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第二十一話「花火が打ち上がるのと同時に何かが動き出していたようです」

「たっだいまー」

「おかえりあけびちゃん」

 スーパーの袋を抱えながら戻ってきたあけびの声によもぎは顔を上げた。

 よもぎの手元にはこれから泡夢財団に出かけるための荷物を詰めた小さなカバンが一つあるだけだった。それを見ながらあけびは残念そうに眉を下げた。

「あ、よもぎちゃん今日もおでかけなんだ……」

 しゅんと肩を落とすあけびに「そんなにがっかりしなくても」とよもぎは苦笑する。

 だって、とあけびはそれに返した。

「今日、花火大会だから電車乗って一緒に見に行こうかと思ってたのに」

「花火大会?」

 首を傾げてからああ、とよもぎは自分の頭の中から思い当たるものを見つけた。

 そういえばこの時期になると電車で少し行ったところにある海の方から花火が上げられている。毎年、遠くの方から音だけが聞こえてくるのだ。

 開錠の付近では祭りだなんだと屋台が出て、まるで縁日のようだった。浴衣の人も大勢いる。

 一度だけ、よもぎはあけびと一緒に両親に連れられてその花火大会を見に行ったことがあるが今でも鮮明にその日のことを覚えている。間近で打ちあがる花火の振動に小さな体を震わせながら父親に肩車をされ、見た花火はとても綺麗だった。

 最近は、そんなところに行くこともしなくなってしまった。そこまで考えてなんだか少し寂しいなと思ってからよもぎは納得した。この姉も同じことを考えていたに違いない。だから急に花火大会に行きたいなどと言い出したのだろう。

「彼氏さんと行けばいいのに」

「やだやだーよもぎちゃんと行きたいのー」

 子供のようにぶーと口を尖らせるあけびを「はいはい考えておくね」と軽く一蹴しながらよもぎは玄関の方まで歩いてきた。

 スニーカーに足を突っ込んで、指でちょいちょいとかかとの部分を直してからじゃ、とよもぎは手を挙げた。

「いってくるねー」

「いってらっしゃーい」

 あけびが本当に残念そうにするのを見ながらよもぎは扉を開けて、外に出た。

 太陽の光がよもぎの肌を焼き、蝉の声が体を包む。心地いいとまでは行かないもののやはりよもぎにとっては嫌いにはなれないものだった。

 蒸し暑い空気の中を一歩踏み出してからよもぎはポストの中に無造作に放り込まれた絵葉書を見て足を止めた。

 真っ青な海が描かれた絵葉書だった。水彩絵具で描かれた柔らかい絵葉書を手に取りながら彼女はそれをひっくり返して宛名を確認した。

 心当たりがなかったわけではない。むしろあったからこその確認だった。心臓の音が蝉の声を上回るほどの大きさでよもぎの耳にへばりつく。


 そうして、見てしまった自分の名前と『御影小雪(みかげこゆき)』という名前に彼女は宛名を確認してしまったことを心の底から後悔した。

 蝉が腹いっぱい鳴く声を聞きながらゆっくりと、よもぎは後ろへ振り返って来た道を辿って行った。




 携帯電話を耳に当てながらベルは顔を歪めていた。

「ごめんなさい、もう一回言ってくれるかしら?」

「お腹痛いから今日の訓練休みます……」

 小学生のような言い訳にベルは通話相手が本当に現役高校生なのかどうかを疑った。

 携帯を肩と首の間に挟みながら戸棚に手を伸ばしたベルは白い皿を取り出しながら「体調が悪いのなら、それは仕方ないけれど」と言葉を濁しつつ続けた。

「よもぎさん、何かあった?」

「いや、ほんと、なんでもないんす。ちょっと疲れただけだと思うんで、鈴さんにもよろしくお伝えください」

 それじゃ、と切れた電話にベルは少し黙り込んでから「その鈴丸もいないんだけどね」とぽつりと呟いた。

 言っていても仕方がないので皿の上に焼き菓子を並べていると「こんにちはー……」

 どこか自信なさげなその声にベルは嬉しそうな微笑みを携えた。

「あら、いらっしゃい梨花さん。相変わらず早いわねぇ」

「ご、ご迷惑でしょうか」

「いいえ。遅刻するよりずっといいわ」

 ベルの言葉に小さくなっていた梨花は嬉しそうに微笑むばかりだった。

「すぐにお紅茶淹れるから。ちょっと待っててね」

「は、はい!」

 ぴんと背筋を伸ばす梨花に笑いかけながらベルは楽しそうに手を動かした。

 落ち着かないのか梨花はそわそわと視線を泳がせている。いつも話しかけてくる男を探しているのだろうかと思いながらベルはからかうような口調で言う。

「鈴丸なら今日はいないわよ」

「へ?」

 びっくりしたように自分を見つめる梨花を見て、ベルは湧いてきたそれをくすくすと笑い声に変換した。

 グラスに詰め込むように入れられた氷の中に水筒に移しておいた紅茶を注ぎながらベルはさらに「今朝いきなりね。出かけてそれっきり。あいつのことだからろくなことしてないんでしょうけど」と出来上がったアイスティーを梨花の前に差し出してにっこり。

 突き刺されたストローから紅茶をすすりあげた梨花は「そうなんですか」とだけ答えて小さく肩を落とした。そんな彼女を見てまたからかってみたくなってベルは笑いながら、

「ごめんなさいね。今日のところは私で我慢してちょうだい」

「え!? あ、あたし別にそういうつもりじゃ」

 おろおろと視線を泳がせる梨花に鈴丸の気持ちも分からないでもないと思うベルだった。

 そういえば、とベルは首を傾げた。

「梨花さん、よもぎさん何かあったの?」

「ふぇ? よもぎさん?」

 どうしてそんなことを聞くのかとばかりに不思議そうにする梨花に「いえ、何もなさそうならいいの。変なこと聞いてごめんなさい」とベルは謝罪で返すだけだった。

 よもぎに何かあったのかもしれない。切り上げられたということは話し辛いことではあるのだろうがしかし梨花にはそれが気になった。

「あの、よもぎさん何か?」

「いいえ。今日は体調がよくないからお休みするんですって」

 つまらなさそうにそう言うベルに梨花はそれ以外にも何かあるのではなかろうかとちらと疑った。

 しかし、それを問いかけようという意欲は「こんにちはー」という太李の間延びした声に掻き消された。

「あ、灰尾くん……それに巳令さんと益海くんも」

「こんにちは梨花先輩」

 にこっと笑って挨拶を返す巳令のあとに南波は黙って頭を下げるだけだった。

「あらあら、今日はみんな早いのねぇ」うふふと楽しそうに笑うベルは「三人で来たの?」

「いや、南波とはさっき入口で」

「いちゃいちゃしてるカップルに絡まれた俺の身にもなってくれ」

「別にいちゃいちゃなんてしてねーよ。なぁ、鉢峰」

「はい」

 にこにことお互い笑いあう太李と巳令に「そういうのいちゃいちゃしてるっていうのよ、バカップル」とベルは呆れたように息を吐いた。

 太李と巳令が付き合い出したという事実があの場にいなかったベルや鈴丸の耳にも入ったのはすぐのことで、隠す暇すらなく周知の事実になってしまっていた。

 そんな初々しいカップルを眺め、彼女にしては珍しく意地の悪そうな笑みを浮かべてこう続けた。

「まぁでもはじめはラブラブでもその後どうなるかは、ねぇ?」

「ベルさんが悪い顔してます……」

「んふ」

 人の色恋沙汰にはしゃぐなど何年振りだろうと思いつつベルは肩をすくめるだけだった。

 また休憩所の扉が開く。

「おーっす」

 まだ三つ編みに編む前の銀色の髪をふわふわ揺らしながら出てきたのはマリアだった。

「また寝起きですか?」

 くすくすと笑う巳令にむっとマリアが唇を尖らせた。

「うっせーな。こいつのスライドストップの調子がわりいんだよ……」

 ぽんぽんと黒い銃を自分の手に当てながら不機嫌そうにそう言うマリアに「あら」とベルはそれを覗き込んだ。

「それ、結構気に入ってた奴よね。同じ型、武器庫にあったわよ?」

「こいつがいいんだよ。だから鈴に見て貰おうと思って……あれ、鈴は?」

「出かけたわ」

「んだよあいつ、いざってとき役にたたねぇな」

 舌打ちしながらホルダーの中に銃をしまうマリアは半ば定位置となりつつあるソファに腰をかけて足を組んだ。

 後から入って来た人数分のアイスティーを並べるベルを見ながら「そういえばさ」とマリアはなんのこともなさげに太李と巳令の二人に視線をやった。

「今日の花火大会お前ら仲良く行ったりすんのか?」

 ぴたっと二人の動きが止まった。

 それから顔を見合わせ、あわあわと何かを言おうとする二人に誘うつもりだったもののまだだったんだろう、マリアは苦笑した。

 そんな彼女を見ながら「意外ね」とベルはアイスティーの入ったグラスを差し出した。それを受け取ってストローからすすり上げ、マリアは首を傾げた。

「何が?」

「あなた、人の恋愛ごとに首突っ込むタイプだったのね」

「おいおい、人が愛し合うことほど美しいことなんて他にないだろ?」

 心底真面目そうな顔をするマリアにベルは苦笑しつつ「本音は?」マリアは真面目な顔をしたままで「ただの野次馬精神だ」

 一方で太李と顔を見合わせていた巳令は「あの、えと」と困ったように声をあげていた。マリアの予想の通り、まさにこのあと花火大会に誘おうと思っていたところでそれを先に言われたおかげで意味もなく恥ずかしくなってしまった。それは太李も同じようで視線を合わせたり、逸らしたりしながら「い、行くか!」と今にも裏返りそうな声で言う。

「花火大会!」

「は、はい!」

 恋人同士なのだからおかしいことは何もないのに何を照れているんだと南波が呆れていると「いいなぁ」と梨花がこぼすのを彼は聞いた。

 振り返って彼は思わず問う。

「バカップルになりたいのか?」

「違うよ!」

 ぶんぶんと首を左右に振る梨花はしゅんと顔を俯かせた。

「そうじゃなくて、花火大会なんてしばらく行ってないから」

「それなら一緒に行きましょうよ。梨花さん」

 にこっと微笑むベルに梨花は嬉しそうに顔を輝かせた。

「い、いいんですか?」

「ええ。浴衣着て、一緒に見に行きましょう。マリアも」

「ええーあたしもかよー」

 ぶーっと唇を尖らせるマリアにふふっとベルが嬉しそうに笑う。

 それからベルは南波を覗き込んで「南波くんも一緒にどう?」

「いや、俺は」

 とそこまで南波が言いかけたところで彼のポケットに入っていた携帯電話が実にタイミングよく震えた。取り出して南波が画面を見ると発信者の名前として『和奈』とある。南波は軽く頭を下げてから少し距離を取ってそれに応答した。

「もしもし?」

「あ、みーちゃん、ごめんねぇ、忙しかった?」

「いや、別に」

 和奈の間延びした声に口元がにやけそうになるのを押さえながら彼は問いかけた。

「どうした?」

「うん、みーちゃん、今日時間あるかな?」

「……花火大会?」

 もしやと問いかけてみるとわあっと和奈が嬉しそうな声をあげた。

「凄い、なんで分かったの!?」

「さあ。なんでだろうな?」

 電話の向こうで和奈が笑顔になっているのが手に取るようにわかって南波も嬉しくなった。

 南波が壁に凭れ掛かると和奈の明るい声が続けて言った。

「一緒に行かない?」

「……俺しか誘う奴いないのか、お前」

「あーひどーい、そういうこと言わないでよー」

 ぶーっと電話口でむすくれる和奈の声を聞きながら南波は誰にも見えないように小さくガッツポーズした。




 日がすっかり沈んだ頃、すでに人混みに飲まれ、屋台の並ぶ通りを歩いていたマリアは自分の足元を睨み付けながら不満げに言葉を吐き出していた。


「なんであたしまで浴衣なんて、歩きにくいし、暑いし、全然着たくなかったのにベルが無理やり」

 嬉々として浴衣を持ち出したベルに、抵抗する間もなく彼女が着せられたのが朝顔の浴衣だった。

 紺色の地にシンプルに白でアジサイが描かれただけのどこか控えめなデザインだったものの元々整った顔立ちと銀色の髪のおかげか華やかさには欠いていなかった。現にすれ違う何人かはマリアの方へと振り返った。

 不満げに口をへの字にするマリアに「でもマリアさんとっても可愛いのに……」と梨花が小さく返した。

 それを聞いて、梨花の方へと振り返り、彼女の姿を確認したマリアがうーんと唸った。

 黒地に薄紫色の藤がしだれている浴衣は普段は愛らしい梨花の雰囲気をどこか大人っぽく見せている。普段はポニーテールにしているだけの髪も上の方で団子にされ、かんざしでまとめられている。

「お前は恐ろしいほど似合ってるんだけど」

「そ、そんな」

 ぶんぶん首を左右に振って否定する梨花は「あ、でも」と浴衣の裾を摘まみながら横を歩いていたベルに笑いかけた。

「あ、ありがとうございます、こんなに可愛い浴衣」

「いいえ。サイズがあったみたいでよかったわ」

 にこっと笑うベルはいつかに着ていた紺色のワンピースに白のつば広帽子というよもぎに言わせれば『どこぞの奥様』スタイルだった。

 下駄を履いた足を引きずりながらマリアは、心底不満げに、

「なんでお前は浴衣じゃねーんだよ」

「だってこの髪の色だと浴衣に合わないんだもの」

 頬に手を当て、悩ましそうに告げるベルに梨花は「でも、ベルさんの浴衣ちょっとだけ、見たかったな」とぽつんと独り言のようにこぼした。その言葉にベルは口元に手を当てた。

「んまぁ、なんて可愛いこと言うのかしらこの子は」

「えと」

「もうお姉さん嬉しいからお好み焼きでも奢っちゃおうかしら」

 財布を握りしめながら嬉しそうに笑うベルに梨花はおろおろと視線を泳がせた。

 お前はお姉さんっていうには無理があるだろ、とマリアは思ったもののそれを口に出したせいで痛い目に合った同僚のことを思い出して言葉を飲みこんだ。

 そうこうしている間にもお好み焼き屋の列にちゃっかり並んでしまったベルは「しっかし鈴丸の奴、どこに行ったのかしら」と顔をしかめた。

「鈴丸さんも一緒に来られたらよかったのに」

「そうね。あんなのでもボディガードくらいにはなったものね」

 むむ、と眉を寄せながら進んでいく人の行列に乗っていたベルは、マリアがそわそわと落ち着かない様子で辺りを見渡しているのを見て首を傾げた。

「あら、どうしたの?」

「え? あ、や、日本のこういうのって久々だなって思ってさ」

 ははっと笑いながら「やっぱいいよな、祭りは」

「嫌ね、メインは花火なんだからね?」

「わーってるって」

 頭の後ろに手を回して拗ねたようにするマリアにもう、とベルは呆れた。

 いつしか人の列は進んで、屋台の目の前にベルたちは立っていた。

「あ、すみません」若い男の声が困ったように告げる。

「今ちょうど焼けてた分終わっちゃったんで少々お時間頂いてもよろしいですか?」

「別にかまわな」

 顔をあげ、店員の顔を確認したベルは「あ!」と男を指差して一歩後ずさった。

 男の方もベルを確認するなり、げっと顔をしかめた。

「鈴丸、あなた何やってるのよ!」

 蒲生鈴丸、その人であった。

 彼の方も彼の方で先ほどまで浮かべていた愛想のいい笑顔をもみ消すと「お前こそ何やってんだ」と鬱陶しそうに顔を歪めていた。

「いつもいつも財団に詰めて、書類作ってると嫌になっちゃうもの。たまには遊びに行かなくちゃ」

「一人ぼっちで祭りなんて無様だな」

「あら誰がぼっちですって?」

 ぐいっと梨花を引っ張ったベルが勝ち誇ったように笑う。

 梨花は今までの会話を聞いていなかったらしく、鈴丸の顔を見るなり「あれ!? 鈴丸さん!?」と純粋に驚いた声をあげている。

「お前……梨花まで連れて」

「マリアもいるのよ?」

 そう言ったベルの後ろでマリアがにやにやと笑っていた。

「少々お時間頂いてもよろしいですかぁ? だってよ」

 先ほどの鈴丸の台詞を小馬鹿にしたように繰り返すマリアに「黙れクソガキ」と鈴丸が吐き捨てた。

「で、あなたこそ何してるのよ?」

「バイト」

 涼しく答える彼にベルは顔を引きつらせた。

「なんであなたって隙あらばお金稼ぐことしか考えてないのよ……」

「だって求人広告出てたし、地味に給料よかったし。たまにはこういう仕事もしてみたくなったんだよ、悪いか」

「蒲生くん、上がったよー!」

「あ、はーい!」

 また愛想を取り戻す鈴丸の声にマリアは腹を押さえながら今にも笑い転げてしまいそうなほどの笑い声をあげた。

 それに顔を引きつらせながら「おいくつでしょうか?」と問いかけた。それにまたマリアが爆笑した。

「三つ」

「千五百円になります」

「ごめんなさい、一万円しかないのだけど」

「ぶっ飛ばすぞババア」

「ああ?」

 ばちばちと火花を散らす鈴丸とベルを見比べておろおろとしていた梨花が慌てたように千円札を二枚差し出した。

「こ、これで」

「……はい、確かに」

 にこっと笑いかけられて梨花は顔を真っ赤にさせて、やがて俯いた。

 そんな彼女に五百円を握らせてから鈴丸はパックに詰められたお好み焼きをビニール袋に入れて差し出す。

「はい、どうぞ」

「どうもありがとう」

 それを受け取ったベルが怒りをにこにこ笑顔で隠しつつくるりと背を向けた。

「ありがとぉごっざいましたぁ?」

「……覚えてろよマリア」

「おーこえー、じゃあな金の亡者!」

 ベルのあとを慌てて追い掛けていくマリアを見て、自分もと歩き出す梨花に「梨花」

 くるりと振り返った彼女が首を傾げる。

「似合ってるぞ、浴衣。大人っぽくて」

 湯気が出ているのではないだろうかと思うほど顔が熱い。

 梨花は両方の手で頬を押さえながら「あ、ありがとうございました!」と頭を下げてから逃げるようにその場から駆け出して行った。

 そういうところが可愛いんだよなぁと思いながら次に並んでいた客に対して「お待たせしました」と鈴丸はまた愛想のいい作り笑いを取り戻した。

「一つ」

「はい、お一つですね」

 箸をつけ、袋に詰めたパックを差し出すとそこでぴたっと動きを止めた。

 この時期だというのに深緑のコートを着た男は真っ白な包帯が巻かれた手を差し出されていた。大きな目が鈴丸を捉える。その目は猫のよう、というよりは昆虫の大きな目といったところで上にかけられた黒縁の眼鏡のせいかなおのこと爛々と光っているように見えた。

 ぞくりと背筋を寒くなる。

「ああ、これ?」

 わずかに首を傾けた男は包帯の巻かれた手を見せつけるようにしながら笑った。

 にこりというよりにやりという擬音が似合う笑みだった。

「なかなか傷が塞がらなくてね」

「はぁ」

 困惑気味に返す鈴丸の手からふんだくるようにお好み焼きを受け取ると「どうもありがとう。蒲生鈴丸さん」

 男の口からこぼれた自分の名前に鈴丸は眉を寄せた。先ほどの会話を聞いていた? でもだとしたらなんのために?

 そうこうしている間に五千円札を一枚ポケットから取り出した男は「お釣りは結構」とだけ言い放って、立ち去ってしまった。

 皺だらけの五千円札をしまいこみながらほぼ本能的に鈴丸はTシャツの裏に隠していた拳銃に手を伸ばしたものの「蒲生くーん列止まってるよー!」という店主の言葉に苦虫を噛み潰したような気分になりながら、答えるしかなかった。

「はーい!」




 ポイが金魚をすくいあげて、器の中に放り込む。

 おお、と巳令が嬉しそうに声をあげた。白い生地に青や紫の撫子が咲く素朴な雰囲気の浴衣の裾をまくりあげたままなのも忘れて、彼女は夢中になって太李の手元を見つめていた。

「凄いです灰尾、そんなに金魚がすくえるなんて」

 さっき自分は一匹もすくえないままでポイがやぶれて駄目になってしまったのに。

 きらきらと輝く巳令の瞳には小さな器の中でぴちぴちと泳ぐ五匹ほどの金魚が泳いでいるのが映っている。くるくると軽くカールされた黒髪を押さえながら嬉しそうに笑う巳令に太李も不思議と笑みがこぼれた。

 またポイの上に金魚がすくいあげられた。尾ひれを動かし、必死に抵抗した金魚はわずかに空いた隙間からするりを身を滑らせて、そのまま器に入るより前に水の中に落ちて行ってしまった。

「あ」

「はい、お兄さんお疲れ様ー」

 店主の男が金魚の入った器を受け取って袋の中に手際よく入れて行く。

「いやー、やっぱ調子に乗るもんじゃないな」

 苦笑しながら太李が立ち上がるきらきらと自分を見つめていた巳令の顔のすぐ近くに顔がいってしまった。ほんの少し近づけば触れてしまいそうだ。

「うお、悪い……」

「いえ」

 ぱっとお互い視線を逸らす二人を見ながら「若いねぇ」と店主は茶化すように笑った。

 恥ずかしそうに目を伏せながら「からかわないでください」と巳令はわずかに膨れて見せた。

「はいよ。ん、お兄さん」

「あ、どうも……」

 金魚の入った袋を受け取った太李は改めて立ち上がると「鉢峰、袖」あ、と慌てたように巳令は自分の袖を引き下ろした。

 それからじーっと自分の手元の金魚を見つめる彼女に「金魚、お前が連れて帰る?」太李の言葉にぱっと巳令が顔を上げる。

「い、いいんですか……?」

「おう。よかったら」

「はい!」

 嬉しそうにこくんと頷く巳令に笑いかけながら太李は彼女に金魚の入った袋を手渡した。

 えへへと嬉しそうに笑う彼女にそれだけで来たよかったと思ってしまう自分はやっぱりバカップルの片鱗があるのだろうかと少しだけ不安になりつつまぁいいかと自己完結していた。

「楽しいか?」

「とっても」

「ならよかった」

 満面の笑みを浮かべる巳令に「なんだか子供みたいだな」と太李は笑いかけた。

 それが恥ずかしかったのかぷいっとそっぽを向きながら「だって、こういうところ、あまり来たことがなかったから」

「そうなのか?」

「はい。一緒に行くような人もいなくって、家の人間もあまりこういうところには来たがらなかったから」

「……もしかして鉢峰ってお嬢様だったりする?」

 冗談交じりで太李が問いかけると「ま、まさか」と巳令は手を左右に振った。

 自分が金持ちだと知らせて妙な壁を築きたくなかった。ただそれだけの想いで彼女は自分の家のことに関して閉口した。

 まぁいいか、と太李は巳令を覗き込みながら「んじゃ、これからは俺がとことん付き合ってやるからさ。行きたいとこ行こうぜ」

 ふふっとたまらず巳令が笑い出した。

「ありがとう」

「お、おう」

 急に恥ずかしくなって視線を逸らす太李に礼を述べながら巳令は黙って彼の手に自分の手を伸ばした。

 それに一瞬触れてから、次にはぎゅっと手を絡める。

「鉢峰さん!?」

 声が裏返りそうな太李に対して顔を俯かせながら、

「て、手、繋ぎたいって言ってたから。繋ぎましょうよ」

「そ、そそそ、そうですね!」

 なぜ俺は敬語で話しているんだとぐるぐる考えていると「でも」と巳令はどこか冷たい目で彼を見上げた。

「キスとか、そういうのは、まだですから! いいですか! まだですからね!」

「は、はい!」

 お互い顔を真っ赤にしながらひたすら人混みの中を歩き続けた。




 人が行き交う駅前で南波は幼馴染の声を聞いた。

「みーちゃーん!」

 改札口の方から駆けてくる和奈の姿を見て、彼はそちらの方へと同じように駆け寄った。

 桜柄の真っ赤な浴衣を揺らしながらにこにこ微笑む和奈は「じゃじゃーん!」と両手を広げた。

「どうどう? 可愛いでしょ? どや?」

「ああ。よく似合ってるよ」

 南波の言葉にえへへと嬉しそうに笑う和奈はぎゅっと彼の手を握ると「ほれほれ」とぐいぐい引っ張った。

「行ってみよー!」

「はいはい。あんまりはしゃぐな、転ぶぞ」

「大丈夫だよ、もーみーちゃん心配性なんだからー」

 この幼馴染は小さい頃から変わっていない。南波は心からそう思った。

 昔からにこにこ笑っている子供だった。無愛想な自分とは違って人の笑顔を向ける和奈は割合、誰にでも好かれていたような気がする。

 幼馴染という立場でなければ自分は和奈とこうして出かけることはなかっただろうと思う。それは幸運なことだったなと南波は思っている。

 人混みの中を歩きながら「そういえばさ」と和奈が首を傾げた。

「よもぎちゃん、どっか悪いの?」

 突然聞こえてきた後輩の名前に南波は少なからず動揺した。

「……なんで俺に聞く?」

「んー、みーちゃんを誘う前にね、よもぎちゃんを誘ったんだけどなんか元気なかったから」

 その言葉に南波は顔を引きつらせ、彼女に問う。

「誘ったのか、春風を」

「断られちゃったけどね。みーちゃん、よもぎちゃんと仲良しだから何か知ってるかなって」

 びく、と南波はわずかに肩を跳ね上がらせてから彼は目を伏せて、静かに答えた。

「俺は何も知らないよ」

 嘘は言っていない。自分は春風よもぎについてほとんど何も知らないのだから。

 人混みの声にかき消されそうな程度の声量だったにも関わらず、和奈はそっか、と小さく返すだけだった。

 よもぎが体調不良を理由に今日の訓練を休んでいたことは南波も知っていた。心配にならないことはないが、メールをするほどでもないだろうと結局彼は何もせずにいた。

 また自分が迂闊なことを言うのではなかろうかとそう思っていないわけではなかった。

 あ、そうだとまるで世紀の大天才になったかのように和奈は明るい声でまた言った。

「みーちゃん、よもぎちゃんにお土産買って行ってあげなよ。うん、それがいい」

「なんで」

「買って行ってあげたらきっと喜ぶよ」

 そうだろうか。和奈に対して妙に否定的な自分がいることに気付いて南波は頭を抱えた。

 もしかしたら次いで出てくる台詞を恐れたのかもしれない。南波はわずかにそう思った。

「私もなんか買って行くからさ」

 誰に、などという問いはもはや彼にとっては愚問でしかなかった。

 和奈は恥ずかしそうに目を伏せたまま「今度は三人で出かけたいね」喉元に魚の骨でも突き刺さったような感覚を南波は奥歯で噛み殺した。

「来られるだろ」

「そうかな」

「ああ。京さん、よくなってるんだろ。新しい薬が合うから」

「うん」

 そうだよね、と和奈は確認するように呟いた。

 偶然の結果とはいえど、自分の立場のおかげで京はよくなっているんだ。喜ばしいことのはずなのに。どうしてか南波の心は今一つ晴れやかなものではなかったのだ。

 そんな自分が彼は心の底から嫌だった。

「あ、あのね、みーちゃん」

 人混みの声の中に、隠すように和奈は細い声で言う。


「私、京くんのこと好きなんだ」


 なんの前触れもなく、そう放たれた台詞に、彼は今すぐにでもこの場から逃げ出してやりたくなった。それをしなかったのは多分わずかに残った彼女の幼馴染としての良心からである。

「ああ、俺もだよ」

 そう誤魔化す以外、彼にできそうなことはなかった。

 えと、と困ったような和奈の声の少し後に「あれ、和奈ー?」と女子の甲高い声が南波の鼓膜を揺らした。前方に人影を捉えるなり、「あ、ごめんねみーちゃん、ちょっと行ってくる」とするりと南波の腕をすり抜けて彼女は恐らく友達であろうその人影に駆け寄って行ってしまった。

 まだ少しだけ幼馴染のぬくもりが残る手を見つめながら南波は深々と溜め息を吐いた。ああ、分かってるさ、それくらい。ずっと見てたんだから。

「和奈」ん? と和奈が南波に振り返る。オレンジがかった明かりに照らされる彼女は心底綺麗だと南波は思った。

「悪い、急用ができた。あとは一人で回ってくれ」

「ええー」

「すまん、埋め合わせは今度するから」

 ぶーと唇を尖らせる和奈に軽く笑いかけてからくるりと彼は背を向けた。

「みーちゃぁーん!」

「んー?」

「まったねー!」

 背中に投げ掛けられるその言葉は今は何より鋭く痛い。南波にはそんな気がした。




 ベッドの上で体育座りしながらよもぎは茫然と外を眺めていた。

 建物の明かりのせいで星はほとんど見えない。そもそも、天体観測を目的にしていたわけでもないしいいかと思いながら彼女は膝の上に頭を乗せた。

 この体勢がいつも、一番落ち着く。何かがあると部屋の中でこうするのは一種の彼女の癖でもあった。

 今頃みんなどうしているのだろう、訓練に行けばよかったかななどとよもぎを後悔が襲っていると軽やかに来客を告げるチャイムが鳴った。数秒してからはーいとあけびの声がそれに応答してぱたぱたと忙しい足音が響く。

 こんな時間に誰だ。宅急便か? つい気になってこっそり聞き耳を立てていると「よーもぎちゃーん! お客さーん!」とあけびの大きな声が響いた。

 私? よもぎは不思議に思いながら渋々体操座りの姿勢をやめて、ベッドから下りて恐る恐る玄関の方へと歩いて行った。誰だろう。ベル姉様辺りだろうかと色々予想を立てながらあけびが少しだけ腰を引かせているのを気にしつつチェーンに繋ぎとめられてわずかに開いたドアの隙間から外を伺った。

「やっぱり仮病か」

 開口一番なんちゅー失礼な人じゃ。よもぎは少しも迷わずばたんと扉を閉めた。

 しかし相手もしつこいものでまたチャイムを押して、ついでのように扉まで叩いてくる。視線に射すくめられたあけびはふにゃふにゃと腰が砕けてしまったようでその場で座り込んでいる。

 まったく、と少しの怒りを覚えつつまた扉を開けたよもぎは嫌々ながら問いかけた。

「なんの用っすか、益海先輩」

 そこにいたのは益海南波だった。

 別に。そう答えた南波はわずかに自分から視線を逸らす。なんだよそれ、また扉を閉めようかと思っていると「お前の顔が見たくなった」あまりの薄気味の悪さによもぎは顔をしかめた。

「なんですかその中距離恋愛中の彼氏みたいな言い分は」

「じゃあ言い方を変える。お前のムカつく面を見たくなった」

「なるほど台詞は益海先輩になりましたがお断りします」

 そう言って扉を閉めようとするもがっと南波の足がわずかな隙間に突っ込まれてそれを阻止する。

「いいから顔貸せ、春風。どうせ仮病だろ」

「どうせとか変な言いがかりつけないでください!」

「じゃあ本当に体調が悪かったのか? ん?」

「それは……」

 言葉を濁すよもぎは顔を俯かせながら「自分じゃなくて、宗本先輩とでもいればいいじゃないですか……」とどこか拗ねたような物言いをする。

「とにかく、大人しく、ついてこい」

「嫌ですってばしつこいな!」

「俺をわざわざ地元に戻らせてそれを無駄足にする気か」

「あんたが勝手に戻ってきたんでしょ!」

 ぐるると隙間越しに睨み合う二人に「う、うちのよもぎちゃんにあんまり意地悪しないで欲しいんですけど」といつの間にか立ち直っていたあけびが南波を睨み付けた。

「……久々だな春風の姉の方」

「その変な呼び方やめてって言ってるじゃん! 相変わらず無愛想だね、益海くん!」

「うるさいシスコン」

「シスコンじゃないですぅ、可愛いよもぎちゃんを愛でるのは姉としての当然の義務ですぅ」

「それがシスコンだと俺は何度」

「ああもうやめて! あけびちゃんも益海先輩もやめて!」

 面倒になったのか素早く扉のチェーンを開けると「行きますから! 出ますから!」とよもぎはさっさと南波の方へ駆け寄った。

「よ、よもぎちゃん……」と少なからずショックを受けた様子のあけびに「大丈夫だって、すぐ戻るから」とよもぎは笑いかけるだけだった。

 それにううう、と唸ってからキッと南波を睨み付け、あけびは乱暴に扉を閉めた。

「相変わらずだな」

 そんな感想が南波の口からこぼれる。

 中学の頃のあけびと南波は同級生だった。そんなことを思い返しながら「んで?」とよもぎは首を傾げた。

「なんかあったんですか?」

 よもぎの言葉に南波は少しだけためらってから「お前の方こそ何かあったんじゃないのか?」と問いかけた。

 それはきっと今のことを尋ねた問いではないだろう。よもぎは決まり悪そうに視線を逸らすとやがて、

「友達がね、いたんです。とっても苦しんでた友達が。でも春風、その子に何もしてあげられなくて」

 どこか遠い目をしながら「今は、親戚のおうちに引き取られて幸せみたいですけど、なんか色々あって仲たがいしたままで、それがずっと気になってるんです」

 へぇ、とやはりどこか無関心な言葉が南波から滑り落ちた。深く掘り下げようとしてこないのは相変わらずこの人らしい、とよもぎはいっそ安心した。

「益海先輩こそどうしたんですか?」

 よもぎの二度目となるその問いに、今度はためらわずに彼が答えた。

「ただの失恋だ」

 おや珍しい。よもぎはすくっと立ち上がると南波の頭に手を置いてにやにや笑った。

「ほーらよしよーし南波くん泣かないでくだちゃーい」

「馬鹿にしてんのか」

「いってぇ!」

 すっと飛んできた手刀をモロに食らって涙目になるよもぎからふんと南波が顔を逸らした。

「しっかしマジなんで春風なんですか……」

「八つ当たりしに来た」

「ああなんか薄々そんな気はしてました」

 うんざりしたように溜め息を吐くよもぎに「明日は来るか?」と南波は問いかけた。

「おうよ、勿論っす」

 ぐっとよもぎがサムズアップして見せると同時に遠くの方から花火の打ち上がる大きな音が響いた。




 花火の光が辺りを照らし、音の波が空気を揺らす。

 人々の視線が全て花火に注がれるのをビルの屋上から眺めつつ彼は小さく笑っていた。

「最初のおにんぎょさんはどうしようか?」

「相変わらず不愉快ですわ」

 風になびく緑色のコートを見て、スーツ姿の聖護院麗子は顔をしかめた。

 おやぁ? 彼は不気味に首を傾けた。

「僕の遊びにケチつけるつもり?」

「いいえ。γ型の臨床実験さえ成功させてくれればあなたの性癖をどうこう言うつもりはわたくしにもうわばみにもなくってよ?」

 また花火が打ち上がる。赤い光が麗子の顔を照らす。うーんと彼は唸った。

「やっぱり、違うんだよなぁ。君は確かに綺麗だけれどどうも違う。何かが違う」

 ねぇ? 彼が不気味に笑った。

「僕のおにんぎょさんになってみない?」

「お断りですわ」

 かちゃっと彼の額に銃口を押し当てながら麗子は不敵に笑った。

「余計なことはしないでくださいまし。わたくしをあなたのような下等な者のおもちゃにしようだなんて考えないでくださる?」

「はは、分かったよ」

 降参、と両手をあげる彼からゆっくりと麗子は銃口を彼から離した。

 やれやれと首を左右に振ってから「心配しなくても」と彼は身を乗り出した。

「これだけ人がいるんだ。ちょうどいいおもちゃは見つかるよ」

「……どうしてうわばみもあなたのような変態にこの実験を任せるのかしら」

 ぼそりと悩ましそうにそう言ってからまぁいいですわと髪を振り払った麗子はそのままかつかつとハイヒールの音を花火に負けないほど甲高く鳴らしながら階段へ続く扉に手を掛けた。その手にはわたあめの袋が握られている。

「甘いものが好きなの?」

 彼の言葉に「これはお留守番してるいい子へのお土産ですわ」とだけ答えると麗子は改めて扉を開き、スカートの裾を持ち上げて会釈した。

「それではごめんあそばせ。活躍を期待していますわ、『キリギリス』」

 鉄製の扉がばたんと閉じた。

 眼鏡のフレームを押さえながら彼はぽつんと「自分ももうすでに十分『うわばみのお人形』なのにね」とだけこぼした。


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