第二十六話「時々人は意外な特技を持っているようです」
真っ白なキャンバスに太めの筆が滑って行く。青い絵の具が筆の持ち主の頭の中で広がる画像を描き出して行く。
何も考えず、ただ目の前の白い画面に向き合っている瞬間が何より彼女にとっては楽しい。
前は現実逃避の一つだったのに、今は純粋に楽しい。
こうして、絵を描いていると彼女は友人を思い出した。
『絵、描くの好きなの?』
勇気を振り絞るように、顔を真っ赤にしながら問いかけてきた彼女をどこかおかしく思ったのを覚えている。
うん、と頷いたのが彼女との始まりだった。
そんな彼女とも今では会話が交わせなくなってしまった。
距離が遠いということもあるがそれ以上の理由がある。
楽しい思い出に浸ってから彼女の気持ちはいつも重くなる。思い出したい記憶でありながら、思い出したくない記憶でもある。
それを拭い去ろうとするように彼女はごしごしと服の袖で顔を拭った。
ところがその袖に絵の具がついていたらしく頬に青い絵の具がついてしまった。
しかし、そんなことは気にも留めずに彼女はまたキャンバスの中に意識を投げかけた。
「小雪ちゃん」
キャンバスに飲みこまれかけていた意識を澄んだ声が引き戻した。
振り返って「ああ、美代おばさん」と小雪は小さく笑った。
自分の両親が亡くなったときに、自分を引き取ってくれた親戚の女性だ。色々と苦労していたところを助けて貰った人でもある。
おばさん、といってもまだ三十代だ。だが、お姉さんと呼ばれるのは嫌だと彼女は言う。だから結局、小雪は彼女をおばさんと呼んでいる。
美代は小雪の顔についた青い線を見るとくすりと笑った。
「やだ、また絵の具つけて」
「え?」
一瞬、きょとんとしてから小雪は顔を真っ赤にすると机の上に放っておかれていた濡れタオルに手を伸ばしてそれを拭い取った。
くすくす笑ってから美代はエプロンのポケットに手を入れた。
ごそごそと中を漁ってから一枚のはがきを取り出すと差し出した。
「これ、小雪ちゃん宛て」
「私?」
不思議そうに首を傾げながら小雪はそれを受け取った。
はがきには鉛筆で、何故か陶器の絵が描かれていた。
まさか、と彼女は慌ててはがきをひっくり返す。
「…………」
「小雪ちゃん? どうしたの?」
「……なんでもない、大丈夫」
うっすら、目に涙を浮かべる自分を心配そうに覗き込む美代に小雪はふるふると首を左右に振った。
悲しいことのはずがないのに小雪の目からは涙がこぼれ落ちていく。
「よもぎちゃん……」
宛名には小雪には見覚えのある住所と共に春風よもぎ、そう書かれていた。
その始まりは三日前に遡る。
放課後になったばかりの廊下によもぎの声が響き渡る。
「待ってください益海先輩!」
しかし南波はまるで聞こえないとばかりにすたすたと工芸室を目指して歩いていく。
「聞いてんのかー! 益海ぃー!」
きーっと悔しそうによもぎが叫ぶのもお構いなしだった。
すれ違う生徒たちが振り返って行く。
「いいから待たんかい堅物!」
「ウザい」
低い声で言い放たれて、むきゃーとよもぎが叫ぶ。
そんな彼女を南波はひたすら鬱陶しそうに見るだけだった。それから小さく溜め息を吐いて「なんでもないって言ってるだろ」とだけ返してからまた歩いていく。
「嘘だー!」
ぎゃーっとよもぎが叫ぶ。必要のないときだけ鋭い奴め、と南波は彼女を恨めしく思った。
ここ数日――というのは和奈にフラれてからの数日だが――彼としては普通に過ごしてきたつもりだった。現に太李たちはこの間の戦闘で暴れまわっていたこと以外はさして気に留めた様子もないようだった。
ところが、春風よもぎだけは違ったのである。
何にひっかりを覚えられたのか南波本人にも全く分からなかったのだがよもぎだけは本人にすら分からない細やかな違いを感じ取ったらしくしきりに「何があった」と尋ねてくる。
心配してくれているのだろうが、とどうしたらいいのか南波にも分からない。
ぐぬぬ、と眉を寄せてからよもぎはがっくり肩を落とすと「分かりましたよ」と掻き消えそうな声を出しつつ顔を俯かせた。
ほーっと息を吐きながら「それでいい」とだけ南波は答えた。
言い争いが終結したと分かるや周りからの好奇の目は二人から離れて行った。やれやれとまた南波が歩き出すとよもぎがぼそぼそと呟いた。
「そんなに春風頼りにならんですか、益海先輩のばーかばーか」
足を止めた南波はくるっとよもぎの方に向き直るとすたすたと彼女との距離を詰め、手刀を彼女の頭の上に振り下ろした。
「いぎゃ!?」
「別にそうは言ってないだろ」
「そうやってぼーりょくに頼るのはよろしくないです……」
手刀が襲ってきた箇所を押さえながら南波を見上げていたよもぎは「あれ」と目を丸くした。
「なんだ」
「馬鹿って言われたことに怒ったんじゃないんですか?」
心底不思議そうに問われて、南波は顔をしかめた。
咄嗟に返答してしまうあまり、つい本音の方が出てしまったらしい。口元を押さえながら「いや、これは」と視線を逸らす。
南波がよもぎを頼りにしているかいないかでいえば当然、前者になる。口に出すと負けたような気分になるから黙っているだけだ。
一応先輩として、格好の悪いところを見せたくない。そんな南波の意地だった。
「そ、そうですか、そういう意味じゃないんですか」
えへへとにやにや口元を情けなく緩ませながらよもぎは両頬を押さえた。
南波にとってはそれがどこか救いだった。せめて彼女がいつも通りなのがまだ救いだ。安心する。
勿論これを口に出すほど、南波は素直ではなかった。
「気持ち悪い笑い方するな」
再び手刀が飛ぶ。はうあ、と奇妙な声をあげながらよもぎがよろめいた。
「先輩の暴力が春風を襲うぅう」
うわーんとわざとらしく泣き真似をしながら彼女は美術室の前を通り過ぎようとした。
そのとき、ばぁんっと派手な音を立てながら美術室の扉が開いた。
「瑞穂ちゃんのばかぁあああ!」
甲高く怒鳴り付けながら短い髪を振り乱し、女生徒が叫んだ。
そのまま構わず、廊下を走って行く彼女によもぎは見覚えがあった。
「茜ちん!?」
同じクラスの生徒だった。比較的、クラスメイトとは隔てなく仲良くしているよもぎにはすぐに分かった。
しかし、茜はそんなよもぎに気付いた様子もなくだぁーっと廊下を走って行ってしまった。おろおろ視線を泳がせてから何を思ったのかよもぎは南波の肩を掴み、叫んだ。
「益海先輩、おっかけて!」
「はぁ!?」
顔を引きつらせながら「なんで俺が!」
「いいから!」
よもぎによって強引に前に押された南波は小さく舌打ちしてから「持ってろ!」と自分のカバンをよもぎに押し付けて駆け出した。
その間に、よもぎは美術室の中を覗き込んだ。中には女生徒が一人いるだけで、他の姿は見えない。そっちの方が楽でいいや、と思いながらすたすたと中に突き進んだ。
「瑞穂っちどしたん?」
「あー……春風さん……」
バツが悪そうに視線を逸らす彼女ににこにことよもぎが笑いかけると「いや、ちょっと、喧嘩しちゃったっていうか」
深々と溜め息を吐く瑞穂によもぎは胸の奥を深く突き刺されたような気がした。
その痛みを掻き消そうとするかのようにぎゅっと拳を握ってから「よかったら話してみない?」
放っておくという選択肢が自然とよもぎの中から消えていた。
すでに工芸室に居た梨花は携帯電話片手にどこか浮かない顔をしていた。
耳にあてがっていた電話を離し、息を吐く梨花に「梨花先輩?」と太李が声をかけた。びくっと体を跳ね上がらせてから「ふぇ!? あ、ああ……」と梨花はにこりといつもの笑みを浮かべた。
「こんにちは、灰尾くん、巳令さん……」
「どうしたんですか? なんだか元気がないみたいですけど」
首を傾げる巳令にううん、と梨花が目を伏せた。
「鈴丸さんと、連絡つかなくって」
「鈴丸さん?」
この間の戦闘から鈴丸は泡夢の本部には来なくなった。
それどころか連絡がつかなくなったという。ベル曰く「いつものことだから気にしなくてもそのうちひょっこり帰ってくる」とはいうものの心配ではあった。
度々、電話をかけてはいるもののやはり応じてはくれなかった。ちょっとくらい言ってくれてもいいのにな、と梨花は少しだけ考えてしまった。
携帯を制服のポケットにしまいながら切り替えるように「よし」と両頬を張った梨花は「今日も頑張るぞー! おー!」と一人で気合をいれ直した。
「来週は灰尾くんたち、修学旅行でいないし、しっかりしなきゃ」
梨花の言葉にあ、と太李が顔を引きつらせた。
「そっか、来週か……」
「また忘れてたんですか?」
「色々ありすぎて」
苦笑する太李に巳令と梨花がくすくすと笑う。
そんな梨花の横顔を見ながら巳令が「先輩、お土産、買ってきますね」わっ、と梨花が身を引いた。
「い、いいの?」
「勿論です。リクエストは?」
「そうだなぁ……」
少し考え込んでからぽんと手を叩いた梨花が笑顔で告げる。
「美味しいものがいいなぁ」
ぷっ、と今度は太李と巳令が同時に吹き出した。びくっと肩を跳ね上がらせてからおろおろ梨花が視線を泳がせる。
「な、なんで笑うの!? 変なこと言っちゃった!?」
「い、いえ、梨花先輩っぽいなって。ね?」
「ああ」
じたばたと悔しそうに手を振り回す梨花に二人は笑みを浮かべるばかりだった。
そんな三人の耳に「いやぁあああ」という甲高い声が聞こえてきた。廊下の方からだった。
「な、悲鳴?」
「ディスペア、じゃないですよね」
念のため、それぞれのチェンジャーに手を掛けながら工芸室のドアを開けて三人がひょこっと顔を出した。
目の前を何かが通り過ぎていく。揺れるスカートが女生徒だということを示していた。
「なんでついてくるんですか放っておいてぇー!」
ぎゃーっと叫ぶ女生徒の後ろを制服姿の男子生徒――益海南波が追っている。
「俺だってなんでお前を追いかけてるのか分からないんだよ!」
そう言いながら廊下を駆けぬけて行く二人を見て、太李たちは黙り込んだ。
やがて、ゆっくりと二人の方を向いた梨花が震え声で問う。
「い、今の益海くん、だよね?」
「益海くんでした……」
「南波、でしたね……」
二人の叫び声が遠くなっていく中で、工芸室には奇妙な沈黙が訪れた。
迂闊だった。頭の後ろで手を組みながら蒲生鈴丸は内心舌打ちした。
彼の後頭部には銃口が向けられている。
どうせ発砲はされないだろうが変に事を荒立てるのも望ましくない。ゆっくり膝を折りながら鈴丸は溜め息を吐いた。
アシーナの日本支部、そこの資料室が鈴丸の現在地だった。手に持っていた書類は床に置かれてしまった。
「久々に顔を出したと思ったら書類を漁ってるとは相変わらず油断も隙もない男だ」
「とりあえずその危ないもん俺から離してくれよ。スパイってわけでもないんだからさ」
銃口を向けたまま、はっと銃の持ち主である男が笑う。
「どうだかな。お前は簡単に金で買える」
「よしてくれ。俺はそんなに安い男じゃない」
けらけらと笑う彼にぐいっと銃口が近づく。
はぁ、と鈴丸は深々と溜め息を吐いた。元々彼はこの銃の持ち主があまり得意ではなかった。
「相変わらず融通が利かないな、あーちゃん」
「変な呼び方するな殺すぞ」
「よせよ、支部内で血生臭いことしたくねぇ」
けっと笑う鈴丸の頭からようやく標準が外れた。
浅見博、チームは別だが広い意味では鈴丸の同僚の一人だった。融通の利かない堅物だと彼は思っている。
やれやれと頭を抱えつつ、立ち上がった鈴丸に「聞いたぞ」と浅見が腕を組んだ。
「また日本人だって?」
「なんの話だ」
「リカ・トウテンコウ。もうすっかり噂だ」
げっと鈴丸は顔をしかめた。よりによって知られたくない奴に。
浅見は彼とは違って元は軍人だった。だから自分を疎ましく思っているのだ。マリアのこともそうだ。そして恐らくは梨花のことも。
ましてや梨花は誰でもなく、彼らにとって一番上の存在であるミハエルが直接指名した相手だ。なおのこと面白くないことだろう。
本当に相変わらずだ。だから必要がないのならここには来たくなかったのに。
「それで、蒲生。今日はなんの用だ?」
「別に。今の仕事の調べものだよ」
「ああ、例の泡夢の胡散臭い仕事か。お前にはぴったりだな」
ほっとけ、と内心吐き捨てながら「もう行くよ」と踵を返し、ドアノブに手を掛けた。
その腕を、浅見が掴み上げた。い、と鈴丸が顔を歪める。
「なんだよ!」
「……資料室の資料は持ち出し禁止だ」
ぐいっとドアの外に鈴丸の体が押し出された。その手には鈴丸が隠し持っていた書類が握られている。鈴丸は小さく舌打ちする。
「バレたか」
「何が欲しかったんだ?」
「さあな」
ひらひらと片手を振りながら廊下に出て行った鈴丸は肩を落としながらポケットに手を突っ込んで携帯を取り出した。
今まで切り続けていた電源を入れ直していると「蒲生くん」
杖をつきながらスーツ姿の男がのっそりと自分に近付いてきていた。ああ、と鈴丸は片手をあげた。
「支部長のおっさんじゃん」
「この間のヘリの件はどうも」
苦笑する支部長に気まずそうに鈴丸は視線を逸らした。それに支部長は溜め息を吐く。
「活躍してくれるのは構わないけどあんまり暴走されると」
「はいはい説教はまた今度聞くっての」
あははと笑いながら鈴丸は彼の横を通り過ぎた。
少し距離が空いてから彼は問う。
「何を疑ってるの?」
微笑を携えながら鈴丸はその問いの答えを言い放った。
「俺はいつでも組織を疑うのスタイルなんだよ」
答えになってないし、という彼の言葉は鈴丸に届いた様子もなかった。
廊下を使った追いかけっこの末、中庭まで逃げて行った名前も知らない後輩をやっと捕まえた。
ぜぇぜぇと息を切らす彼女を見ながらその顔に見覚えがあって「ああ、お前、図書室によく画集借りに来るやつ……」と南波はこぼした。
後輩、こと茜は最初こそ本当にどうして見知らぬ先輩に追いかけ回されているかが分からなかったようで目を白黒させていたものの、まじまじと南波の顔を見つめたところでやっと思い当るところがあったのか「益海先輩、でしたっけ」
驚いたように南波が茜を見返した。
「俺の名前、知ってたのか」
「よもぎちゃんが、乱暴者だって」
勝手なこと言いやがって、と顔をしかめながら南波は近くにあったベンチに乱暴に腰かけた。
そういえば、よもぎとはじめて出会ったときもこんな風にベンチに座っていたような気がする。そんなことを思いながら気付けば南波は口を開いて問いかけていた。
「で?」
驚いたように自分を見返す茜に「別に。話さなくてもいいけど話したら気が楽になるかもしれないだろ」
彼なりに気を遣っているのだろう。そう思った茜は南波の隣に座りながら顔を俯かせ、ぼそぼそという。
「最後に残ってたお菓子を、私が食べちゃったから喧嘩になって」
南波は頭を抱えた。
思ってはいけないことだと分かっていても茜から聞いた喧嘩の理由はくだらない、と、そう思ってしまった。
この世の終わりだとばかりに悲しそうな顔をする茜に頭を抱えたまま南波は言う。
「それなら謝ればいいだろ」
「私だって途中で謝ろうと何度も思いましたよ!」
でも、と溜め息交じりに茜は告げた。
「いざ謝ろうと思ったら、上手く言葉にならなくて」
なんとなく、南波にはその言葉の意味が分かった。感情を言葉のするのが苦手だからなおさらだ。
しかしここで同意したところでどうにもならないだろう。少しだけ間を空けてから南波は「後悔するぞ」とまるで脅すような言葉をかけた。
ぴくっと茜が自分を見上げているのにも構わず「俺は、知ってるぞ。仲たがいしたままにして後悔してる馬鹿を」
誰でもなく、よもぎのことだった。いつも明るい彼女が唯一暗くなる話題。それだけでどれだけ彼女の心の中を深く蝕んでいるのかは分かる。
「言いたいことは全部言っておけ」
なんて、とベンチから腰を上げ、南波は薄く笑った。
「ただの先輩の戯言だ」
きゅっと茜が口を結んだ。
後は知らない。立ち去ろうとしたとき、後ろから「茜!」と女生徒の声が南波の鼓膜を揺らした。
「瑞穂ちゃん……」
「……悪かったよ、言い過ぎた」
「……わ、私も」
後ろでそんなやり取りが繰り広げられているのを聞きながら何やってるんだ俺は、と内心がっくりしながら南波は校舎へ戻って行った。
このあとまた言い合いが起きようが、仲直りしようがもはや南波の知ったことではないのだ。
無我夢中で飛び出してきたせいでうわばきから履き替えていないことを思い出して南波はうんざりした。
どうしようか迷った挙句にそのまま中に入ろうとした彼をまだ幼い声が引き留める。
「おいおい先輩、そんなきったねぇ足で学び舎に入ろうってんじゃあないでしょうね」
目の前で腕を組んでいたのはよもぎだった。その手には古びた雑巾と南波のカバンが握られている。
全く、と雑巾を突き出しながら彼女は笑った。
「夢中になるのはいいですけど、靴くらい履き替えてくださいよ」
「誰のせいだと思ってるんだ」
靴の裏を拭う南波がそう言えば「すいやせん」とよもぎがひょいと肩をすくめた。
それ以上言葉を返す気にもなれず、南波はよもぎに雑巾を投げ渡すと代わりに自分のカバンを要求した。はいはい、とよもぎが渋々それを差し出す。
乱暴にカバンを受け取ってから「俺を巻き込むな」と淡々と言い放った南波が歩き出した。
「あ、待ってくださいよー」
「待たない」
あくまで自分のペースで進んでいく南波にぶーっと唇を尖らせていたよもぎだったがそのあとに続きつつ、「だって」と言い訳を述べ始めた。
「後悔して欲しくなかったんですもん」
ああ、またか。南波はうんざりした。
またそれなのか、春風。
「失恋した」
なんの前触れもなく、南波がそう告げる。
顔を引きつらせたよもぎはそのあとけらけら笑いながら「それは前からじゃないっすか」
「フラれた」
「は?」
よもぎが口を開けて、びっくりしたように南波を見る。
言葉の意味を理解できない。そう言いたげだった。
「告白して、フラれた。分かったな?」
「いや、全然わかりませんけど!?」
え、え、とひたすら困惑したような声をあげ続けるよもぎは「な、なんで?」と目を白黒させながら南波を見るばかりだ。
告白? 誰に、など聞くまでもないのだがそれをしたという南波の行動が信じがたいものだった。そしてそれを自分に話すことも。
「どうしたんですか急に……」
「気まぐれだ」
どちらに対する答えかはよもぎには皆目見当もつかなかったがとにかく南波が傷心なのははっきりわかった。
変に同情されるのが嫌な人だろうと思ったよもぎは両手を広げながら冗談めかして言う。いや、本当は少しだけ、別の狙いもあったが。
「春風の胸でよければ貸しますから泣きますか? 今人いないし」
「お断りだ」
きっぱり断られて、ちぇっとよもぎは悔しそうにこぼした。
それからじーっと南波を見て、彼女は息を吐くと「先輩」とどこか押し殺した声で南波を呼んだ。
「ん?」
「春風は少し泣きたいので胸を貸していただけないでしょうか」
「断る」
だろうな、とよもぎが少しがっかりしていると「胸は貸さないけど」と南波は彼女の目の前に腕を突き出した。
「腕は貸してやる」
素直じゃないな、この人。
目の前に出された腕にすがりつくように顔を埋めてからひっく、と小さく嗚咽を漏らした。
本当に小さな、掻き消えてしまいそうな嗚咽だった。
「春風も、ちゃんと仲直りしたかったなぁ……!」
目から涙をこぼしながらよもぎはその言葉をこぼしただけだった。
小さく体を震えさせる彼女の肩をぽんぽんと叩いてから南波は「まだ遅くないだろ」
「そうですかね」
「……お前は俺の知ってる春風だけど、俺の知らない春風でもある」
よくも悪くも。
そう続いた言葉によもぎはぐっと何もかもが止まったような気になった。自分は少しでも変われていたのだろうか。南波の目には少なからず、変わっているように見えたのだろうか。
そのことが嬉しいような、誇らしいような、それでいて少しだけ照れくさいような不思議な気分になった。
へへっと涙を拭きながらよもぎが顔を上げると「南波とよもぎちゃん、ここにいた!」と太李の声が大きく響いた。
「あ、灰尾先輩」
「どうした」
「ディスペア」
太李がぼそっと言えば一度頷いた南波がぽんとよもぎの背を押した。
「行くぞ」
「合点です!」
ぐっとサムズアップで返す。それしかよもぎには出来なかった。
カラスと共に立っていたのは真っ白なファー付きのドレスを着た女――γ型だった。
ドレスと同じように白いふわふわのブーツで地面を蹴りつけてながらびょんびょんと縦横無尽に跳ね回る姿はまさにうさぎだった。
途中でマリアと合流した五人がその目の前に立つ。
それぞれの顔を見てから巳令は「久々にきちんと揃ったんですし」とチェンジャーである腕輪を構えながらにこにこ笑う。
「やっておきましょうよ、あれ」
「……まぁ、お前に限って忘れてるとは思ってなかったよ」
がっくりと太李が肩を落とし、残りの三人も苦笑する。
拳銃に弾を詰め終えたマリアが「おら、グズグズやってねぇでさっさと行くぞ!」と声を張り上げた。
まるで銃声が合図だったかのように、銃口が火を吹いた瞬間、五人の声が重なった。
「変身!」
五人を包んだまばゆい光の中から一番に飛び出てきた巳令が鉢を押さえながら、一番に名乗りを上げた。
「悲しき魂に救いを与える姫、鉢かづき!」
続いて出てきたのは梨花だった。ひらひらとスカートの裾を揺らし、足をもつれさせながら名乗る。
「悪しき心に罰を与える姫、親指!」
その次には金色の髪を邪魔そうに振り払いつつ、南波が現れた。落ち着いた声で名を告げる。
「不幸な存在に光を与える姫、人魚」
よもぎが出てきたのはそのあとすぐだった。くるくるっとその場で一回転した彼女は両手を広げながら笑顔で言い放つ。
「残酷な宿命に終わりを与える姫、いばら!」
最後に出てきたのは太李だった。水色のマントを風になびかせながら凛々しく、
「哀れな役に幸せを与える姫、シンデレラ!」
太李の声に合わせ、巳令が腰に携えていた刀を抜いた。
それに合わせ、梨花は斧を握り、南波の槍は宙を切り裂き、よもぎは弓を持ち、太李もレイピアを構えた。
「悪夢には幸せな目覚めを」
五人の声が一斉に告げる。
「フェエーリコ・クインテット!」
全ての名乗り口上を終えると握り拳を作った巳令がそのまま小さくガッツポーズした。
「やっぱりヒーローなんですからこれがなくっちゃ……!」
そんな巳令に太李が苦笑する。
「ずっとやりたかったんだな、鉢峰」
「だって最近、なかなかみんなで揃う機会なかったから……!」
心底嬉しそうにしていた巳令だったがその笑顔もすっともみ消すと「さて」と刀を鞘に納めた。
「γ型ですね」
「だな」
頷いた南波はくるりとよもぎの方を向くと「やってやれ、春風」
にっと笑ったよもぎは何かを取り出した。黒い箱だった。それをぎゅっと抱きしめると「任せちゃってくださいよ、先輩方」とその中身を取り出した。
深緑色の石のはまった指輪。手の上にそれを乗せて「ゆずちゃんせんぱーい」あからさまな溜め息が通信機越しによもぎに聞こえてきた。
「皆さんの決意を聞いてるようなのでぜひ自分ともお話してください」
「君らが勝手に話してるんじゃないか」
そんな台詞の割に柚樹葉の声の調子はどこか明るい。
本当に鬱陶しがられたらどうしようかと身構えていたよもぎは少しだけ嬉しく思いながら矢をつがえ、弦を引いた。
「自分は変わりましたかね?」
「さあ、どうだろう」
柚樹葉の返答と共に弦が揺れ、矢が放たれる。
暴れ回るγ型には掠りもしない。予想通りだな、と思いながら「自分はね、結構駄目だったなって思ってたんです」
「へぇ」
「ほんの少し見た目を変えただけで周りが変わってくれないかなぁなんて心のどこかで思っちゃって。でもだからちょっとずつ動こうとしてみて」
一拍置いてからふふ、とよもぎは指輪をはめながら小さく笑んだ。
「それで、ちょっとずつ変われたみたいだったのでもう少しだけいい方に変わりたいなって」
「……そういうところは君のいいところだよ」
「あざっす!」
元気よく返してからよもぎは改めて指輪をかざした。
閃光がよもぎの体を包む。
ふわっと閃光が散っていく。余計な装飾やフリルは一切ない、シンプルな爽やかな淡い緑色のドレスがよもぎの身を包んでいた。同じ色のショールが肩にかかっている。
手触りのいい手袋を見つめながらよもぎは「こりゃすげぇ」と素直な感想を一言こぼした。
その手にはいつもの洋弓はなく、ボウガンが握られていた。
「よっしゃ」
自分に向かって振り下ろされたγ型の足を転がってかわすとよもぎはボウガンの狙いを定め、引き金を引いた。
ばねの力で弦から矢が連続的に放たれる。何本もの矢に貫かれていく体はバランスを崩しながら後ずさって行く。転倒する体を見てよもぎは地面を蹴りつけてから踏ん張って、回し蹴りをかます。
宙に浮かぶ体にもう一度、狙いを定めるとよもぎは肩に掛かったファーに向かって矢を撃ち込んだ。
小さな爆発が起こり、その場に一人の女が倒れ込んだ。
翌日、工芸室に入った梨花は「あれ?」と首を傾げた。
「よもぎさん……?」
「あ、こんちは、梨花先輩」
にこにこと微笑んでいるよもぎはスケッチブックを抱えていた。鉛筆を持った手は真っ黒に汚れている。
机の上には彼女の一番最初の作品が置かれている。不思議そうに首を傾げる梨花を見てくすくす笑ったよもぎは「もうちょいで終わりますから……」とスケッチブックの上に鉛筆を走らせた。
不思議に思いながらよもぎの後ろに回り込んだ梨花はわっ、と声をこぼした。スケッチブックの上に机の上と同じ光景が映し出されている。白と黒しかないのにまるで何色もあるかのように思えてしまうほどだった。
「よもぎさん絵上手……」
「え?」
思わず口をついて感想が出てしまった梨花は慌てて口を塞いだ。邪魔になってしまったのではないだろうかと心配になったからだ。
しかし、よもぎは特に不快に思ったような様子もなく手を止めないまま「自分なんてまだまだですよ」
一通り描き終えたのか、ふぅと息を吐いてからスケッチブックを閉じたよもぎは「これでよし」と笑ってから人差し指で自分の口元を押さえた。
「他の皆さんには内緒で」
「え、あ、わ、分かった……!」
こくんと頷く梨花に「ありがとうございます」とよもぎは嬉しそうに笑った。




