼女に太李が困っていると「ひゃ!?」と梨花の悲鳴が二人の鼓膜を揺らした。太李と巳令が同時に振り返ると病室から出てきたのであろう自分たちの歳の変わらなさそうな少女が梨花に手を伸ばしていた。
「ご、ごめんなさい。大丈夫でした?」
「い、いいい、いえ、こちらこそ!」
小さくなって頭を下げる梨花に二人が駆け寄ると少女の方が「あれ?」と首を傾げた。
「その制服……」
それからはっとしたように手を打つと「そっか」と笑みを浮かべた。
「みーちゃんのお友達だ!」
ん、と三人が疑問符を浮かべながら首を傾げているのにも構わずに彼女は梨花の手を掴んで立ち上がらせると「ほら、そんなところにいないで入って入って!」
訳も分からず、流されるまま病室に入ると三人はぴたりと動きを止めた。そこにはベッドに寝転がった柔らかい雰囲気の青年と先ほどの猫の被り物を抱えた南波が居た。
「お前ら……」
「ん、なんだ? 南波のダチか?」
ベッドの上の男が首を傾げた。それに「違いますよ」と慌てたように南波が否定する。その言葉にええーと梨花の手を握ったままの彼女が声をあげた。
「おんなじ学校の制服なのにー」
「同じ学校に行ってたって友達なわけじゃない。しかもそっちは先輩だ」
「うそん!?」
梨花から手を離した彼女は「ほんとにお友達じゃないの?」と太李たちを見上げた。
「知り合いではあるんですけど、彼が認めてくれないんです」
「勝手なこと言うな鉢峰」
「やっぱり顔なじみではあるんじゃねーか」
けらけらと笑った彼は「ここで会ったのもなんかの縁だろ、茶でも出してやれよ。和奈」
「ちょっと京さん」
「なんだよお前和奈と違って友達とか少なそうだし」
笑ってから「ほら入口で固まってないでこっちにこい」と三人に手招きした。
「二人とも益海くんの幼馴染……」
「うん、そうだよ。私はみーちゃんと同じで二年生、京くんは大学生」
「ま、今はこの通り入院中ですけど」
湯呑を握りながら二人とにこにこと談笑する巳令を見て南波は黙って太李を睨み付けた。彼はぎくっと分かりやすいほど肩を跳ね上がらせてから小さく項垂れた。そんな彼の横に歩み寄ってから南波は小声で問いかけた。
「どういうつもりだ」
「いや、どういうつもりっていうか俺たちにもなんでこうなってるのかさっぱり」
ね、と太李が同意を求めると梨花が首がちぎれんばかりの勢いで頷いた。
「一応お前に話があった、のは事実なんだけど」
「俺に?」
低く聞き返されて太李は小さく頷いた。
目の前の彼は今すぐに話せと言わんばかりだがさすがに幼馴染二人の前で堂々とヒーローになってくれとも言えず、というかそもそもどうして被り物なんてしてたのかと問いかけたい気持ちもあり、どうしたらと思考を張り巡らせていると「こいつさ」と京が南波の肩を叩いた。
「この通り顔は怖いし、声は低いけど根はいい奴だから仲良くしてやってくれよ」
「ちょっと!」
三人揃って小さく笑った。
それから南波は京の腕から抜けると窓の外を見て、顔をしかめた。
「曇った……?」
はっと三人が同時に立ち上がる。窓の外には暗雲が立ち込めたような暗い空が広がっている。見覚えのある空間だ。
巳令が黙って京と和奈に視線を向けた。案の定、二人はその場で崩れ落ちるかのように眠っている。
南波もそれに気付いたのか二人を覗き込みながら「和奈? 京さん?」とその体を交互に揺さぶっている。
「鉢峰、梨花先輩」
「分かってます」
「うん」
三人で頷き合ってから「益海くん、少し待っていてください。私たち、様子を見てきます」
「あ、ああ……?」
チェンジャーがあれば、事情を話して変身させることも可能だったがそれを持っているのは今この場にいない柚樹葉だ。仕方ない、と三人は病室を飛び出した。
廊下でもその場に看護師や医師、患者たちが崩れ落ちていた。
「ほんと、あいつらどこでも出てくるな」
「結局のところ人が集まってる場所ならどこでもいいんでしょうね」
そんなことを言いながら中庭に辿りつくと梨花が一番に声をあげた。
「あ、ふ、二人とも! あそこ!」
梨花が指差す先には軽く二メートルはありそうな海に棲むタコの姿をしたディスペアがうねうねと触手を動かしている。
「こりゃまた」
「調理のしがいがありそうですね」
巳令が腕輪を構えながら小さく笑う。
「あんなの食いたくねーよ」
溜め息交じりにそう言いながら太李は指輪を掲げ、梨花は髪飾りに手をかざした。
「二人とも準備はいいですね?」
「ああ」
「頑張る!」
声を揃え、三人が叫ぶ。
「変身!」
掛け声と共に三人が眩い光に包まれた。
その光にディスペアが三人に気付き、ゆっくりと振り向いた。それを見ながら鉢かづきとなった巳令が刀を抜いて構えた。
「悲しき魂に救いを与える姫、鉢かづき!」
そのあとに斧の柄を握りしめた梨花が続く。
「悪しき心に罰を与える姫、お、親指姫!」
最後にマントを風に任せながらレイピアを構えた太李が叫ぶ。
「哀れな役に幸せを与える姫、シンデレラ!」
「悪夢には幸せな目覚めを!」
三人が声を揃えた。
「フェエーリコ・テルツェット!」
それから少し間を空けて「なんで俺最後なの?」と太李。
「そっちの方が合わせやすいかなって」
「こ、こだわるね」
「当然です」
うんうんと頷く巳令とそれに苦笑する二人めがけて大きな触手が振り下ろされた。
三人はギリギリのところで跳び上がってそれを回避するとまずは梨花が斧を振りかぶった。
「ええい!」
鋭い斬撃がタコの触手に直撃して一本を切り落とした。別の触手が降って来て彼女はそれを斧で受け止めた。
「ひっ」
「ナイスです親指!」
梨花の斧に襲い掛かっていた触手を切り落として巳令が笑う。
それから巳令は太李の方に振り向くと「シンデレラ!」
「おう」
「触手の方は私と親指で落とします。本体に一気に行ってください」
「了解」
レイピアを構えた太李が一気に駆け出した。
長い触手がそんな彼を捕えようと伸びていくが太李を掴む前に巳令か梨花に切り落とされていく。
地面に落ちていく触手をかわしながら太李が叫ぶ。
「最も哀れな役に幸せなエピローグを!」
ばっと現れたレイピアが一斉にディスペアめがけて飛んでいく。
「リベラトーリオ・スタッカーレ!」
しかし、彼の手には何かを突きぬいたという感触は一切なかった。
あったのは、唐突に走った激痛だけだった。
白衣を翻しながら柚樹葉はその場に崩れ落ちている医師たちになど目も向けず、つかつかと先に進んでいく。その肩に乗っていたスペーメが小さな耳をぴくんと動かした。
「ナイチンゲール」
「その名前で呼ばないで」
「鉢かづきたちがここの中庭で交戦中のようなのです!」
「巳令たちが?」
居たのか、と眉を寄せながらいや、それよりもだと彼女は病室の前で足を止めた。
ポケットの中に手を入れて、目的のものがあるのを確認してからはぁ、と息を吐いた。思い描いた通りにすればなんの問題もないはずだ。
「おっじゃまー」
意気込んで彼女は病室の中に入り込んだ。
個室になっているそこには二人の男女が眠り続けていた。その二人を茫然と立ち尽くしながら見つめる青年に柚樹葉は安心したように笑った。
お前を探してたんだ。
「やあ」
後ろから声をかけると青年は勢いよく振り返った。
「お前は……確か、九条」
「お、さすが。覚えててくれて嬉しいよ」
腰に手を当てて柚樹葉はにこっと笑った。
大丈夫。自分は少なからずこの男の弱点を分かっている。これでやっと四人目だ。
「益海南波」
口元を引き上げながら柚樹葉が続けた。
「君は、現代科学の生み出した奇跡というものを信じる?」
「どういう」
「大切なもののためなら」
彼の後ろで眠ったままの男を見て、彼女は言い放った。
「自分の命をその奇跡に売る覚悟はある?」
太李は一瞬、自分の身に何が起こったのか理解できなかった。
「シンデレラ! しっかりして! シンデレラ!」
ゆさゆさと体を揺さぶられて薄目を開けると鉢の下の巳令の顔が酷く歪んでいるのが分かった。
「はち、み、おれ」
「叩き付けられたんです。後ろから」
「後ろ……?」
不思議そうに顔をしかめる太李に巳令が頷いた。
「凄いスピードでシンデレラの技を全てかわして、背後に回ったと思ったら一気に」
「まじ、か」
でかい図体に似合わないことをする、と奥歯を噛み締めていると梨花の声が二人の鼓膜を揺らした。
「マーベラス・フィニッシュ!」
ずしん、と地響きが聞こえたものの彼女の斧は敵を捉えることはできなかった。
「やっぱり、あ、あたしの技じゃ駄目だよ、ね」
「だったら」
太李の体をそっと地面に置くと巳令が刀に手を掛けた。
しかしそれを抜くより早く、少し低めな女の声が制止をかけた。
「やめておけ。お前らのスピードじゃ返り討ちだ」
背後から聞こえた声にむっとしながら巳令が振り返るとぎゃあとおぞましい声をあげながらディスペアがよろめいた。
「な」
「どこ見てる」
うろうろと視線を泳がせて、巳令はようやくその声の主を見つけた。
丈の短めな体にぴったりとフィットした赤いドレスを着た釣り目の女だった。くびれを強調した、まるで人魚のようなデザインだった。巳令たちのものとは異なり、肌の露出面が多いにも関わらず白い肌はかえって人の目を惹く。
美しい金色の髪をなびかせながら手に握っている三叉の槍を一振りした。そんな彼女を見ながら「もしかして」と梨花が恐る恐る尋ねた。
「に、人魚姫?」
「だったらどうした」
そう言って人魚姫は地面を蹴り上げてディスペアめがけて襲い掛かった。
それに応戦しようとまだ残っている触手を振り上げたがはっと人魚姫はそれを笑い飛ばした。
「遅いんだよ!」
振り上げた三叉槍が一瞬にして触手を切り裂いた。
そのまま踏み込んでその体を蹴り飛ばすと「で?」と首を傾げた。
「どうしたらいい?」
「あ、っと」
声を詰まらせながら巳令が答える。
「あなたが変身した時に使ったアクセサリーがあるはずです、それに力を込めるところをイメージして」
「これか」
首に掛かったネックレスを握りしめた人魚姫は一拍置いてから「不幸な存在に一筋の光を」再度間合いを詰めた。
「フルクトゥアト!」
目にも留まらぬ速さで人魚姫の握った槍が角度を変えながらディスペアを貫いていく。
最後にはそのまま槍をその体に突き刺し、ゆっくりと引き抜いた。
ぐしゃりとディスペアが崩れ落ちた。
同時に空が晴れていく。見上げながら人魚姫は黙って変身を解いた。
光の中から出てきた人物に「はぁ!?」と太李が叫んだ。
「お、おま」
「なんだ」
鋭い三白眼。紛れもなく、そこに立っていたのは南波だった。
柚樹葉がここにいたのか、と巳令は眉を寄せた。来ていたならば一言、言えばいいものを。
不満を募らせながら巳令も黙って変身を解いた。