第二十五話「それでも図書委員は後悔してしまったようです」
九月なのに日差しが強かった。宗本和奈はスクールバッグを担ぎながらふぅ、と額に滲んだ汗を拭った。
遠くから蝉の声が聞こえてくる。夏休みが明けたのだという自覚は一向にやってこなかった。
昔なら自分の幼馴染がそんなことでどうすると小突いてくれたものだがそれをしてくれた彼も今は遠い学校に通っている。
少しだけ寂しいな、と思いながら通学路を進んでいると彼女の耳に自動車のエンジンの音や蝉の声、同じ学校の生徒たち以外の声が聞こえてきた。
にゃあ、とどこからか愛らしい声が聞こえてくる。振り返ってから、和奈は思わず笑みを浮かべた。
「猫ちゃんだー」
そう言いながらぱたぱたと和奈は住宅の外壁に駆け寄った。
薄墨色の雑種の猫が短い尻尾を揺らしながら和奈を見つめていた。にゃあ、とまた一声鳴いた。
短い舌を自分の手に伸ばしてからその手でてしてしと自分の頭を撫でつけた。
「あはは、かーわーいーねー」
当然だろうとばかりにまたにゃあと猫が鳴いた。
「お前全然逃げないねー、人馴れしてるのかな? どこの子?」
自分の方に頭を突き出してくる猫の頭に和奈の手が触れた。猫は逃げるどころか気持ちよさそうに目を細める。
首に首輪はついていなかった。
「野良なのかい?」
和奈が問いかけても猫はにゃあと鳴くだけだった。むぅ、と彼女は唸った。
「私猫語わかんないからなぁ」
「にゃあ」
「にゃー」
猫の頭を撫で続けながら和奈はそんな風に声真似してみせるがやはりこれも効果はなかった。
気持ちよさそうにもっと、もっととばかりに頭を突き出す猫に和奈は嫌がりもせずに頭を撫で続けた。
「まー迷子じゃなさそうだしいいよね」
はぁー、と和奈は深々溜め息を吐いた。
「いいよねーお前は。自由気ままで、どこにでも行けて」
和奈の頭の端にちらついていたのは京だった。
よくなってきているとはいえど、昔のように駆けまわれるような状態ではまだなかった。
「お見舞いするしかないなんて寂しいよ」
顔を俯かせてから「そーだ!」と和奈は片手をポケットに突っ込んだ。すでに彼女の中では暗い思考は明るいものへと切り替わっていた。
取り出したのは携帯電話だった。彼女は手早くそれを操作すると気持ちよさそうな猫の顔をぱしゃりとそこに収めた。
えへへ、と笑ってから遠くで聞こえるチャイムの音に彼女はびくっと肩を跳ね上がらせた。
はっとして携帯の画面に視線を落とすともうすぐ、始業の時間を過ぎようとしていた。周りに居たはずの同じ制服を着た生徒ももう一人も見当たらない。大変、とカバンを持ち直して、もう一度だけ猫の頭を撫でてから彼女はくるりと踵を返した。
「バイバイ、猫くん!」
にゃあ、と小さく返ってきた鳴き声に名残惜しさを覚えながら和奈は駆け出した。
眠りから覚めた麗子の視界に一番に飛び込んできたのは枕元に重ねられた菓子の箱だった。
チョコチップクッキーに、スナック菓子の箱詰めやガムの箱がこれでもかと積み重なっていた。こんなことをする人物に麗子は一人しか心当たりがなかった。
それを説明するかのように手にいっぱいの菓子を抱えたウルフが扉の隙間から体を滑り込ませてきた。
彼女は麗子が起きているのに気付くと大きな目を見開いた。
「ぴゃ!」
奇妙な声をあげてからウルフは扉の向こう側へ駆けて行く。
少し間が空くと恐る恐る、中の様子を伺ってきた。
そんな彼女に麗子はくすりと笑ってから箱の一つを手に取って「これは、あなたですの?」隙間から見えるウルフの首が小さく縦に振られた。
ここ数日、自分がまだ本調子じゃなかったのがよほどウルフは気になっていたのだろうと麗子は思った。悪いことをしてしまった、とも。
もう一度菓子の塔を眺めてから「わたくし一人じゃこんなに食べきれませんわ」あう、とウルフが顔を俯かせた。麗子は柔らかく微笑みながらベッドからようやく降りて、扉の近くに歩み寄った。
なぜか申し訳なさそうに自分から視線を逸らそうとするウルフの前でしゃがみ込んだ麗子は「一緒にお食べなさい」
顔を上げながらウルフは驚いたように言葉を放った。
「いいの?」
「いい、悪い、の問題ではありませんわ。食べろと言ってますのよ」
きょとんとするウルフの手を引きながら麗子は部屋の中に戻って行った。
手を引かれるがままについて行ったウルフは沈黙が嫌だったのか、思ったことをそのまま口に出した。
「れーこの手はでっかいなぁ」
「あなたの手が小さいのですわ」
「それにれーこは背が高いなぁ」
「あなたが小さいのですわ」
と、そこまでのやり取りを繰り返してから麗子は眉を寄せた。昔どこかで読んだ昔話を同じ会話の流れだったからだ。
それを知る由もないウルフが似たような言葉を返してくることがとても皮肉に思えた。
麗子は無理やり会話を切り上げるために手元にあった袋の封を切ると中に入っていたグミをウルフの口の中に詰め込んだ。おぼぼ、とウルフがばたばた両手を震わせたので、彼女はその手を止める。
もちゃもちゃとグミを咀嚼してからごくんと飲みこんだウルフが吠える。
「何すんだよばかれーこ!」
「あら、あなたが物欲しそうな顔で見ていたから親切心でお口に入れて差し上げたのよ?」
「うそだー!」
きぃ、と声をあげるウルフに麗子はいつもの高笑いをあげた。
いつものれーこだ! ウルフの顔が一際、輝いた。
「れーこはやっぱりウザいほーがいーね!」
まぁ、と口元に手を当てた麗子ががばりとウルフを抱きすくめた。
「また生意気言ってますわねこの子は。お仕置きですわ!」
「きゃーやめてー!」
ウルフを抱きかかえたまま、麗子は後ろにあったベッドに背面から飛び込んだ。
ぼふんとマットが浮き上がり、掛布団や枕が浮き上がった。
二人の楽しそうな笑い声が室内に響き渡る。
「そーえばさいきんあちし全然でばんがないんですけどー」
ぐるぐる布団に巻き込まれながらウルフが不満げに頬を膨らませた。
彼女を見ながら麗子は人差し指を口にあてがいながらくすりと笑った。
「あなたにはまだ早いですわ」
「むー!」
よく分からないけど馬鹿にされてる、そう思ったウルフはまたじたばたと両手足を動かした。
放課後、メールの着信を確認した南波は口元が緩んでいたのが自分でも分かるほどだった。
和奈から送られてきた『猫いたー』というだけの本文と猫の写真が添付されたメールはいかにも彼女らしいと南波は思う。送られてきていた時刻を確認すれば恐らく向こうも始業したばかりの頃であろう時刻だった。午後でもよかったのにせっせと打ってきたのだろうかと思うとよほど自分に猫の存在を知らせたかったのだろうと思う。それでどうということもないのに。
微笑ましいような、少しだけ照れくさいような。幼馴染のたった一通のメールが南波にとっては舞い上がるには十分すぎるものだった。
よかったな、と打ち込んでから『久々に一緒に見舞い行くか?』と打ち込んだ。誰の、とはもはや二人にとってみれば特別書きださなければいけないようなものではない。
最近は、和奈と一緒にはあまり見舞いに行かなくなった。行きたいのは山々なのだが部活も委員会もフェエーリコ・クインテットまでかけ持っている南波と和奈の予定がなかなか噛み合わなかっただけだった。
今日は久々にクインテットとしては訓練がない日だ。部活も休み、委員会も今日はシフト外だ。彼にしては珍しく、自由な時間が有り余っていた。
それに対する和奈の返信は『やったー!』という文字だけと可愛らしくバンザイする顔文字だった。にこにこ笑う和奈の姿が見えたような気がしてまた南波は少しだけ表情を緩ませた。
待ち合わせ場所だけを決めて、携帯をねじ込んだ彼の背後から聞き慣れた声が飛んできた。
「南波?」
振り返ってから「ああ、なんだ灰尾か」と南波はいつもの無表情を取り戻した。
南波の物言いに後ろに居た太李が頭を掻きながら苦笑する。
「いや、お前、なんだはないだろ、なんだは……ちょっと傷つくぞ」
「知るか」
ふん、と顔を逸らす南波に太李は「それより」と彼の顔を覗き込んだ。
「どうしたんだよ、南波。なんかさっきはやたらご機嫌、っていうかにやにやしてたけど」
げ、と南波は内心顔を引きつらせた。知り合いに見られた可能性をちっとも考えていなかった。それほど浮かれていたのだ。
しかし、あくまでそれを表には出さずに南波は淡々とした声で答えた。
「鉢峰といるときのお前よりはマシだ」
「な、なんだよその言い方!」
むっとなった太李が勢いに任せて言い返せばふっと南波は先ほどのものとは全く異なる、どこか嘲笑的な笑みを浮かべた。
「にやにやしてるだろ、いつもいつもデレデレと」
「んなこと……」
「あ、鉢峰」
「え!?」
くるっと嬉しそうに後ろに振り返る太李に南波は思わず吹き出した。
巳令の姿が見えなかったことでからかわれたと分かるや太李は再度、南波に向き直ってから彼を睨み付けた。
「南波、お前なぁ」
「俺に構ってる暇があったらさっさと大好きな鉢峰のところに行くんだな」
吐き捨てながらカバンを担ぎ直す南波を見て、太李は思わず問いかけた。
「矢代さんのとこ?」
そういえばこいつは京さんに会っていたんだった、進みかけていた足を止め、ふぅと息を吐きながら南波は呆れ交じりに告げた。
「ああ。悪いか?」
「いや、別に」
南波の背中を見送りながら「気を付けてな」とだけ太李は言葉を送った。
言われるまでもないさ、南波は思うだけでそれを言葉にはしなかった。
本を抱えながら図書室にやって来たよもぎはカウンターにいる図書委員を見てあらら、と顔をしかめた。
そういえば今日は南波はシフトではなかっただろうかとふと思い出したからだった。気付くのが遅すぎた、と思いながら別にあの人がいなくても本の貸し借りはできるなとよもぎは思い直した。
「あ、春風さーん」
「司書さん!」
のんびりとした生江の声を聞いてよもぎは笑顔を浮かべた。
生江はよもぎが抱える本がこの間彼女が借りて行った新刊だと理解するや、嬉しそうに微笑んで「どうだった?」と首を傾げた。
「めっちゃ面白かったです! 司書さんに頼んでよかった」
「わあ、よかったぁ」
にぱっと笑う生江にえへへとよもぎも笑みを浮かべた。
読み終えて返却する本を差し出すと生江はそれをカウンターの前にいた女生徒に渡し、「ごめんね、今日益海っちいないんだ」と笑いかけた。む、とよもぎが顔をしかめる。
「別にウチ、益海先輩目当てってわけじゃないんですけど。むしろ暴力振るわれなくてせいせいすらぁ」
不機嫌そうなよもぎにあれ、と生江は驚いたように目を開いた。
「そうなんだ、てっきり春風さんは益海くんにそういう気持ちがあるのかと思った」
「はぁ!?」
顔を歪め、カウンターから飛び退くように離れたよもぎは今自分がいる場所が図書室であるということも忘れて声を荒げた。
「なんで! ウチが! あんなチョップと本でしかまともに会話できないような先輩に恋愛感情をいだかなきゃならんのですか! 洒落にならねーっすよ司書さん! 冗談きつすぎ!」
ええー、と生江は唇を尖らせるだけだった。
「そりゃまぁ、恩人ではありますけど」
よもぎが深々と溜め息を吐きながら近くにあった椅子に腰かける。それでも気持ちは収まらない。冗談じゃないぞ、とそればかりを考えた。
「でも益海っち意外とかっこいいから」
「あの凶悪な面をかっこいいと表現しますか」
「そりゃ目つきは悪いけど。悪い子じゃないし」
カウンターから出てきた生江がずるずると自分の横に椅子を持ってきてちゃっかり座ってしまった。文句を言う気にもなれずによもぎは足を組んだだけだった。
「というか、そもそも春風さんが志摩次晴に興味持ったのだって益海くんが志摩作品大好きだからでしょ?」
「そ、それは」
そうだけど。ごもごもと口を動かすよもぎはむすっとしながら言い放った。
「でも! 別に益海先輩に関係なく、志摩作品が原作のドラマとか好きだったし、たまたま本格的に興味持つきっかけになっただけであって、推理物とか元々好きだし」
「んもー」
やれやれと首を左右に振りながら椅子から腰をあげた生江はよもぎの両手を握りしめるとにこりと笑いかけた。
「じゃあそんなに推理物が好きなら一応、碓井佳代子も読んでみたらどうかな」
「碓井?」
「そ。志摩と並んでる若手の推理作家さん。彼女はなんでも書く志摩と違って本格推理ものがほとんどなんだけど。毎回文学賞で競り合ったりしてて、志摩のライバル、なんて言われてたりもするんだ」
と、近くの棚から一冊の文庫本を取り出した生江はぽんとよもぎにそれを押し付けた。
「というわけで面白いので読んでみるのをおすすめします」
「……もしかして司書さんが布教したいだけ?」
「あ、バレちった」
てへ、と笑いながら「私は実は志摩作品より碓井作品派なんだ」などと悪びれもせずに伝える彼女によもぎは苦笑しつつ本を受け取った。
「こんにちはー」
間延びした巳令の声が泡夢財団の休憩所に響き渡った。
机に身を乗り出していた梨花がその声に振り返り、ぱぁっと顔を輝かせた。その横に並んでいたマリアも巳令に気付いたらしく、手を振っている。
「こんにちは巳令さん! 今日は召集ないのに珍しいね」
「たまには自主訓練でもしようかと思って。梨花先輩こそ、相変わらず真面目ですね」
「そうかな?」
首を傾げる梨花にそうです、と返してから「それはそうと」と巳令は興味深そうに机の上を覗き込んだ。
「二人で何見てたんですか?」
「え、ああ、あたしの卒業アルバム。高校の」
マリアの言葉にへぇ、と返しながら巳令は机の上で広げられていたアルバムに改めて視線を落とした。
「あ、マリアさんここにはいなかったの」
と、梨花がぱらりと一枚ページをめくる。様々な写真が並べられたページの端に自分たちも着ているラベンダー色のブレザーを着たマリアを見つけてわあ、と巳令は声をあげた。
「これ、マリアさんですよね」
「げっ」
よりによってその写真かよ、とマリアは顔を引きつらせた。
写真の中の彼女は相変わらず銀色の髪を三つに編んでいた。その服装は神都高校の制服、ではなく茶色基調のウェイトレス衣装だった。恐らく文化祭の写真だろうと巳令は思った。不満げな彼女が同じ衣装を着た友人と制服姿の友人、二人に手を引かれ、項垂れていた。
横の梨花もわあわあと嬉しそうに笑っている。一方でマリアは誤魔化すために頭を掻いてから叫んだ。
「ち、ちげーぞ! これは、無理やり着させられて!」
「マリアさん可愛い」
「ちーがーうー!」
うがーと両耳を塞ぐマリアに巳令と梨花は笑い合った。
写真を見つめながらふと巳令の視線は写真の中でマリアの手を引く友人に向いた。衣装を着ている方は少々くせのついた黒い髪の女生徒だった。ぎこちないながら笑う彼女は美人でもあり可愛いような、絶妙な顔立ちだった。
もう一方は美人という形容が似合う長い黒髪の女生徒だった。目の下のほくろが高校生とは思えないほど彼女を色っぽく見せていた。そんな彼女が満面の笑みを浮かべている。
「なんだか、マリアさんのお友達って綺麗なんですね……」
「え?」
素直に巳令がそう言えば悪い気はしなかったのか「そうだろ?」とマリアは照れくさそうに笑った。
梨花も横に並んでいた友人たちを見てそれからわずかに目を見開いた。
「あれ?」
「ん、どした、梨花」
「え、あ」
ふるふると首を左右に振りながら「なんでもないです」と梨花はもう一度だけ視線をアルバムに戻した。
誰か見覚えがある奴でもいたのだろうかとマリアが考えていると
「あらあら」
といつの間にやって来ていたのかベルが口元に手を添えながらそうこぼした。
よりによって見られたくない奴に! 嘆きたくなるのを抑えながらぱっとアルバムを閉じたマリアは「お前! いつからいたんだよ!」と吠えた。
ひどーい、とベルが頬をわざとらしく膨らませた。
「ついさっきからいたわよ? それよりなんで隠すのよ、若いマリアもっと見たーい」
「若いってまだ数年前の写真だぞこれ! そんなに変わってねーだろ!」
「えー変わってるわよぉ。今のあなた、だいぶ大人っぽくなった」
自分の手元を覗き込もうとして来るベルをマリアは威嚇するように睨み付けている。
もう、と悔しそうにベルは顔を俯かせた。
「意地悪なんだから」
「うっせぇ!」
はぁああ、とアルバムに顔を押し付けて目の前に倒れ込むマリアにくすくす楽しそうに笑ってからベルは改めて巳令と梨花に向き直った。
「こんな子でもあんな可愛いお友達がいるんだから不思議よねぇ」
「悪かったなこんなので」
けっと吐き捨てるマリアを見ながらまた巳令と梨花が笑い合った。
なんで笑うんだよ、と不満げに告げてからふと思い出したかのように「あ、鈴は?」と問いかけた。
「支部に文句言いに行ったわ」
「今度はなんだよ」
「前にミハエルが来日したとき送迎の手配してやったんだから五万は出せって」
「あいつほんとなんでも金取るのな」
呆れたようにマリアが笑った。
待ち合わせの場所である病院の最寄駅に南波が着くと和奈はすでにカバンの抱えながら彼を待っているところだった。
鼻歌を歌いながら体を小さく前後に揺らす和奈の姿を見てどこか安心したような自分がいるのを南波は認めていた。
「和奈」
「あ、みーちゃん」
ぱっと笑った和奈がぱたぱたと南波に近付いた。
嬉しそうにしている幼馴染の頭に思わず手を伸ばし、そのまま南波の手が和奈の頭を撫でる。えへへ、と和奈がにやけ面を浮かべた。
自分の頭を撫でていた手を和奈は掴まえると引っ張った。
「よーし、じゃあみーちゃんも来たことだし行きますかー」
「ん」
「あ、そうだ」
くるっと振り返った和奈が南波に不機嫌そうに言う。
「今日は被り物禁止だからね」
南波は思わず、自分が顔を引きつらせているのが分かった。
「ていうかさ」と南波の手を掴んだまま、和奈は唇を尖らせた。
「なんであんなん被ってるの?」
「…………から」
顔を逸らしながらぼそっと答える南波の声が聞こえずに「なに?」と和奈は首を傾げて聞き返した。
自分を見上げる彼女が愛らしくて、ついヤケクソのように南波は叫んだ。
「怖がられるからだよ!」
なぜか悔しそうにそう吐き捨てる彼に和奈はきょとんと、その場で固まった。
それから、何が面白かったのか口元に片手を当てながら「ぷふ」と吹き出した。
「ふふ、あはは!」
「なんだよ……」
「だって、みーちゃ……気にしてたんだ……ふふ」
「悪いか!」
話すんじゃなかった、と顔を背ける南波に和奈はまだ笑ったまま「ごめんね」と肩を叩いた。
「そうだよね、みーちゃんって昔っから顔は怖いのに繊細だよね、ぷくく」
「……お前、ほんとに俺が繊細だと思ってるか?」
「思ってる思ってる」
げらげら笑いながら和奈は楽しげに続ける。
「小さい頃さ、一回蜂に刺されたら怖くて一ヶ月くらい外に出られないでさ。京くんと私がいくら言っても駄目なの」
「いつの話だ!」
慌てたように声を荒げる南波にまた和奈が笑う。
ずっと一緒だったから和奈だからこそ知っている自分の存在は恥ずかしいような、嬉しいような、南波にとってはなんとも言えないものだった。
「でも今日は被り物だーめ」
「なんで」
「え? だって、私、怖いけどみーちゃんの顔好きだもん」
けろっと答える和奈に南波は心臓が止まるかと思った。
硬直する南波に「おんやぁ?」と和奈はにやにやと笑みを浮かべた。
「さてはみーちゃん氏、照れてますなぁ?」
「うるさいお前が変なこと言うからだ」
そう言ってすたすた歩いていく南波に手を引かれながら和奈はそれに合わせるために足を忙しく動かした。
「あー、早いよーみーちゃんのばかー」
不満げにそう言っている和奈に溜め息を吐きながら南波は少しだけ歩くスピードを緩めた。
やっと着いた病院で不機嫌そうに歩き続ける南波にもう、と和奈は不満げに頬を膨らませた。
「そんなにぶすっとするともっと顔が怖くなるよ」
「ほっとけ」
「ほっときませんー。これから京くんに会うんだからみーちゃんの不機嫌顔なんて見たらもっと悪くなっちゃうよ」
「お前な」
むにーっと和奈の頬を引っ張りながら南波は足を止めた。
京の病室の前だった。特に何の気なしに扉に手を伸ばした南波の手を「ちょっと待って!」と小声で言いながら和奈が再度掴んだ。
「なんだよ?」
「そ、その、心の準備が……ほ、ほんとに待って」
ぱっと南波の手から自分の手を離し、和奈はそれを胸に当てるとすーはーと深呼吸した。
少しだけ跳ね上がってる髪をちょいちょいと整えてからもう一度、息を吐き出して「よし」と両頬を張った。ぱちん、と乾いた音をさせてから和奈が勢いよく扉を開けた。
「けっいくーん! きったよー!」
「ん?」
窓の外を見ていた京が振り返り、おお、と笑った。
「和奈と南波か。一緒に来るの久しぶりだな」
「うん。みーちゃんが誘ってくれたんだ」
ねー、とこちらに振り返る和奈に南波は頷き返した。その彼を見て「しかも南波は珍しく被りもんなしか」と京は驚いたように言う。ほっとけ、と南波は内心言いながら溜め息を吐いた。
それだけで京には大体伝わったらしく、苦笑した。
近くの椅子に腰かけた和奈が「あのね、京くん、今朝ね、猫が居てね」と楽しそうに話し出した。
そこから先は南波にとっては特に面白くないものだった。基本的に自分は和奈と京が会話しているのを聞くだけで時折、適当に相槌を打つくらいだった。
自分から会話に参加しようという気持ちが湧き上がらない。性格悪いな、と自分で自分を罵った。
面会終了のギリギリまでこれが続くのだろうと南波は思った。今から都合よくクインテットの呼び出しがかからないものかと期待してしまうほどだった。
しかし、現実はそう甘くはない。なんとなくその場から逃げ出したくなった南波はゆっくり椅子から腰をあげると「コーヒー買ってきます」とだけ告げて、病室を出た。
病室の外に出ても二人の笑い声は聞こえてくる。これでいいんだと言い聞かせながらなるべくゆっくりと自販機まで向かった。
自分でも酷いと感じるほど、そのときの南波の動作は一つ一つが重かった。戻りたくない、心のどこかでそう思っていた。
無糖の缶コーヒーを買ってから来た道を戻って行く。病室の前につけばまたゆっくりと扉に手を伸ばし、のろのろとそれを開きかけた。
中から聞こえてきた声に、扉を全て開くことは阻まれたのだ。
「ごめん」
病室の中から聞こえてきた思いつめたような京の声に南波はまたしても心臓が止まるかと思った。けれど今のは先ほどとは全く違う。凍りついたような気すらした。
まさか、と思いながら南波の体は動かなかった。動かなかったというよりも動けなかったという方が適切だった。
「前も言った通りだ。お前は、俺といたってしょうがない」
「そんなこと」
「俺はお前に幸せになって欲しいんだよ」
考えるまでもなく、和奈が今どのような話をされているのか南波には分かる。
何も言わずに、和奈は傍に置いていたカバンを掴み上げるとくるりと方向を変え、やはり何も言わずに開きかけていた扉を開いてしまった。
「あ」
扉の前で固まっていた南波と目があっても和奈は何も言わずに顔を俯かせて、走り出す。
その背を追いかけることができるほど南波はまだ冷静ではなかった。
沈黙の後に「悪いな」とだけ京の声が響く。
「京さん、今の」
「いや、なんつーか。色々あって」
難しそうに顔を歪めた京はやがて、まっすぐ南波を見つめると「ほら、こうなっても俺は追いかけてやることすらできないから」と寂しげに告げた。
南波は、やっと動いた足で病室の中に入るとまだ開けていない缶コーヒーを机の上に置いて「また来ます」とだけ頭を下げ、やっと和奈の後を追いかけた。
和奈は南波の予想に反して、すぐに見つかった。
病院の裏手の人通りの少ないベンチで座りながらてしてしと袖で涙を拭っていた。
「和奈」
南波が声をかければ、和奈はゆっくりと顔を上げた。
その目は赤く腫れ上がっている。ここまで涙している和奈を果たして自分は見たことがあっただろうかと自分に問いかけてから南波はすぐにそれをもみ消した。答えが出てしまったらどうしようもなく自分が空しくなるだけのような気がしたのだ。
「みーぢゃあん……」
ぐしぐしと袖で涙を拭いながらへへっと和奈は弱々しく笑った。
「フラれちまったぜ……」
和奈の顔に無理やり浮かべられた笑顔が痛々しい。それだけで南波にはどれほど和奈にとってこれが辛いことなのかが分かってしまう。
ずっと好きだった。和奈はずっと京のことを想い続けていた。小さい頃の純粋な憧れがやがて恋愛感情へと変わって行った。いつからか、問いかけても無駄だろうと南波は思う。自分もいつから和奈が好きかと問われたら答えることができない。
ずっと見てきたからこそ分かる。自分の想像を絶するほど彼女は辛いのだろうと。そんな和奈を見るのが南波にとっては息苦しい。
しかし、その一方でどこかで安心している自分がいることが南波は腹立たしかった。
だったらいっそ。ベンチに座ったままの和奈を南波は自分の胸に抱き寄せた。
「みぃ、ちゃん……?」
上ずったような和奈の声を聞きながら南波は黙って彼女に回していた腕の力を強めた。
驚いたように身を強張らせる和奈に彼は告げる。
「俺にしろよ」
「へ?」
こんな状況で言うのがどれほど卑怯なことか、南波には分かる。
けれど自分がこれ以上卑怯になる前に、終わらせたかった。ただそれだけだった。
「京さんなんてやめて、俺にしろよ」
「…………」
「俺だってお前のこと、ずっと見てたのに」
八つ当たりだ、自分でもうんざりするほどだった。
和奈は南波の体を黙って抱き返すと「そっか、そうだったんだ」と一人でこぼしてからやがて、震える声で言う。
「嬉しいよ、でも、ごめんね」
その返答に彼は安堵すら覚えたほどだった。
「ああ。分かってる」
これでもう終わりにするから。
自分か、それとも和奈にか。誰に言い聞かせているかも分からない呟きを南波はこぼすことしか出来なかった。
どちらが何かを言うまでもなく、抱き合うのをやめた二人はそのまま別れた。
正確には和奈がその場を逃げるように去っただけで南波はそこに取り残されていた。
「はは」自嘲気味に笑いながら南波は先ほどまで和奈が座っていたベンチに腰を下ろした。まだ和奈の体温が残って生暖かい。思わず彼は顔をしかめた。
そのしかめ面を手で覆いながら「俺は馬鹿か!」と吐き捨てた。
だがどれほど後悔したところで時間は巻き戻らない。どうしてこうなったのだろうと心の底から不思議に思った。
最初は自分と京と和奈と、三人揃ってただ笑い合っているだけだった。ところが自分が和奈への想いを自覚すればするほどに、痛いほどに和奈の京への想いが分かってくる。彼が入院してからは尚更だった。その度に、自分の中に嫌なものが積み重なっていくのが分かった。
もう見たくなかったから。これ以上、積み重ねたくなかったから。だから柚樹葉の誘いを受けたのだと、南波は痛感した。
見たくないものを隠すために、なんの意味がないのを分かっていながら自分を犠牲にすることが小さな代償だと思い込めるほど隠したいものを必死に隠しだけだった。
京のために何かをしたいのも事実だった。和奈に笑っていて欲しいのも事実だった。でもそれ以上の理由がこれだった。
そうまでしても、駄目だった。
南波は胸に掛かった銀色のネックレスとを乱暴に外しながら腕を振り上げた。なんの意味もないじゃないか。自分の汚さを実感しただけだ。
しかし、手の中にあるネックレスを地面に叩き付けるでもなく、ゆっくり、拳を下ろすだけだった。また逃げたところで仕方がない。そう思った。
太陽の光を反射させ、きらきらと輝くそれにしか、自分の道は残されてはいなかった。ゆっくりと、それを掛け直した南波は深々と溜め息を吐いた。
遅すぎる連絡が入ったのはそのときだった。
人魚姫となった南波の金髪が風を受けて、ぶわりと宙に広がった。
握られた槍の先に居るのは古ぼけた洋服を着た男女一人ずつの子供だった。γ型なのであろうことはすぐわかる。
すでによもぎと一緒に合流していた太李が「人魚、お前、今日暴れすぎじゃね?」と心配そうに問いかけた。はっと南波がそれを笑い飛ばす。
「そういう日もあるさ」
男児を蹴り飛ばしながら南波は舌打ち交じりに答えた。
それを眉を寄せながら見つめていたよもぎは溜め息を吐きながら頭上に向けて矢を放った。飛び回っていたカラスの軍団の一部が射抜かれて落ちていく。
自分目がけて口ばしを突き出して、急降下してくるカラスを弓で薙ぎ払ってから矢をつがえ、よもぎはまた弦を揺らす。
羽を射抜かれたカラスがじたばたと地面に落ちていく。その彼女の後ろを別のカラスが捉えた。
「いばら、後ろ!」
「やべ」
振り向いたよもぎのすぐ横を弾丸がかすめた。まっすぐ撃ち込まれた銃弾がカラスの体を叩き落とす。
銃弾が飛んできた方に立っていたのは拳銃を構えるマリアだった。その後ろには巳令と梨花の姿も見えた。
「マリアさんナイスです!」
体勢を立て直したよもぎが再び弓を構えた。
一方で女児の方に踏み込まれ、蹴り込まれた南波が後退しつつ巳令の前に下り立った。
鉢の下の彼女と視線が合った。やがて槍を片手に持ち直すと右手を差し出す。
「あるんだろ」
「……今日は一段と機嫌が悪いですね、人魚」
「ほっとけ。バカップルから同じような質問を受け付ける気はない」
早く出せとばかりに手を出す南波に巳令は溜め息を吐いてから懐を漁った。
彼の予想通り、彼女が取り出して来たのは黒い箱だった。開けば、赤い宝石のはめられた指輪――強化版のチェンジャーが待っていたとばかり堂々と存在していた。
「九条」
通信機に向かって声をかけると、少し間を空けてから柚樹葉の笑い声が響いた。
「どうしたの、随分機嫌が悪いね」
「しつこいぞ」
「……後悔はない?」
まるで全てを見透かしたかのような柚樹葉の問いに南波はわずかに笑みを浮かべながら答えた。
「勿論だ」
その言葉にだけは、嘘偽りはない。
安心した、ただそれだけの返答が聞こえたの同時に南波は自分の薬指に指輪をはめた。
眩い光に包まれてから現れた南波は前に大きなスリットの入ったワインレッドのドレスだった。相変わらずボディラインをくっきりと映し出している。胸元と背中に入ったスリットが強化前よりさらに人の目を惹いた。ゆらゆらと揺れていた金色の髪は団子状になって一つにまとめられている。
その手に握られているのは先ほどの槍と違い、穂先は幅広の三角形をしていた。
ぺたぺたと自分の体を触ってから槍を構え直した南波は小さく笑った。
「文句は後で言う」
「君は賢い」
二体のγ型が南波と間合いを詰める。
同時に後ろへ引かれた拳が南波目がけて投げ掛けられる。同時に襲ってきた拳を片手ずつで受け止めると南波は二体を担ぎ上げて、上空へと放り投げた。
上空へと吹っ飛んでいく二体を追うかのように地面を蹴り上げた南波の体もあっという間に同じ高さに辿りついた。構えていた槍を下から上へと南波は一思いに斬りあげた。
ほとんど同時に二人の首につけられていたチョーカーを刃が切り裂いて、小さく爆発が起こる。地面に落ちてくる男女の子供を慌てたように太李と巳令が受け止めた。
地面に着地した南波はそれを見ながら息を吐いた。
今は、後悔して立ち止まっているときじゃない。そう自分に言い聞かせながらである。




