第二十話「俺はようやく踏ん切りをつけたようです」
花器に活けられた暖色のスカシユリを見つめながら巳令は小さく息を吐いた。
石化柳のなんとも言えない曲線の間で三点を取りながらしかしどこか不揃いにユリの暖色が咲く。
蝉の声を聞きながらぼんやりとそれを眺めて、つまらないと彼女は顔をしかめた。
いけばなを始めたのは家の意向だった。得に楽しいと思ったわけでもなく、勧められたからなんとなくやってみただけだった。
家族は気を遣わなくていいと言ったが家族以外の人間が多く出入りする家の中で彼女は自然と丁寧な言葉遣いと大人しさを身につけた。
舞踊も、茶道も、着物の着付けもやれと言われたわけではなかったが自分で覚えた。家族に言われたわけではないけれど、巳令の行動の陰にはどこかしらにいつも家の存在があった。
家族は自分を家に縛り付けていたわけではなかった。むしろ自由に育ってきた方だと思っている。誰でもなく、彼女の心そのものが彼女を家に括り付けていたのだ。
それでも最近になって巳令には家の存在関係なしに出来たことが二つほどある。
一つ目はフェエーリコ・クインテットとして巳令に限定して言えば鉢かづきとして戦うことができているという点だった。
ヒーローに憧れて、そしてそれに実際になったのはまさに巳令の意思そのものだった。誰かを救い、そして自分も救われてそれがどれほど幸せなことであるのか巳令にはある程度の自覚があった。
二つ目は、年頃の娘らしく恋をしたことだった。
好きな人ができた。自分よりずっと優しくて、かっこいいヒーローに恋をした。
そこまで考えてから自分の口からその気持ちを彼に知られてしまったことを思い出して巳令は恥ずかしくなると同時にふつふつと怒りが込み上げてきた。
そういえば結局あの話はどうなったのだろう。色々あったから仕方ないとはいえ、あれ以来一向に太李の口からその話を聞かされることはなかった。
忘れている? いや、太李に限ってそれはないだろうと巳令は思う。何か一言くらい言ってくれればいいものを。
フラれるならフラれるでも構わない。ただこうして傷つけないようにと気を遣われるとかえって腹が立つ。
我ながら理不尽だと思いながら視線を外に放り出すと同時に彼女の携帯電話が小さく震えた。
自分の携帯電話の画面を睨み付けながら太李はソファの上で倒れ込んでいた。
そこに開かれているのはなんの変哲もないメール画面だった。宛先にはあらかじめ巳令のアドレスが設定されていて、本文には短く『明日どうする?』という問いかけだけが書かれている。
毎日のように続いていた召集が久々にない日だった。
どうも巳令と二人になれず『例の話』を持ちかけられなかった太李がこの日しかないと心の中で決めていた。
決めたはいいもののいざ彼女に予定を聞くメールを送ろうとした途端これだった。
おかしいところはないだろうか、こう送ったら彼女はどう返してくるだろうか。不安と躊躇いでいっぱいになってなかなか送信ボタンを押せずにいる。
こんなことでいいはずはないのに。それでも指は動かない。
このままずるずる引きずっていても仕方のないことだと分かっている。あー、と唸っていると「おっにいー」愛らしい声にびくっと体を跳ね上がらせて彼は慌てて起き上がった。
「な、なんだよ、紅葉!」
「ハサミ貸してーはーさーみー」
兄を驚かせたことに対して特に悪気もなさそうにゆさゆさと左右に揺れる紅葉に「部屋にあるから勝手にもってけ」と力なくまた彼は倒れ込んだ。
そんな兄の様子を不審に思ったのか紅葉は首を傾げながら「どしたの?」と眉を寄せた。無意味に鋭い妹め、と心の中で履き捨てながら「なんでもないけど」と顔を逸らした。
それが益々、紅葉が太李を気にする要因になった。自分の兄が携帯を持っているのを認めると「携帯かー!」「やめんか!」
飛びかかってきた妹から携帯を庇うように太李は身をよじるも彼に飛びついた紅葉は「見せろー! みせんかーい!」と手をいっぱいいっぱいに伸ばしている。
それに対して見られてたまるものかと太李も紅葉の手から逃れるように携帯を離す。
「やめ、やめろってば!」
「ええい乙女でもあるまいに!」
ぎゃーぎゃーと言い争いながら携帯を奪い合っていると特徴的な電子音が響く。
それに太李は顔を引きつらせ、恐る恐る画面を見る。
画面には『送信しました』の文字だけが浮かび上がっている。
やってしまった。今にも逃げ出そうとしていた紅葉の腕を掴みながら「お前なぁ!」
「な、なんだよーおにいが隠そうとするから悪いんだろ! どうせ送る気だったならいいじゃん!」
「よくないんだよ! これはマジでよくないんです!」
送ってしまったものは仕方ない。頭の中で理解していながらも彼は慌てずにはいられなかった。
自分がグズグズしていたのが悪いのは百も承知で紅葉の頬を引っ張っていると放り出されていたメールの着信音と共に携帯電話が震える。はっとして慌てて拾い上げると送信者は巳令だった。
恐る恐るメールを開いてみると中には『特に何も決めてませんけど』の文字。ゆっくり紅葉に振り返りながら「紅葉!」びくっと彼女は肩を跳ね上がらせた。
「な、何さ」
「この時期ってどこにデートとか行けばいいんですか!」
ただならぬ様子の兄から出たそんな問いかけに「は?」と紅葉は返してから顔をしかめた。
「おにい……そりゃあれか……彼氏なんざいない紅葉ちゃんへのあてつけか」
「違う、心底真面目だ」
「なお悪いわい」
けっと吐き捨てられながら「つーか彼女とかじゃないし」とぶつぶつ言ってる太李に構わずに「逆に聞いちゃえば?」とどうでもよさそうに紅葉が告げる。
「聞く……聞く、そっか、聞けばいいのか……」
紅葉の言葉に驚かされたという風に呟きながら太李はソファに再度腰を下ろし、携帯の画面と向き合った。そんな兄の隣に腰かけながら紅葉は面白そうに笑っていた。
その笑みに少しも気付かずに太李はその返信に『一緒にどこか行かないかなと思ったんだけどもし行けそうだったらどこ行きたい?』という問いかけを打ち込んで今度は躊躇わず送り返した。
彼女からメールが返ってくるには時間がかかった。携帯の画面を食い入るように見ながら不安げにする太李に紅葉は感心してしまうほどだった。こんな兄は初めて見た。
時間にすれば五分ほどだったが太李の体感では三十分か、それこそ一時間過ぎたのではないかと思うほどだったがとにかく返ってきたメールには『水族館』とだけ書かれている。どうやら一緒に出掛けることに関しては了承してくれるようだ。ほっと息を吐きながら『じゃあ水族館行くか』とだけ返す。
不安げに、でも楽しそうにメールのやり取りをする兄に「恋ってすげー」と紅葉は本当に小さな声で呟いた。
ソファに横たわりながらよもぎは文庫本の上に踊っている活字を読みながらページを捲った。
その手にはあるのは以前、南波が読んでいた本と同じものだった。たまたま本屋に平積みにされていたのを見て、ついつい好奇心に駆られて買ってしまった。
タイトルと表紙しか知らずに、内容は全く分からないまま買ったが内容は超能力者が出てくるSF推理小説だった。超常的な力を持った主人公が事件を解決していく。それでも現実離れしすぎずに、どこかで現実味を帯びる。フィクションとリアルが混ざり合っていて読んでいて退屈しない。
こういうものが好きなのか、それとも単にこの作家が好きなのかよもぎにはそれが判断できなかったが少なからず買ってよかったと思った。
他の作品も見てみようかなとよもぎがポケットに入れていたスマフォに手を伸ばすと「よーもぎちゃん」彼女が顔を上げると黒髪を短く縛った女だった。真っ白なフレアスカートと、その清楚なスカートとは真逆の雰囲気の紫色のスカジャンを着ている。この時期にまでよく着るものだといっそよもぎは感心するほどだった。
「どーしたの、あけびちゃん」
春風あけび、よもぎの一つ違いの姉だった。
あけびはどうやらよもぎのことが可愛くて仕方ないようでやたらと構ってくる。姉馬鹿、またはシスコンとも言うのだろうかとよもぎは思う。
けれどよもぎは決してあけびのことは嫌いではない。今の彼女になる上であけびの存在は必要不可欠だった。
「明日のお昼ご飯焼きそばでいーい?」
「うん」
「海老とイカいっぱい入れてとびっきり美味しいの作ったげる。あ、それともお野菜いっぱいがいい?」
「あけびちゃんが食べたいの作りなよ」
「よもぎちゃんが食べたいのがいいんだもーん」
ぴょんぴょん飛び跳ねるあけびによもぎは苦笑した。
「じゃあ海老」とよもぎが答えればあけびは嬉しそうに微笑んだ。
「りょーっかいしっちゃいましたー!」
ふふふんと冷蔵庫の方に駆けて行くあけびの後ろ姿を見送っていると手に握っていた電話が鳴り響く。
首を傾げながら画面を見れば『みれー先輩』の文字が見えてよもぎは首を傾げた。彼女から電話がかかってくるなんて珍しいのだ。
「もしもし?」
応答してみるとスピーカー越しに当てたような巳令の声がよもぎの鼓膜を揺らした。
「ど、どどどどうしましょう! よもぎさん大変なんです一大事です!」
「どうしたんすか、そんな慌てて。らしくないっすよ」
本を閉じ、起き上がりながらよもぎは首を傾げた。
よもぎの言葉に一旦呼吸を整えてから、多少は落ち着いたのか巳令が「明日、出かけることになって」はぁ、と生返事。
「それが何か?」
「そ、それが灰尾と出かけることになって」
その場で勢いよくよもぎが立ち上がる。
音を聞いてあけびがびっくりした顔で振り返っていたがそれに構わず巳令の言葉は続く。
「咄嗟に水族館とか答えちゃって、ああなんか子供っぽすぎたかなってっていうか何着て行けばいいのか分からないしどうしましょう!?」
「みれー先輩どうどう」
キッチンの方に向かってから電話を少し自分から離してよもぎはあけびに小声で告げた。
「あけびちゃん、私明日のお昼ご飯いらないや」
翌日、待ち合わせ場所である駅にすでに到着していた太李は時計を見上げながら深々と溜め息を吐いた。
いつ話を切り出そうかと考え込んでいた。別に悪い話をするわけでもないのだし、合流したらすぐでもいいだろうかとかやっぱりそれなりに切り出せそうな雰囲気になるまで待つべきだろうかとか色々と考え込んでいたのである。
早く着きすぎた、と太李は若干後悔した。遅れるよりは待っていた方が格好はつくかもしれないが彼女が来るまで不安で仕方ない。ひっきりなしに思考が切り替わる。
やっぱり合流したらすぐに話を切り出そう。太李は心の中でそう決めた。
そのときだった。
「ごめんなさい!」
ぱたぱたと忙しそうに足音をさせながら巳令が息を切らし、太李の元へと駆け寄ってきた。
短い黒髪をぺたぺたと押さえ付け、彼を見上げる巳令は肩を小さく上下させる。それから少し息が整ってきたところでようやく、申し訳なさそうに口を開いた。
「待たせてしまって……」
はっとして太李は慌てて取り繕った。
「いや、俺が勝手に早く来ただけだし待ち合わせ時間まで全然あったし、っていうか全然待ってないし!」
あははと引きつった笑みを浮かべながら両手を頭の後ろに回す太李にくすくすと巳令は笑う。
その柔らかい笑顔が酷く魅力的に見えて、彼は言葉を飲みこんだ。元々は綺麗な顔立ちなのにそこに可愛らしい笑顔が咲くのがアンバランスなようで太李には魅力的に見えて仕方ない。
ずっと見つめていると不意に自分がどんな言葉を発するか分からないので視線を逸らしつつ話を切り替えた。
「んで、あれだ。なんで水族館?」
「アザラシが見たくって」
咄嗟にそれしか思いつかなかったなどとは言えず、誤魔化すようにそう言った。
「アザラシ、好きなのか?」
「特別そういうわけでも。ただ可愛いじゃないですか。まるっとしてて」
手で丸を描きながらにこにこと笑う巳令にそうか、と太李も笑い返した。
「さ、行きましょう」
「え、あ、だな」
楽しそうに歩いていく巳令の後ろ姿についていきながらああ、タイミングを逃したと太李はがっくり肩を落とした。
その後ろで大きめのサングラスを外しながらよもぎがきらきらと目を輝かせた。
「いいですね青春ですねぇ、あのヘタれ先輩がデートのお誘いだなんて何事かと思ってましたけど」
うふふと楽しそうに笑うよもぎに呆れたような声がかかる。
「なかなか悪趣味だなお前」
「何を仰いますマリアさん。自分だってノリノリで来たくせに」
よもぎの言葉にへへっとマリアは楽しそうに笑った。
その後ろにはカバンを抱えた梨花と文庫本をめくっている南波もいる。
「そ、れ、に」とよもぎは唐突に梨花の腕に抱き着くと「この間の鈴丸さんとのおデートについても詳しく聞きたいですわ春風」
びくっと梨花が肩を跳ね上がらせる。
「だからあれはミハエルさんから逃げたかっただけで」
「んもうまだそういうこと言いますか」
ぷくっと頬を膨らませる梨花にむむっと顔をしかめるよもぎを見ながらマリアは苦笑する。
そしてマリアは横に立っていた南波を見て、にっと笑った。
「でもなんか、意外だな。お前までついてくるなんて」
活字の海から思考を引き上げて、少しだけ顔を上げた南波はちらりとよもぎを見てから「さあな」とだけ答えるだけだった。
よもぎから誘い電話が掛かって来たとき、南波は本当に意識せずについていくという答えを本能的に吐き出していた。それは太李がどうとか、巳令がどうとかではなく、誰でもなくよもぎの誘いを断るだけの勇気がなかっただけだった。
勇気がないという言い方も妙かもしれないが南波にとって今のよもぎは一種の恐怖の対象でもあった。せめてよもぎの激怒の理由を知るまではこの態度を改めることは無理そうだと彼は思っている。
南波がじっとよもぎを見つめているとその視線に気づいた彼女が首を傾げる。なんでもない、と南波は軽く首を左右に振った。
歩いていく二人を追ってマリアがゆっくり歩きだす。その後を梨花が追って、さらに南波とよもぎが並んで続いた。
「あ、そういや」とよもぎは南波を覗き込んだ。
「春風、この間、本読んだんです。小説」
「へぇ」
いつもより食いつきがいい。よもぎにはそう思えた。
本の話題だからだろうか。やっぱり本が好きなんだと思いながら「えっと、あの作家さんなんて言ったかな。し……しま……?」南波がすぐに答えた。
「志摩次晴」
「あ、そう、それです! あの人のをね、読んでみたんです」
「面白かっただろ」
南波らしからぬどこかはきはきとした声によもぎはたまらず吹き出した。
くすくすと笑い自分を見ながら眉を寄せる南波に「すいません、なんか益海先輩ほんと本好きなんだなって」ふんと顔を背けながら南波がまた気だるそうな声で答える。
「悪いか?」
「いいえ、ちっとも。素敵だと思いますよ」
にっこりと笑いながら「何か夢中になれるもんがあるなんて、羨ましいっす」
まただと南波は思った。いつかのようによもぎはまた、自分を見ているようでどこか遠く、もう手が届かないような場所を見つめている。そんな気がする。
「お前にはないのか?」
そういえば自分は春風よもぎのことをちっとも知らない。知ろうという努力すらしなかった。ふと不思議になって南波が問えば、よもぎは手を頬にやった。
「自分ですか? 自分はないっすねぇ」
それから悩ましそうに、
「生きてるだけで万々歳ですから」
と締めくくった。
柚樹葉のところに行こう。ベルがそう思い立ったのはほんの数分前だった。
ここ数日、彼女は柚樹葉の姿を見ていなかった。同じビル内にいるのは確かなのだがお互いに忙しくて顔を見なかったのだ。
九鬼と代わってなった主任待遇という役職はいささか窮屈だとベルは思う。外部の人間だからか前よりずっと報告を求められることが多くなった。
それでもこんなことくらいなら、とベルは思っている。今までのように何もできず、ただ向こうが尻尾を出すまで待つよりはずっとマシだ。
そんなことを考えているうちに、ベルは柚樹葉の部屋の前に辿りついた。
柚樹葉の部屋、というのは少しばかり語弊のある言い方で正確に言えば柚樹葉に研究開発のため与えられた一種の実験室とも呼べる部屋だった。そこに半ば住み着くようにしながら彼女は暮らしている。
そういえば最近あの子家に帰ったのかしら、と一抹の不安を覚えながらもし帰っていなかったら叱ってやろうと決めて呼び鈴に指を伸ばした。
間もなくぴんぽーんと軽い音が響き渡る。返答はなかった。ベルは「ゆーずーはちゃーん、あーそびましょー」と茶目っ気づいた口調でそう言うもやはり声は返ってこなかった。
何よ、とベルはドアノブに手を掛けた。がちゃがちゃしてやろう。なんとも子供じみた考えがベルの中に生まれたのである。
ところがドアノブはベルの予想に反してぐるりと回るとそのまま扉を開けてしまった。
あら。間の抜けた声をあげて彼女はぱっとノブから手を離した。しかしそうしている間にもぎぎっと音を立てながら開いてしまった。あらあらあら。今度は声に出さずに心の中でベルは呟いた。
どうしようかと迷ってから彼女は開いた隙間から身を乗り出してこっそりと中を覗き込んだ。
小難しそうな本が何冊も床に転がって、雑然とした部屋には人がいるという空気こそあっても生活感というものは一切ない。床に散らばっている工具を避けながら中に入り込んでベルは慌てて駆け出した。
「ちょっと柚樹葉さん!?」
ぽつんと作業机の目の前に置かれた椅子にだらんと倒れ込みながらパソコンのディスプレイの光に当てられていたのは九条柚樹葉だった。
その様子は明らかに普通ではない。柚樹葉といつも一緒にいるお喋りロボットの声も聞こえてこない。
真っ青な顔をした柚樹葉を抱き上げながら軽く揺さぶると彼女はうう、と短い声をあげた。
「何してるのよ」
「……やあ、ベルガモット……」
弱々しい彼女の声に「どうしたの」と問うより早く、ぐうと可愛らしい腹の音がベルにも聞こえてきた。
湯気の立ち上る真っ白なリゾットをスプーンですくいあげ、柚樹葉は無我夢中でそれを口の中にかきこんだ。
あまりの勢いにベルが唖然としているのにも構わずに白衣の袖で口元を拭ってから柚樹葉は後ろに居た鈴丸に振り返り、皿を突き出した。
「おかわり!」
「分かったから落ち着いて食えよ」
それを受け取って鍋の中から盛り付けてやっていると待ちきれないとばかりに柚樹葉はとんとんと机を叩いた。
その横には先ほどまで充電切れで動くことのできなかったスペーメがバッテリーの上でだらんと倒れ込んでいる。はふぅ、と声が上がった。
「ベルガモットが来なかったら危なかったのです」
「もしかして、ずっと食べてなかったの?」
鈴丸から皿を受け取りつつ柚樹葉は黙ってベルから視線を逸らした。返答としてはそれで十分すぎるほどである。
「あのねぇ」
呆れて口を開きかけてからベルはそれを取りやめて、代わりの問いを発した。
「一体何してたの?」
「……スペーメ、教えてやって」
口の中にリゾットをかきこむ柚樹葉にそう言われ、スペーメは純粋に驚いたような声をあげた。
「よいのですか?」
「教えないとめんどくさいんだもんこの大人は」
えへ、と歳不相応にベルが笑う。無理すんなよババアという台詞が鈴丸の喉元まで押しあがったが我が身可愛さで彼はそれを飲みこんだ。
珍しい、と感心すらしながらもスペーメは小さな口を開いた。
「フェエーリコ・クインテットのチェンジャーの大幅強化の計画をしてたです」
「強化?」
鈴丸が繰り返すとこくこくと柚樹葉が頷いた。
ごくんとリゾットを飲みこんだ彼女は「主にγ型対策かな」ぴくっとベルが眉を寄せた。
「あれに出てこられたらいよいよ今の戦力だけで対応するには無理がある」
「そうねぇ」
嫌にのんびりしたベルの声にこの大人は、と思うばかりで柚樹葉は何も言わなかった。
「だから色々煮詰めてたんだけどついつい食べるのも忘れてて」
「ほんと、困った子なんだから」
子ども扱いしてくるようなベルの言葉が不快で皿に残っていたリゾットを平らげると彼女はまた鈴丸に声を飛ばした。
「おかわり!」
「まだ食うのかお前」
その皿を受け取って呆れ顔の鈴丸はふと思い出したかのように、「あれ、マリアは?」
ああ、何も言わないで出て行ったのか。そんなことを考えながらベルはただ、さあねぇと返すだけだった。
いつになったら『これ』は終わりを告げるのだろうか。そんなことを考えながらである。
人工の明かりをきらきらと反射させて輝く魚を見ながら巳令は嬉しそうに身を乗り出した。
その目に映っている鮮やかな魚たちは水中を舞い踊るかのようにひらひらと泳いでいる。間もなく、綺麗という感想がぽつんと巳令の口からこぼれ落ちた。
そうだなとありきたりな相槌を太李が打てば巳令はふふっと笑ってからスカートを翻した。
「次はタツノオトシゴ行きましょうか」
「アザラシは?」
「その次です!」
嬉しそうに口元を綻ばせながら駆けて行く巳令の後ろ姿に「はしゃぎすぎだろ」と声をかけることしか出来なかった。
しかし、巳令の方はそんな太李の声を気に留めた様子もなく人混みの中を器用に抜けていく。そのあとをなんとか追いながらさて本格的に困ったぞと顔をしかめた。
切り出すタイミングを失った。ただそれだけである。
そうこうしている間にも廊下を抜け、少しだけ広いフロアに出た巳令は「あ」と声をあげ、立ち止まった。
どうした、と太李が聞くより早く、巳令はしゃがみ込むと柔らかい声でこう言った。
「どうしたの? 迷子?」
その視線を合わせる先にはまだ言葉をうまく使えないであろう三歳ほどの少女がぼろぼろと涙をこぼしながら泣きじゃくってるだけだった。
そういうことかと嫌に納得しながら太李は辺りを見渡した。巳令らしい、そう思ったからである。
間にも少女は両親を求めて一層高く泣くばかりだった。どうしようと巳令がおろおろしているとそこでようやく戻ってきた太李はその場でしゃがみ込んでから手に持っていたアザラシのキーホルダーをひょこひょこ左右に動かしながら少しだけ高い声で、あくまで楽しげに告げる。
「お嬢さん、お嬢さん、泣いてちゃやだよー」
きょとんとする巳令とは逆に、少女は左右に揺れる可愛らしいアザラシを見て嬉しそうに笑みを浮かべた。気付けば涙は止まっている。
キーホルダーを握らせて、太李はいつも通りの声で「お父さんとお母さん探しに行こうか」こくこく、彼女が首を上下に振った。
ふふ、と巳令が笑い声をこぼした。
「本当に凄いですね、灰尾は」
「え、いや、そんなことは」
たまたま売店が出てから助かっただけでそうでなかったらどうなっていたか自分だって分からない。
そもそも最初に彼女を見つけたのは巳令なのだからむしろ凄いのは巳令の方である。色んな大人が黙って視界から外していたような子供の元へ迷わず行ってしまったのだから。
例え変身していなくても彼女はヒーローなのだと嫌に太李は実感した。
そしてその実感は仲間である彼にとっては誇りでもあった。
そんなことを思いながら彼女の手を引いていた二人だったが存外、目的の人物は早く見つかった。
「ままぁ!」
するりと巳令の手から自分の手を抜いて、少女は母親と思わしき人物に駆け寄って行く。
母親は何も言わず、ただぎゅっと彼女を抱き締めたかと思うと太李と巳令に勢いよく頭を下げた。困惑しながら二人が揃ってそれに下げ返すと母親は後ろの方に振り返り、そちらにも深々と頭を下げた。誰かいるのだろうかと巳令は不思議に思ったが確認する前に少女は嬉しそうに声をあげた。
「ばいばい!」
大きく振られる彼女の手にまぁいいかと太李は黙って振り返した。
ひと段落ついて、ほっと巳令が息を吐く。
「なんだか疲れちゃいましたね」
「そうだな」
太李が苦笑で返すと巳令は「もう帰りましょうか」と小さく問いかけた。それに太李が首を左右に振った。
「いや、まだ駄目だろ」
え、と間の抜けたような巳令の声を聞きながら彼は先へ進んで手招きした。
「アザラシ。見たかったんならせめてあれだけ見ていこうぜ」
どこまで優しいんだか。
その優しさが今は身に痛いと思いながらはい、と巳令はぎこちなく頷いた。
フラれるのかもしれないと心のどこかで巳令は不安だった。結論を聞きたくてもなかなか切り出せなくて、彼女の目にはいつも通りに映る太李が腹立たしいほどだった。
程なくしてアザラシの水槽の前に着く。丸々と太ったそれはくるくると丸い目で客たちの方を眺めている。
「……可愛い」
このときばかりは巳令も苛立ちを忘れて、そう、心の底から吐き出した。
時間帯がよかったのか周りには人はいない。楽しそうな巳令の横顔を見ながら「なぁ、鉢峰」
「はい?」
「結構前になっちゃったけど、その、あの話の答え」
巳令はやってきた結論に自分が思っている以上の恐怖を覚えた。
顔を引きつらせながら精一杯の笑みを浮かべて「べ、別に」と顔を逸らした。
「気を遣ってくれなくてもいいのに……。私のこと嫌いなら嫌いとそう言ってさっさとフッてくれた方がむしろ楽だし」
は、と驚愕交じりの太李の声が響く。
それからやがて頭を抱えた彼は「どうしてそうなる……」と弱々しく告げた。
いや、分かってる。自分が悪いのだと。
さっさと言ってしまえと誰かに背中を蹴り飛ばされたような気がして、彼は言葉を捻り出した。
「俺は、好きだからな。俺は鉢峰のこと好きだから」
言ってしまった。思わず太李はその場でへたり込んだ。
一方で巳令の方もてっきりフラれるとばかり思っていたせいで衝撃が大きく、そのまま固まってしまった。
一秒、二秒と硬直してからやがて太李と同じようにその場にしゃがみ込むと自分の頬を思いっきり抓った。いた、と確かに走った痛覚に感想を述べてからゆっくりと問う。
「ほんとに?」
「疑われるのは仕方ないけどほんとです……。その、鉢峰とそういう関係になれたらそれは凄い嬉しいなって思ってるし、割と手繋いだり、そのなんだ、年頃の男だからキスとか、それ以上のことがしたくないわけでもない」
かぁ、と巳令の頬が染まる。
素直すぎる。そう思いながらその手を握り、ふふっと笑う。
「嬉しいです、とっても」
答えとしては十分すぎるほどだった。
その手を握り返してから太李はゆっくりと振り返った。
「あ、あれ、灰尾くんこっち見てるよね……?」
「見てるな」
びくびくした梨花の言葉にマリアが素早く返す。
完全に目と目が合っている。こちらを補足している。数々の戦場を乗り越えてきたマリアにはよく分かる。
「あー……帰りましょうか」
ぱたん。南波が文庫本を閉じる音だけが嫌に四人の耳に残った。
嫌な予感がする。よもぎはかちゃっとサングラスを掛け直し、そっと背を向けた。
「どうせよもぎちゃんが主犯だろうけどそこの四人ちょっと待ったぁ!」
という太李の言葉が響くのはそれからすぐだった。
■
「幸せですわ」
「なんだ、急に」
「いえ、本当に幸せですの。この瞬間に立ち会えたことを誇りに思いますの。γ型が地に立つ瞬間をもうすぐみられると思うとわくわくしますわ」




