第三十四話「あの大人が戻ってきてしまったようです」
昨日までのお祭り騒ぎが嘘のようだ。段ボール箱を抱えながら梨花はしみじみ思った。
楽しかった時間はあっという間で、文化祭は終わってしまった。それを自覚するとなんだか梨花には、急に季節が冬になってしまったような、物悲しさが感じられた。
クラスの手伝いを終えて、やっと部活動の片付けも終わった。それが今の梨花の状況だった。
文字にすれば、それだけのことなのになぜか梨花の胸はきゅっと締め付けられるようだ。理由は分かっている。自分はこの部室から出て行かなければならないのだ。
三年間通い続けた工芸室を眺めながら梨花は目を細めた。こうしないと目から何かがこぼれてしまいそうだった。
別に後輩と会えなくなるわけではない。これから訓練に集中するのが嫌なわけでもない。ただ、寂しいのだ。
もう自分はここにきてろくろを回すこともなくなるのか。嫌なことがあっても、ここでろくろを回せば忘れてしまったものだ。
一年生のときは、先輩に追いつくのに必死だった。ただがむしゃらだった。
二年生のときは、やっと色々教えて貰ったことを実践するだけの余裕が出来た。でも後輩がいなくて本当は少しだけ焦っていた。
そして今は。一回は一人ぼっちになってしまったけれど、廃部することもなく、なんとか役目を終えることができた。
あたし、ちゃんと部長さんできたかな。結局耐え切れず、梨花の目からはぽろぽろと涙がこぼれた。
こんな姿を後輩に見せられない。慌ててブレザーの袖で目元をぬぐった。けれど涙は止まらない。おかしい。自分は笑って引退するつもりだったのに。今までのことが次々と頭の中で蘇っては涙を溢れさせた。
そのとき、彼女の鼓膜を今やって来たらしい太李の声が揺らした。
「梨花せんぱーい、片付けほとんど終わってましたけどもしかして先輩、一人で」
太李の声が途絶えた。恐らく自分の姿を見つけたのだろうと思った梨花は慌てて嗚咽交じりの声をあげた。
「ち、ちが、ちがうの、なんでもな」
「なんでもないこたないでしょ!? 怪我しました!? あ、どっか痛いですか!?」
ぱたぱたと自分の元へ駆け寄ってくる太李にぷるぷると梨花は首を左右に振った。
「ご、ごめんねぇぇえ、えっぐ、ちがうのぉ、だいじょぶだからぁ、ひっく、さいごまでごめんねぇ……!」
「…………」
涙でくしゃくしゃになった顔を腕で隠そうとする梨花に太李は黙り込んだ。
それから小さく息を吐いて、顔を隠し続ける腕を強引にどけるとポケットから取り出したハンカチで彼女の顔を拭った。
「い、いいよ、はいおぐ、きたないから」
「いいから。いいんですよ、梨花先輩、ずっと頑張っててたんですから」
にこっと微笑む太李に「あたし、頑張ってた……?」と梨花は問いかけた。
「頑張ってましたよ。誰よりも。ほんと、かっこいいっす」
そんな彼の言葉に梨花は声を押し殺しながらまた流す涙を増やした。
けれどこの涙の原因は分かっていた。嬉しいんだ。
梨花を見て、太李はよしよしと彼女の頭を撫でた。本来ならこれは鈴丸の役割なのだろうが、学校では彼は居ない。学校、特に工芸室にいる梨花と泡夢財団にいる梨花とでは全く違う。クインテット、ではなく陶芸部員たちはみんなが気付いていた。自分たちを信用していないわけではない。ただ梨花が甘えられる人間は、少なからずここにはいなかった。自分がみんなのリーダーでなければならないといつも気を張って過ごしていたのが爆発してしまったのだろう。
「ごめんなさい、少しクラスの子に捕まって」
そう言って工芸室に入って来た巳令は目の前の光景を見て、固まった。
けれど、太李が浮気している現場ではないことくらい、すぐに分かった。慌てて二人に駆け寄った彼女はそっと梨花の横に体をくっつけた。
それを見て、太李はそっと梨花から離れた。もう自分は必要ない、そう思ったからだ。
「お疲れ様でした、梨花先輩」
「う、うん……!」
「ほら、駄目ですよ、涙でぐちょぐちょじゃないですか。笑ってください」
でないと、と巳令の目からもすーっと一筋の涙がこぼれた。
「私まで、悲しくなっちゃうじゃないですか……!」
「うん……ごめんね……」
「私、怖いです、先輩がいなくなってしまうのが怖いです」
「大丈夫、大丈夫だよぉ……! みれーさんなら絶対できるから……!」
ぎゅっと巳令を抱き寄せて、梨花は彼女の頭を撫でた。それがいけなかったらしい。巳令はまた静かに涙を流した。
その間にやってきたのがよもぎと柚樹葉だった。柚樹葉はどうやら状況が飲みこめていないらしく入り口できょとんとしていたがよもぎの方はすでに目を涙で潤めながら二人に向かって駆け出した。
勢いのまま、よもぎが二人を抱き締める。
「よもぎしゃ」
「うわぁあああありかせんぱぁぁあやですよぉおお引退しないでくだざいよぉお!」
わんわん泣き声をあげながら巳令をもまとめて抱き締めるよもぎ。
それについに耐え切れなくなったのか梨花も今まで押し殺していた声を全部吐き出すかのようにあげ、巳令もそれに釣られてさらに泣き出した。
三人の泣き声が溢れかえる部室で深々と溜め息を吐いた柚樹葉は「ほら、君ら落ち着きなよ。今生の別れじゃあるまいし、どうせ泡夢で会うんだから大げさなうわやめ、よもぎ! 鼻水だらけで私に抱き着こうとしないで!」とその中に加わった。
最後にやってきたのは南波だった。彼は部室の惨状を見て、わずかに苦笑すると持っていたペットボトルを示した。
「こんなことだろうと買ってきた」
「お前凄いな」
太李は感心したような声をあげてからやっと落ち着いてきた梨花の元へ、南波と共に歩み寄った。
離れた場所にある赤い空き缶をマリアの碧眼が捉えた。
マリアが見ていたのはただそれだけだった。それが乗った台や、その後ろの灰色の壁も、自分が踏みしめている地面にも、彼女の関心は向いてはいない。
ただ彼女の鋭くなった神経は目の前の空き缶だけを確認していた。彼女の中の世界にはもはや自分と、それしか存在しない。
そのまま動かなかった彼女はやっと、ゆっくりと、銃を握っていた手を挙げた。銃口が赤い肌を捉えた。引き金に指を掛け、ゆっくり引く。実際、それは数秒の動作でしかないのだが、マリアには何時間もかかったような、非常に手間のかかる操作のように思えた。
薬きょうがこぼれ落ち、缶が衝撃を受け、わずかに動く。その缶にさらにマリアは引き金を引いた。
数発の銃声が響いてからマリアは大きく息を吐きながら手をおろし、側にあった台に先ほどまで火を吹いていた銃を置くと自分の頭に手を伸ばした。自分の耳を守っていたイヤーマフを少々乱暴に外した。
付け心地の悪いこのイヤーマフがマリアは苦手だった。つけなければならないと分かっていても、である。
銀髪を揺らし、彼女は的になっていた空き缶を拾い上げた。何発もの弾を撃ち込まれた缶はあっさりと鉛玉の貫通を許し、小さな穴をいくつも携えていた。
べこべこになった缶を見つめてからマリアは肩をすくめ、それをポケットにねじ込んだ。
そこで空き缶に注ぎ込まれていたマリアの神経が途切れた。やっと周りの情報をじわじわと取り込んだ彼女はやがて、露出された腕に触れた。急に寒くなった気がする。さすがに半袖、ましてやノースリーブで過ごす時期は終わったらしい。
邪魔だからと放り投げていた迷彩柄のミリタリージャケットに袖を通したマリアはふむ、と満足げに頷いた。たまにはベルもましな買い物をする。上司からの贈り物を満足げに見つめて、台の上に置かれたままだった銃をホルダーにしまい、やっと部屋の扉を開こうとノブに手を伸ばした。
ノブを握り、捻る前に、マリアはちらりと壁にかけてあった時計を見上げた。時計の針が示す時刻は、少しだけマリアを焦らせた。
今日はクインテットの訓練そのものは休みだ。連日の文化祭で疲れただろうから、という鈴丸らしからぬ配慮の結果だった。
それでも梨花だけはここにやって来る予定になっていた。クインテット、ではなく彼女の『進路』についてである。
アシーナの仕事についてくるために彼女には相応の訓練をさせなければならない。その説明をするのが今日だった。普通の女子高生ならばこんなの無理、と根をあげるだろうが恐らく梨花は受け入れるのだろうなとマリアは薄々感じていた。
その程度で折れる奴なら今頃この場に居ないだろう。それがマリアの結論だった。
とにかく、今のマリアには梨花との約束の時間に間に合うかどうかの方がよほど問題である。梨花のことだから自分が遅れたくらいで怒りはしないだろうが、それに甘えて恐らく約束の前からいるのであろう彼女を待たせてしまうのもなんだか申し訳ない。結局彼女は、ブーツをかつかつ打ち鳴らし、子供の頃に再三言われた『廊下を走るな』という注意を無視して駆け出した。
風に煽られ、三つ編みにされた銀髪が揺れる。そろそろ切ってもいいかもしれないとなんとなく程度で考えながらマリアはようやく目的の扉の前に辿りついた。
扉を開き、中に飛び込んで彼女は声をあげた。
「悪い! 遅れた!」
ところが、その言葉をあざ笑うかのように中には誰も居ない。
少しだけ安堵で息を吐いてから彼女は首を傾げた。他の面子ならまだしも、梨花が遅刻してくるなど珍しい。
んー、と小さく唸りながら自分にとっての定位置になりつつあるソファまで移動して、おっと声をあげた。
ソファの上に横たわって、自分の目的の人物である東天紅梨花がすぅすぅと穏やかな寝息を立てていたからだ。
遅刻するどころか待ちくたびれて眠ってしまったのだろうか。肩を小さく上下させ、規則的な息をする彼女の顔を見ようとマリアはしゃがみ込んだ。
これが鈴丸ならソファから突き落として叩き起こしてやるところなのだが、とマリアは苦笑した。この間文化祭が終わったばかりなこともあって梨花自身も疲れているのだろう。
何より、自分が遅れてきたのだし。と梨花の頭をそっと撫でてからマリアは床に座り込んだ。
すると、ちょうどそのタイミングでかちゃりと扉が開いた。入ってきたのは毛布を抱えたウルフだった。
とてとてと梨花の元まで駆けてきた彼女は「やっぱねむっちゃったんだね」とだけこぼすと梨花の体にふわりと毛布をかけた。
「マリアおそいよーりかかわいそー」
「反省してるって」
気まずそうに目を逸らすマリアの隣に座り込んだウルフは続けた。
「りかねー、さっきなきながらわらってたのー。かなしいのって聞いたら嬉しいのって。へんだよね」
「……かもな」
息をこぼしながらマリアは梨花の頭をまたそっと撫でた。
こそこそと話を続ける二人の前に、ベルが立った。
「あなたたち、二人して何やってるの?」
二人を覗き込みながら微笑むベルに「梨花、今日、文化祭の片付けだったんだろ。叩き起こすのもあれかなって」
「あなたも鈴丸も梨花さんには甘いのよねぇ」
「あんなんと一緒にすんな」
けっと吐き捨てるマリアにはいはい、と笑ってからベルは膝を折って、ウルフと視線を合わせた。
「ウルフちゃん、入口のとこに新しいお洋服運んでおいたからちょっと見てらっしゃい」
「うん」
小さく返事して頷いたウルフはぱたぱたと入り口の方へ駆けて行く。
それを黙って見送ってからマリアはぼそっとこぼす。
「なんの話だ?」
マリアには、どうも今のベルが話を聞かれると都合の悪い存在を追い払ったように見えて仕方なかった。
彼女の鋭い碧眼にベルは軽く肩をすくめた。
「そんな怖い顔しないで? ねぇ、マリア、これからちょっとおでかけしない? ウルフちゃんと梨花さんも連れて。場合によっても柚樹葉さんも連れて行けばいいわね」
「なんで?」
きょとんと自分を見つめるマリアにベルは「厄介に巻き込まれるのはお互い嫌でしょう?」意味が分からん、とマリアは顔をしかめた。
やけに焦っているようなベルをマリアは不思議に思った。急ぎの仕事なのだろうか。
やがて、観念したかのようにベルは口を開く。
「あのね、マリア、実は」
しかし、その言葉を掻き消すような、重量のある声がその場に響いた。
「おお、かわいいお嬢ちゃん! どこの子だ?」
聞こえてきた、自分に負けず劣らず流暢な日本語にマリアの背筋は凍りついた。
ぎぎっとベルを睨み付け、「そういうことなら早く言え」と口パクで伝えてから彼女は横に眠っている梨花がいることも忘れて、思わず叫んだ。
「何してやがる、ミハエル!」
びくっと体を跳ね起こした梨花が「ご、ごめんなさい!」と謝ってしまったのはそのすぐ後だった。
ストローで紙コップの中に入っていたジュースを吸い上げてから、巳令は何度目かもわからない溜め息を吐き出した。
机を挟み、正面に座る巳令のそんな憂いを帯びた表情を見て、太李は問いかけた。
「つまんない?」
「え?」
不安げな太李の問いにはっとしたように顔をあげた巳令はふるふると首を左右に振った。
「そんなわけないじゃないですか! すみません、せっかく二人で出かけてるのに」
「いや、別にいいけど」
ふわりと微笑む太李を見て巳令はまた小さくなると、彼から目を逸らしつつ言う。
「やっぱり不安なんです、私」
「部長のこと?」
「はい。私で務まるかどうか」
悩みすぎ、と太李は巳令を覗き込んだ。小さく唸って巳令はそれに返した。
縮こまる巳令が彼には嫌に可愛らしく思えてしまった。普段の凛とした姿とはまた違う。
気が付けば太李の手は巳令の頭の上に伸びていた。そのまま、その手はぽふぽふと巳令の頭を撫でる。
「大丈夫だって、俺たちもできることは手伝うからさ、頑張ろうぜ、鉢峰部長」
そこまで言ってから、巳令が固まっていることに太李は気が付いた。
俯いた顔は耳まで真っ赤になっている。それに釣られて赤くなりながら太李は少し手を引いた。
「あ、っと……わり、撫でられるの嫌だった?」
「いえ!」
顔をあげ、離れていく手を掴まえてからまた俯いた巳令は「い、嫌ではありませんから、もう少しだけ……」とぼそぼそねだってみた。
震える声に流されて、太李はすぐ返した。
「お、おう、そっか! うん! 分かった! も、もう少し、な」
太李は自分の顔が赤いことを隠そうと、彼女を撫でているのとは逆の手で自分の口元を覆う。
よほど心地いいのか、ふふっと巳令が小さく笑いをこぼす。それがまた、たまらなく可愛らしく見える。
「すげーな、鉢峰は」
ぼそっと太李が呟くと巳令は顔をあげて、首を傾げた。
どうやら口に出ていると思わなかったらしい太李は「あ、その」と決まり悪そうに視線を逸らしつつ続けた。
「なんか、一緒に居て、全然知らなかった鉢峰が出てくるからさ。いいな、って思って。もっと知りたいなぁ、とか」
何言ってんだ俺は! 頭を抱えながら太李は机に突っ伏した。
一方で、巳令はその言葉に黙り込んだ。
本当は、彼に教えなければいけない『私』がいるはずなのに。
「あの、灰尾」
「……なんだ、今俺凄く恥ずかしがってるとこだけど」
ちらりと自分を見上げる太李の瞳を見て、巳令の言葉は喉元で突っかかった。
本当のことを言ったら、彼は私との間に壁を作るだろうか。
そんなことはないと否定する自分がいる一方で、それを恐れる臆病な自分も居た。だから巳令は、言葉を発せられなかった。
結局、出かかった言葉を飲み込んで、巳令は別の言葉を放った。
「これからゲームセンターに行きませんか?」
「え? ゲーセン? なんで?」
「行ってみたいんです」
にこりと微笑む巳令にそっか、とだけ彼は返す。
ごめんなさい。と一言、彼女は心の中で呟いた。
梨花はそれほど、ミハエルという人間に詳しくはなかった。
一番最初は電話だった。名前に反して聞こえてきた流暢な日本語で、でもマリアという前例があったおかげでさほど驚きはしなかった。飄々とした、掴みどころのない大人だ、そんな印象を持った。
それから数回、電話で話をしてから来日してきたミハエルと会った。大方予想通りの人だった。
その数えるほどしかないやり取りの中で、梨花にはいくつか分かったことと、分からなかったことがある。
一つは、彼とベルたちはさほど仲が良くないということである。どうしてなのか梨花には分からないが。
もう一つが、鈴丸はこの男と自分が会うことをあまり快く思っていないということである。やはりどうしてなのかは分からないが。
そして、そんな梨花の目の前に、ミハエルはいた。
「お、お久しぶりです」
ぺこっと頭を下げる彼女にミハエルは柔らかい笑みを浮かべた。
「やあ、リカ。相変わらずキュートだね」
「わ、ありがとうございます」
再び頭を下げる梨花にミハエルは笑みを浮かべるだけだった。
それほど詳しくはないが、梨花は彼が悪人でないことだけは確信していた。言うなれば、鈴丸と同じような空気を感じていたのだ。
「で?」
明らかに声に不機嫌を滲ませつつ、ベルは梨花とミハエルの間に割って入った。
それにおかしそうに笑ってから彼は告げる。
「嫉妬か? 可愛いな」
「冗談でもやめて、寒気がするわ」
「本気だぞ」
すっと自分に伸びてくるミハエルの手をベルはぺちんと振り払った。払われた手を見て苦笑する彼にベルが問う。
「なんの用よ、しばらくはアメリカなんじゃなかったの?」
「ちょっとした予定変更だよ」
「だからってなんで日本なのよ」
深々と、見せつけるようにベルは溜め息を吐き出した。
そりゃそうだろ、とミハエルは肩をすくめた。その視線の先にいるのはすでにベルではなく、梨花だった。
「日本に来なきゃリカに会えないんだから」
なー、と彼はゆらゆら梨花に向かって手を振った。それに戸惑いがちに微笑んでから梨花も小さく振り返した。
「うん、戸惑ってるリカもカワイイ。実物凄くいい」
「……じゃあ、なに、あなた、梨花さんに会うためだけに予定変更して日本に来たの?」
頭を抱えながら問いかけてくる部下にミハエルはなんのこともなさげに言い放った。
「何が悪い?」
「……鈴丸はこのこと知ってるの?」
「知るわけないだろ。坊主が知ってたら今頃俺は空港でハチの巣だ」
だろうな、と冗談抜きでベルは思った。
しかし、知った瞬間、彼がどうなるか。ベルはそれを考えるだけで憂鬱だった。
だというのに。次に聞こえてきた言葉は彼女にとって信じたくないものであった。
「そんなわけで、俺しばらくこっちにいるから。世話になるぞ」
どういうわけだ。そう問うのも忘れてベルは眉を寄せ、口角を引きつらせ、自分が考え得る限り、最大の方法で自分の機嫌の悪さを表現した。
「は? 何言ってんの?」
そしてこぼれた台詞はこれだった。
しばらくいる? ベルからすれば本気で何言ってんの、である。試しに後ろにいるマリアを伺えば、彼女はウルフを抱きかかえたまま絶望的な表情を浮かべている。もはや言葉さえ出ないらしい。
何より、このタイミングの日本滞在はベルにとっては彼への不信感を強める材料にしかならない。鈴丸と組んで何かを企んでいるのは明確である。
問いたださなければ。しかし、それより早く、いつの間にかベルの目の前から抜け出したミハエルは梨花の手を取っていた。
「んな」
「だからリカ、これから俺とお茶でもどうかな?」
首を傾げ、優しい笑みを浮かべるミハエルに「ええと」と困ったように梨花は視線を泳がせた。そんな彼女に追い打ちをかけるようにミハエルは続けた。
「たまには坊主以外とデートもいいだろ?」
「へ!? なんで知って」
「あ、本当にあいつと行ってたのか。若干ショックだな」
本気で悔しそうにしながら「俺とじゃ嫌かな?」ぶんぶんと梨花は慌てて首を振った。むしろちょうどいいかもしれない。ちょっとした面接だとでも思えば。
ならよかった、とミハエルは梨花の手を引いて歩き出した。慌ててベルが声をあげる。
「ちょっと!」
「坊主が来たら上手く言い訳しとけよー」
悪戯っ子のような笑顔を浮かべ、そのまま二人は扉から出て行ってしまった。
あまりの事態に、ぽかーんと口を空けているマリアの腕からようやく抜け出たウルフが扉まで駆け寄って「いってらっしゃーい!」と手を振った。
それにはっとしたマリアはポケットから携帯電話を抜き出した。
浅見博は今自分に降りかかっていることは厄災に違いないと信じ切っていた。
でなければ、そうであってくれなくては困るのだ。そう思いながら廊下を突っ切っていた。
左肩にわずかな重さを感じながらである。
「ねーねーあーちゃん、お仕事ちょーだいよー鈴丸さん退屈してるんだよーじゃなきゃ構ってちょーだいよー」
自分の左肩に顔を乗せながら鈴丸が自分に引っ付きまわり始めて、かれこれ三十分は経とうとしていた。
どこへ行くにも彼がついてくる。鬱陶しいこと、この上ない。しかし、怒鳴ったところでこの男はのらりくらりと自分の怒りをかわすだけである。振り払おうにも、無駄だということも分かっている。
結局、浅見は最後の抵抗として沈黙を貫いていた。
しかし、その我慢もそろそろ限界を迎えようとしている。
「あーちゃ」
「その呼び名をやめろ、守銭奴」
ついに怒りの臨界点を突破した浅見は鈴丸の顔を掴んで引き剥がした。
とと、とわずかに後ろに下がってから彼はにっと笑った。
「やっと構ってくれたな」
「お前は寂しがりの彼女か! 鬱陶しい!」
「俺は仲良くしようと思ってだな」
「こっちがお断りだ!」
きっぱり言い放って、すたすたと浅見は歩き出した。
そのあとを追いかけながら鈴丸は告げる。
「ああ、でも寂しいのは当たってるわ」
「リカ・トウテンコウ?」
「あーちゃん、分かってるぅ」
上機嫌に自分に笑いかける鈴丸に浅見は素直に怒りを覚えた。分からない方がおかしいだろう、というのが彼の心の声であった。
というのも、浅見はここ数日、隙あらば鈴丸に梨花がいかに可愛いかという話をされてきた。うんざりするほどである。もうお前帰れよ、と何回口にしたか浅見は途中で数えるのもやめた。
「でも意外だな」
遂に観念して、足を止めた浅見が鈴丸に振り返りながら投げ掛けた言葉はそれだった。
鈴丸は不思議そうに首を傾げた。
「何が?」
「お前は金だけが恋人なんだと思ってた」
彼の言葉に鈴丸はなんのこともなさげに告げる。
「え、今もだけど」
「は?」
らしくもなく、間の抜けた表情を浮かべる浅見に、鈴丸は眉を寄せた。
「そうじゃなかったら傭兵なんてやめてるぞ、俺。金大好きだけど、あれ以上に愛おしいものないんだけど。浮気なんてしてないけど」
「あれだけ自慢しといて恋人ではないと?」
「お前は小動物にときめくことすら浮気と定義しちゃう奴なのか」
深々と溜め息を吐く鈴丸に「お前にとってリカ・トウテンコウは小動物なのか」それはいつぞや、誰かに同じような質問をされた気がする。そんなことを思いながら彼は、そのときと同じ答えを口にした。
「ハムスターの十倍は可愛いけど」
「……じゃあ、何か、恋人じゃないならペットか何かか」
予想外の問いに、鈴丸はぷっと吹き出した。何がおかしい、と目を吊り上げる浅見に、こみあげてくる笑いを隠そうともせずに鈴丸は告げた。
「あんな、『気の強い女』、怖くて飼えるわけないだろ」
浅見は顔をしかめた。自分が聞いていた梨花の印象とはどうも違ったからだ。
「人にあんまり言えなくて困ってオロオロしてるのも可愛いとか言ってなかったか、お前」
「言った。何せ可愛いから。でもやっぱり菓子食ってるときには勝てな」
「なのに気が強いのか」
ああ。鈴丸は迷わず頷いた。
「気が強いってより、芯が強いって言った方がいいかもしれないけど」
「お前は金で揺れるブレブレ野郎なのにな」
「いや、ある意味俺も強いぞ、金にしか揺らがないからな」
「自慢すんな」
舌打ち交じりに吐き捨て、浅見はまた歩き出した。
たった一言を、その場において。
「要はお前の片思いか」
なんでそうなる。
否定しようとしたものの、なぜか今まで散々追いかけまわしていた浅見の後を追うことが馬鹿馬鹿しくなって、鈴丸はその場で黙り込んだ。
アホか。鈴丸にとって、梨花は可愛がりの対象であって、決して色恋沙汰を望む相手ではないのだ。いや、そうでなくては困る。
歳の差とか、今後のこととか、そんなものの以前に、もっと根本的に、彼女のことをそう考えていたら困る事情が自分にはあるのだ。
そんな思考を邪魔するかのように鈴丸の携帯電話が着信音をかき鳴らす。誰だ、と画面を見てから発信者を見た鈴丸は一瞬、本気で応答せずに切ってやろうかと考えた。
けれど、それをやって後々文句を言われるのもなんだか面倒に思えて結局、大人しく通話ボタンを押して、携帯電話を耳元まで運んだ。
「なんだよ、マリア」
気怠そうな鈴丸に構いもせずに、スピーカーの向こう側でマリアが叫ぶように言い放った。
『ミハエルのおっさんが来て梨花連れていっちまった!』
ご冗談を、と笑う余裕は今の鈴丸は持ち合わせていなかった。
どうして自分は今こんな状況に陥っているのだろう。たい焼きを食べ進めながらよもぎは心の中で首を傾げた。
旧友と再会して、仲直りして、疲れていた。その疲れが押し寄せて来たせいか、梨花の引退を実感した途端、涙がこぼれてしまった。
かっこわるいな、と思いつつも先輩二人が目を腫らしている状態でこらえが効くほどあのときのよもぎは元気ではなかったのだ。
もう泣いてしまったことはいい。よもぎにとっては今現在の状況の方が問題だった。
どうして自分は、無愛想な先輩と一緒に公園のベンチで腹を餡子でいっぱいにしたたい焼きを食べているのか。すっかり頭を食べつくしたたい焼きを見つめながらよもぎはぼんやりとほんの数時間前を思い返した。
梨花にとっては最後の部活動、文化祭の後片付けも終わって、やけに力が抜けきっていた自分に、南波が声をかけてきたのだ。まるでそれが当たり前のことであるかのように、平然と、『春風、ちょっと付き合え』というただ一言だけである。
それについてきてしまった自分もどうかしていると思うが、たい焼きは奢ってもらえたし、まぁいいかとどこかで納得させていた。
泡夢財団のすぐ近くの公園で、高校生二人が昼時にたい焼きを貪り食っている姿は傍から見ればどう映るのだろうとよもぎは少しだけ不思議になった。
いつの間にか、二つ目のたい焼きに手を付ける南波をちらりと横目で伺ってから、渋々といった風に彼女は口を開いた。
「で、なんなんすか、先輩」
何か話があるんだろう。そういう意味合いを含んだ問いを南波は一蹴した。
「別に。打ち上げ」
「二人だけでっすか」
「東天紅先輩はマリアさんと一緒、九条はさっさと帰る。バカップルがいちゃつくの見たかったか?」
ぐっとよもぎは言葉を詰まらせた。
「そりゃ死ぬほど見たくなかったですけど」
「というわけで俺ら二人だ」
「じゃあ、なんでたい焼きなんすか」
「たまには和菓子もいいだろ」
南波が噛り付いて、尻尾を失ったたい焼きの断面からは薄黄色のカスタードクリームが見える。それを見てよもぎは顔をしかめた。
「その割にカスタードだし。和菓子食いたいなら餡子にしたらどうっすか」
「俺、餡子嫌いだから」
「えええ、身勝手」
ほんとになんなんだ。人には餡子食わせておいて。
心の中で不満をぶちまけながらよもぎはまた一口、たい焼きに噛り付いた。上品な甘みが口の中に広がった。そういえば、たい焼きなんていつぶりだろう。記憶を探ろうとしてから面倒になってよもぎはすぐにそれを放棄した。
代わりのように、もう一口、噛り付いたところで南波は、ようやくよもぎが求めていた言葉を発したのだった。
「どうなった?」
ほら、やっぱりその話がしたかったんじゃないですか。
クリームがついてしまったのか、ぺろぺろと自分の指を舐める南波を見て、改めて溜め息を吐き出してから、よもぎは口を開いた。
「一応、仲直り、ですかね」
「へぇー」
「うわ、聞いてといて反応わっりーなおい」
よもぎが顔をしかめると、彼女が知らぬ間に一口大になっていた二匹目のたい焼きを口の中に詰め込み、飲みこんで、南波は小さく笑った。
「今のお前が駄目だった、なんて言うと思ってなかったしな」
その、彼らしからぬ優しい笑顔によもぎは一瞬固まった。
それからそっぽを向いて、「ずりーな先輩。それずるいっすよ」
「ずるくて結構」
「そういう先輩は?」
反撃、ともいえるよもぎの問いに「さあな」と袋に手を突っ込んで、たい焼きを引きずり出すと何も考えずに三匹目に食らいついた。
もっちりとした食感の後に、舌を通じて脳に叩き付けられた甘ったるさに南波はぱっとたい焼きを口から放した。断面は見事にあずき色であった。
口元を押さえ、ぷるぷると震えながら「春風……これ餡子……食え……」と弱々しく告げる。
「え、ガチで駄目な奴っすか」
「頼む……無理……!」
「あーはいはい、分かった、分かりましたって、食べますって」
もう、と食べかけのたい焼きを受け取ってからよもぎは特に何も考えずにそれをくわえた。
自分の問いによほど動揺したらしい。苦手なものをよけることを忘れるくらいには。今日のところはいじめるのはやめてやろう。
そう決めて、二口目を食べてから、よもぎは気付いた。冷静に考えれば、間接キスだった。
とはいえ、太李と巳令じゃあるまいし、と彼女は気付いた事実に特に動揺することなく、ひたすらたい焼きを食べ続けた。
二人の間に特別会話は生まれなかった。けれど、よもぎはこの沈黙を特別居心地の悪いものだとは思わなかった。むしろ心地いいほどだ。
しかし、そんな平穏も長くは続かなかった。
黙ってたい焼きを食べ進めていた南波が突然顔を歪め、そのまま咳き込んだ。どうやら気管の方に詰まってしまったらしい。前のめりになりながら咳き込む彼の背を驚いたように目を見開いてから、よもぎはさすった。
「ちょ、どうしたんすか。また餡子?」
「ちが、前」
げほげほと咳き込んで、口元を押さえながら南波はどこかを指差した。
その指の先にいたのは、ミハエルと彼に手を引かれる梨花だった。幸い、こちらには気づいていないらしい。
うげ、と先ほどの南波と同じように顔を歪め、よもぎは思わず身をかがめた。
第一印象のせいもあってか、よもぎにとっても、南波にとっても、会いたくない人物であることは間違いなかった。
「な、なんであのおっさん日本にいるんすか。しかもなんで梨花先輩と一緒!?」
何も知らないよもぎからすれば、一番に浮かび上がった疑問はこれだった。
知るか、と吐き捨てるように南波が告げる。
「まぁ、先輩の進路のことだろうが」
「し、死ぬほど心配なんですけど」
「セクハラされたいなら迎えに行ってこい」
「ひでぇ! 先輩、春風一人で行かせる気ですか!」
「あんな節操なしに近付きたくない」
顔を青くしながらふるふる首を左右に振る南波にうう、とよもぎは唸った。
自分だって嫌だ。でも梨花のことは気になる。
手元にあるたい焼きを口の中に詰め込んでから「ほりはえふほおめひゃらみてまひょ」とそろりそろりと歩きだした。呆れたように息を吐いてから、南波もその後に続いた。
そんなこととも、知らず、ベンチに腰かけていた梨花は目の前で立ったままのミハエルをじっと見つめていた。
「あの」
「ん?」
ゆるりとミハエルの瞳が梨花を捉える。
ここで逸らしては仕方がない。じっとその目を見たまま、梨花はゆっくり口を開いた。
「あたしは、その、なんで連れてこられたんでしょうか?」
「デートだって言ったろ?」
けろっとそんな答えを言ってくるミハエルにうー、と梨花が唸った。
はは、と軽く笑って彼女の頭を撫でた彼は「じゃあお望み通り、真面目な話でもしようか」と浮かべていた表情を柔らかいものから急に凛々しいものへと変えた。ああ、こういう人なんだ、と梨花は嫌に感心してしまった。
「リカ、お前、やり残したこととかないか?」
ミハエルの言葉に、梨花は純粋に、きょとんとした表情を浮かべた。
目をぱちくりさせる彼女にそうだなぁ、とミハエルは顎に手をやった。少し間を空け、彼は言葉を接いだ。
「例えば親のこととか。本当に動き出す前に孝行はしとけ。ただですら親不孝な仕事だから」
ぴくっと梨花がわずかに眉を動かした。
それからそっと視線を逸らし、ぼそぼそと告げる。
「ミハエルさんってなんでも分かってるんですね……」
「俺を誰だと思ってるんだよ」
得意げに笑うその姿は、なんだか鈴丸に似ている。梨花は素直にそう思った。
やり残したこと。引っかかっていること。ケリをつけなければいけないこと。きっと自分にはまだそれがある。クインテットもその一つだろう。
梨花が黙り込んでその言葉を咀嚼しているとミハエルはさらに続けた。
「あと、これは単なる俺の興味なんだけど」
「は、はい?」
「リカは、うちの坊主のことをどう思ってる?」
びくっと梨花の肩が跳ね上がる。
鈴丸のこと。そのことを聞かれただけで、やけに胸の鼓動が早くなるのが分かった。こんなこと、今まで誰にもなかったのに。
「ど、どうって?」
答えなんて決まっていたはずなのに、梨花は苦しい話題逸らしをするしかなかった。
鼓膜に胸の音がこびり付く。うるさいくらいだ。
「そうさなぁ、言葉のまま」
まるで悪戯っ子のような彼の、歳不相応な笑みが恨めしい。
「……どうしてそんなこと聞くんですか?」
「少なからず坊主の方がお前に夢中みたいだから」
ぴゃっと奇妙な声が梨花の口からこぼれ、ミハエルがおかしそうに笑う。
「で、でも多分、ハムスターか何かとしか思われてないし……」
「あいつはどうも金稼ぐこと以外は不器用でいけないね、昔から」
驚いたように梨花はミハエルを見つめた。鈴丸を不器用などと形容する人間に、はじめて出会った。
自分の中の鈴丸は、いつだって涼しい顔をして何でもこなして、苦手なことなんてほとんどない完璧人間で、少しだけ意地悪でも、格好良くて憧れだ。
「不器用、ですか?」
「不器用だねぇ、チビの頃からそうだった。だからあんな生き方しかできないんだろう」
どういう意味なのか。きっとミハエルは自分の知らない鈴丸を知っている。梨花はそれが聞きたくてたまらなかった。
聞かせてほしい。そう思って身を乗り出しかけた、そのときだった。
「何やってんだ、クソ親父」
ぐいっと梨花の体が後ろに引っ張られ、不満げな低い声が鼓膜を揺らす。
はっとして顔をあげると彼女のことをベンチ越しに引っ張った蒲生鈴丸が、不満げにミハエルを睨み付けている最中だった。
「す、鈴丸さん!? きょ、今日は別のお仕事が」
「こいつのこと聞いて仕事なんかできんわ」
ぎゅっと梨花の体を抱き締めたまま鈴丸がそう吐き捨てれば、ミハエルは問う。
「どっちがチクった?」
「元シスター」
さらっと情報元を漏らした鈴丸にミハエルは苦笑した。
「あの子にはちょっとお仕置きしないとだめかねぇ」
「知るか。うちの梨花にいらんちょっかいをかけるな」
「そう言うなよ、リカに会うために俺はわざわざこっちに来たのに」
「知らねーお前の都合とか知らねー」
はぁ、と悲しげに息を漏らしてからまぁいい、と彼はくるりと方向転換した。どこかを見つめて、小さく笑ったのちに「とりあえず俺はあそこで盗み聞きしてた悪い子たちともお話しようかね」
がさがさと後ろの方の植え込みが揺れる。
勝手にしろ。その一言で鈴丸はミハエルを見送った。
逃げ出した二人と、ミハエルの背中が見えなくなったところで彼はぱっと梨花から手を放し、正面に回ると彼女を覗き込んだ。
「梨花、大丈夫か!? 何もされてないな!?」
「え!? あ、はい、別に、お話してただけで」
びっくりしたように自分を見上げる梨花にほっと鈴丸は安堵の息をこぼした。その様子を見ながら、何か言わなければならない気がして梨花は口を開いた。
「ええと、その、すずま」
ところが彼の名を呼びかけたところでぎゅっと彼の腕の中に、梨花は抱きすくめられてしまった。
顔に一気に血が上る。
「ひゃ!?」
「ごめん、ちょっと待って、久々の梨花だ」
「え、い、いや、あの、二日前くらいに文化祭で」
「同僚とお前の話したから」
それはなんの理由にもなっていない気がする。
言おうと思えば言えたものの、なんだかそれを言ってしまうのは惜しい気がして、彼女は黙り込んだ。相手に心臓の音が聞こえているのではないだろうか思うほど、彼女の胸は激しく鳴り続けていた。
洋服越しでも分かるほど、鍛えられている胸板に顔を押し付けられながら男物の香水の匂いがわずかに鼻をかすめた。こんな匂いがする人だっただろうか。
少し経ってから、やっと鈴丸が梨花を放した。
「うっし。俺せっかく仕事サボったし、なんか食いに行くか」
「え、戻らなくて」
「今日はいい。特にやることなかったし? どうせ大した金が貰える仕事でもないし」
うんうん、と頷きながら自分に背を向ける鈴丸のジャケットの裾を梨花は立ち上がるのも忘れて、慌てたように掴まえた。
ぐっと引っ張られて、鈴丸は首を傾げながら振り返る。
「どうした?」
「いえ、その……」
今の梨花にはあまりにも彼に聞きたいことが多すぎた。ミハエルから聞かされた話は、どれも信じられなくて、でも全てを嘘と否定するほど自分は彼には詳しくない。だから聞きたい。
それがごちゃ混ぜになってしまった結果だろうか。次には、彼女にとっても予想外の質問が飛び出した。
「す、鈴丸さん、あたしのこと、どう、思ってますか……?」
鈴丸が一瞬で動きを止めたのが梨花にも分かった。
言ってから質問の意味を理解した彼女は顔を真っ赤にしながら「あ、ちが、あの! ご、ごめんなさい、いや、そういう質問するつもりじゃ、あれ……!?」と一人で混乱に陥っていた。
一方で、鈴丸はただただ、狼狽える梨花を見つめているだけだった。
真っ赤に上気した顔も、自分に向けられる上目遣いも、彼にとっては、まるで自分を煽っているようにしか思えなかった。
「どう思ってるか、ねぇ」
梨花の真横を通り過ぎ、鈴丸の手がベンチの背もたれの部分に叩き付けられた。
どん、と聞こえてきた鈍い音に梨花は身を強張らせたが彼は構わず、空いている方の手で梨花の顎をくいっと持ち上げる。
「そんなの、決まってんだろうが」
好きだよ。
出かかった言葉は、寸前で飲みこまれた。
固まっている梨花を見て、まるで憑りつかれていたものが落ちたかのように、鈴丸ははっと冷静さを取り戻した。
慌てて梨花の顔から手を放し、ばっと身を引いてから彼は、慌てて叫んだ。
「と、いうことがあるので! 気軽に、男にそういうことを言ってはいけません! いいな、東天紅梨花! お前もこれから傭兵になるんだから警戒心を忘れるな!」
「はは、はい! す、すみません……!」
あわわ、と素直に頭を下げる梨花を見て「分かったらいい! 俺がうまいもん奢ってやる! 行くぞ!」と鈴丸は歩き出した。
そのあとをわたわたと梨花が追いかけた。その足音を聞きながら、彼はゆっくり、頭を抱えた。
俺、もしかしたら太李以上にヘタレなのかもしれない。
そんなことを頭の片隅で考えながらである。




