第三十五話「金魚と鉢かづきは違うようです」
はぁああ、と深々とした溜め息を吐き出しながらよもぎはぐでーと前に倒れ込んだ。ぺたりと机に彼女の額がくっついた。
まるでそれを予期していたかのように、彼女の目の前にあったろくろを移動させていた巳令は首を傾げた。
「どうしたんですか、よもぎさん。部活、楽しくありませんか?」
部長が巳令になって、もう一週間は過ぎていた。その間のよもぎの表情はどこか彼女らしからぬ、晴れないものだったと巳令は記憶している。もし、新生部長である自分に落ち度があったのならば直さなければと意を決して問いかける巳令によもぎはふるふると首を振った。
「やー、そういうわけじゃないんすけどね。どっちかってーと、憂鬱なのはこのあとっていうか」
唸るよもぎに全てを察したのか、ああ、と巳令は返すのみだった。
その横に座る柚樹葉はその意味が分からなかったようで不思議そうな表情を浮かべた。
「何が嫌なの、はっきり言いなよ」
「……ゆずちゃん先輩なんか嫌いです」
「まぁまぁ、よもぎさん」
苦笑して、彼女をなだめてから巳令は柚樹葉に優しく告げた。
「ミハエルさんがいるのと、鈴丸さんの厳しさが原因かと」
「……ああ」
目を細め、ここ数日の彼らの様子を思い返しながら柚樹葉はそれだけの相槌を返した。
ミハエル・アウレッタが本部に居座っているのは柚樹葉も当然ながら知っていた。否、知っていたどころの騒ぎではない。半ば、あそこを居住としている彼女からしてみれば毎回毎回、会うたびに絡まれて迷惑もいいところだ。
そのストレスのせいなのか、やたらとこのところ、鈴丸が厳しいようなのも、柚樹葉は心のどこかで気付いていた。
手についた粘土を拭い取ったよもぎがわーん、とわざとらしい泣き真似をしながら叫ぶ。
「ずっといるおかげかセクハラは少ないですけどあの大人超めんどくさいし、鈴さん鬼だしー! ベルさんもマリアさんもピリピリしてるしー! 癒しはウルフちゃんだけじゃないっすかー! なんで最近鈴さんあんな厳しいんですか―! 持久走ツーセットに筋トレ一式と模擬戦闘なんて人間が一日でやる訓練量じゃないー!」
じたばたと足を動かしながらこの場に居ない教官に文句を垂れ流す彼女を見ながら巳令は溜め息交じりに言う。
「よもぎさん、昨日のことをもう忘れたんですか」
巳令の言葉に、よもぎは全身にぞっと寒気が走るような感覚を覚えた。
昨日――これが示す事態は昨日の訓練中、起きたことである。
いつも通り、というかいつもより明らかに多い訓練量をへとへとになりながらこなしていたよもぎが鈴丸に不満を述べたことが事の始まりだった。
いくら厳しい訓練をして負けないようにしなければいけない、といっても体がぼろぼろになっては始まらない。それを涙ながらに訴えたよもぎを見て、鈴丸は「じゃあ楽にしてやろう」と言い出した。
そのあと、言われるがまま、よもぎがマットの上に横たえたときに、事件は起きる。
最初はなんの変哲もないマッサージだった。さすがは鈴丸、といったところで指が押し込まれる力は程よく疲れをとって行った。
が、そこで許すほど鈴丸は優しい人間ではなかった。指が移動し、また押し当てられた瞬間に、よもぎの全身にはこれまで体験したことのないような痛みが走った。
「あだだだだ!?」
「効くだろ、疲労回復のツボ。……ちょっと痛いかもしれないけどな」
「ちょっとじゃなあだぁ!?」
女子らしからぬ悲鳴をあげるよもぎを見て、残りの四人は顔を真っ青にしながら一歩、また一歩と後ずさって行く。
そんな彼らに視線を向け、よもぎの悲鳴を聞きながら鈴丸はにっと笑った。
「お前らも疲れてるよなぁ? 梨花以外は」
恐らく梨花からは不満が出なかったからだろう―― 一人だけ慌てる梨花を見ながら残りの三人は、まるで死刑を宣告された囚人のように体が動かなくなっていた。
そして、その宣告通り、全員が、強制ツボ押しマッサージを受けたのはもはや言うまでもないことである。
――ちなみに、このツボ押しというのが、労うためでもなんでもなく、言うことを聞かない部下を躾けるために鈴丸がやる常套手段だということを、数年前に被害に遭ったマリアからクインテットが聞いたのはその日の帰りのことだった。
昨日押された部分を手で触れながらよもぎはぶるりと震えた。
「お、思い出したらまたあの痛みが……」
「いつも大袈裟なんだよ、君は」
「ゆずちゃん先輩はあれをされてないからそんなことが言えるんです!」
がぁっと吠えるよもぎの頭に手刀をかましてから南波は憎々しげに吐き捨てた。
「あんなの人間がやることじゃない……」
「君ら、本当に彼が好きなのか時々疑わしくなるよ」
うーんと、唸る柚樹葉の肩からぴょいっと白い体が飛び降りる。スペーメである。
スペーメは机の上に着地すると自分の手を舐めながらぼそっと言う。
「蒲生といえば、あいつ最近様子おかしいのです」
「おかしいって? 別にいつもあんな感じでしょ」
またしても意味が分からないとばかりの柚樹葉にスペーメはひくひくと小さな鼻を動かした。
「だから柚樹葉は鈍いのです」
「電池を抜かれたいの、デブ」
「スペーメデブじゃないです!」
ばんばんと後ろ脚を机に叩き付け、不満を示すスペーメに「でも確かに」と同意を示したのは巳令だった。
「多少様子が違いますね。主に梨花先輩への態度とか」
今は居ない先輩のことを考えながら巳令はうんうんと頷いた。あー、とよもぎ。
「そーいや、鈴さん、梨花先輩にひっつかなくなったよーな。一歩分距離ありますよね」
「あのおっさんがいるからじゃないか?」
南波の言葉に「上司がいるからってそれで自重するようなできた大人じゃないですよ、あの人」とよもぎは涼しく答える。
スペーメの綺麗な瞳がどこかを捉える。それから口が開かれた。
「自重してるどうこうより、いつぞやのシンデレラを見ている気分なのです」
そのすぐあとに返したのはよもぎだった。
「まっさかー。あの鈴丸さんに限ってヘタレの灰尾と名高い灰尾先輩と同じわけないじゃないっすか」
「だな。あのヘタレ魔人灰尾と、いかにも遊び慣れてそうな鈴丸さんが同じわけない。スペーメの勘違いだろ」
「そうですね、ヘタレムッツリの灰尾と同じにしたら蒲生が可哀想なのです。スペーメ、蒲生に悪いことしちまったです」
「お前らな、言っとくけど俺ここにいるからな!?」
今まで黙々と作業を続けていた太李がばんっと机を叩きながら立ち上がった。
あ、と二人と一体が声を揃える。「つーか!」と太李が指差したのはスペーメだった。
「もうこの際ヘタレって言われるのはいいとしてなんだよムッツリって! すっげー適当な言葉を付け加えるのやめろ!」
「じゃあオープンスケベなのか、それはそれで引くぞ俺は」
淡々とそんなことを言ってのける南波に勢いよく太李は返す。
「違うわい!」
「とかなんとか言って鉢かづきとあんなこととかこんなことするのを日々もうそ」
「してな」
すぐさま否定しようとして、真っ赤になって顔を俯かせている巳令を見て、太李はそこで言葉を止めてしまった。
それに、よもぎがやたら嬉しそうな声をあげた。
「やっぱりしてますぜー! 旦那ぁ! こいつぁしてますぜ!」
「う、うるさい! 俺だってな、健全な男子高校生なの!」
「うわ、先輩開き直った!」
「……女になるのに?」
「それは九条さんの趣味のせいだろ!」
だぁあ、と頭をかかえる太李にけらけらとよもぎが笑う。
そんな光景を、まだ熱い頬に手をやったまま見つめていた巳令の携帯電話が小さく震えた。
なんだろう、とメールボックスを開いてから巳令は黙り込んだ。
母親からのメールだった。『お客様がいらっしゃっているので用事の前に少しだけ帰ってこられますか』という淡白な内容のものだった。
きっと行かないと言えば、この母は分かりましたと了承してくれるのだろう。
けれど訓練の前に少しくらいは時間があるだろう。ただですら好きなことをしているのだ。たまには家のために尽くさなければ。
帰ります。ただそれだけの言葉を書いた返事を送信すると、ふぅ、と息を吐いて顔を上げる。その目の前に、南波の顔があった。
驚きのあまり、びくっと肩を跳ね上がらせ、少しだけ身を引いた。
「メールか?」
「ええ、まぁ。母から」
髪を耳にかけて、そう答える巳令にふーん、と南波はやはりさほど興味なさげに返すのだった。
それから、部活が終わったのはすぐのことだった。
恒例となりつつあるミーティングで一応の解散を告げてから、また五人で泡夢まで向かう。これがいつもの流れである。
ところが今日はそうではなかった。
「それでは、今日の活動はここまでです。お疲れ様でした」
きっぱりと廊下で解散を告げ、頭を下げた巳令の後に続いて残りの面々が形式的なお疲れ様を投げかけあう。
それを終えてから巳令は、話を続けた。
「あと、今日の訓練、申し訳ないのですが先に皆さんだけで行ってください。遅れてもきちんと、参加するので」
「いいけど、なんか用事? 少しくらいなら俺も待つけど」
首を傾げ、純粋に問いかけてくる太李にいえ、と巳令はぶんぶん、かぶり振った。
「少々積もる話があるので。いつになるかもわかりませんし、悪いですし。二人もいなかったら鈴丸さんも困るでしょうし」
「……ん、分かった」
じゃ、また後でな、と手を振る太李に巳令は慌てて呼びかけた。
「あ、あの!」
「ん?」
「……ごめんなさい」
ぽつんと、虚空に放り投げられた謝罪の言葉に一瞬だけ、驚いたような表情を浮かべてから太李は小さく笑った。
「気にすんなって。謝んなくていいから」
「はい……」
でもやはり、私はあなたに謝らなくてはなりません。
スクールバッグの持ち手を握りしめながら巳令はそんなことを頭の片隅で考えた。
「巳令さんが遅れるって、なんだか、珍しいね」
今まで来ていたTシャツに手を掛けながら梨花が用意された更衣室でそう、こぼした。
汗でべたついたシャツは簡単に脱げないのか、それとも大きな山になっている胸がつかえてしまっているのか、んーと脱ぎにくそうに目を瞑る彼女を見てからまぁ、とよもぎが答える。
「みれー先輩も色々忙しいんじゃないすかね。部長になってからバタバタしてたみたいですし」
「……ひ、引き継ぎ、あれで大丈夫だったかな……?」
「今んとこは問題ないっすよ。何かあれば聞きますし」
「そ、そう?」
はいっす、と頷いてからよもぎはジャージのシャツに腕を通し、頭を出した。
半袖のせいで、すっかり冷たくなった空気に晒された腕が痛い。さみー、と素直な感想を漏らし、傍に放り出していた上着を拾い上げ、袖を通すよもぎはちらりと梨花の方を伺った。
ちょうど新しいシャツに着替え終わったところだったようで「寒いー」と自分の上着を探していた。
ちっとよもぎが小さく舌打ちする。それにびくっと梨花が肩を跳ね上がらせた。
「よ、よもぎさん……? なんで舌打ちするの……?」
「せっかく口うるさいみれー先輩もいないから梨花先輩のお着替えを拝もうかと思ってたのに見逃した自分が憎いっす」
瞬間、一気に顔を真っ赤にした梨花が叫ぶ。
「よもぎさん!」
「ひゃー、怒られたー。でもいいっす、ジャージの上からでもセクハラはできますから」
「なんでセクハラ前提……!?」
自分の身を抱きながら一歩、また一歩と下がって行く梨花にじりじりとよもぎが迫る。ぷるぷると振るえる様は、まさしく小動物と呼ぶにふさわしかった。
そろそろ、あまりいじめるのも可哀想だと思ったよもぎはくすくす笑いながらその手を下ろす。
「なーんちゃって。春風が先輩に酷いことするわけないじゃないっすか」
「も、もう! びっくりした……」
ほっと胸をなでおろす梨花に笑ったまま、よもぎが告げる。
「まぁ、先輩のたわわな胸を女の子という特権を利用して手中に収めたい願望は無きにしも非ずですが」
「……怒るよ?」
「きゃー」
楽しそうな声を上げながらよもぎが荷物を抱えて、更衣室を飛び出した。自分が本気で怒ってないのも分かってるんだろう。
もう、と再度、溜め息を吐いてから梨花もその後に続いた。
一方で、すでに訓練所へと辿りついていた太李と南波は目の前の光景にどのような言葉をかけるべきかを悩んでいた。
冷たい風は吹きこんでいるのに、暖房の類が一切ないせいか、訓練場は二人の想像をはるかに超えて冷え切っている。板張りの床はまるで氷のように冷たい。これからさらに温度が下がる、とはあまり想像したくないものだった。
その、冷たい床の上に、男が一人、頭からフライジャケットを被って倒れ込んでいた。顔こそ隠れて見えてはいないものの、筋肉質な体のおかげでそれが鈴丸であることは二人にはすぐに分かった。彼の体の上には覆いかぶさるようにウルフがべたーっと寝転んでいる。
「す、鈴丸さん……?」
困惑を隠そうともしない太李の声に鈴丸はぴくりと反応した。
しかし、それだけであった。それ以上は動こうともせずに倒れ続けるだけだった。髪を掻きむしながら彼の横に太李は腰を下ろした。
上に乗っていたウルフが「やわらかくない」と文句を言うのに苦笑しながら彼はさらに問いかけた。
「どうしたんですか」
「うるせぇ……うるせぇ、ヘタレ……」
「なんで俺急に罵倒されなきゃいけないんですか!?」
超理不尽! そう叫ぶ彼の声を無視して鈴丸は頭を抱えた。
「ばかぁ」
「なんで!?」
聞き返す彼の声に、鈴丸はがばりと体を起こした。
ウルフがバランスを崩して「あわわわ」と言いながら床に転がり落ちた。
「ぎゃあああつめたぁぁああ! もーいっかいやってー!」
そう言ってけらけら笑いながら転げまわる彼女に構いもせずに太李の肩をがっと掴んだ鈴丸は深刻そうに告げる。
「どうするんだよ……俺あと一歩間違えたら警察のお世話になってたぞ……」
「いつもスレスレだろ」
「おい南波そういうこと言うな!」
そう返してから、彼の脳裏に浮かんだのはミハエルがやってきたその日のことの出来事だった。
思い返すだけでも死にたくなる。自分は勢いで何を言いかけたのだろう。いつも触っていたはずの梨花の感触がやけに生々しく残っている。
「お、俺はヘタレじゃない……そう、こいつとは全然違う……絶対何かの間違いだ……」
「なんか俺今日すっげぇ理不尽な目に遭ってる気がする」
顔を引きつらせながら呟く太李は、頭の上に疑問符を浮かべつつそう呟いた。
大方、よもぎと自分が逃げ出した後に何かがあったのだろう。とは南波は思っていたがそれ以上は何も言わなかった。代わりのように思い出した事柄をそのまま言葉に書き換えて、外に吐き出した。
「そういえば、今日、鉢峰遅れてくる」
「え? なんで? 夫婦喧嘩?」
「違います」
すっと鈴丸の手を肩から外しながら太李は溜め息交じりに返した。
胡坐をかいた彼の上にとてとてと駆け寄ったウルフが腰かけた。
「やーい、フラれてやんの、だっせー」
「うるさいおこちゃま」
けらけら楽しそうな笑い声をあげるウルフの頬をむにーっと引っ張った太李に鈴丸は問いかけた。
「夫婦喧嘩は冗談だとしてさ、最近どうよ。その辺の情報は教官の俺にメールをくれていいと思うんだよね」
「全然思いませんけど。ていうか、鈴丸さんは絶対野次馬したいだけでしょ」
「俺がそんな酷い奴に見えるのか」
「見えます」
「うん、合ってる」
頷く鈴丸に太李は頭を抱えた。どうして自分の周りの大人はこういう人ばかりなのだろう。
自分の境遇を嘆きつつ、彼はぼそりと「最近変なんですよね、鉢峰」
「元々変というか中二病だろう、あいつは」
「南波、それは俺も知ってる。知ってるから」
そうじゃなくて、と太李は難しそうに唸った。
自分が最近、彼女に感じていた違和感をどう言葉にすればいいのかが自分でも分からないのだ。一見すれば、おかしなところなどないように思えるのだ。本当にわずかな違いだった。その細やかな違いがしばらく継続しているからこそ、彼はそれを疑問に思っていた。
「なんか、よそよそしいっていうか。そわそわしてるっていうか。鉢峰らしくないっていうか……?」
ふむ、と頷いた鈴丸が自分の手を狐の形にしてみせた。その口をぱくぱく動かして、彼は答える。
「鈴丸さんが思うに隠し事されてますぜ、旦那」
「……それは」
「心当たりありと見た。聞いてしんぜよう」
「だから、なんで鈴丸さんに話さなきゃいけないんですか」
がくっと項垂れてから、しかし、目の前の大人は簡単に引いてくれるような人でもないと思い直した太李は座ったまま、自分の手を掴んで振り回して遊んでいるウルフをぺちんと叩いたのちに白状した。
「鉢峰から家の話聞かないんですよ」
「家って、実家ってことか」
「はい。多少は話してくれるんですけど、なんか、いまいち釈然としないっていうか、はっきり見えてこない話し方っていうか。いや、言いたくないならそれでいいんですけど」
「そのせいで気まずくなるのは嫌なわけだ」
太李は黙って頷いた。
一方で、鈴丸の方は巳令の行動の原因について心当たりがある。というより、クインテット全員のある程度の事前情報は彼が教官になる少し前に知らされている。これまでの経歴、どういう人間か、そして家庭環境のこともである。
巳令の心配し過ぎだと、鈴丸は素直にそう思った。もっとも、余計な口を出さないのは彼なりの大人な行動だ。
自分の口から伝えることは簡単だ。それをよしとしないのは、恐らく自分だけではないだろうと鈴丸は思っている。
「まーあれだ、青春だな、青くせーな。頑張れよ」
ばしっと自分の背を叩いて立ち上がる鈴丸に太李は眉を寄せた。
「うわすっげぇ適当。もっとないんですか?」
「俺は聞くとは言ったけどアドバイスするとは言ってなーい。アドバイスが欲しくば金をよこせ、金を」
「何その胡散臭いメルマガみたいな手口」
「それに」
彼のことを見た鈴丸はにっと笑ってみせた。まるで子供のようだ、太李はそう思った。
「お前だって俺からのアドバイスを期待して話したわけじゃないだろ?」
また一つ、頷いてから太李が言う。
「……ずるいですよ、鈴丸さん」
「それが大人だ。手っ取り早く大人になりたくば卑怯になれ」
「アホか」
小さく笑いながらそう吐き捨てたのは南波だった。
むっと顔をしかめた鈴丸は南波に視線を向けて首を傾げる。
「そういう釣れないこと言っちゃう南波は? 俺に相談しときたいことは?」
「あんたの野次馬精神満たしてやるほど俺はお人よしじゃない」
「あら残念」
肩をすくめる鈴丸を見てから何も言わずに南波も立ち上がった。
そんな彼を見て、太李の上から飛び降りたウルフが南波のシャツの裾を引っ張った。
「あちしはー? あちしに話すことはー?」
「ない」
「ケチー!」
むがーっと叫ぶウルフにゆっくり視線を向けてから「ああ、そうだ」と彼は話題を変えた。
「本、好きか?」
「ほん!?」
ウルフは思わず目を輝かせた。今まで読みたくても読めなかったものの名前だったからだ。
こくこくと首がちぎれてしまいそうなほどの勢いで頷く彼女になら、と南波は表情一つ変えずに言い放った。
「俺の読まなくなった奴でいいならやろう」
「いーの……!?」
「うちに置いてあってもかさばるだけだしな。実家に絵本もまだ残ってるだろうからそっちも持ってきてやる」
「みなみぃー!」
がばーっと小さな腕を精一杯伸ばして、ウルフは南波に抱き着いた。
その顔には満面の笑みが咲いている。そこまで喜ばれて悪い気はしなかった。もっとも、それを素直に口に出せるほど益海南波は素直な人間ではなかったので、ぐぐっと小さな体を引き剥がしながらあくまで、淡々と告げる。
「引っ付くな鬱陶しい」
「ええーぎゅーってしてやるー! ぎゅーって!」
「しなくていい」
「あー何やってるんですかー益海先輩ー」
ぱたぱたと可愛らしい足音と共にやってきたのは着替えを終えたよもぎだった。
別に、と南波が返すのとほとんど同じタイミングでウルフが彼女に飛びついた。
「よもぎー! 本ー! 本がよめるよー!」
「え、本?」
今までの話を聞いていなかったよもぎからすればなんのことかはさっぱりであったが、とにかく嬉しそうなウルフを見て、小さく笑った彼女はウルフの頭を撫でてやった。
「よかったねぇ」
「うん!」
そんな光景を眺めていた南波の視界の端に、少し遅れて入って来た梨花の姿が見えた。
それを確認してから「うっし、それじゃ、今日は柔軟から行きますか」と鈴丸が告げる。すぐさま、よもぎは唇を尖らせた。
「ええー……」
しかし、はっとしたように口を閉じたよもぎは慌てて、吐き出す予定だった不満を別の言葉に書き換えた。
「うわーい、春風、柔軟だぁいすきぃー」
そんな苦しい言い訳に梨花と太李は顔を見合わせてから苦笑した。
すっかり遅くなってしまった。
一度は脱いだ制服へ着替え直しながら巳令は内心慌てていた。
両親への来客だからと着物に着替えたものの、制服のままでもよかったかもしれない。想像以上に自分の話で盛り上がったせいで抜け出すタイミングを掴めなかった。
荷物をまとめ、立ち上がってからちらりと時計に目をやる。急げばまだ間に合うだろう。
日が短くなったせいか、すでに辺りは暗くなり始めている。溜め息を押し殺して、彼女は部屋の戸に手を掛けた。
しかし、それを開く少し前に、くるりと方向転換して、彼女は荷物を下ろして部屋に置いてある机に駆け寄った。
机の上には大きめな金魚鉢が一つ、ぽつんと置かれていた。その丸い世界の中でひれを揺らしながら、紅色の金魚たちが泳いでいる。水を切り、水草と戯れるように泳ぐ彼らの姿はこの時期にはあまり似合わない、涼しげな光景だった。
傍に控えていた餌のケースを手に取ると巳令はそれを水槽に振りかけた。ぱらぱらと水面に浮かび上がる異物に、彼らは恐怖など微塵にも感じていない様子で向かって行った。水面に顔を出し、一斉にぱくぱくと口を開け閉めする。そうであることが前から決められていた運命だったかのように球体は金魚たちの口に吸いこまれていった。
その様子を見ながら巳令はぽつんとこぼした。
「あなたたちは、素敵ですね」
ひらりひららと鉢の中を泳ぎ回り、餌がやってくれば周りの目など気にもせずに大きく口を開け、餌を待つ。常に全力で生き続けるのに、どこか可愛らしいその生き物のことが巳令は昔から好きだった。
「それに比べて、私はずるいでしょうか」
金魚たちは餌を手に入れることに必死で巳令の呟きを聞いている様子はない。
小さく笑ってから彼女は自分の足元に置いたままの荷物を拾い上げるとやっと戸を開けた。
「いってきます」
その挨拶にも、彼らは餌を貪り食うだけでひれを振って返すことなどは決してなかった。
長い廊下を抜け、玄関で靴を履き替えて外に出ると、やっと巳令は息を吐き出した。
家のことは嫌いではない。むしろ好きだ。けれど好きだからこそ、悩んでしまう。
しかし、こんなところで立ち止まっている暇は巳令にはない。とにかく今は、泡夢財団に向かうことだけを考えなければ。
そこからまた少しだけ長い道を通って、やっと門扉の外へ出た彼女は気持ちを入れ替える意味で、「よし!」と呟いた。当然、それを誰かに聞かせようと思ったわけではないし、誰かが聞いているとすら彼女は思っていなかった。
それゆえ、次に自分の鼓膜を揺らした自分以外の声に彼女は言葉を失った。
「相変わらず可愛いわね、鉢かづき?」
目を見開いて、彼女は固まった。
巳令はこの声に覚えがある。出来ることなら二度と聞きたくない。そうとすら思っていた声だ。
ブレザーの下に隠れている腕輪にそっと手を触れながら巳令はゆるりと声の方に向き直った。
「黒猫……!」
「ンフ、覚えていてくれて嬉しいわぁ」
そこにいたのは真っ黒なコートに身を包んだトレイター、黒猫の姿があった。遠くの方に見える人が普通に歩いているところを見るとディプレション空間は発生していないらしかった。
美しい曲線を描く胸の下で手を組んだ彼女を巳令は睨み付けた。困ったように彼女は笑う。
「そんな怖い顔しないで?」
「なんの用ですか」
「……こんなところで立ち話もなんだし」
大きな目を細め、長い髪にくるくると指を絡めながら黒猫は歪に笑った。
「場所、変えましょうか」
訓練場の隅で遊び疲れたのか毛布を体に巻きながらすやすやと寝息を立てるウルフがいた。それを一瞥してから彼は口を開いた。
「やあ、ボーイズ、順調か?」
訓練場に現れたミハエルの姿を見て、一番に顔を歪めたのは鈴丸だった。
休憩中の四人をちらりと見てから不満げな言葉を発する。
「何しに来たんだよ」
「野次馬」
「帰れ、そして二度と現れるな」
「坊主、お前反抗期するにはもう可愛くない歳だぞ」
けっと吐き捨てて、鈴丸はそのままそっぽを向いて黙り込んだ。
やれやれと苦笑する彼の後ろからひょこっと顔を出したのはマリアだった。
「よっす」
「あれ、マリアさんもいたんですか」
太李の問いに彼女はぶーっと口を尖らせた。
「あたしだってさっきまで射撃練習してたんだぜ? だけどミハエルのおっさんが」
「お前、これ以上、上手くなってどうする気だ」
「って」
肩をすくめるマリアに太李は苦笑した。
それから彼女は掃き捨てるようにミハエルに告げる。
「つーか、人の訓練野次馬してる暇があったら自分も鍛えないとすぐ動けなくなるぜ」
「……心外だな、まだ老いぼれのつもりはないんだが」
そう言ってスーツのジャケットを脱いだミハエルは足を伸ばし、床に手をつくと両手と両爪先の力で自分の体を持ち上げた。
にっと口角をあげ、その笑顔を保ったままでひじ関節を曲げ、体を下げる。そこから息を吐き、腕を伸ばす。
これだけであれば普通の腕立て伏せであった。ところが、勢いよく伸びた腕は床から離れた。空中でその手が叩かれ、また床に戻る。
その間、浮かんでいた笑顔は崩れることはない。それを二、三度繰り返したところで体を起こし、彼は首を傾げた。
「俺だってこれくらいなら余裕だ」
「……春風、今素直にあのおっさんすげーって思ってるの悔しいんですけど」
ぼそっとこぼすよもぎにミハエルが笑いかける。
「惚れてくれてもいいんだよ?」
「いや、ウチ、枯れ専じゃないんでノーサンキューっす」
ふるふると首を左右に振るよもぎに残念だ、とミハエルは眉を下げた。
それから「というより、マリアよりはまだ動けるつもりだけどな」むっと彼女が顔をしかめる。
「あたしだってそれくらいできるし」
そう言って自分もミリタリージャケットを脱ぎ捨てると先ほどの彼と同じ体勢になり、腕立て伏せを始めた。
数回、普通の腕立て伏せを繰り返してから、勢いよく腕を伸ばし手を浮かせて、そのまま叩いた。
「どーだ!」
クラッププッシュアップを続けたまま、そう自分に叫ぶマリアにミハエルはさらっと言い放った。
「マリア、スマイル」
ミハエルの言葉に応じ、にっと口角をあげ、マリアは同じように腕立て伏せをしてみせた。
「おお、凄い凄い。じゃあそのまま二十回はいってみるか」
「はぁ!?」
「はーいスマイル崩れてる。俺より体力あるんだろう?」
笑った形のままの口角をひくひくと動かしながらマリアは腕を動かし続けた。
「そのくらい余裕だし?」
「おお、頼もしいね。そしてその頼もしい胸は重そうだな」
「さり気なくセクハラかましてる辺りやっぱりあのおっさんすげーです」
またぼそっと呟くよもぎの言葉に太李と南波が頷いた。
それには一切構わずに、鈴丸の方を見たミハエルはにこりと微笑んだ。
「で、坊主、お前は?」
「は?」
突然の飛び火に意味が分からんとばかりに鈴丸は顔を歪めた。
ミハエルはおおーっと目を輝かせながらマリアを見つめている梨花を示して「未来の後輩に手本を見せてやるのもお前の仕事だろう?」
「マリアだけで充分だろ」
「それとも何か、日本で教官とかいってふんぞり返ってる間に鈍ったか?」
ん? と首を傾げるミハエルに「ああああ! わあったよ!」と自分もジャケットを脱ぎ捨てて鈴丸もマリアの横で腕立て伏せを始めた。無論、笑顔である。
その様子を見てから、おかしそうに笑ったミハエルは四人に振り返って、さらりと告げる。
「これが坊主たちでの遊び方だから。覚えとけ」
「嫌な上司だな……」
顔をしかめる南波にもミハエルはけらけら笑うだけだった。
まだ腕立てを続ける二人を見ながら「それにしても」と梨花は心配そうに口を開いた。
「巳令さん、遅いね」
「……何かあったのかな」
ちらりと出入り口の方を見てから太李は深々と溜め息を吐いた。
すると、がらがらと音を立てながら扉が開いた。ばっと身を乗り出してから、太李は「あ」と声を発した。
「ああ、ベルさんか……」
「え、あ、ええ。ごめんなさい、私で」
苦笑しながら、戸惑いがちに入ってくる彼女に「いや、そういう意味じゃないんですけど」と太李は困ったように返した。
その様子を見て、ミハエルがしみじみ呟く。
「こりゃ重症だな」
「あーやっぱりおっさんから見てもそう思います?」
「おっさんは色んな人間見たからなおさら分かるぞ。重症だ」
よもぎと頷き合うミハエルを見て不思議そうにしてから、腕立て伏せをしている二人を見つけ、ベルは声をあげた。
「なんでクインテットじゃなくてうちの傭兵が訓練してるのよ!?」
「煽ったら始めた」
「あなたねぇ……」
「ベルガモットも混ざればいいじゃないか」
悪びれた様子もない彼の言葉にベルは悩ましそうに頭を抱える。どうしてこの上司はいつもいつも。
その会話を聞いていたらしいマリアがきっぱり告げる。
「やめとけやめとけ、ベルがやったら怪我するから」
「あら、マリア、それどういう意味かしら?」
首を傾げながらマリアに問いかけるベルに、彼女に代わって鈴丸が答えた。
「無理すんなババア」
いつの間にか腕立てをやめ、はっきり言ってのける鈴丸の背後に素早く回ったベルは彼の首にするりと腕を回すと一気に締め上げた。
「が!?」
「そんな言葉遣いしていいだなんて『お姉さま』はあなたに教えてないわよぉ……?」
ばんばんと自分の腕を叩いてギブアップを知らせてくる鈴丸を無視して、ベルは冷たくそう告げた。
がくがくとマリアが震える。やっぱりこいつを怒らせるのはやめよう。彼女は心からそう誓った。
ディスペア出現のサイレンが鳴り響いたのはちょうどそのときであった。
黒猫の持つ鞭が空気を切り裂き、自分に向けて飛んでくる。巳令は刀を鞘から抜き、それを弾き返すも相手が動揺している様子は一切ない。
柚樹葉と連絡が取れるようになったのはほんの少し前からだった。それすらできなかったら、と思うと巳令はぞっとした。
ひゅん、とまた鞭が風を切る音がした。地面を蹴り、巳令が飛び上がるとまさにその位置に、的確に鞭が打ち込まれる。
かわしてばかりでキリがない。苦々しい表情を浮かべながら彼女は懐に手を入れた。
取り出したのは強化変身用の指輪が入った箱だった。それを指にはめてから「柚樹葉、お願いします」
並行して出現しているというディスペアがα型だということは柚樹葉から聞いて知っていた。強化版を使っている存在がいないなら、今ここで一気に叩くしかない。
通信機越しに了解、と短い柚樹葉の返事が聞こえてきた。巳令が眩い光に包まれたのはそのすぐあとだった。
光が晴れれば、巳令は丈の短い着物に身を包んでいた。腰に携えた二本の刀を同時に抜くと地面を蹴り付け、走り出す。
一瞬で、黒猫との間合いが詰められる。驚きで目を見開く彼女に構わずまず右手の刀を振り上げ、一閃。
身を反らし、刃をかわす黒猫に巳令は左手の刀を横に振り払った。もう一歩かわし、鞭を振るって刀が捉える先を自分からわずかにずらした黒猫はンフと、特徴的な笑い声をあげた。
「よほど私が嫌いなのね」
「言ったでしょう、あなたのような人は嫌いですと」
「そこまで自分にとって大切なものが壊れるのが嫌?」
何も答えず、巳令はまた刀を振り下ろした。黒猫は地面を蹴り、後ろに宙返りしてそれをかわすと口元を歪に歪めた。笑っているつもりなのだと、巳令はすぐに気が付いた。
しかし、巳令の目にはそれは到底、笑みとしては映らなかった。もっと別の感情を表しているような、不愉快なものだった。
挑発するかのように黒猫の言葉は続く。
「それとも私が怖い?」
「あなたなんて怖くありません」
「……そう」
細められる彼女の目が、まるで全てを見透かしているような気がして巳令は全身に走る寒気を感じた。
巳令の言葉は虚勢であった。本当は、今目の前にいる女がどうしようもないほどに怖い。今すぐにでも逃げ出したいのだ。自分は、どうしてここまで彼女を恐れているのか。巳令自身にさえ、それが分からなかった。
「あなたは私に似ている」
小さくこぼれた黒猫の言葉に巳令は顔をしかめた。
「……どういう意味ですか」
「さあ。ただこれだけは警告してあげる」
するり、自分に向けられた刀を気にもせずに黒猫は彼女の目の前に立つと愛おしそうに巳令を見つめ、そして、告げる。
粘着性のある、非常にねっとりとした、重みのある声だった。
「あなたの守りたかったものを、あなた自身が壊してしまうこともあるってこと」
慌てて、巳令は右の刀が振るった。
振るわれた刃の先には、すでに黒猫は居ない。それどころか、この場のどこからも姿を消していた。
「どういう意味ですか!」
そう、叫んでも、返事はない。
顔を歪め、巳令は黙って刀を鞘に納めると変身を解いた。顔を上げると乾いた空気の先に青い空が広がっているだけだった。
「鉢峰ー!」
少し遅れて、聞こえてきた大切なものの声に、巳令は慌ててそちらに駆け寄った。
その勢いのまま、彼の胸に飛び込んだ。
「うお!?」
「灰尾……遅いです、馬鹿」
「え、あ、ごめ……」
ん、と言おうとしてから巳令が小刻みに震えているのに気が付いて、太李は黙り込んだ。
ぎゅっと、縋るように自分に抱き着いてくる巳令の体をそっと抱き返しながら「怖かったのか……?」こくん、と巳令が頷いた。少し黙り込んでから太李は巳令の頭を撫でてて小さく言う。
「悪かった」
「いえ……」
多分自分が恐ろしかったのは、黒猫との戦いではない。
黒猫の言葉のせいで、もしかしたら自分は太李を失ってしまうのではないだろうかと。そんな恐怖に駆られていたのだ。
もし、彼を失ったらどうなるのだろうか。彼女にとっては考えたくもないことだった。
そう思えば、今まで悩んでいたことなど。巳令は太李を見つめながら静かに口を開いた。
「灰尾、お話があります」




