第三十一話「星空は見えませんでしたが立ち直ることはできたようです」
目を開けると白い天井が飛び込んできた。
マリアの頬を開けっ放しの窓から吹き込んできた冷たい風が撫でる。薬の匂いが鼻腔を通って行く。
「ぁ、ぐ」
ひらひらと揺れるカーテンの音を聞きながらわずかに寝返りを打とうとした彼女は体を走る痛みに呻いた。
手にぐるぐると巻かれた包帯を見て、マリアは小さく舌打ちした。これじゃあまるで重病人ではないか。
痛みに顔を歪めながら、ベッドのフェンスに手をかけ、体を起こした。
やっと上半身を起こすと視界に白い毛玉が入った。ぴくり、と動いたそれは小さな頭を突き出すと首を傾げた。
「惣波……もう起きたのですか」
「スペーメ……」
ということはここは泡夢財団か。
そこでマリアの頭の中に、意識を失う直前までの記憶が流れ込んできた。傷が痛むことも忘れて、彼女は腕を伸ばすとスペーメの体を掴み上げた。
「ふぎゅ!?」
「スペーメ、なんであたしはこんなところにいる!?」
空中でじたばたと短い足を振り回すスペーメにマリアは声を荒らげた。
頭のどこかで理解していることを拒むために、吠えていただけだった。
「聖護院は、あのガキは、どうなった!? ああ!? 言えこのウサ公!」
ぎゅううと喉元を締め上げられている以外の理由で、スペーメは口を開くことができなかった。
ぴりりと頬からわずかに走る痛みに南波は思わず身を引いた。
その彼の顔を無理に抑えつけるようにしながら「消毒だけなんだからじっとしてろって」と鈴丸は低く告げた。
いつもの休憩所を包み込む空気はどこか重苦しいものだった。原因は、考えるまでもなく自分が担ぎこんできた『彼女』なんだろうなと南波は思った。
頭を抱えながらちらりとソファの方を伺ってからベルは重たそうに口を開いた。
「つまり彼らは、今回のことは、はじめからあの子を殺すことが目的だったのね? で、それを庇って聖護院麗子が殺されたってこと?」
「多分な」
もういい、とばかりに顔を逸らす南波に鈴丸は溜め息を吐いた。
渋々、消毒液を救急箱に戻す彼を見ながらそうか、と誰にともなく太李が呟いた。
「そういうことだったのか、あれ」
彼が思いだしているのはうわばみの言葉だった。
うわばみが言い放った『やっと本来の目的を果たせた』『片方は君らにあげよう』……あのときは訳が分からなかったが今こうして南波の話を聞けば、なんとか噛み砕くことができる。
トレイターである聖護院麗子を倒す。それは確かに自分たちの一つの目的だった。けれど、それはトレイターとして倒すことが目的だったのだ。できることなら生きて償わせたかった。
おまけに、それが目の前で裏切られていくようなそんな姿だったのだ。気分のいい終わり方ではなかった。
恐らく、あの言い方からすると麗子がすでにこの世にいないことも分かっていたのだろう。だとすれば、
「もしかして、はじめから狙いは聖護院麗子だったのかも」
「え?」
驚いたように自分を見返すベルに太李が口を開きかけると「なんにせよ」と巳令はソファの上で寝息を立てたままの『彼女』に視線を投げてから低い声で、淡々と告げる。
「彼らは自分たちの仲間であるはずの彼女たちを処分しようとあんなことをしたんです。それには違いありません」
その声には、量り切れないほどの怒りと憎悪がこもっていた。
今にも居場所の分からない誰かに向かって突進していきそうだと不安になった梨花は、しかし、かける言葉も見つけられず、巳令の服の裾を掴むだけに留まった。
そんな彼女ににこりと微笑んでから梨花はその場に腰を下ろした。
頬杖をついていたよもぎが「見たことねー奴、いました」
それに鈴丸が答えた。
「こっちもだ」
「彼女たちの脱落によって戦力が欠けた、ってことはなさそうだね」
腕を組みながら柚樹葉が小さく唸ったところでうきゅ、と小さな声がソファの方から聞こえてきた。
全員がそちらに注視する中で誰よりも早く動いたのは南波だった。
ソファの前に立ち、そこを見下ろした。
毛布をかぶった小さな体がごそごそと動く。ぐるんと寝返りを打った『彼女』は小さく唸ってからぱちりと目を開けた。
南波の視線と『彼女』の視線がぶつかり合う。ぱちくりと何度も瞬きを繰り返した『彼女』は毛布を掴み上げ、南波に投げつけるとばっと後ろに飛びのいた。
「なんで」
素早く視線を動かしながら周囲を確認した『彼女』は震え声で言う。
「なんで、おさかなやろーがいるの……?」
その『彼女』――ことウルフをただじっと南波は見つめていた。
首元に手をやってからフードがないのに気付いてウルフは顔をしかめた。これじゃあ自分はただのか弱い子供だ。
「あちしをどーする気?」
「別に? どうもしない」
腕を組み、そう答える南波にウルフは素早く返した。
「嘘だ」
「俺がお前に嘘を吐いてなんの得がある?」
「そう言ってあちしのことを殺すんだ」
「殺すならもっと前に殺してる」
それに、としゃがみ込んだ南波はウルフと視線を合わせるとにこりともせずに言い放った。
「トレーターから捨てられたお前を今さら倒したところで意味がない」
「ま、益海くん、いくらなんでもそんな言い方」
梨花の宥めるような言葉に、南波はふんと顔を逸らすだけだった。
捨てられた。ウルフ自身も薄々感じていたことだ。
やっぱり。彼女の小さな口からこぼれた呟きはそれだった。
「また捨てられたんだ」
「また?」
ぴくりと眉を寄せる南波にウルフはぷいと顔を背けた。
どうにかしてここから逃げ出さないと。それで頭がいっぱいになりかけていたウルフは、ふとあることを思い出して口を開いた。
「れーこは?」
泣きそうな声だった。
その問いをうっすらと予感していた南波は、自分の中で用意していた答えを出す。
「その聖護院麗子にお前を頼むと言われた」
「なんでおさかなやろーはそういう嘘ばっかり言うの!?」
「嘘なもんか」
鋭い視線に射すくめられ、ウルフは動きを止めた。
「嘘なんか、吐くか」
その目をただ、黙って見返したウルフは南波の足元に転がっていた毛布を拾い上げるとそこに包まった。それからぼそりと、
「お前のせいで、れーこは」
誰のせいでもない。分かっていたのにウルフはこんなことを口に出したのを後悔した。きっとこの男は怒って自分を追い出すに違いない。
しかし彼の反応は彼女の予想を裏切るものだった。
「俺のせいだろうがなんだろうが、あいつにお前を頼まれたのは事実だ」
その言葉に、ウルフは黙り込んだ。
麗子の名前が出てきてしまった以上、ウルフにはそれに逆らうことができなかったのだ。
やがて、ぼそりと、「お腹減った」
「だそうだ」
ぐるっと振り返ってくる南波に苦笑した鈴丸が立ち上がった。
食事のことは彼が何とかするだろう。そう判断したベルは「その子、どうする気?」と南波に問いかけた。
「頼まれたからには、ある程度の面倒は見るべきだろう。捨てられた以上、何もできないだろうし。どこかに放って殺されても寝覚めが悪い」
「お前らしいよな、そういうの」
ぼそっとこぼす太李に「うるさい馬鹿」と南波は吐き捨てた。
その様子を見ながら苦笑した柚樹葉はその場を後にした。
ウルフが再び体を起こしたのは目の前にナポリタンが置かれたときだった。
毛布にくるまったまま、じーっとそれを見つめた彼女はぽつんとこぼした。
「あちし、ピーマンきらいなんだけど」
ひく、と口角を引きつらせた鈴丸がそれに返した。
「食わせて貰う立場で偉そうなこと抜かすんじゃねぇ。いらないなら食うな」
「いらないなんて言ってない!」
皿を引き上げようとする鈴丸の手から奪い取るようにして皿を抱きかかえたウルフは側にあったフォークを手に取ると麺を口に流し込んだ。
甘酸っぱいケチャップの味にウルフは頬に手をやった。お菓子ばかり食べていたが普通の食事をしなかったわけではない。では、ないが。
「おいしー……」
「当たり前だろ、俺が作ったんだから。食堂のまずい飯とは訳が違うっつの」
こつんとウルフの頭を小突いた鈴丸は「ピーマンも食えよ」と言い放った。うげぇ、とウルフが顔をしかめる。
その様子を見ながら「あー」とよもぎが腹に手をやった。
「そういえば、もう夜なんすよね……」
そのよもぎにベルが告げる。
「とりあえず、みんなのおうちには今日はうちで預かるって連絡いれたから、みんなもお夕飯にしましょうか」
「ナポリタンだったら多めに作ってあるぞ」
「おお、鈴パパ」
「誰がパパだ」
やれやれ、とばかりに立ち上がる鈴丸と入れ替わるようにベルがウルフの前に座った。
ウルフはフォークを口に運ぶ手を止めないまま、ちらりと彼女を見上げた。
「ハスミワカだ」
「ここではベルと呼んでちょうだい」
困ったように笑ってからベルは首を傾げた。
「あなた、名前は?」
「ウルフ」
「いや、区別名じゃなくて」
「それ以外もっへにゃい」
もぐもぐと口を動かすウルフにベルは顔をしかめる。
「持ってない?」
ごくんとナポリタンを飲みこんでからウルフは続ける。
「うわばみがいらないってゆったからあちしの名前はウルフだけ」
「……そう」
小さく返してからベルは「鈴丸のご飯美味しい?」
なんだか素直に認めてしまうと負けるような気がして、今さらにも関わらずウルフはぷいと視線を逸らした。
すぐに受け入れて貰うのは無理があるか、と少しだけ嘆息してからベルは「ケチャップ、つけすぎよ」とべったりケチャップのついたウルフの口周りを拭ってやった。
前にも麗子にこんなことをされた気がする。なんだか複雑な気分になりながらウルフは何も言わず、また一口ナポリタンを口に運んだ。
ピーマンが紛れ込んでいたらしい。うげぇ、と彼女は苦々しい表情を浮かべた。
一方、一足遅れてナポリタンに口をつけるクインテットを見ながら鈴丸はぼそりと告げた。
「こういうことだってある」
どういうことだ、とは誰も問わなかった。
淡々と彼が続けた。
「ムカつくのも、苛々すんのも、悔しいのもすっげぇ分かる。どうしようもない気持ちも分かる。別にそういう気持ちを持つなとも言わない。それを原動力にするのも俺は止めない。でも、そういうのは腹の中でためとけ。ここで立ち止まるな」
エプロンを外しながらにっと笑った鈴丸は一番近くにいた太李の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「うわ」
「とりあえず表向きはうまいもん食って、さっさと風呂入って寝て、忘れろ。お前ら馬鹿だけが取り柄なんだから」
こくんと、一同が小さく頷いた。ははっと、鈴丸は短く笑う。
「いい子だ。お前らはいつも通りでいい」
そんな鈴丸に溜め息交じりに太李が問う。
「とりあえず俺の頭撫でてて楽しいですか」
「いや全然。でも梨花が遠かったから」
「……あのね」
太李が文句を言ってやろうとしたときにはふわりと彼の手は頭から離れていた。
その様子に、なんだか用意していた言葉を言うのが馬鹿馬鹿しくなった太李は結局何も言わないまま、ナポリタンを口に突っ込んだ。
話題を変えようとしたのか、でも本当、と巳令が微笑んだ。
「美味しいですよね、これ」
それによもぎが同意する。
「ねー。さすがリアルチート鈴さんですぜ」
「そうだろう? もっと褒めてもいいんだぞ?」
「うわーこの大人めんどくせー」
顔を引きつらせるよもぎに楽しそうに鈴丸が笑う。
それに今まで黙っていた南波が口を開いた。
「鈴丸さん」
「ん?」
なんだかんだで、このメンバーで直接、麗子の最後に立ち会ったのは南波だ。
やっぱり高校生がそこまでは無理だったろうかと鈴丸がちらと考えていると彼はすでに空になった皿を差し出して、特別感情も込めずに言う。
「おかわり」
「凄いなお前、たくましいな」
思わず思ったことを口にしながらその皿を鈴丸は受け取った。
自分が思っているよりは、やはり彼らは強いらしい。空元気だろうが、それでもどうしようもないことを考え続け、ずっとふさぎ込んでいるよりましだ。
どこか分かっていた結果に安心しながら鈴丸が南波の皿におかわりを足すために別のテーブルに行った隙に梨花は皿を抱えながら立ち上がった。
歩いて行った先はウルフの隣だった。すとんと、黙って自分の横に座ってくる梨花にウルフは目を白黒させた。
「なに? 今はわるいことしてないんだけど」
「ぴ、ピーマン」
ぼそっと告げる梨花にウルフは「へ?」と間抜け声をあげながら首を傾げた。
そんな彼女の耳元に手をやりながら梨花はそっと耳打ちした。
「ピーマン、あ、あたしが食べよっか?」
「いいの……!?」
ぱぁっと顔を輝かせるウルフに梨花はこくこく頷いてからまだこちらに視線を向けていない鈴丸を見て、口元に人差し指を当てた。
「あたしも、苦手だったから。あ、でも鈴丸さんには、内緒だよ」
「うん……!」
自分の皿の端に溜めていたピーマンを喜んで梨花の皿に移そうとするウルフにベルはくすくす笑っていた。案外、自分が余計なことをしなくてもいいらしい。
しかし、彼女の皿にピーマンがやってくる前に振り返りもせず鈴丸が言う。
「梨花、俺に内緒でピーマン引き取ろうとしない」
「へ!?」
なんでバレたの、とウルフと梨花は顔を見合わせた。
それが妙に楽しいような気がして、ウルフはどこかに引っ掛かりを覚えていた。
全く、と南波の前に皿を出してやってから「俺、離れるけど梨花がうっかりピーマン貰わないように見ててな。あと太李、お前も引き取るなよ」ぎくっと太李が肩を跳ね上がらせた。
「どちらに?」
巳令の問いに鈴丸は一拍置いてから「馬鹿を励ましてくる」
余計なことはしないでよ、お願いだから。ベルは心の中でそう思うしかなかった。
かつかつとミリタリーブーツが床を踏みつける音が響き渡る。
音の主である鈴丸の手には紙パックのジュースが二つ、握られていた。途中の自販機で購入して来たものだ。
目的の人物がどこにいるかは分かっている。迷いなく扉を開けた鈴丸は飛び込んできた光景に思わず苦笑した。
銀髪をぴくりとも動かさないまま、マリアは上半身を起こしてぼーっと窓の外を眺めていた。自分が入ってきたのにも気づかないほど夢中になっているようだが何かある、というわけでもないのだろう。
溜め息を一つこぼしてから「よう、元シスター。随分、湿気た面してんな」と彼はマリアの元まで歩み寄った。
その声でようやく鈴丸の来訪に気付いたマリアはおう、と小さく返事するだけに留まった。
「わりぃな、鈴」
視線はあくまで窓の外に向けたまま、そう、ぽつんとこぼす彼女に鈴丸は額を押さえた。自分が思っていた以上に重症らしい。
「なんだよ、らしくねぇ」
ほれ、と鈴丸は手に持っていた紙パックを突き出した。ふるふるとマリアが首を左右に振った。
「いらねぇ」
「珍しく俺が奢ってやるって言ってんのに」
「たかがジュースで偉そうにすんな、クソジジイ」
碧眼が退屈そうに空を見つめていた。
それを見て、あっそうとあっさり手を引いた鈴丸はそのパックにストローを刺すと自分の口にくわえた。
つるつると細い管を駆け上がり、野菜ジュースが口に広がった。ごくんとそれを飲みこんだのと同時にマリアが弱々しく言う。
「また駄目だった」
がじがじとストローをくわえながら、鈴丸はなんのこともなさげに告げる。
「傭兵なんてそんなもんだ」
「でも」
「それに、相手は善人じゃなかった。死んで当然、とは言わないけど」
う、とマリアが言葉を詰まらせた。
「そう、だけど」
「……よく覚えとけマリア」
彼女の肩に手をやってから鈴丸はどこか重苦しそうに口を開いた。
「人間には限界があって、どうしようもないことだってあって、でもだからこそてめぇに何ができるか考えろ」
低く告げる彼にはっとマリアは鼻で笑った。
「それ、励ましてるつもりかよ」
「悪いか? 蒲生さんは不器用な男なんだよ」
「よく言うぜ」
頭の後ろに手を回したマリアは真後ろにぼふんと倒れ込んだ。
掛布団が一瞬だけふわりと浮かぶ。白い照明を見つめていたマリアははっとしたように鈴丸に視線を向けると不満げに唇を尖らせた。
「あたしは落ち込んでねぇ」
「まぁた」
肩をすくめる鈴丸にマリアは吠えた。
「本当だかんな! 別に、人が死ぬのなんて」
「何回見たって慣れないだろ?」
苦笑しながら鈴丸はさらに続けた。
「俺が慣れないからな」
「……お前は何人、死ぬの見たんだよ」
「さあ。数えるのも馬鹿馬鹿しくてやめた」
まだ未開封の野菜ジュースを机の上に置くと「早く出て来いよ、クインテットが心配する。特に梨花」
「お前、ほんっとブレねぇな」
両手でパックを握りしめながらマリアは馬鹿馬鹿しくなってまた目を閉じた。
空腹が満たされたら自分はまた眠っていたらしい。
ウルフは目を擦りながら体を起こすとぱちぱちと瞬きを繰り返した。目に飛び込んでくるのは暗闇だけだった。
ようやく闇に目が慣れてくるとうっすらと何かの輪郭が自分が横たわっていたソファを取り囲むようにあるのに彼女は気が付いた。なんだろう。目を大きく開いて、やっとその正体が分かった。
フェエーリコ・クインテットだった。彼らがぐるりと周りを取り囲むようにして眠っていた。
どうやら敷布団を引っ張り出して来たようだ。一人一組の布団で穏やかに眠っている。
それをただじーっと見つめてからウルフは布団の間に足を下ろした。ぺたんと何も履いていない足が地面についた。
きょろきょろと周りを見渡したウルフはなぜか無性に寂しくなって、あてがあるわけでもないのに布団の合間を縫って歩き出した。
ぺたんぺたん。ぺたぺた。静まり返った部屋の中に小さな足音が響く。布団地帯から抜け出したウルフは薄い明かりを頼りに扉の元まで歩み寄ると手を伸ばして、ノブを捻った。
きぃ、と特に抵抗なく扉が開く。
廊下はウルフが思っていたより明るかった。静かに扉を閉めた彼女はまたぺたぺたと歩き出した。
どこに行こう。長い長い廊下を歩きながらウルフはそんなことを考えた。
そのうち、彼女は大きな階段の前に立っていた。上に続く階段と、下に続く階段だった。下に行くのはなんだか怖くて、ウルフの足は自然と上へと向いていた。
彼女からすれば大きな鉄扉を開け、くぐってみると屋上のようだった。小さなベンチが月明かりに照らされてぽつんと置いてある。
コンクリートの地面はもう秋だということもあって冷たかった。それを我慢しながら彼女は柵に歩み寄って外を眺めた。
立ち並ぶビルの一つ一つが、光り輝いていた。ビルが並んでいる光景はウルフも何度か見たことがあったが夜ははじめてだ。あんなにきらきらと輝いている。昼間はなんでもない、高いだけのものなのに。
寒さも忘れて、ウルフは柵の外の光景に噛り付いた。今まで見たことなかったものだったからだ。
「夜中にこんなとこで何やってんだ」
背後から聞こえてきた声にびくっとウルフは肩を跳ね上がらせた。
ゆっくり振り返るとそこに居たのは太李だった。「うわ、さっみぃなぁ」と文句をこぼしながらウルフの元まで歩み寄ってきた。
両手に息を吹きかける彼にウルフは「別に」と視線をまた柵の外に戻した。
「おまえこそなにやってんだ」
「お前が出て行くのが見えたから追いかけてきたんだよ」
あー寒い寒いと言いながら彼はウルフの隣に並ぶと柵に背を凭れながら座り込んだ。
その様子を横目で伺ってから夜空を仰いだウルフが唐突に尋ねた。
「れーこは死んだの?」
彼女の言葉に太李は一瞬、言葉が出なかった。
あえて、幼い彼女には誰も振らなかった話題だった。けれど彼女は、言わずとも、心のどこかで理解していたらしい。
街の明かりのせいで空には星はほとんど見えない。特別明るい星たちだけが濁った空で光り輝いていた。
「多分……」
「でもおまえらがころしたんじゃないんでしょ? キリギリス、なんでしょ」
「ああ」
「そっか」
はふーっと小さく口で息を吐きながらウルフは首を傾げる。
「あちしにやさしいのはれーこが死んだから?」
「……少しは、そうかも」
顔を手で覆いながら太李は「でも、それだけじゃない。俺も、南波も、他のみんなも」
「あちし、うそついてるかもしれないよ?」
「お前はそういうことができるタイプじゃないと思うけど」
じっと彼女を見据えながら小さく太李が笑った。
「俺は、お前を一から十まで理解してやれないし、お前がやってたことを正しいとは認められない。今お前が何を思ってるかも、分かってやれない。でも、今のお前は一人なんだってことくらいは分かるよ」
「おばかさんはばかだなぁ」
まっすぐ自分を見ながらそういうウルフに「あのな」と太李は頭を抱えた。
「俺、一応ばかって名前じゃないんだけど」
「あちし、おまえの名前知らないよ」
ああ、そういえば。
妙に納得させられた太李は「それはごめん」と視線を逸らし、答えた。
「灰尾太李だ」
「んじゃあ、はいお」
「呼び捨てかよ」
顔をしかめる太李に構わずウルフが言葉を続けた。
「あちしね、こわいんだ」
「怖い?」
「れーこがきえちゃいそうで、こわいんだ。うわばみにも、他のやつらにも捨てられて、あちししかおぼえてる人がいないの。でもあちしが忘れちゃったられーこがきえちゃうの」
ウルフの言葉に彼は「大丈夫だ」と小さく返した。
「俺も、ちゃんと聖護院麗子のこと、覚えてる。俺だけじゃなくて、鉢峰も、よもぎちゃんも、梨花先輩も、南波も、マリアさんたちもそう」
「おまえらはれーこがきらいだったのに?」
「でも死んで欲しかったわけじゃない」
太李の言葉にウルフはへんなの、としか返さなかった。
「変で悪かったな。これくらいしか俺らにはできないんだよ」
ふんと顔を逸らす太李にウルフはくすくす笑った。
それからまた空を仰ぐと「夜はおそらにいっぱい星があるんじゃないの?」
「え?」
「れーこが言ってたよ。夜は星があるって。でも全然ないね」
彼女なりの強がりなのだろうと太李は思った。
今は、嫌でも自分たちと行動しなければならない。子供なりに、彼女はそれを受け入れようと必死なのだ。それを拒む理由は、誰も持っていなかった。
同じように空を仰ぎながら彼は答えた。
「ここは周りが明るいからなぁ。もっと暗くて空気が澄んでるところにいけばいっぱいあるけど」
「ここじゃだめなのー!?」
がっくり、と項垂れたウルフは「外って、綺麗だけどやなことがいっぱいなんでしょ」
ずっと押し込まれるような生活を送ってきたのであろうことは太李も薄々気づいていた。だからこそ、その言葉を特別不思議には思わずに首を傾げた。
「怖いか?」
「ちょっとだけ」
でも、とウルフは満面の笑みを浮かべた。
「見てみたいきもすんの」
「めんどくせーなぁ」
けらけら笑う太李にむぅ、とウルフは顔をしかめた。それが彼女にできる精一杯だった。
すると、ここでふわりと彼女の肩に毛布が掛けられた。
「そのままでは、体が冷えてしまいます。今日は特別寒いですから」
そう言って、微笑んでいたのは巳令だった。
毛布を身に寄せ、ウルフは黙ってそれに包まった。そんな彼女を見てから太李は巳令に尋ねた。
「どうしたんだよ、お前まで」
「いえ。お手洗いに起きたらウルフも灰尾もいなかったので。その……心配に、なって」
恥ずかしそうに顔を逸らす彼女に自分まで恥ずかしくなって「そ、そうか」と太李も慌てて目を逸らした。
なんで顔を見合わせないんだろうとウルフが不思議に思っていると「あ、こんなところにいた」とぱたぱたよもぎが駆け寄ってきた。
「お、よもぎちゃん」
「んもー。どこに行ったかと思ったら子供をダシに夜中にこっそり逢引なんて」
「あ、逢引だなんて……!」
顔を真っ赤にする巳令にくすくす笑ってから「何してんの?」とよもぎはウルフと視線を合わせるためにしゃがみ込んだ。
「星を見てたの」
「星ぃ?」
ウルフと同じようによもぎも空を見上げた。
んーっと唸っていると低い声が鼓膜を揺らす。
「何ガキと一緒に変な顔してるんだ、春風」
げ、とよもぎは顔をしかめた。
声の方を見れば、案の定、益海南波が不機嫌そうにこちらを見ていた。
「相変わらずそのこっええ顔やめてくださいよ」
「生まれつきだ」
冷たく返す南波の後を追って「ま、待ってよ益海くん……!」と梨花が階段を駆け上がってきた。
思わず太李は苦笑した。
「なんか全員こっち来てるし」
「鈴丸さんかベルさんにバレたら怒られますね」
「だな」
太李と巳令が笑いあう。
ぜぇぜぇ息を切らす梨花に慌ててよもぎが駆け寄るのを見ながらウルフは小さく笑った。
外の世界は自分の知らない変なものでいっぱいだ。
そのとき、大きな音を立てて屋上の扉が開く。
「うげ、鈴さん!?」
そう言って、思わず身構えるよもぎの予想に反した人物が、そこには立っていた。
「何やってんだお前ら」
呆れたような低い女の声に全員は一瞬面食らった。
それからやがて、一番に声をあげたのは太李だった。
「マリアさん!?」
「おっす。いやーすっかり寝ちまった」
そう言ってちらりとウルフを見ると「おう」
「おう、くそよーへー」
「悪かったなクソ傭兵で」
けっと吐き捨ててから「また贖罪の理由が増えちまった」と独り言をこぼして銀髪を掻き毟った。
自分はこれを背負わなければならない。その上で、出来ることはなんだろうか。考えた結果がこれだった。
腰に手を当てたマリアは「つーか」と全員を見渡した。
「何やってんだよお前ら」
「えと、成り行きで?」
困ったように笑う太李にマリアは深々と溜め息を吐いてから「おら、ガキは寝ろ」
「あちしまだねむくなーい」
「お前は特に疲れてるんだから寝てろ」
がしっとウルフを捕まえて、彼女を小脇に抱えたマリアはずんずん階段を下りて行った。
とにかくこれが、今のマリアには精一杯だった。




