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第二十四話「頑張ってるときに飲んだコーヒーは少しだけ苦かったようです」

 昼休みの到来を知らせるチャイムを聞きながら梨花はふぅと息をついた。

 筆箱の中にペンをしまっている最中に号令の声を聞いて、彼女は慌てて立ち上がった。その手にシャーペンを握ったままだったのを思い出してぽいと投げ出す。

 号令に合わせてわたわたと頭を下げ、再度椅子に座り直した梨花はまた深々と息を吐く。

「こら、りーか。可愛い顔が台無しだぞー?」

「わっぷ」

 自分の首元に細い腕が回ってきたのを見て梨花はその腕をぽんぽんと叩いた。

「く、苦しいよぉキヨちゃん」

 あははは、と腕を持ち主が笑い声をあげながら梨花から離れた。

 半袖のブラウスのままではまだ暑いのか袖をまくりあげ、コンビニの袋を担いだくせ毛のクラスメイトがにかっと笑う。

「ごめんごめん、また小難しい顔してるからちょっとほぐしてあげようと思って。ま、悩んでる梨花も可愛いんだけどさー」

「……キヨちゃんのばか」

「えー、そんな怒んなよー反省してっからさぁ」

 そう言って梨花の目の前に座った彼女――鈴森(すずもり)(きよ)が両手を合わせながら「ほら、このとーり!」と頭を下げた。

 膨れっ面のまま、もう、と雪から視線を逸らした梨花はふらふらと教室の扉の方へと歩いていく編み込み髪の少女を見つけて「あれ」と声をあげた。

(こずえ)ちゃん、どこ行くの?」

 梨花の言葉に振り返った風吹(ふぶき)梢はぽけーっと若干垂れ気味の目で梨花を見つめてからぼそっと「間違えちゃった」とだけ告げて梨花と雪の元へとふらふら歩いてくる。

 椅子を引っ張って雪の隣を陣取った梢は手を空中で泳がせてから首を傾げた。

「私のカバンは?」

「アルパカよ、あっこのちみの席に掛かってるスクバはなんだい」

 ほれと雪が指差す先は梢の席だった。その机の側面には紺色の通学カバンが提げられている。アルパカとは梢のあだ名のようなものであった。

 アルパカ――もとい梢は目を丸くしながら首を傾げる。

「なんであんなところに」

「そりゃあんたが忘れてったからだろうに」

 苦笑する雪に釣られて梨花はたまらず吹き出した。

 雪と梢は梨花にとってはクラスの中でも特に仲のいい二人だった。一年生の頃からこうして昼休みになるといつも一緒に昼食をとっている。最後の年に同じクラスになれてよかったと心の底から喜んだものだ。

 自分のカバンを抱えながら戻ってきた梢はごそごそとその中を漁ってから眉を寄せた。

「大将、お弁当がないです」

 その呼び名が一体どちらのことを言っているのかは分からなかったがとにかく梢の昼食がないことだけは梨花も辛うじて理解した。

 その言葉を聞いて壁にかかった時計をちらりと見上げた雪はふむ、と顎に手を当てながらあんぱんに噛り付いた。

「今から行けばギリギリ購買でなんか買えるかもよ」

「……お財布」

 ごそごそとカバンの中に再び手を突っ込んでからがま口財布を取り出した梢はぱこりと音を立てながらそれを開いて中を二人に見せる。

 中に入っていたのは紙幣はおろか、小銭でもなく、大量の洋服のボタンだった。

「ええええ、な、なんでお財布の中にボタン?」

 戸惑う梨花に構わず、がま口をしまった梢は「間違えちゃったみたい」とだけ答えた。

 どうやったら間違えるんだよ、と雪は半ば呆れたものの梢にとってはこれが日常だ。梢がどこか抜けているのは今に始まったことではない。

「ったく、世話が焼けるんだから」

 はい、と雪は袋の中から焼きそばパンを取り出して差し出した。

「あげるよ。今度利子付けて返して」

 それを両手で受け取った梢はじーっと焼きそばパンを見つめてから「キヨ」と雪の名を呼んだ。

「なんだよ、いいって。友達じゃん?」

「私、焼きそばパンよりメロンパンの方が好きだなぁ」

「文句言わずにさっさと食え」

 顔を引きつらせる雪に「キヨは短気なんだから」などと言いながら梢は袋の中の焼きそばパンに噛り付いた。

 もしゃもしゃと咀嚼する梢を見て、雪は頭を抱えてから「いいよなー、推薦組は気が楽でさー」と唐突に話題を進路に切り替えた。むっと梢が唇を尖らせた。

「夏期講習は来たもん」

「そりゃそうだけどさ」

 と、それから、「あり?」と首を傾げた雪はもぐもぐと一生懸命弁当を口に運んでいた梨花に問いかけた。

「そういや、梨花、夏期講習来てた?」

「ふぇ!?」

 箸を止め、大げさに驚く梨花に「あ、いや」と雪は言葉を続けた。

「夏の間、梨花見なかったなぁって思って。どっか悪かった?」

「いや、その、そういうわけじゃなくって」

 軽く首を左右に振りながら視線を伏せた梨花は「その、就職しよっかなって」ええ!? 大げさなくらいに驚いたのは雪だった。その声にびくっと梨花まで肩を跳ね上がらせた。

「そ、そんなにびっくりしないでよぉ!」

「だって……てっきりあたしゃ、梨花は大学に……」

「もう決まった?」

 驚く雪を放ってマイペースに問いかけてくる梢に「んと、今、まさに」ほえぇ、と間の抜けた声が雪から上がる。

 それから噛み千切ったあんぱんをパックの牛乳で流し込んでからあ、と何か思い出したかのように彼女は顔をしかめた。

「あんたさ、もしかして例の『鈴丸さん』に変に感化されたんじゃないでしょうね?」

 雪と梢には当たり障りのない程度に自分の教官である鈴丸の話をしていたことを梨花は思い出した。無論、フェエーリコ・クインテットのことなどは隠しつつ、あくまで知り合いのお兄さんとしての話だし、九割は彼が自分に仕掛けてくる悪戯に関する愚痴にも近しいものだった。それを聞いてか、それとも別の理由でか、とにかく雪がどうやら鈴丸に対していい印象を持っていないらしいというのを梨花は薄々感じていた。

「ち、違うよ、あたしが自分で決めたの」

 まっすぐ雪を見返しながら梨花はそう言い返した。

 確かに鈴丸やマリアの影響がまるっきりなかったといえば嘘になる。しかし、就職という進路自体、そもそもアシーナに誘われる前から決めていたことで、最終的には自分の意思だ。

「……ならいいけどさー。梨花っていい子だから凄い心配」

 なぜか、どことなく悔しそうにそう言ってから雪は「どういう会社に行くの?」

 素直に傭兵になる、とはとても言えなかった。

「か、海外系のお仕事で……」

「へぇ、グローバル。さっすが梨花」

 感心したような雪は「お父さんたちなんて?」

 一瞬だけ、梨花は言葉を詰まらせた。それから「うん、まぁ、その、決めた進路ならいいんじゃないって」そっかぁ、と雪は笑った。

「でもさみしーな、そしたらこうやって会えるのも少なくなっちゃうかもね」

「うん……」

 こくんと頷く梨花に「こら、そんなしみったれた顔しないの」と雪はデコピンした。

 あう、と呻きながら額を押さえる梨花に今まで黙っていた梢が言う。

「それはそうと、例の『鈴丸さん』って写真とかないの?」

 突然、話題が鈴丸になったことに驚きながら梨花は「ないよ」と首を左右に振った。

 職業柄なのか、それとも元々の性格のせいなのか、鈴丸はあまり写真に写りたがらない。反対にマリアはよく一緒に写真を撮りたがるが。

 とにかく、梨花の携帯電話には鈴丸の写真は一枚もない。それを寂しく思ったことはあまりない。会いに行こうと思えば会えるからだ。

「そっか、残念」

 と梢が肩を落とすのを見ながら「梨花と射止めるんだからそりゃ、それなりにイケメンなんだろうけど」あわわと慌てて梨花は訂正した。

「い、射止めるってなにそれ! そういうんじゃないんだってば!」

「ふぅん?」

 にやにやと笑いながら雪は「りかわいいなぁ」びくっと梨花が肩を揺らす。

「な、なんでそれ……」

「あーこの間梨花の後輩の子が言ってたから教えてもらっちゃった」

 えへへ、と笑う雪に梨花はよもぎの仕業か、と頬を膨らませた。

 不機嫌顔の梨花に構わず雪は続ける。

「でもさ、梨花。顔にだけ惑わされちゃ駄目だかんね。いざってなったらあたしんとこ連れてくるんだよ。梨花を幸せに出来ないようなろくでなしだったらぶん殴ってやるから」

「もー、キヨちゃんったら……」

 満更でもない気分になりつつも、梨花の心はほんの少しだけ、憂鬱だった。




「ぶぁっしょん!」

 休憩所の中に響く鈴丸のくしゃみの声にうとうとと眠りかけていたマリアの意識が無理やり引き戻された。

 ソファが落ちそうになりながら目を擦ったマリアは「あー……ちくしょうめ……」と口元を押さえている鈴丸に首を傾げた。

「んだよ鈴、風邪か?」

「ちげーよ」

「だよな、筋肉馬鹿が風邪引くわけねーもんな!」

 けらけらと明るく笑うマリアに「ぶん殴られたいか」と鈴丸は舌打ちした。ぶーっとマリアが唇を尖らせる。

「怒んなよ」

「お前が余計なこと言うからだろ」

 鈴丸の言葉におーこわ、と茶化すようにマリアがソファから起き上がった。

 それから後ろの銀髪に触れて、その髪がまとめられていないことに気付くと近くにある机に置いてあったクシを手に取って銀髪に通した。

 上機嫌な鼻歌交じりにブラシが柔らかい銀髪を梳いていく。紡がれている歌が讃美歌だということに鈴丸はすぐに気付いた。

 白い手に流れる白銀の髪は照明を反射しながらきらきら輝いている。ある程度好き終えたところでポケットに片手を突っ込んで髪ゴムをくわえた。頭の後ろで器用に銀髪を三つ編みにしていく彼女を見ながら鈴丸は溜め息を吐いた。

 これだけ見ればマリアが聖職者だと言われても納得してしまいそうな自分がいる。

 もっともその感想を鈴丸が口から出すより早く、開いた扉の奥から出てきたベルの声が響いた。

「廊下まで響いてたけどなぁに? くしゃみ?」

 不思議そうに自分を覗き込むベルに鈴丸は「ん、まぁな」とだけ返した。

「嫌ねぇ、誰かに噂されてるんじゃない?」

 くすくすと笑うベルに「まっさかぁ」と返したのは鈴丸、ではなく今まさに三つ編みをまとめ終えたマリアだった。

「鈴の噂する物好きなんていねーだろ」

「それもそうね」

 ベルの言葉にぴくぴくと眉を動かした鈴丸はすたすたとマリアの元へ歩み寄った彼はそのまま握り拳を彼女の頭の上に振り下ろした。いっ、と顔を歪めたマリアがそこを押さえた。

「いってぇ! 何しやがる! 益海じゃあるまいし!」

「うっせぇクソガキ」

「て、てっめぇ……! 言っとくけどあたしはもう二十歳なんだからな! ガキじゃねぇ!」

「そういう歳にこだわってるとこがいちいちガキだって言ってんだよ! クソガキが!」

「うるせぇクソジジイ!」

「うーるーさーい!」

 耳を押さえながらわざとらしく顔を歪めるベルは両手を腰に移動させると「全く」と呆れたように告げる。

「どうしてあなたたちってそうやって仲良くできないの? マリアなんて前は大人しくて可愛いもんだったのに」

「あ、あれは……生意気するとクビになるとかダチが言うから」

 ぶつぶつと不満げに口を尖らせるマリアにぷ、と吹き出した鈴丸が裏声で言う。

「柊・マリア・エレミー・惣波ですぅ、至らぬ点もあるかと思いますがぁよろしくご指導くださいぃ」

 はじめて彼女に会ったときの挨拶の真似らしい。

 びきっとマリアに青筋が浮かんだのがベルには分かった。しかし、怒鳴ることはせず、

「ありがとぉごっざいましたぁ?」

 いつぞやの鈴丸の接客を真似た言葉だというのはすぐに二人に分かった。

 だんっと机に手を叩きつけながら鈴丸が叫ぶ。

「前から言おうと思ってた! それ似てねぇから!」

「ああ!? お前のも似てねぇよ! あたしはあんなんじゃねぇ!」

「銃の才能くらいしかないくせに!」

「うっせぇな万能野郎!」

「やめなさい!」

 バンバンと机に叩きながらベルが鋭く叫ぶ。

 ぴたっと二人が動きを止めるのを見て「あなたたちがそんなことでどうするの……」とベルは頭を抱えた。

 そのとき、「ベルガモット主任待遇」と後ろから声がかかった。そこに居たのは若い職員だった。

 怒鳴られたところを人に見られたのが恥ずかしく思ったのか頬を押さえながらベルは誤魔化すように笑った。

「あ、あら、なにかしら?」

「アシーナ本部の方からお電話です」

 すっと差し出される受話器を受け取りながら「どうもありがとう」とベルは冷静ぶった声を返した。

 頭を下げ、立ち去って行く職員を見送ってから誰だろうかと内心、首を傾げながら「もしもし」と受話器に向かって話しかけた。

「ようベルガモット。元気かい?」

 聞こえてきた流暢な日本語にベルはうんざりしたように顔を歪めた。

 溜め息を吐きながら机の真ん中に受話器を置いて、スピーカーに切り替えてから彼女は腕を組んだ。

「なんの用よ、ミハエル」

 げ、とマリアが身を引いた。

 不機嫌そうなベルの声にははっと彼女の上司、ミハエル・アウレッタは乾いた声をあげた。

「相変わらずだな、ベルガモット」

 ミハエルはベルとマリアがもっとも苦手とするアシーナのトップであり、鈴丸の育ての親でもある。うんざりしていることを隠しもせずにベルは告げる。

「あなたの声なんて聞きたくもないわ」

「冷たいなぁ、俺は君の細い足が恋しくて仕方ないけど」

「うるさいわよセクハラ親父」

 相手に聞こえるように溜め息を吐いて、どかっと椅子に座るベルに構わず鈴丸が言う。

「いいニュースか悪いニュースかだけ言え」

 一拍置いてからミハエルは楽しそうに告げる。

「坊主は短気だなぁ」

「生憎、組織の上でふんぞり返ってるお前と違って現場の人間は死ぬほど忙しいんだよ」

「どうせマリアと喧嘩してただけだろ」

 ミハエルの言葉に鈴丸は顔を引きつらせ、辺りを見渡した。

「見てたのか?」

「見なくても分かるさ」

 そう言ってからミハエルは仕切り直すかのように続ける。

「恒例だ、いいニュースと悪いニュースがある」

「勿体ぶらねぇでいいニュースから聞かせろ」

 不機嫌そうなマリアの声に笑い声をあげてから「リカ・トウテンコウの採用が上層部に正式に認められた」おお、とマリアが身を乗り出した。

「マジかよ」

「ま、当然だな」

 ふん、と顔を逸らしながら鈴丸がきっぱり言い放った。

「金は積めよ」

 ははは、とまたミハエルが渇いた声をあげる。

「坊主ならそう言うと思っていた。とにかく、他の手続きはベルガモット、お前と坊主で進めてくれ」

「分かったわ」

 それからベルガモットは少しだけ気が重そうに問う。

「悪い方は?」

「ベルガモット、お前の昔の職場を少しだけ洗ってみた」

 ぴくっと三人が動きを止める。少し間を空けてから、彼は続けた。

「残念ながら『聖護院麗子』という女はいなかったよ」

 そう、とベルは小さく返すことしか出来なかった。

 予想はしていた。もし元自分の職場にいた人間ならばそもそも忘れてしまった、資料が見つからないなどあるはずがない。

 けれどあのトレイターは確かに自分を知っている。そしてマリアに名乗った『聖護院麗子』という名前に何か引っ掛かりを感じていたベルもいる。

「話は以上だ。近いうちにまた俺も日本に行くよ」

「二度と来なくていいわ」

「最後まで冷たい奴だ。美人なんだから少しは愛想よくしとけ」

「ご心配なく、あなたにしかこんな態度とらないわ」

「ジャパニーズツンデレ?」

「ノーよ。早く仕事しなさいよ、セクハラ親父」

 彼女はしっしっと相手に見えていないのを分かっていながら手を振り払う動作をする。

「幸運を祈ってるよ」

「グラシアス」

 ベルの返しを聞いて、ああ、ミハエルはスペインにいるのかなどと鈴丸は呑気に考えた。




 放課後、久々にやってきた陶芸室の前で南波は硬直していた。

 理由は簡単だった。その場から動けなかったのだ。

 南波の周囲をぐるぐると梨花がよもぎを追いかけまわしている。

「もーよもぎさん! あたしのお友達に変なこと言わないでよぉ!」

「変なことってなんすか、自分はただ聞かれたからお答えしただけですよー」

「鈴丸さんもそう言ってたぁ!」

 自分が怒っているのも意に介さずにけらけら笑いながら逃げ回るよもぎを梨花はひたすらに追いかけ回した。

 時々おちょくるようにくるっと梨花の方に振り返ってはえへへと笑うよもぎが今日の梨花の目にはひたすら憎らしい。くるくるとすばしっこく逃げ回る様を見ながら南波には、しばらく解放して貰えそうもないと諦めにも近い感情が芽生え、それがカバンの中から文庫本を取り出させた。

「よもぎさんのそういうとこあたし嫌い!」

「あはは! そうですか春風は梨花先輩のこと大好きですよ!」

「そ、そりゃあたしだってよもぎさんのことは基本的に好きだけど……ってそういう話してないでしょ!」

「でも先輩は春風より鈴さんの方が好きだしなー」

「ななな、なんでそこで鈴丸さんが出てくるのぉ!」

「またまたぁ。真っ赤な梨花先輩もかわいーなー」

「よもぎさん!」

 きゃーきゃーと二人分の悲鳴に耳を傾けず、南波の手は機械的に本のページをめくる。

 三ページほど進んだあたりでようやく「何やってるんですか」という二人の悲鳴以外の声が南波の鼓膜を揺らす。

「あ、灰尾先輩こんちゃーっす! もう梨花先輩鬼かわなんですよ!」

「も、もう! 灰尾くん聞いてよ! よもぎさんったらね!」

 追いかけっこは続行しながら自分に話しかけてくる二人に太李は顔を引きつらせる。

「とりあえず二人とも落ち着いて」

 ちぇ、とわざとらしく言いながら、よもぎはその言葉に従って足を止めた。

 が、梨花の方は急に止まれなかったようで足をもつれさせながら「むぎゅ」と奇妙な声をあげてよもぎの背に抱き着いた。うう、とよもぎにぶつかった鼻を痛そうに押さえながらぽかぽかと梨花がよもぎを叩く。

「なんでそうやってあたしのことからかうの」

「からかってるつもりはないんですけどね?」

 くすくす笑うよもぎにぷーっと頬を膨らませた梨花は目の前の入り口に手を掛けて、がらりと開いた。

「もう知らない!」

 ずんずん中に入って行く彼女の後ろ姿を見て「あちゃー怒らせちゃった」とよもぎは肩をすくめた。それに呆れたように太李が言う。

「あのね、よもぎちゃん」

「それより、灰尾先輩、みれー先輩はどうしたんすか? また喧嘩?」

「またとか言うな。違う、ただの掃除当番」

「ちっ」

「おい南波なんでお前今舌打ちした」

 ぱたんと本を閉じた南波は「したか? そんなの」としらばっくれるだけだった。

 何を言っても無駄だ。何かを言いかけてから結局諦めた太李はさっさと工芸室の中に入った。


 それから巳令が部室に入ってきたのは十分ほど後のことだった。

 彼女はカバンを抱えながらこんにちは、と形式的に挨拶しつつ目の前の光景に視線を奪われていた。


「何してるんですか?」

 梨花に頬をつねられているよもぎがそこには居た。

 むにーっとよもぎの両方を引っ張りながら「なんでもない」と視線を逸らした梨花はやっとその手を彼女から離した。

「いてぇえ……」

 両頬をさすりながら席に着いたよもぎを見てから梨花は息を吐いて、全員に向き直った。

 柚樹葉はその場にいなかったが今回は仕方ないことだ。彼女は今もチェンジャーの強化に忙しいことだろう。

「そ、そんなわけで、夏休み明け最初の部活です!」

 なぜか胸を張る梨花の言葉にわーっとどこか気の抜けた返事が返ってきた。

 しかし、特にそれに気を悪くしたわけでもなさそうに梨花は背中を向けていた黒板に駆け寄るとレールからチョークを拾い上げてその先を黒板の上に走らせた。

 白い粉を吐き出して、削れながらチョークは『文化祭について』という文字を書きだした。

「ああ、そういえばそんな時期でしたね」

 ぽんと手を叩く巳令にうん、と梨花が頷いた。

 神都高校の文化祭は十一月の初めごろに開催される。周辺の学校が十月の真ん中や終わりごろにやっているのに比べて、遅い方の開催ではあるものの毎年、地域的に盛り上がりを見せる。神都高の学校をあげての最大のイベントといっても過言ではない。

 そのため、生徒たちもある程度のモチベーションをもって挑んでいる生徒が多いのだ。それこそ、本格的な準備を夏から始める団体も多い。

 それゆえに、夏休み最初の部活というタイミングで、この話が出てきたことはある意味では自然なことだった。

「といっても」と梨花はへにゃりと笑った。

「実際、作品展示するだけだからそんなに深刻にならなくてもいいんだけど……」

「でもなんだかわくわくしますね、文化祭」

「そうか?」

 目を輝かせるよもぎに南波が冷たく返した。そうですよぉ、と彼女は間延びした言葉を返しながら机に突っ伏した。

 高校に入学してはじめての文化祭、期待も大きいのだろうかと太李は思った。自分も転校して来てはじめての文化祭だ、前の学校とはまた違うのだろうかと楽しみにしている自分がいるのは隠しきれない事実だった。

「あ、そうだ、灰尾」

「ん?」

「文化祭、一緒に回りましょうね」

 巳令にとびっきりの笑顔を向けられて、太李は思わず黙り込んだ。

 数秒間を空けてから、気恥ずかしさから視線を逸らしつつ「お、おう」と返した。まだまだ先のことだというのにまた楽しみが増えてしまった。

「バカップルめ」

「ご馳走様です」

 南波とよもぎから連続して投げ掛けられる言葉に「そんなんじゃねぇって!」と太李は反駁した。

 一連の様子を見ながらくすくす笑みを浮かべ、梨花は楽しそうに目を細めていた。

 ああ、自分が欲しかったのはこんな居場所なのかもしれない。今、ここに立っている自分に対して梨花はほんの少しだけ誇らしさを抱いていた。


 そのとき、彼女のポケットに入っていた携帯電話が小さく揺れる。梨花は首を傾げながらそれを取り出して応答した。


「もしもし?」

「あ、梨花? 俺だけど」

 はっとしたように梨花は声の主がその場にいるわけでもないのに顔を引き締めた。

「す、鈴丸さん……」

 珍しい。ぎゅっと携帯電話を握りしめていると彼は「あ、悪い。今部活中だよな」と取り繕うように言った。ふるふると首を左右に振る。

「いえ、あの、何か?」

「んー、今から会えないかなって」

 恋人のような台詞だ。まるで逢引に誘うかのよう。

 そう思った瞬間、動揺のあまり、梨花の手からは携帯電話がこぼれ落ちた。

「梨花先輩!?」

 巳令の声にはっとした梨花は「だ、だいじょぶ、大丈夫!」と慌ててしゃがみ込んで携帯電話を拾い上げた。

 彼女は勢いよく謝罪の言葉を口にする。

「ご、ごめんなさい!」

「いや、なんかあったか?」

「な、なんでもにゃいれふ!」

 噛み噛みになってしまった言葉を言い直す余裕すら今の梨花にはない。

 朝にキヨちゃんとさっきはよもぎさんが余計なことを言ったせいだ、と火照る頬を押さえながら「あの、あたし、何か?」と問いかけた。

「何かってわけでもないんだけど」

 一拍置いてからスピーカー越しの声は続けた。

「ちょっとお前の進路の話。手短にするから」

 やっぱり相手には見えないのに、梨花は小さく頷いていた。




 後輩たちに部活を任せて、梨花がやって来たのは最寄駅から少し歩いたところにあるカフェだった。

 ビルの三階に造られたこじんまりとしたカフェだった。漂ってくるコーヒーの香りに梨花は少しだけ気後れした。

 カウベルの音を聞いて「いらっしゃいませー」と駆け寄ってくる店員に待ち合わせだということを伝えながら辺りを見渡した。鈴丸は存外、すぐに見つかった。

 窓際の席で午後の日差しを浴びながら彼は穏やかに眠っていた。整った寝顔にはどこか踏み込むことを躊躇わせるような雰囲気すら持っていた。机に置かれた空のカップに入っていたのであろうコーヒーは眠気覚ましとしては役割を果たせなかったらしい。

 梨花が数歩近づくと鈴丸はまだ重たそうな目をかすかに開きながら「よう、梨花」とだけ小さく呼びかけた。

「あ、えと、おはようございます」

 微笑みながらそう言った梨花に鈴丸は続けた。

「悪いな、急に呼び出して」

「いえ、そんな」

「……とりあえず、座れよ」

 ん、と目の前の席を促されて失礼しますと断りを入れながら梨花はようやく椅子に腰を下ろした。

「コーヒーでいい?」

「え、あ、はい」

 その間、どこかぎこちなく頷く梨花に鈴丸は苦笑しながら近くにいた店員に呼びかけた。

 梨花はやっぱり落ち着かなかった。そもそもこういう店に来ること自体、さほど多いわけではない。まして、座っているのは老夫婦や大学生らしき若い男女などばかりで制服姿の高校生の姿などない。場違いではなかっただろうかと少しだけ不安になる。

 それを拭い去るようにすぐに鈴丸の視線は店員から梨花へと戻っていた。

「そんなにビクビクするなって。とって食うわけじゃあるまいし」

 店員が空になったカップを回収して、カウンターの方へと戻って行く。その後ろ姿を見送りながら「はい」と梨花は頷くだけだった。

 二人の間に訪れたのは梨花にとってはなんとなく気まずい沈黙だった。梨花の方は鈴丸から話題が振られるのではないだろうかと身構えて、下手な話題を口にはしなかった。ところがその鈴丸も、黙り切ったままだったので結果としては二人の間には一切の会話は生まれなかったのである。

 やがて、若い女の店員が湯気が立ち上る白磁のカップ二つを持ってやって来た。中に入った茶褐色の液体を揺らしながら手早く二人の前にカップを並べた店員はちらりと鈴丸の方を一瞥してからごゆっくりと頭を下げた。

 やっぱり見ちゃうよね、などと考えながらガラス製の砂糖入れの中から角砂糖を取り出してカップの中に放り込んだ。鈴丸が世の中で言うところの美男に当たるのは梨花にだって分かる。添えられていたコーヒーでくるくると混ぜてからはふ、と梨花は溜め息を吐く。

 鈴丸はその視線を特に気に留めた様子もなく、カップを持ち上げて口元へ運んでいた。その姿すら様になる。じーっと彼を見上げながらやっと梨花もカップの縁に口をつけ、ちびちびと中身を口の中に流し込んだ。

 久々に飲むコーヒーは嫌に苦く感じた。こんなことなら紅茶にしておけばよかったなと若干後悔しているとわずかに動いた彼の目と自分の目が合ってしまった。

 梨花は悲鳴をあげたくなった。変な子だと思われたに違いない。目を逸らさなければと思っているものの、しかし、どういうわけか絡み合った視線はそう簡単に外れようとはしなかった。

 ただカップを傾けながら硬直する梨花を見て、ふわと微笑んだ鈴丸はやがて、確認するかのように一言だけ告げた。

「可愛い」

 顔を歪めた梨花がカップを慌てて口から離す。コーヒーが気管に入り込んで、咽るかと思った。

 そっとカップを机に置きながら反論しようと口を開きかける梨花を押し付けるように鈴丸は言葉を続けた。

「そう、そうなんだよ、お前はすっごく可愛い。困ったことに本当に可愛い」

「あの」

「なろうと思えばお前はアイドルにだって、グルメレポーターにだってなれる」

 まっすぐ梨花を見返しながら「だから、本当は駄目なのに、お前を傭兵にしたくないと思ってる俺がいる」

 彼に言葉に梨花はすっかり黙り込んだ。心のどこかで分かっていたのだ。ベルやマリア、ミハエルと違って、鈴丸は自分がアシーナに入ることを決して快くは思っていないことを。

 それは商売敵が増えるからでも、梨花が邪魔だからでもない。恐らくは自分を純粋に心配してくれているのだろう。

 分かっているからこそ、梨花は反論する言葉を用意できなかった。

「梨花に覚悟がないとか、そういう話じゃないんだ。お前はちゃんと分かった上で言ってるし、俺もそれは分かってるつもりだし。ただ」

 やっと目を伏せながら鈴丸は小さく言う。

「お前は、絶対にアシーナからは歓迎されない」

 日本の高校から出たばかりの小娘をきっと自分の同僚連中は快くは思わないだろうと鈴丸は思っている。

 マリアのときが、そうだった。いくら技術があったとしても、ベルが認めて連れて来たのだとしてもいい顔をする存在ばかりではなかった。自分のときだってそうだ。

 それどころか、自分より仕事のできる存在を疎ましく思う。そういう人間だって組織の中にはいる。

 まして、それが梨花になったら。どうなるかなど火を見るより明らかだった。目の仇もいいところ。格好の餌であろう。そしてそれを表面上で止めることはできても本質的に止めることは彼にはまずできない。全員の上に立つミハエルにすらどうにもできないだろう。

「俺は、アシーナの中にはお前の居場所は作ってやれない」

 だから心配なんだ。そう続いたように梨花には思えた。

 少しだけ熱を失ったコーヒーをまたちびちび飲みながら梨花は本当に小さく、口元で笑みを浮かべた。

「す、鈴丸さん」

「ん?」

「居場所がないなら、手に入れれば、いいんですよね」

 珍しく、驚きという感情を前に出しながら鈴丸は梨花を見返した。それでも彼女は構わず言う。

「大丈夫! あたし、自分の居場所は自分でも、もぎ取りますから!」

 それを聞いて、鈴丸はたまらず、といった様子で吹き出した。

 自分はやっぱりおかしなことを言っているだろうか梨花がつい不安になっていると「そうだったな」と鈴丸は梨花の頭をぽんぽんと撫でた。

 はじめて会ったときから変わっていない。梨花は気弱なようで、実は誰よりもたくましく、誰よりも強引なのだ。すっかり忘れていた。鈴丸は自分の怠惰を心の中で叱責した。恥ずかしさすら感じるほどだ。

 俺が心配しなくても、こいつは大丈夫なのだ。

 恥ずかしそうに顔を俯かせる梨花に「お前は、やっぱり強いよ」と鈴丸が苦笑した。

 言葉を返そうとしたとき、彼女はそれを飲みこむことになった。

「ブェナスェルテ」

 ぽつっと鈴丸が呟いた言葉に梨花は首を傾げた。英語ではないのは分かったが、一体どこの言葉なのかは分からなかった。

「スペイン語で、『幸運を祈る』って意味。向こうじゃ頑張ってる人間に『頑張って』とは言わないんだ」

 笑いながら鈴丸はさらに、

「お前はもう十分すぎるほど頑張ってるからな」

 照れくさいやら、嬉しいやらで梨花の胸はいっぱいになった。

 んきゅ、と梨花がすっかりカップの中身を飲み干した瞬間、彼女の鼓膜をどさりという鈍い音が揺らした。

 音のした方を見ると先ほどの店員が床に倒れ伏していた。

 否、その店員だけではない。客も、他の店員も、皆、その場でぐったりと顔を歪めながら倒れているのだ。先ほどまで眩しいくらい入り込んでいた太陽の光はもう見えなかった。

「す、鈴丸さん」

 梨花の呼びかけには答えず、自分もコーヒーを飲み干してから紙幣を一枚、ソーサーの下に置いた。三杯分のコーヒー代にしては一万円は少し高かったが、何せ手持ちにこれしかなかった。彼は席のすぐ近くにあったバルコニー席へと繋がるガラス扉を開き、躍り出る。

 手すりに身を乗り出し、下の方に見つけたのはドレスを着て、めかしこんだ女だった。

 その様子は尋常ではない。地面を蹴りながら、一人でくるくると動き回っている。踊っているようだと鈴丸は思った。

 同時に、気付く。

「γか」

 厄介だな。今この場には太李も巳令もいない。いたとしても、巳令の方は強化変身は行えない。

 しかし、梨花はぎゅっと唇を噛み締めながらじーっと下を見つめ、やがて決心したように一つ息を吐いた。

「よっし!」

 その一声と共に、梨花は申し訳程度だった手すりを乗り越えて下へと迷わず飛び降りた。

 途端、彼女の体を薄桃色の光が包み、三階の高さから両足を綺麗につけて着地していたのは親指姫姿の梨花だった。

「ほんと、大した女だよ」

 自分に向かってきていたカラスを一匹、懐に隠し持っていた銃で撃ち落としながら鈴丸は呆れ半分、感心半分で呟いた。


 恐らく他のメンバーはすぐに来てくれるだろう。それまでとにかく持たせなければ。

 斧を握ろうとしてから梨花はそれを取りやめた。γ型は下手に傷つけられない。自分の武器では駄目だ。

 一度拳を握りしめてからまだくるくると踊り続ける相手に向かって踏み込んだ。

 間合いを詰め、梨花が拳を突き出した。γ型はひらりと身を翻してそれをかわした。外れたと分かるや今度は足を振り払うもこれも駄目だった。

 ステップを取りながら彼女の攻撃をかわしていく。カツカツとハイヒールの音が規則的なリズムを紡ぎながら響く。

 γ型はくるくるとその場で何度も回転してから嘲笑うかのように拳を突き出した。それを受け止めていると今度は上げられた膝が梨花の腹部に叩き付けられた。

 わずかに顔を歪める梨花にγ型の足が伸びて、そのまま蹴り飛ばす。

「あ……!」

 呻き声と共に梨花の体が吹っ飛ばされた。

 しかし、その体が壁や地面に叩き付けられることはなかった。

「捕まえた」

 少しだけ後ずさりながら誰かが梨花の体を受け止めていた。誰が、と確認しようとしてから視界に入り込んだ九尾服にぞわりと背筋が寒くなった。

 そこに居たのはキリギリスだった。

「トレイター……! は、離して!」

 ぐっと体に力を込めるも思うように彼は引き剥がれない。

 笑みを携えたまま、キリギリスは梨花の耳元で囁いた。

「一人ぼっちの親指姫に何ができるっていうのかなぁ?」

 ぎりっと奥歯を噛み締めながら、彼女はキリギリスを睨み付ける。ははっと乾いた笑い声がその場に響いた。

「そんなに可愛い顔で睨まないでくれよ」

 そう言ったキリギリスの頬を、鉛弾が掠める。

 つーっと自分の頬に血が流れるのを無視してゆらりとキリギリスは銃弾が飛んできた方向へ振り向いた。

「あっぶね」

「親指から手を離せクソ変態野郎が」

 いつの間にか、下に降りてきていた鈴丸が銃口をキリギリスから離さずに吐き捨てた。

「せっかくお話中だったんだから邪魔しないでくれよ」

「ふざけんなこっちはお前らにデート邪魔されてんだよ」

 苛立ちを隠すようにすらない鈴丸にくすくす笑いながらキリギリスは告げる。

「いいの? こんなに動き回るのは君の理念に反するんでしょう、蒲生鈴丸」

「さあ」

 弱々しく笑いながら彼は小さく言った。

「どうだったかな」

 瞬間、きらりときらめいた何かがキリギリスの首元に当てられた。小さく舌打ちしながら彼は梨花を離し、後退する。

 その場に咳き込みながら座り込む梨花に駆け寄ったのはすでにいばらに変身を終えたよもぎだった。

「親指先輩! 大丈夫ですか! 変なことされてませんね!」

「う、うん……」

 こくりと頷く梨花を「よかったぁ」とよもぎは抱き締めた。

 キリギリスの首元に刀を向けていた巳令も小さく息を吐いた。安堵の吐息だった。そんな様子を見ながらキリギリスは背後に違和感を感じて身をよじった。

「おらぁ!」

「ふん!」

 太李のレイピアと、南波の槍が彼が居た場所を突いた。思わずキリギリスは舌打ちした。

 そのキリギリスにさらに一発、銃弾がぶち込まれた。撃ったのは鈴丸ではない。

「よう、クソジジイ。弾ぁ足りてるか」

 銀髪を揺らしながら自分に振り返ったマリアにはっと鈴丸は笑う。

「足りてねぇ、早くよこせ」

「ったく、それが物頼む態度かよ」

 ちらりと鈴丸の銃を確認してから予備弾倉の一つを彼女はくれてやった。

 それから梨花の方に駆け寄ると「悪いな遅れて」ぽんと彼女の肩を叩く。ふるふると梨花は首を左右に振った。

「来てくれるって」

「信じてたとか言うなよ。むずかゆいから」

 けらけら笑ってからマリアはカーゴパンツのポケットに手を突っ込んで小さな箱を取り出すと、とんと梨花の前に置いた。

「これ……」

「悪いね、梨花。彼らが遅れたのはそれが原因だ」

 通信機越しに、聞こえてきた柚樹葉の声にふふっと梨花は笑った。

 ひらりひらりとよもぎの矢を交わしていくγ型を睨み付け、梨花は立ち上がった。

 箱を開けば、予想通り、そこにあったのは桃色の石のついた指輪だった。左手の薬指にはめながら「柚樹葉さん」いいねぇ、と柚樹葉の声が響く。

「それでこそ東天紅梨花だよ」

 その言葉と共にまばゆい光が彼女を包んだ。思わず目を瞑る。

 目を開けると「わぁ」と手を叩いた。

 桃色中心のドレスから一変して白を基調にしたドレスだった。シルエットは全体的には相変わらずふわりと大きいものだったが腰辺りはきゅっと絞められて先ほどのものとはまた違う。左右に大きく広がったスカートの裾は薄く桃色だった。

 そのドレスを大きな花やフリルが装飾する、まさに『可愛らしい』ものだった。

 白い手袋のはまった指先を見ながら「可愛い……」と梨花は呟いた。

「やっぱり君によく似合うよ」

 楽しそうな柚樹葉の声に反論しようとも思ったが彼女はそれを取りやめた。

 がすんと鈍い音を立て、目の前に落ちてきた武器に目を奪われたからだ。

 大きく丸い殴打部分から伸びる桃色の柄。それが巨大なハンマーだということに梨花が気付いたのはすぐだった。

「……よし!」

 気合をいれ直してから梨花はハンマーの柄に手を伸ばし、軽々と持ち上げた。

 ふらつきもせず、もう一度γ型を視界に捉えなおしてから彼女は一気に踏み込んだ。

 一瞬だった。ほんの一瞬で間合いを詰めた梨花は地面を蹴り上げて、急上昇した。

「ふりゃあああ!」

 下降しながら振り下ろされたハンマーの殴打部分が直撃する。たまらず、倒れ込んだγ型の姿が徐々に普通の洋服に戻って行く。

 ころりと、赤いハイヒールが脱げた。

 舌打ちしながら自分に向かってきていた南波を蹴り飛ばし、キリギリスはその場を去った。




 翌朝、教室に入った梨花を一番に迎え入れたのは雪だった。

「おっはよー梨花ー!」

「わっぷ」

 上機嫌にぎゅーっと抱き締められて恥ずかしいのだがいつものことなので半ば諦めるように「おはよう」とだけ梨花は返した。

 うー可愛いなーこんのー、とすりすり自分の頬を梨花に押し付けてくる雪に彼女は苦笑しつつ告げる。

「キヨちゃん」

「んー?」

「あたし、が、頑張るよ」

 きょとんと、雪は梨花を見返した。

 それから「よくわかんないけど」とぎゅーっと梨花を抱きしめ直した。

「頑張れよー。いざとなったらキヨちゃんが悩み愚痴くらい聞いてしんぜよう」

「ありがと」

 梨花と雪がえへへと笑い合う。

「それじゃ恋の悩みとかないのかな梨花くぅん」

「えー、な、ないかな」

「じゃあ鈴森家に嫁に来るかー!」

「行きません」

 ちぇ、釣れないんだからと雪は唇を尖らせた。

 あと少ししたら自分は一度は居場所を失うかもしれない。

「おはよぉ」

「お、おっすアルパカ」

「って、こ、梢ちゃんそっち教室違う!」

 別方向に向かっていく梢に叫びながら梨花は笑みを浮かべた。

 それでも不思議と、怖いと感じないのは何故だろうか。

 その疑問が解消されるのはしばらく先かもしれない。梨花は理由もなくそう思っていた。


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