第三十六話「ごたごたしたことに一区切りをつけたかったようです」
その日、蒲生鈴丸は訓練所の真ん中で今まで感じたことがないほど自分の教官という立場に対して後悔にも近しい感情を抱いていた。
原因は目の前に座ってにこにこと笑ったままの鉢峰巳令だった。
まるでこの世の全てを受け止めようとばかりの笑顔は数々の美男美女を目の当たりにした鈴丸から見ても非常に魅力的である。それこそまさしく、一輪の花がその場に咲いているという大袈裟な表現すらも、当てはまるほど彼女の笑顔は美しかった。恐らく、彼女にぞっこんであろうどこかの高校生を置いておけばずっと見惚れていてくれるだろう。
しかし、そんな笑顔も、今の鈴丸からすれば、厄介の象徴でしかなかった。
そうとも知らず、あるいは知っていてもあえて無視しているのか、鈴丸には一切分からなかったものの、艶やかな巳令の唇が小さく開き、言葉を発する。
「それで、灰尾が」
声の調子は実に晴れやかだった。
このまま放っておくと自分の表情になど構いもせずに、彼女は話し続けてるに違いない。内心に冷ややかに伝っていた汗を拭い取り、鈴丸は彼女の言葉を遮るように声を発した。
「いや、いい! 皆まで言うな!」
「なぜです?」
きょとんと自分を見返す彼女に頭を抱え、鈴丸は返した。
「太李がお前を受け入れてくれたのは分かったから……もうその惚気今日三回は繰り返してるぞお前……」
珍しく、恋人を置いて訓練に早く来たと思ったらこれである。鈴丸はうんざりしていた。
ついに鉢峰巳令は自分の実家について、灰尾太李に打ち明けた。これ自体は、鈴丸にとってはとても喜ばしいことであったし、ある意味ではいらぬ心配もしていなかった件である。
彼の予想通り、巳令の心配をいい意味で裏切る形として太李が発した一言は「それがどうした」であった。
太李からすれば鉢峰巳令は巳令であり、家がどうこうなどということは些末な問題だったのである。
その返答に舞い上がったのは当然ながら巳令である。その喜びを共有したいが、しかし、梨花に話をするのは少しだけ違うような気がして、マリアもしかりである。かといってよもぎに話すと面倒が待ち受けているに違いない。残りの南波やベルについても同じである。柚樹葉など巳令からすれば論外である。
と、なれば。身近な存在で、巳令が惚気る相手として選択できたのが教官である鈴丸だった。
「もうこの際お前が俺相手に恋バナするのはツッコまない。それはいい。でもお前どんだけ同じ話題で惚気たいんだよ」
「だって嬉しかったんです」
「その喜びは一度で終わって欲しかった」
深々と溜め息を吐きながら鈴丸はがくっと肩を落とした。
手に持っていた器具を床に下ろしてから鈴丸はさらに続けた。
「俺は人の惚気をずっと聞いていられるほど強固な精神力は持ち合わせてない」
「人から借りたヘリを爆発する度胸はあるのにですか」
「あれはやむなしだ」
きっぱり返す鈴丸に巳令はつまらなさそうに唇を尖らせるだけだった。その表情を見て、彼は手で顔を覆った。なぜだか自分が悪いような気がしたからである。
「そんな顔すんなよ……」
「どんな顔してますか」
「知りません」
やれやれ、と首を左右に振ってから鈴丸は小さく、笑い声をあげた。
それに不思議そうに巳令が首を傾げる。
「なんで笑うんですか」
「いいや、別に。お前ら全員変わったな、と思ってさ」
巳令の頭の上に手を伸ばし、ぽんぽんと叩いてから鈴丸はどこか力なく笑った。
「そろそろ鈴丸さんのお役御免も近いかねぇ」
「いえ、まだまだです」
「そうでございますか」
あっさり否定され、おかしそうに手を引っ込めてから鈴丸は腕を伸ばし、ぐっと伸びをした。
そんな彼を見ながらそういえば、と巳令が彼の名を呼んだ。
「鈴丸さん」
「なんだよ」
「最近、梨花先輩と距離が遠くはありませんか」
ぽつんと問われ、鈴丸は一瞬動きを止めた。
それから、ぎぎぎとどこか不自然な動きで彼女の方に振り返り、目を見開いた。彼にしては珍しい表情だと、巳令は素直に感心してしまった。
「なんで」
「いえ、少しだけ違和感を感じたので。私の気のせいならそれでいいのですが」
「お前の気のせいです」
「そうですか」
あっさりと、会話が打ち切られた。自分が深く踏み込もうとしたところで、踏み込ませてくれるほど目の前の男が大人ではないことを巳令は知っていたのである。
二人の間に虚無が流れる。実に居心地の悪い時間だった。こんなことなら適当なことを言ってはぐらかしておくべきだったろうかと、鈴丸はちらと後悔した。
何か適当な話題を振ろう。そう思って彼が口を開きかけた瞬間だった。
サイレンの叫び声が空気を震わせた。この叫びが意味することを当然二人は知っていた。
鈴丸は用意していたくだらない日常会話の種を飲みこむ羽目になった。巳令の方はぽつんと溜め息をこぼしただけだった。
音が聞こえてくる寸前で、中に入ろうとしていたよもぎの嘆くような声がそのあとに聞こえてきた。
「やっときたのにー! あいつらほんっと空気読めねーな!」
「ま、まぁまぁ」
なだめるような梨花の声に続いて、ぎゃあと短いよもぎの悲鳴が聞こえてきたのでまたチョップを喰らったのだろうと鈴丸は判断をくだした。
巳令は腕にはめていた腕輪に確認するように触れてから小さく頭を下げた。
「行ってきます」
「おう、いってら」
軽く手を振られ、巳令は駆けだした。その背を見送りながらさて自分も定位置につかなければと鈴丸もゆっくり歩き出した。
河原の上に広がる空に視線を投げかけるときぃきぃと歪な鳴き声をあげながらカラスたちがこちらを伺うように飛び回っている。
投げかけていた視線を前に戻し、すでに変身を終え、手元のレイピアをくるりと回した太李は息を吐いた。
「今日は随分団体さんだなぁ」
ひらりとマントが宙に舞う。彼の視線の先には飛び回るカラスたちに守られるようにして鎮座している白ヤギがいた。全長は二メートルほどあるだろうか。
「どんな相手だろうと関係ありません」
きっぱりと返したのは巳令だった。鉢の下から鋭い視線を浴びせながら彼女は言葉を紡いだ。
「今日の私は絶好調ですから」
「……さいですか」
そりゃよかった、と心の中で返しながら「やるんだろ、いつもの」と太李は呆れ気味に問いかけた。
勿論。間を空けずに返答した巳令が一拍置いてから名乗りを上げる。
「悲しき魂に救いを与える姫、鉢かづき!」
後輩の満面の笑みを見ながら、どこか楽しそうにそのあとに梨花が続いた。
「悪しき心に罰を与える姫、親指!」
こうなれば、当然、続かないわけにはいかない。金色の髪を鬱陶しそうに振り払ってから南波が口を開き、
「不幸な存在に光を与える姫、人魚」
その声を聞き、先ほどまでの不機嫌など嘘のように吹っ飛ばしたよもぎがくるっとその場で一回転して、上機嫌に続く。
「残酷な宿命に終わりを与える姫、いばら!」
なんだかんだ言いながらこの面子はお人よしである。自分も人のことを言えないが。そんなことを考えながら太李が叫んだ。
「哀れな役に幸せを与える姫、シンデレラ!」
巳令の腰に携えられていた刀が鞘から抜かれる。
「悪夢には幸せな目覚めを」
鋭く光る、刃の輝きを合図にしたかのように五人の声は自然と揃った。
「フェエーリコ・クインテット!」
その声が響いたあとに、しゃくんとマリアが銃のスライドを引く音が誰かの鼓膜を揺らす。
ディスペアの関心が、ここにきてようやく五人に向く。それを確認しながら南波は槍に凭れながら頭を抱えた。
「どうしても必要か、これ」
「今さら。それに、そんなこと言いながら先輩、最近ノリノリじゃないっすか」
「またチョップ喰らいたいか」
うきうきとした調子で弓を抱きかかえながら告げるよもぎに南波は顔を引きつらせた。
そんな二人を止めたのは通信機越しのベルの落ち着いた声だった。
『はいはい、二人とも。遊んでる時間はないわよ』
「ええーベル姉様ぁ、別にウチら遊んでるわけじゃ」
「肩借りるぞ」
「へ? ぎゃあ!?」
一度地面を蹴り、飛び上がった南波がよもぎの肩に足を掛け、また飛び上がる。
突然のことにバランスを崩す後輩になど構いもせずに、上空に飛び回っているカラスの一軍に槍を振るった。黒い塊を切り裂いていく彼を見ながらよもぎは矢筒から矢をとり出し、憎々しげに告げる。
「あ、あんにゃろ……!」
「いばら、来るぞ!」
「んもー!」
マリアの声に素早くつがえた矢を放つことで、よもぎが答える。
一方、ディスペアの方は蹄で地面を抉り出してから頭に携えていた二本の角を見せつけるように頭を振るって走り出した。目標は手近なところにいた梨花である。
彼女は一瞬顔をこわばらせ、身を硬直させてから、狼狽え、泳がせていた手を自分の前に構え直した。
ディスペアと彼女の距離がゼロになったのはその瞬間だった。頭突きのように梨花に向かっていた角は寸分たがわず、彼女の手の中に納まった。手から感じる鈍い痛みに耐えながら梨花はそれを受け止めた。
じり、と梨花の足がわずかに後退する。その音を聞いて、彼女は両手に力を込め直すと、
「うにゃああ!」
そんな奇妙な叫びと共に、思いっきり腕を薙ぎ払った。
親指姫としての、か細い彼女の腕からは想像できないような力にあっさりとバランスを崩したヤギがごろりと地面に転がった。その四本の足が再び地面に着くより早く、太李と巳令が駆け出した。
「一塊逃げたな」
それを横目に、南波はぼそりと一言、そうこぼした。
自分に向かって飛んできていたカラスを切り裂いてから近くにいたマリアに「任せた」とだけ告げて、彼は駆けだした。
南波のその背を見て、「あ、ちょ、待ってくださいよせんぱぁい!」とよもぎも駆け出した。「お前ら二人ともいっちまうのかよ!?」というマリアの叫びは二人の耳に届いている様子もなかった。
ったく、勝手な奴ら。そう、独りごちてからマリアは銃口をまた上空へ向け、引き金を引いた。銃が鳴き、火薬のにおいが広がる。吐き出された鉛玉は宙を裂き、美しい軌道を描きながらまるで吸い込まれるようにカラスの体に命中していった。
『今日も惚れ惚れするねぇ』
ひゅう、と軽い口笛と一緒に通信機から漏れ聞こえてきたミハエルの声にマリアは心の中でうるせぇと返答した。口に出さなかったのは、相手にしたら彼が調子に乗ることは明白だったからである。
からかうような上司の声を耳にしてもマリアの集中力は乱れなかった。それどころか、ますます集中できたほどだった。また、引き金を引いた。
ディスペアの方へ駆け出していた太李がまず、握っていたレイピアを突き出した。
彼の得物に気付いたディスペアがそれを角で受け止める。鋭い音を立て、跳ね返されたレイピアをさらにディスペアは角を振るって、振り払う。小さく顔を歪めてから太李は後ろに飛びのいて距離をとった。
ああ、邪魔くさい! ばさりと彼がマントを払うのと、巳令が次いで飛びかかったのはほとんど同時だった。
上から振り下ろされる刃を、ディスペアは再び角で受け止める。それに、動揺した様子も見せずに、受け止められた刀を軸にするかのようにくるりと前に一回転した巳令は一旦、刀を鞘に納めてからゆっくり、降下するのと同時にまた鞘から引き抜いた。
斬り付けられたディスペアがよろめいた。「だから言ったでしょう」確認するかのように巳令が続ける。
「今日の私は絶好調です」
凄いなぁ、と素直に心の中で感嘆をこぼしてからぎゅっと斧を握りしめた梨花が走り出す。巨大な斧を振り上げ、着地した巳令と対照的に飛び上がった彼女の口は、斧の刃が最高点に達したところで言葉を紡いだ。
「悪しき心に正しき罰を!」
斧を下に突き出して、梨花はそれを切り裂いた。
「マーベラス・フィニッシュ!」
二つに裂かれたところからさらさらと砂がこぼれ落ちていく。やがてディスペアは、音もなく、砂となって崩れ落ちた。
両足をつけ、梨花がおとと、という言葉と共に着地する。同時に、一瞬だけ光に包まれて、次には元の『東天紅梨花』が立っている。
同じように変身を解除した巳令と太李が彼女の方に駆け寄った。
「はぁ、なんとかなったぁ」
胸を押さえ、ほっと息を吐く梨花にお疲れ様です、と太李が頭を下げる。
間もなく、空が元の、澄んだ青色を取り戻した。ぐーっと伸びをする巳令は愛も変わらずの上機嫌であった。
一方で、集団から離れた一隊を切り裂いた南波が顔を上げる。一番最初に飛び込んできたのは真上に架かっていた対岸とを結ぶコンクリートでできた無骨な橋だった。
「終わったみたいっすね」
傍に居たよもぎが弓を下ろしながら、そう言った。ああ、と彼は小さく返すだけだった。
さっさと変身を解除して合流しよう。南波がそう思った瞬間だった。
「あの」
よもぎのものでも、自分のものでもないか細い声が、彼の鼓膜を揺らした。
何かの聞き間違いに違いない。南波はそう自分に言い聞かせていた。この声が聞こえているのは困るのだ。
隣に駆け寄ってきていたよもぎも、どうやら同じことを考えているようで、顔を引きつらせながら固まっている。どういうことだ。彼女の目は確かにそう語りかけていた。
俺が知りたい。南波は心の中でそう返すのが精一杯だった。
「あの!」
聞こえていないと思ったのだろうか、声の主がさらに声量を増した。
せめて、似ている誰かであってほしい。そう願いながら、南波はゆっくりと振り向いた。
「さ、さっきの、それに、あの、あなたたち」
――間違いじゃなかった。振り返った自分の迂闊さを南波は呪った。
そこに立っていたのは、誰でもなく、益海南波の幼馴染である宗本和奈だった。
ディプレション空間が消え去ってから、不適合者たちが目を覚ますには少し間がある。だから今まで、彼らは変身を解除するところを見られたことはなかった。
南波がはじめて変身したとき、彼女は間違いなくあの空間で気を失っていた。適応者ではなかったはずだ。だからこそ、自分が変身したのではなかったのか。
不完全適応者、という単語が彼の頭によぎったのはそのときだった。が、それに気付いたところでどうしようもない。
女になった自分が、今、目の前にいる幼馴染――しかもかなり気まずい状態の――と目が合ってしまったことの解決にはこれっぽっちもならないのだ。
幸か不幸か、和奈が、目の前にいる美女が南波であるということに気付いている様子はない。
「か」
「私たちは!」
口をついて出かけた言葉を押し殺させるように、よもぎがどこか上ずった声をあげた。
まだ戸惑ったままの和奈を見つめながらよもぎは言い聞かせるように続ける。
「その、なんていうか、正義の味方? 的な、っていうか。その急にそんなこと言われても困ると思うんすけどとにかく、そういうことなんで、他言無用というか!」
まだ固まったままの南波の腕を、よもぎが掴む。とにかくこの場から逃げなければ、厄介が降り注ぐ前に。
どうせ、誰かに話したって話半分で済む。他の不適合者が起きるまでに早くこの場を離れ、変身を解かなければ。人通りが少ない場所とはいえ、誰かに見られたらまずい。不必要な注目は自分たちには不要だ。
ところが、何を思ったのか、和奈はぱっとよもぎが掴んでいたのとは反対側の南波の手を掴まえると「正義の味方なら!」とまるですがるように言葉を放った。
「私を、救ってくれませんか」
その言葉に、南波は驚いたように彼女を見下ろした。まずい。よもぎがまた口を開いた。
「せんぱ」
「明日」
元の低い声とはかけ離れた、美しい声が和奈に告げる。
「明日、夕方、またここにいろ」
ぱぁっと和奈が顔を輝かせる。
その顔を見て、そっと彼女の手を振りほどいた南波はよもぎの手を握り返し、まるで逃げるように飛び上がった。
やっと和奈の姿が見えなくなったそこで、変身を解除したよもぎが、責めるような、どこか怒気を含んだ声で重々しく告げる。
「……明日、行く気ですか」
はっと南波はその言葉を鼻で笑った。
「まさか。俺だってそこまで馬鹿じゃないさ。灰尾じゃあるまいし」
『そうであってくれないと困るよ』
南波のチェンジャーから、不満げな柚樹葉の声が響く。
『いい? 君らが変身者だってことが無関係な第三者に知られたらまずいんだよ』
「分かってる」
『……ならいいけど』
まだ釈然としない調子を残しながら、柚樹葉の声はそこで途絶えた。
嘘ばっかり。よもぎは心の中で南波をそう嘲笑った。
「あんた、宗本先輩との約束破ったことなんてないくせに」
思わず口からこぼれたよもぎの言葉を、まるっきり無視して南波はジャージを着こんでいた身を縮こまらせた。
「寒い。春風、上着貸せ。上着」
「嫌っすよ、ウチだって寒いんですから!」
ぎゅっと自分の体を抱き締めながらそれに吠え返した。
そうする以外、彼女は何もできなかった。
その翌日、昼休みに図書室へ出向いたよもぎは、いつも通りカウンターに座っている南波を見て、どこか安心していた。ほっと彼女が息を吐くと、南波は文庫本から視線を外さないまま、静かに声をあげた。
「なんだ」
「や、別に?」
誤魔化すように返却する本を取り出して、よもぎは笑った。
本を受け取りながら南波はぼそりと吐き捨てた。
「気持ち悪い……」
「可愛い後輩に向かって気持ち悪いとはなんだーこのー!」
ぶーっと頬を膨らませたよもぎは、そのあとに、その不機嫌顔をやめるとスカートをひらりと揺らし、カウンターに身を乗り出した。
彼女のシャンプーの香りがふわりと漂ってきた。それで南波は彼女が今まさにどこにいるか理解したのだった。
「なんだよ」
「ほんっとうに行く気ないんですね」
はぁ、と南波は深々と溜め息を吐いた。
「しつこいぞ」
「心配なんすよ」
「お前に心配されるなんて俺も堕ちたもんだな」
吐き捨てる南波に「そうです、堕ちましたよ、先輩」と淡々とよもぎは答えた。
驚きで目を見開く彼の顔をよもぎは覗き込んだ。けれど、何か言うことはない。ただ自分を見つめているだけだった。
妙な居心地の悪さを南波は覚えた。気持ちの悪い汗が背筋を流れる。
「……はるか」
「なーんちゃって。先輩に、自分の心配なんて不必要ですよね。すいませんっす」
てへぺろ、と舌を出し、ピースサインを向けてくる彼女に南波は言葉を失った。
「んじゃ、先輩。また放課後に! 今日は部活休みですから鈴さんの訓練みっちりっすよー!」
覚悟しとけー、とよもぎは逃げるように図書室を後にした。
これ以上、あそこにいたら余計なことしか言えない気がする。
新しい本を借りてくることを忘れていたことも気にせずに、彼女は顔を俯かせながらずんずん廊下を突き進んだ。
そんな彼女の歩みを止めたのは誰かにぱっと右腕を掴まれたという事実だった。
「どうしたの、よもぎちゃん」
そう問いかけてきていたのは、太李だった。驚いたように目を見開く彼を見て、突然、押し殺していたものが溢れかえるような感覚を、よもぎは覚えた。
危うく目からこぼれそうになったその感覚をぐっとこらえてからにぱっとよもぎは笑って見せた。
「どーもしてないっすよ!」
「嘘吐け。下向いて歩いてたくせに」
それからちらりと廊下の奥を一瞥してから、彼は静かに問いかけた。
「南波となんかあった?」
これにすぐさまよもぎは答えた。
「何も」
バカップルのくせに、よく見てるんだから。
「よもぎちゃん、なんかあっても何もっていうじゃん。もっと先輩を頼っても」
「あ、鉢峰先輩」
「……そんな見え透いた手が通用するとでも?」
「でもちょっとぴくっと反応しましたよね、先輩」
うるさいよと言い放たれ、すんませんとよもぎは謝った。
仕方ない、とよもぎは重たい口を開いた。
「なんだかちょっと切なくなっちゃっただけですよ」
「それって」
「ヘタレ灰尾には関係ないことです」
ぱっと太李の腕を振りほどいてから「んじゃ、しっつれいしまーす!」と勢いよく頭を下げてからよもぎは走り出した。
太李がぽかんとその背を見送っていると不意に立ち止まったよもぎがくるっと振り返った。
「あ、そだ。はいおせーんぱい」
甘ったるい声で、よもぎははっきりと告げた。
「ウチ、今日、訓練サボるんで鈴さんへの言い訳よろしくでーす」
自分は夢でも見ていたのではないだろうか。宗本和奈の頭の端にそんな考えがちらつき始めた。
昨日、自分の身に起こったことが現実であるという自覚が未だに彼女の中には芽生えてこなかったのだ。美しい金髪を風に預け、異形のものを倒していく綺麗な女の人。その姿は和奈の目には確かに正義の味方として映っていた。当然、それが南波であることなど夢にも思っていないのである。
その彼女を、和奈はひたすら待っていた。時間の指定もされず、ただ『夕方』という言葉だけを信じて、学校が終わってからすぐにここに来た。
寒さに耐えるためにコートの中に顔を埋めながらはーっと息を吐いた。来るという保証はない。しかし、和奈は不思議と『彼女』がここにやってくるのではないかという確信にも近い感情があったのだ。
京の見舞いに行かなくなってから彼女は時間を持て余していた。その上、何もしていないと、余計なことを考えてしまいそうだったのだ。だったら、誰かを待っている方がよほどいい。
そんな和奈の事情も相まって、彼女は名前も知らない、来るのかもわからない待ち合わせ相手をさほど苦にも思わずに待ち続けた。
自分でも、なぜ彼女の腕を捕まえてあんなことを言ったのかは分からなかった。でもだからこそ、確認したかったのかもしれない。
「……ほんとにきたのか」
うんざりしたような、低い女物の声に和奈はぱっと顔を上げた。
「そっちこそ、ほんとにきたし」
彼女の目の前には、赤いドレスの上にコートを羽織った金髪の女が立っていた。
「あの様子だと南波、いっちまったぞ」
今まで沈黙を保っていた鈴丸が椅子の背もたれに体重を預けながら柚樹葉にそう告げた。
その場に彼の上司であるベルとミハエルは居ない。同僚であるマリアもだ。丸くなっているスペーメを撫でながら「だろうね」と柚樹葉は返した。あまりにも落ち着き払った彼女の声に、鈴丸の方がかえって焦ってしまいそうなほどだった。彼は間髪入れず、問うた。
「いいのか?」
「別に私は、益海南波と宗本和奈の接触を禁止した記憶はないよ」
気持ちよさそうに自分の手に頭を擦りつけるスペーメを見ながら柚樹葉は口元に笑みを浮かべた。
「ただ私は、無関係な第三者に変身者だとばれるのがまずいと言っただけ。第一、やめろと言われてやめるほど、益海南波は優しさを持ち合わせた人間じゃない。むしろ強情になるタイプだ。だから何も言わなかっただけ。無駄なことを言うのは効率的ではないからね。彼がそういう人間であるということは私も理解しているつもりだよ」
いつになく饒舌な彼女に、鈴丸は茶化すように告げた。
「だから選んだ、って言いたげだな」
「その通り」
にこっと微笑んだ柚樹葉に鈴丸は苦く笑うばかりだった。
そんな彼を見ながらスペーメを抱き上げ、膝に乗せると柚樹葉はさらに続けた。
「心配ない。彼は強情だけど本人が言うように灰尾太李のような馬鹿ではないから。それに、いざとなれば春風よもぎがいる」
「……そうでございますか」
肩をすくめながら立ち上がった鈴丸に「どこ行くの?」と柚樹葉は問いかけた。
「決まってんだろ。あいつらの訓練。サボった奴らは明日二倍やらせる」
鬼だな、と柚樹葉は誰にともなく呟いた。
一方で、紅茶をカップに注ぎ終えてからベルは口元に手を当てながらその驚きを素直に表現していた。
「まぁ、よもぎさんまでお休みなの?」
まるで南波のことは想定済みだったけど、と言わんばかりのベルの言葉にこくんと太李が頷いた。
「なんで休むか言ってくれなかったんですけど、サボるからって」
「……ふーん、そっかぁ」
手際よくカップを並べていくベルの手元を見ながら、しみじみ、ミハエルが呟いた。
「愛だな」
「おっさん、余計なこと言わない」
呆れたように彼を睨み付け、ベルはやっと椅子に腰を下ろした。
うーん、と悩ましそうに巳令が唸る。
「この際、あの二人のことは二人で解決してもらうとして目前の問題は」
「鈴への言い訳だな」
やれやれだ、とばかりにマリアがソファから腰を上げた。
妙な言い訳をしたら訓練量が増えるのは自分たちの可能性もある。悩ましい。
やっぱり、とベルが視線を投げかけたのは絞り出しクッキーを口に運んでいた梨花だった。
「ここは梨花さんがかわいーく二人のお休みを鈴丸に言うのが一番安全な方法だと思うわ」
「ふぇ!?」
ごくん、とクッキーを飲みこんでから梨花は声を荒らげた。
「な、なんでですか!?」
「だってあいつ梨花さん大好きだもの」
うんうん、とその場いた全員が迷わず頷いた。それに梨花は、ますます顔を赤くしながらぶんぶんと首を左右に振った。
「それは」
そのとき、梨花の頭の片隅に蘇ってきたのは自分をどう思っているのかと、彼に問いかけたその日のことだった。
かぁあっと顔に血が上って行くのが分かった。しばし、硬直してからやがて彼女は勢いよく椅子に座り、また無言でクッキーを食べ出した。
耳まで赤くした彼女がクッキーを食べる光景を見ながら「キュートだなぁ、リカは」とミハエルが呟いた。
「お前それぜってー鈴の前で言うなよ」
「なんでだ」
「俺がお前を殴るからだよ」
不機嫌そうな声に一斉に視線が向けられる。いつの間にかやってきている蒲生鈴丸が、その視線を一身に受けた。
「ええと、いつから」
尋ね辛そうな巳令の声に、溜め息を吐いてから鈴丸は返した。
「よもぎがいないって話のところから」
まさか、柚樹葉の言う通りになるとは。あいつは鈍いんだか鋭いんだか。もしかしたらスペーメが余計なことを言ったのかもしれないな、と彼は心のどこかで悔しさのようなものを感じていた。
恥ずかしくなったのか、机の上で突っ伏す梨花の頬を突きながら「サボり魔共には明日ヤキ入れるのでお前らは余計な心配しなくてよろしい」
はい、と太李と巳令の声が重なった。
長い廊下を抜け、よもぎは目的の扉の前で足を止めると大きく息を吸い込んだ。
薬品の香りが彼女の鼻腔を突き抜けていく。その香りには客人を迎え入れようという雰囲気は感じられなかった。それどころか自分は拒まれている気がする。よもぎにはそうとすら思えてならなかった。
中にいる人物は、自分という予想外の来客にどんな反応を示すのだろう。よもぎの頭の中にさまざまな予想が駆け巡る。
彼は自分を歓迎するだろうか。それともこの香りのように拒絶するだろうか。恐らく前者だろうなとよもぎはうっすら考えた。そこには確信にも近い何かが秘められていた。
ここにやってきたのは彼女からしてみれば単なる好奇心で、以上も以下もなかった。けれども周りの大人に怒られるのを覚悟してここまでやってきたのだから納得が得られるまでは帰るつもりも彼女にはなかった。
答えを聞いて、どうしようという気はなかった。自分は灰尾先輩とは違うのだ、と彼女はあくまでも言い聞かせた。それは一瞬の暗示のようでもあった。
やがて、もう一度深く息を吸い込んだ。それが、以前、この中にいる人物を想っている人物と同じ行動だとは知らずにだ。
扉に手をかけ、彼女は躊躇わずにそれを開けた。少しでも躊躇したらその時点で自分は身を翻し、この場から逃げ出したに違いないと思ったからだった。
部屋にぽつんと置かれたベッドの上に横たわっていた部屋の主が勢いよく体を起こした。その目には、待っていた誰かを見つけたような、期待が含まれていた。
期待に満ちた目は、よもぎの姿を捉えることで驚きで大きく見開かれた。少なからず、嫌がっている素振りはなかったことによもぎは安堵した。
数秒、視線を交わし、沈黙を過ごしてからよもぎはやがて、ゆるりと頭を下げた。
「どうも」
そんな彼女を部屋の主―― 矢代京は不思議そうに見つめているだけだった。
固められたような彼の口が、やっと動くようになったのか、ぎこちなく言葉を紡いだ。
「どうしたんだよ、春風」
「いえ、たまたま近くに寄ったので。お土産買ってきちゃいました」
えへへ、と洋菓子店の袋を見せてからよもぎは近くの椅子を引っ張ってきて腰を下ろした。
南波のところへ行こうとよもぎは何度も考えたのだ。それでもここにやってきたのは、気になっていることをうやむやなまま終わらせるのは気味が悪い。そう思ってしまったからだった。
そうとも知らぬ京はよもぎの顔を見つめ、嬉しそうな笑みを浮かべてから「いやー、最近人と話す機会が少なくてなぁ」
何も知らないフリをして、自分は問いかけるべきだろうか。よもぎが思考のためにとった数秒をどう受け止めたのか、京はにっと笑ってから首を傾げた。
「南波からなんか聞いたか?」
「いえ」
誰に気を遣っているのかも分からないまま、よもぎの口から嘘がこぼれ落ちた。一度、溢れかえればもうそれは止まらなかった。
「益海先輩、最近来てないんですか?」
我ながら白々しい問いかけだと思う。
けれどやはり、そんなことを知らない京は一度頷くとさらに続けた。
「多分、怒ってる」
「……怒ってる?」
ああ。よもぎはその一言で全てを察したような気になった。いくらなんでも、こうなれば答えは目の前に吊り下げられたも同然だった。
だから、よもぎは次の問いを口にできた。
「京さん、宗本先輩のこと好きなんすか」
そんなつもりはなかったのにどこか挑発するような口調になったことをよもぎは心の中で反省した。
だが京はそれを意に介した様子もない。黙って窓の外を眺めてから、やがて、さあ、と、小さく返すだけだった。
南波が言いたいことが、やっと分かったような気がした。
「病気だから、ですか。だから黙ってるんですか」
「別に」
「そういうわけじゃないなんて言わせませんよ」
一層、口調が強くなるのを自覚しながらよもぎは彼を見つめていた。
こんなとき、何を言い出せばいいのか。隣にいる幼馴染を確認しながら南波は困り果てていた。
彼女が、自分の横にいる存在が幼馴染である『益海南波』だと気が付いている様子はない。その方が都合がいいのだから、南波にとっては喜ばしいことだったがそれゆえに下手なことは言えなかった。
コンクリートの柱に凭れ掛かる。そんな南波を見上げながら和奈の口からこぼれた最初の言葉は謝罪だった。
「ごめんなさい」
「どうして謝る」
目を合わせたら余計なことを言いそうだった。なるべく遠くを見つめながら返せば、和奈はやはり申し訳なさそうに続けた。
「何を話したらいいのか、よく分からなくて」
「……別に。こっちだって同じだ」
腕を組もうとしてから、南波はそれをやめた。ドレスの上から見せつけるようになった大きな胸は、元々男である彼にとっては腕を組むことすら阻んでくる障害物でしかなかった。
彼女は救ってくれと言った。何から、と問うことは南波にとっては少しだけ億劫だった。
けれど、彼が問わずとも和奈はぽつんと口を開いた。
「私、好きな人がいたんです」
「過去形だな」
自分の声に感情を滲ませないようにしながら、あくまで淡々とした声で南波はその声を遮った。
びくっと震えた和奈は、しかし、それに関しては何も言わずに、さらに続けた。
「それで、私のことを好きな人がいた」
「それこそ過去形にするな」
驚くべきほど、早く南波の言葉は和奈に返されていた。
返された本人たる和奈も驚いたように自分を見つめている。それに頓着していられるほどの余裕は今の南波にはなかった。
「簡単に、割り切れるような話でもないだろ。進行形で、そいつは多分お前が好きだ」
南波は続けて、言いたくないことを吐き出した。
「お前が、諦めきれてないのと同じで」
瞬間、和奈の目がわずかに潤む。
けれど、涙が溢れ出ることは決してなかった。溢れないことも、南波は知っていた。
「私たち、ずっと一緒だと思ってた」
「ああ」
俺だってそう思ってた。
「私が、何も言わなかったら」
「過去のこと振り返っても仕方ないだろ」
「でも」
「昔のことなんて終わらせろ」
自分にとっても、和奈にとっても、それが必要なことなはずだ。さらに彼は続けた。
「それで、またはじめるんだよ。新しい関係を」
「私、でも、フラれて」
「それが相手の本音だったか? 俺にはどうもそう思えん」
もはや、包み隠すことなどできなかった。あともう少し勢いがつけば、自分は益海南波だと告げてしまいそうなほどだった。
本当はどうあるべきか、自分は知っている。ずっと二人を見てきた。ずっと一緒にいた幼馴染だから、どうすればいいのか、分かってる。
俯いていた和奈は、やがて顔をあげ、南波と目を合わせた。
「私」
「お前は逃げてただけだ」
そして、自分もそうだ。
和奈に投げ掛ける言葉の全てが自分に返ってくる。それにわずかに痛む心を自覚しながらも、南波の口は止まらない。
「いい加減、前を見ろ」
そんな彼の言葉に、和奈は、ふわと微笑んだだけだった。
「やっぱり、似てるなぁ」
次いで、こぼれてきたのはそんな言葉だった。不思議そうに南波が首を傾げると和奈は「私の、大切な幼馴染に、そっくり」
南波はただ黙り込んだ。それにどう返すべきか迷ったのではない。返答すべきではないと判断したからだ。
ぱちん、と和奈が両手で自分の頬を張った。それから、よし、と頷くとこうしてはいられないとばかりに踵を返した。
「ありがとう、ヒーローさん」
「お前が見たのはただの夢だ」
ぼそっと呟くように告げる南波に、和奈はにこっと笑った。
「うん。分かった。夢だから誰にも言わないよ」
約束を守る人だと、少なからず南波には分かっていた。ならいい、と和奈から視線を逸らし、言う。
「分かったらさっさと行け」
「……本当にありがとう。またいつか」
ぺこりと頭を下げ、和奈が駆け出した。
その背を黙って見送ってから、辺りを見渡して、誰も居ないのを確認してからやっと、南波は変身を解いて、その場で崩れ落ちた。
疲れた。ただそれだけだった。いっそ、このままここで化石にでもなりたいくらいだった。
「せんぱい!」
聞き慣れた声に南波は地面に向けていた視線を、上に持ち上げた。
肩を動かしながら自分を見つめていたのは春風よもぎだった。
ああ、とまた視線を逸らしながら南波は言葉を放った。
「いたのか」
「途中から」
「……どうする? 九条に言いつけるか?」
ところが、その問いには一切答えずに、よもぎはすたすたと南波に近付くと彼の体に手を回した。
抱き締められ、目を見開く南波になど構わずによもぎはわずかに上ずった声で、
「あんた、馬鹿ですよ。いくらでも言えたのに。いくらでも自分を有利に出来たのに」
「……泣いてんのか」
「うるせぇこの野郎!」
なんでお前が泣くんだ、理不尽だ。南波はいくらでもその類の言葉を彼女にぶつけることができたはずなのに、それをしなかった。
代わりのように、ぽんぽんと後輩の頭を撫でるだけだった。茶色に染められた髪は少しだけ痛んでいた。
「いいんだよ、これで。引っかき回しても勝てない試合なんだし。別に俺だってどうこうしたかったわけでもないし」
「でも」
「これ以上言うな。お前に同情されてると思うと腹が立つ」
「なんすかそれ!」
吠えるよもぎに南波はただ、弱々しく、告げるのだった。
「ありがとう、春風」
それだけだった。それ以上、二人は会話を続けることはできなかったのだ。




