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第十九話「彼らの成長は誰かが思っている以上に早いようです」

 外はまだ薄暗い。

 太陽も上り切っていないような時間帯に鈴丸を叩き起こしたのは携帯電話から鳴り響く着信音だった。

 そもそも鈴丸が所持している携帯電話は一台だけではない。三台ほどあるうちの一つで、主にアシーナとの連絡用に使用している電話だった。

 更に言えば、そこから鳴り響いている着信音はそれぞれ個別に登録されている中で滅多に聞くことのないものだった。しかし、誰が発信者かは分かった。思わず辟易しつつ、ベッドから出ずにそれに応じた。

「……もしもし」

「よう坊主。俺だよ、ミハエルだ。日本はどうだい?」

 スピーカー越しに響いた流暢な日本語に鈴丸は眉を寄せた。重量のあるこの声を彼はよく知っていた。


 ミハエル・アウレッタ。そんな名前が鈴丸の脳裏をよぎる。


 鈴丸をはじめ、ベル、マリアが所属する傭兵部隊を取り仕切るアシーナと呼ばれる組織の長、それがこのミハエルだった。鈴丸にとっては個人的な恩人でもある。

 その世界では知らぬものはいないほど名の知れた傭兵だった。もっとも今は歳を取って傭兵としては引退しているが。

 そんな彼がなぜ自分に電話をよこすのだろう。疑問よりも叩き起こされた不満の方が鈴丸の中では勝っていた。

 体を起こしながら渋々彼はそれに答えた。

「どうって、別に。相変わらずつまんない国だよ。空気は淀んでる、人は多い、おまけにどいつもこいつもケチだ」

「そうかい。俺はこの国がなかなか好きだがね」

 変わってるよ、そう心の中で呟きながら鈴丸は「なんの用だよ、時差考えろクソジジイ」と頭を抱えた。

 どうせヨーロッパ辺りに居るんだろ、そう心の中で毒づきながらである。

「いや、何、ちょっと頼まれて欲しくてね」

「言ったろ俺個人じゃ受けないってば。ベル通してくれ」

「お使いだよ」

 断っても食い下がってくるミハエルに彼は聞こえるように舌打ちした。

「くどい」

「鈴丸」

「うっせーうっせー」

 ベッドに倒れ込みながら鈴丸がそう答えてやってもミハエルは涼しい声で「迎えの車を手配して欲しい」鈴丸は眉を寄せた。

「なに?」

「だから車だ」

「どこに」

「空港」

 どこの、と問うより早くミハエルが言い放った。

「日本の空港、明日の十時に」

「……どこの空港だって?」

 思わずまた聞き直すとミハエルはスピーカー越しに大きく溜め息を吐きながら、なんのこともなさげに告げる。

「日本だよ。ジャパン、お前の故郷で現在地。おーけー?」

 小馬鹿にしたような日本語に神経を逆なでされながら鈴丸はさらにそれに食って掛かった。

「なんで」

「この俺に歩けというのかお前は」

 不満げなミハエルの声に違うそうじゃないと鈴丸は首を左右に振った。

「なんで日本に来るんだよ」

「ベルが渡したい書類があるからと。郵送でいいと言われたんだが久々にお前たちの顔が見たくてな」

 あのベルガモットという傭兵はどうもこのミハエルという男が嫌いだということを鈴丸はよく分かっていた。

 それで自分なのかと彼は納得する。ベルに日本に行くから車を用意しろなどといったら面倒になるに決まっている。マリアもしかりである。そうなると必然的に面倒が少なくて済むのは鈴丸だ。

 やれやれと鈴丸が半ば呆れていると「坊主、今の仕事は楽しいか?」

 その問いかけに少しためらってから鈴丸は「さあ?」とわざとらしく答えた。

 ははっとミハエルが渇いた笑い声をあげる。

「とにかく明日、頼んだぞ」

 そう言って、鈴丸の答えなど聞かずに一方的にミハエルは会話を切り上げた。

 一人取り残されたような気分になりながら鈴丸は電話を放り出してベッドの上に倒れ込んだ。

 手配は明日の朝でも十分に間に合うだろう。とにかく今は眠りを貪り食いたい。ただそれだけだった。




 欲求のままに眠っていた鈴丸を起こしたのは自分の体を左右に揺れているという感覚だった。

 問答無用で布団を引っぺがしてくるマリアとは違って優しい起こし方だ。ベルにしてももっと揺さぶってくるのに。

 気持ち悪い優しさに目覚めたのだろうか。薄気味悪さすら感じながら鈴丸は強硬に毛布に潜り込んだ。

「あとちょっとだけ寝かせてくれ……頼むから……ちゃんと訓練までには起きるから……」

 ただですら夜中に叩き起こされて、余計な時間を取らされたせいで眠いのだ。そう心の中で文句を垂れながら毛布の中で丸くなった。

 冷房が効いているお陰で夏でも心地いい。目を閉じればそれだけで眠気を呼び戻すには十分すぎるほどだった。

 また意識を手放しかけているとそれでもなおしつこく体が揺さぶられる。それを無視しようと思ったものの布団の間からこぼれてきた声に彼の意識ははっきりと覚醒した。

「す、鈴丸さーん、起きてくださいー……あ、朝ご飯冷めちゃいますからぁ」

 困ったような愛らしい声。マリアの澄んだ声ともベルの女らしさ全開の声とも違う、よく知っている声だった。


 飛び跳ねるように鈴丸が起きると窓から差し込む光に照らされながら洋服の上からエプロンをつけた東天紅梨花が彼を見つめていた。


「梨花……おま、なん」

「あ、あの、ベルさんに早く来るようにお願いされて、ちょっとお手伝いを」

 両手を組み合わせながら気まずそうに視線を逸らす梨花に「お手伝いって……」と顔をしかめた。

 何時だろうかと備え付けの時計で見てみればまだ七時半を回ったばかりで、こんな時間から家を出ていいのかと彼は疑問に思わずには居られなかった。

 しかし、そんなことにも構わずに梨花はにこにこと笑っている。溜め息を吐いてその頭を撫でながら「分かった分かった、すぐ行くから」と鈴丸は彼女に笑いかけた。

 はい、と嬉しそうに頷いてから彼女は失礼しましたーとぱたぱた鈴丸の部屋を後にした。

 その後ろ姿を小動物のようだと思いつつ、気が重いながら彼はミハエルの車を手配すべく、携帯に手を伸ばした。


 結局、きっちりミハエルの車を手配してやってからさっさと着替えて鈴丸は個室をあとにする。


 泡夢財団からあてがわれた個室は決して狭くもなく、かといって広くもなかった。眠るくらいはできるので特に鈴丸は不満もない。

 その個室が並んだ廊下を抜けて、共用スペースまでやってくると「あら、おはよう」とトーストをかじりながらベルが鈴丸に微笑みかけてきた。彼はその目の前に腰を下ろしながら「なんでこんな朝っぱらから梨花を呼んだ」と不満げに言い放った。

「だって来てくれるっていうから。色々話があったのよあの子と」

 にこにこしながらパンを飲みこむベルにミハエルの話をしようかと思ってから鈴丸は取りやめた。少しくらい痛い目を見ればいい。そう思ったからである。

 目の前に重ねられたトーストを一枚手に取って、くわえながら鈴丸は卓上に転がっていた新聞紙を広げてふと考えた。

 ミハエルを梨花に会わせたくない。素直にそう思ってしまったのだ。

 色んな理由があるがとにかく面倒な気がしてならない。どうにかならないものかと悩んでいると「おはよーさん」と眠たげなマリアの声が響いた。

 まだ眠たそうに目をこすりながら彼女はベルの隣に腰を下ろした。その横にはふぅ、と息を吐く梨花の姿がある。それを目の端で捉えつつ、あくまで視線は新聞に落としたままで鈴丸は適当に挨拶を返した。

「うっす」

「おはよう。梨花さん、お疲れ様。ごめんね、手伝わせちゃって」

「い、いえいえ」

 ふるふると首を左右に振る彼女にうふふとベルが嬉しそうに微笑んだ。

 それにしてもベルが言う梨花に対する話とはなんなのだろうかと鈴丸は不思議に思った。そしてそれは自分に関係のあることなのか? 疑問だった。

 しかし、それ以前の問題がやはりミハエルだった。彼は恐らく空港からここにやってくるつもりだろうと鈴丸は踏んでいた。

 いつの間にかつけられたテレビは朝の情報番組を流している。今日の特集はクレープらしい。

 だったらいっそ、と鈴丸は新聞紙から目を離さずに「梨花ー」と彼女に手招きした。

 不思議そうにしながら彼女はちょこちょこと自分に近寄ってくる。そんな梨花に鈴丸は新聞紙で口元を隠しながら耳打ちした。

「悪いんだけど今日、俺に付き合ってくれ」

 いつぞやと同じ誘い方になった。鈴丸が気付いたのは言葉を放った後だった。

 案の定、梨花は少し黙り込んでからぽんと手を叩いた。

「マリアさんも一緒、です、よね?」

 ほんの少しだけ不満げな彼女に鈴丸は笑いそうになりながら「いや」と否定の言葉を入れた。

「残念、今日は俺と二人きり」

 何を言われているのか分からないのか梨花は頭上に疑問符を浮かべながら固まってしまった。頭の処理能力が言葉を理解するのについていけていないようだった。

 それから、やがて、梨花は何かを思い出したかのように「あ、あたし何かしましたか?」と震え声で問いかけてくる。

 会話が聞こえず不思議そうに首を傾げるマリアを一瞥してから「なんでそうなる」

「だ、だって訓練場に残されるってことじゃ」

 そういえばそんな脅し文句を前に使った気がする。

 自分を言ってきた言葉に後悔しながら彼はわしゃわしゃと梨花の頭を撫でた。

「察してくれよ、今日はマジでデートに誘ってんだぞ」

 純粋に、ただ驚きだけを浮かべた表情が鈴丸の目に飛び込んだ。

 畳み掛けるように彼が続けた。

「特に意味もなく二人で買い物行って、お茶しようって誘ってんの。今度こそクレープも奢ってやるから」

 またからかわれているに違いないと思いながら梨花は動揺で視線を泳がせた。

 いつもならこの辺りで否定が来るはずなのに今日はそれがない。本気なのだろうかと梨花はちらと思ってしまった。

 そんなはずはない。彼女の喉元までせり上がったのは理由もない自信に溢れた後ろ向きな言葉だった。自分なんかに彼が本気になってくれるわけもないじゃないか。

 どうせいつもの冗談だ。そこまで辿りつくまでの数十秒の思考が梨花にとってはたった一秒もかかっていないような気がしてならなかった。

「あ、あたしでよかったら」

 こう言えば、また彼はいつもの冗談めかした笑みを浮かべるのだろう。

 第一今日はいつもの訓練だってあるんだし。やっぱり冗談だと思っていると彼女にとっては存外な言葉が返ってきた。

「うっし、じゃあ決まり。ちょっと待ってろ、すぐ戻る。今日はサボりだ」

 新聞紙を畳んで、立ち上がる鈴丸に「うえ?」と間の抜けた声が梨花からこぼれた。

 ああ、やっぱり冗談だと思ってたんだなこいつ。そんなことを考えながら鈴丸は苦笑した。




 暴れまわる短い手足を抑え付けながら麗子が叫んだ。

「落ち着いてくださいまし! 絆創膏を貼るだけですわ!」

「いやだぁぁあああいたいのやだぁぁああ!」

 びえええんと泣き叫ぶウルフの頬にはすっかり塞がりかけているものの先日南波につけられた傷がまだ残っている。

 これくらいなら絆創膏など貼る必要はないとも麗子は思ったが傷口をそのままにしておくとウルフがかさぶたを剥がしてしまうことは分かっていたので菌の侵入を防ぐというよりはウルフがいじらないようにするための対策だった。

 動物の書かれたカラフルな絆創膏を救急箱にしまいながら「じゃあいいですわ」と麗子は冷たく言い放った。

「そんなこと言う子にはお菓子あげません」

「なんで! ばんそーこーとおかしは関係ないじゃん!」

 ばんばんと床を叩きながらウルフは頬を膨らませて、自分の不満を表現した。

 ここで甘やかしてはいけませんわ。麗子は自分に言い聞かせながら更に続けた。

「わたくしの言うことを聞きもしないうるさいだけのクソガキにお菓子をあげる意味がありませんわ」

「お、おかしくれないとあちし、れーこのこと嫌いになっちゃうよ!?」

 口から咄嗟に出たのであろう脅し文句に麗子は内心むっと顔をしかめた。

 しかし、表情にはあくまでも出さずににっこり笑ったままで、言い放った。

「どうぞ。そうしたらわたくしも思う存分あなたのことを嫌いになりますから」

 視線を逸らしながら麗子がそう言えばウルフはびくっと小さな体を震わせた。

 それから困ったように救急箱と麗子を見比べて、黙り込んでしまった。

 すっかり静かになったウルフに不安を覚えながらちらと麗子が振り返ると彼女は目に溜めたいっぱいの涙を拭いながらふぐ、えぐと小さな嗚咽をこぼしていた。反撃が利きすぎた、と麗子は焦った。

「れ、れーこにあちしを嫌いになるけんりとか……っ、ないんですけど……! き、きらいになっちゃいやなんだけど、ちょーうざいよ、れーこ……ちょーうざい……!」

 どうしようかと麗子は慌てた。

 このまま甘やかすのはいかがなものか。かといって泣かしたままでいるのも困る。自分の子供じゃないものの子育てって難しいと麗子は思った。

 ぼろぼろと涙をこぼしながら救急箱から絆創膏を取り出したウルフは硬直している麗子の元まで歩み寄ると握りしめられ、更には涙でぐちゃぐちゃになった絆創膏を突きつけながら「ちゃんと貼るからぁあああ!」と絶叫した。

「ちゃんと貼るからぁ、いい子にするからぁああ! おかしほしいじ、れいごとあぞびだいでずぅうう……!」

 大泣きするウルフに罪悪感すら覚えながら麗子はスーツのポケットからハンカチを取り出すとその目に当てた。

「わ、分かればよろしいですわ。わたくしも言いすぎました」

 ぐちゃぐちゃになった絆創膏を受け取りながらぽんぽんと涙を拭い、ぎゅうっとウルフの体を抱き締めてから「ほら、ちーんって」とハンカチを鼻の前に差し出した。

 ずるずると流れていた鼻水を取り去りながらウルフは「ごめんねぇわぶいごでごめんねぇ」と何度も謝っていた。

「いいえ、あなたは他にいないほどとってもいい子ですわ」

 絆創膏を頬に貼りながら麗子はにっこりを笑みを浮かべた。

 その言葉に、涙を流すのをやめたウルフはどこか誇らしげにするとえへへと小さく笑う。「とーぜんだね!」とすっかりいつもの調子で言い放った。




 額に滲む汗を拭いながら本部ビルまでやってきて、職員区画の入り口付近で見えたよもぎの後ろ姿に南波は今来た道を引き返してやりたくなった。

 それほど今の彼にとっては会いたくない人物でもある。苦手意識が生まれた、というわけではなかったが気まずいのは事実だった。

 思い返せば彼の知っている春風よもぎという人間は誰かに対して激昂するタイプでは決してない。むしろ、穏やかに他人に流されつつ流しつつ空気を読んでにこにこしているような後輩だった。

 それが、どうであろう。自業自得とはいえ、南波はよもぎに怒鳴られたことを少しだけ心に引っかけたままだった。

 何よりあのときの彼女の言葉がなんとなくよもぎから南波を遠ざけている。

 しかし、ここで本当に引き返すわけにもいかなかった。京の治療が続いているうちは、せめてこうしてここに通わねばならないし、よもぎと顔を合わせることだってしなければならない。

 諦めるように溜め息を吐いてから南波は少しだけ歩くスピードを速めてよもぎの隣に黙って並んだ。

 隣に立った人物が南波と分かるやよもぎは嬉しそうな笑みを浮かべた。

「おっはようございまっす、まっすみせんぱーい!」

 いつも通りの笑顔に、南波は返事をしなかった。

 その対応がやっぱり気に食わないのか歩き続ける南波の周りをぴょいぴょい跳ね回りながら「無視しないでくださいよーねー!」とよもぎは叫んだ。

 ええい、鬱陶しい。迷いなく南波の手刀が飛んで、「はう!」と情けない声をあげながら彼女はようやく動きを止めた。

「ひ、酷いです、なんでチョップするんすか自分で隣きといて! 鬼かあんたは! 誘いチョップとは卑怯なり!」

「自分に集る虫を払うのは当然だろう」

「虫! 春風は虫ですか益海先輩のばっきゃろー!」

 うわああと珍しく反撃の意味を込めてぽこぽこと自分を殴ってくるよもぎに南波はもう一発手刀を落とそうか迷っていた。

 それをしなかったのは「うひゃう!?」という先ほどとは種類の違う情けない声をよもぎがあげたからである。

 なんだと南波が顔をしかめている間によもぎは素早く彼の後ろに隠れてしまった。眉を寄せながら「一人で騒いでどうした」

「は、背後から、撫で、えええ?」

「は?」

 全く要領を得ないよもぎの説明に南波が首を傾げると先ほどまでいなかったはずの誰かがそこにいることに気付いて更に深く首を傾げた。

 この猛暑の中で紺色のスーツを涼しく着こなした四十代ほどの男だった。くすんだ風な金髪と深緑色の瞳から到底日本人ではなさそうだと南波は思わず身構えた。

 そんな彼に構わずに自分の手を見つめていた男はぼそりと呟いた。

「無理なダイエットは禁物ですよお嬢さん、女性は少しくらい肉がついていた方が魅力的だ」

 流暢に流れてきた日本語によもぎはがたがたと震えあがった。

 厄日か今日は、と南波がうんざりしていると腹部の辺りに違和感の感じて彼は顔を引きつらせた。

 いつの間にか、自分と間合いを詰めていた男がさすさすと南波の腹をさすっている。

「お兄さんは体質かな、太りにくいだろ」

「は、なん……!?」

 珍しく声に動揺を滲ませながら南波は硬直した。

 後ろで震えあがっている後輩も同じようなことをされたのか。いや、しかしならばなんで自分までと困惑していると男はすっと南波から手を離した。


 その手で、男はそのまま自分に向かって飛んできた拳を受け止めた。わずか数秒のことに南波もよもぎも呆気にとられていると彼は拳の持ち主を軽く受け流し、転倒させる。

「いってぇ!」

「相変わらず体術の荒っぽさは健在だな」

 けらけらと笑いながら男は拳の持ち主、マリアに手を伸ばした。

 ところがその手は立たせてやるのだろうという南波たちの予想に反して膨らんだマリアの胸部を包み込んだ。

「いや、相変わらず動きにくそうな肉がついて」

 刹那、マリアの振り上げた足が男の直撃した。

「マジ死ね!」

 後ろに倒れていく男を睨み付けながらそう吐き捨てたマリアは南波たちの方を見て「あーお前らもすでに被害者か」とがっくり肩を落とした。

 自分たちの目の前で何が起こっているのかが全く理解できず、疑問符を浮かべる二人の肩を「ごめんなさいね」という柔らかい言葉を共にマリアの後ろからやって来ていたベルが叩く。

 その目には明らかに面倒だと言いたげな色が浮かんでいる。彼女は茶封筒を抱えたまま、首を傾げた。

「ミハエル、なんでいるの。書類は送ると言ったはずよ」

 ベルの言葉に男――ミハエル・アウレッタは顔をしかめた。

「坊主から聞いてないのか?」

「何を?」

 意味が分からないとばかりにベルが眉をよせていると「あああ!」とマリアが立ち上がった。

「あ、あいつ……逃げやがったんだ……! 梨花連れて逃げたぞあいつ!」

 そこでようやくベルも理解したようで「ああ!」と入り口付近を睨み付けた。

「鈴丸……! あいつ! デートとか言って!」

「通りで朝からおかしいと思ったんだよ! ちくしょうあの金の亡者め!」

 ベルとマリアの口からぽんぽんとこぼれ落ちていく言葉を聞きながら二人は声を揃えた。「梨花先輩とデート?」「東天紅先輩とデート?」

 そんな中で「リカ?」とミハエルは首を傾げた。

「リカって例の、あのリカ?」

 緑色の瞳を見返しながらええ、とベルは返事した。

「よっぽどあなたに会わせたくなかったみたい」

「失礼だな」

 やれやれと肩をすくめる彼にベルは頭を抱えた。

 恐らく彼女がいなければミハエルは帰らないのに。

 これから鈴丸が帰ってくるまでミハエルの相手をしないといけないと思うとベルは憂鬱な気分になった。




 同じ頃、梨花は未だに自分の置かれた状況を理解できずにいた。


 冗談だといつ言われるのだろうかと身構えていたのに鈴丸が彼女を連れて来たのはショッピングモールだった。

 きょとんとする彼女に反論する隙すら与えずに、夏休みだからか家族連れやカップルで賑わうその中に飛び込んでしまった。これじゃ本当にデートだよね、とほんの少しだけ期待している自分が梨花は嫌だった。

 前に比べて梨花は自分のことを卑下しなくなったと思っていた。多少なりと自信も持てるようになった。こんな自分でも誰かの役に立てるのだと少し誇らしくもあったし、嬉しくもあった。

 偶然自分が適応者からだったとしてもその偶然のおかげで戦えていることに彼女は後悔したことはなかった。自分の大切な居場所を自分で守ることが梨花は何より嬉しかった。

 しかし、その半面で、彼女は未だに鈴丸や後輩たちがよく言う「可愛い」という褒め言葉を認め切れずにもいる。そう言ってくれるのは嬉しいのだが自分よりも巳令やよもぎの方がよほど可愛いのにと心から思ってしまうのだ。

 そもそも自分にどうしてここまで自信が持てないのかと梨花は聞かれるとどうしてなのかと迷ってしまう。物心ついたときにはもうこんな性格だったような気がして、そんな自分がいつも嫌いだった。変えたいと何度も思っても、なかなか踏ん切りがつかなかった。嫌いなはずなのに手放す勇気はなかったのである。


 そんなことを色々とぐるぐる頭の中で考えていた梨花だったが思考に沈んでいた意識を手から伝わる感触に引き戻された。


 驚いて自分の手の方を見ると鈴丸の手が梨花の右手を包み込んでいた。

 そのまま自分を引っ張っていく鈴丸に「あ、あの、すす、鈴丸さん!?」と彼女は上ずった声をあげた。

「ん?」

「な、なんで手」

「人混みに流されそうだから。あとデートっぽいだろ、こういうの」

 頬を桃色に染める梨花を見ながら楽しそうに笑った鈴丸は「なんだったら腕組む?」

「組みません!」

 ぶんぶんと首を左右に振って断る梨花にははっと彼は笑い声をあげた。

「ガード硬いなお前」

 むぅと顔をしかめながら彼女は自分の手に繋がれた鈴丸の手を見つめた。

 梨花の手よりも一回りも二回りも大きい手は彼の体格同様にがっしりとして男らしいと呼ぶのが相応しい。

 最初はこの手を含めて、実は梨花は鈴丸のことが怖くて仕方なかった。そもそも自分より何歳も年上の男性というものに教師と父親という存在以外にほとんど面識のない彼女は初日にあっさりと倒されたこともあって心のどこかで鈴丸を怖がっていた。

 ところが今ではどうだろうか。彼の隣にいるときに、梨花は怖がるどころか安堵すらするようになっていた。いいこと、なのかなぁと内心首を傾げている。

「もしかして結構嫌々付き合ってたりする?」

 鈴丸の問いかけに梨花は慌ててかぶり振った。

 嘘は吐いてないだろうと判断しつつ「んじゃ、あれ食うか」とどこかを指差した。

 示された先にはクレープ屋の看板が提げられている。

「あ、あの、えと」

「俺の奢り。別のがいいか?」

「そういうわけじゃ」

 クレープは食べたい。が、奢らせてしまうということに梨花はどこか気後れしていた。

 そんな彼女に鈴丸は困ったように言う。

「これくらい奢らせろよ。せっかく付き合ってくれたんだから礼くらい受け取っとけって。好きなの選んでいいから」

 な、と言われて梨花は小さく頷いた。これ以上拒むのはかえって失礼になるのではないだろうかと思ったからだ。

 じゃあ、とメニューを指差しながら梨花は言う。

「い、苺の食べたいです」

「ん。どっか適当に座って待ってろ。すぐ行くから」

 手を離し、ぽんぽんと梨花の頭を撫でてから鈴丸は注文口の方へと歩いて行ってしまった。

 一人取り残された梨花は辺りを見渡してから適当なベンチに腰かけて、ふぅと息を吐く。

 誰かとこうやって二人だけで出かけるのなどいつぶりだろうと梨花は思う。昔は父親とよく出かけていたがそれもしなくなった。反抗期というわけではなくもっと複雑な理由でだった。

 家からすら逃げるようになった。自分がそこにいることが間違っているように思えて仕方なくなってしまったのだ。

 なんだか考え込んでいたら悲しくなってきて、梨花は顔を俯かせた。

「梨花?」

 言葉の通り、クレープ片手にすぐに戻ってきた鈴丸にあ、と梨花は声をこぼした。

「おかえりなさい……」

「おう。どうした?」

「あの、お、お腹空いちゃって」

 えへへと誤魔化すために笑う梨花に鈴丸は視線を向けながらやがて、「そうか」とだけ返してクレープを差し出した。

 薄黄色の優しい色の皮に大きめの苺と真っ白な生クリームが包まれていて、その上からたっぷりのチョコソースがかけられている。

 わぁっと嬉しそうに目を輝かせながら「い、いただきます」と梨花は小さな口でそれに噛り付いた。

 口の中に広がる甘味に彼女は幸せそうに笑みを浮かべた。

「おいしい……」

 なるほどベルが梨花に菓子を食べさせたがる理由がよく分かる、と鈴丸は思った。

 また一口、ぱくんと口の中にクレープをいれていた彼女は鈴丸を見てにっこりと微笑んだ。

「とっても美味しいです」

「そうか」

 梨花の隣に腰かけながら鈴丸は自分の口元がほころぶのを確かに感じていた。

 今頃、ミハエルが泡夢財団に到着している頃だろう。写真でも撮ってベルに送り付けたやろうかとも鈴丸は思ったが帰ったときにぶつけられる怒りが増えるだけだと判断して結局断念した。

「ずっと美味しいものだけ食べるお仕事があればいいのに……」

 ぼそっと梨花が呟いた言葉に鈴丸は口元を押さえながら堪えきれなかった笑みを吹き出した。

 それに自分の思っていたことが言葉になってしまっていたことに気付いた梨花が恥ずかしそうに頬を染めた。

「あ、あたしったら凄い変なこと……!」

「いや、いいんじゃないか。あるだろそういう仕事も」

 くすくす笑いながらそう返してくる鈴丸に梨花は苦笑するだけだった。それからふと、急に気になって「そういえば」と彼は梨花の方を見た。

「お前……進路どうするんだ」

 梨花は現在高校三年生、場合によっては受験生というものに当てはまる年齢だった。

 彼女の口から聞こえなかったから特別そんな意識を持っていなかったか本当はこの時期、死に物狂いで勉強するはずではないのか。

 そんな鈴丸の問いに梨花ははっとしたように顔を上げると少し考え込んでから「就職、しようかなって」

 意外だと鈴丸は思った。てっきり大学に行くのかとばかり思っていたのだ。

「進学じゃないのか」

「その、早く、家から出たくて」

 視線を逸らしがちにそう言った彼女に言葉に鈴丸は言葉を飲みこんだ。

 それから別の言葉を吐く。

「どっか働きたいとことかは?」

「そ、それが」

 大きく息を吸い込んでから「お誘いを貰ってて」

「仕事の?」

「はい」

 こくんと頷いて梨花は、

「あたし、その、誰かの役に立ちたくて、それができるなら頑張ろうかなって思ってて」

「甘すぎ」

 梨花の額につんと自分の指を当ててから鈴丸は返した。

「もっと自分のために生きろよ。お前は人に尽くしすぎ」

 無理に進学させたいというわけでもなかった。

 ただなんとなく、人のためにと生き続ける梨花が窮屈そうに見えて仕方なかった。それだけだった。

 しかし、梨花から次に飛び出した言葉は悲観でも、肯定でもなく否定だった。

「ち、違うんです! その、なんていうか、自分のためでもあって」

 なんといったらいいのだろうと言葉をまとめながら梨花は更に続けた。

「そ、そのお仕事ができたら、鈴丸さんとかマリアさんみたいになれないかなって」

 恥ずかしそうに顔を伏せる梨花に鈴丸は頭を抱えた。

「……自分のために生きろって言ったけどマリアはともかく俺レベルになれなんて一言も言ってない」

「でも二人みたいに優しくなれたらなって」

「俺はそんなに優しい人間じゃない」

 ただ金が欲しいだけだ。

 今回のことだって単にミハエルから逃げたかっただけで、自分に得があるから。そう思ってから不意に「ならばどうして梨花を連れて来たのだろう」と。そんな疑問に至ってしまった。

 会わせたくなかった。ならばなぜ会わせたくなかったのか、言い訳をつけようと思えばいくらでもつけられたはずだったのに鈴丸は一向にその言い訳を結論とはしなかった。

 自分が薄々恐れていたことが今目の前の少女によって引き起こされようとしているのではないだろうかと底知れぬ恐怖のようなものを鈴丸は感じた。

 それを誤魔化すように「お前の方がよほど強いのに」と吐き捨てた。

「そんな」

「んで、俺のことはもういいとしてさ。お前、どんな仕事のお誘い受けてるわけ?」

 これ以上議論を展開するのは彼にとっては苦痛でしかなかった。

 自分に取り付く何かを振り払うためだけにそう言えば「それは、その」と梨花は視線を逸らした。


 もうじき、梨花の口からこぼれる組織名に、自分が絶句するとは鈴丸はまだ知る由もないのである。




 太李は事態の意味不明さに言葉を失った。

 やってこいと言われたからやって来た休憩所で見ず知らずの男、ミハエルと身を寄せ合いながら対峙する二人、吠えるマリアにもうどうでもいいとばかりに机に突っ伏すベルの姿があった。太李が来たと分かるや南波とよもぎは彼の後ろに素早く隠れた。

 一緒に入って来た巳令も意味が分からなかったようで首を傾げながら「何がどうして」と顔をしかめている。

 太李が振る返るやよもぎが悲鳴に近い声をあげた。

「セクハラです! セクハライケメン親父です! めっちゃ怖い! 春風おうちに帰りたい!」

「灰尾……あいつ見境ないぞ……」

 がたがたと震えたままそんなことを言っている二人に太李と巳令は顔を見合わせ、首を傾げた。

 傭兵、ということはベルたちの関係者だろうかと色々考え込んでいると臀部に軽く何か触れるような感じがして「ひっ」と情けない声をあげた。

 恐る恐る振り返るといつの間に自分たちの方に来ていたのかミハエルがなんのこともなさげにふむ、と腕を組んでいる。

「いい反応だ」

「なに!? え!? 俺今何された!?」

「だから言っただろうこいつ見境がないって!」

 珍しく声を荒げながら南波が叫ぶ。

 未だに何が起こっているのか理解しきれていないのか巳令は頭上で疑問符を浮かべている。そんな彼女の胸部を見てから「不憫なヤマトナデシコ……!」とだけミハエルは呟いた。

 その言葉の意味を瞬時に理解したらしい巳令が腕輪を構えた。

「斬り捨てます」

「うわ、ちょ、鉢峰ストップ!」

 その手を慌てて掴み上げながら太李は必死に彼女を止める。

 結局制止させられた巳令は「灰尾がそこまで言うならいいですけど」とぶつぶつ文句を垂れて引き下がった。それを見ながら「愛か」とミハエルが呟いた。

「あ、あ……!?」

 ぱくぱくと口を開け閉めしながら硬直していた太李だったがなんとかそれを押し殺して「つーかあんた誰なんですか!」ともっともな問いかけを投げつけた。それにそうだそうだとよもぎが頷いた。

「そうなんすよ! マジそれっすよ!」

「というかマリアさん、あんたの知り合いなんだろ?」

 碧眼を鋭く細めながらミハエルを睨み付けていたマリアに南波が問うと「あたしはこいつを知り合いとすら思いたくない」と吐き捨てた。

「冷たいな」

「うるせぇ頭ぶち抜かれたくなかったら寄んな」

 ぐるるとミハエルを睨み付け、マリアはけっと視線を逸らした。

 そのやり取りを聞いていたベルはゆっくり顔を上げてから一言だけ「私たちのクソ上司」ときっぱり告げた。

「クソはいらないだろ、ベルガモット」

「うっさいわねーあなたに会いたくなかったから書類は揃えるって言ったのにぃ」

 だんだんと机を叩きながら不満げに顔を歪めるベルは「あー私就職先ほんと間違えたかも……」と後悔交じりの言葉を吐いてまた机に突っ伏した。

「じゃ、じゃあ傭兵ってことっすか、その人も」

「今は引退済みですよお嬢さん」

「分かったからちょっと距離離してもらっていっすか」

 実にいい笑顔での返答を受け取りながらよもぎはずずっと後ずさった。

 そんなことを意に介さずに巳令は自分の胸を押さえながら淡々と言葉を紡いでいた。

「不憫じゃないし……全然不憫じゃないし……着物着ること考えたらこれが普通だし……ていうかこれから育つし……! 日本人ってこれくらいだし、小さくて十分だし、あんなのいらないし」

 ぶつぶつと怨念のように言い続ける彼女に「鉢峰……」と太李はなんと声をかけたらいいのか迷っていた。

 少し考えてからがっとその肩を掴むと「なぁ、鉢峰よ」

「はい?」

「俺は、その、なんだ、胸の大きさなんて関係ないと思います!」

 何言ってんだ俺は! と太李が心の中で叫んだのは言い切ったあとのことであった。

 巳令はその言葉で顔を上げ、「灰尾……!」と嬉しそうに彼を見上げていたが一瞬にして微笑みをもみ消すとなぜかそのままぱーんっと彼の頬を張った。

 突然の出来事に顔を押さえながら太李が混乱していると涙目の巳令が彼の襟首を掴み上げ怒鳴る。

「シンデレラになったら自分はボインボインだからってぇ! 同情なんてしないでください!」

「いや別にそういうわけじゃ……というかお前まだ言うかそれ!」

「揉めるほどの胸がなくってごめんなさいねぇ!」

 うわーんと声をあげながら巳令はひたすらに太李に世の中の不条理さに対する怒りをぶつけた。

 鉢峰でいてくれれば俺からすれば関係ないと伝えたかったはずなのにどうしてこうなったと太李は自分の度胸のなさを恨めしく思う。

「これがいわゆる夫婦喧嘩って奴ですかね」

 スマートフォンで二人が言い合っている様子を撮影しながらよもぎはしみじみと呟いた。つーか一体この人たちはいつになったら付き合うんだろうなーと考えながらである。

「そんな写真撮ってどうする?」

「梨花先輩に送ります」

 メールに添付しながらいえーいとピースを作るよもぎに南波は興味なさげに視線を逸らした。

 そんな彼らの様子を見ながらそそくさとベルの隣に腰を下ろしていたミハエルが首を傾げる。

「随分愉快な職場じゃないか、ベルガモット」

「……楽しすぎて時々自分の目標を忘れそうになるわ」

 ぐしゃりと髪をかき上げながらベルは弱々しく微笑んだ。

「それにしても本当になんで来たの? 冗談抜きで本人がご登場なんて珍しいわね」

「別に。坊主が他人に入れ込むとろくでもないことばっかり起こるからヤジウマしに来た」

 にやにやと笑いながらそう告げるミハエルに「だから鈴丸に嫌われるのよ」とベルはぽつんと告げた。

「おいおい、あいつを育ててやったのは俺だぞ?」

 物心がついてまだ間もない頃、蒲生鈴丸は両親を失った。

 死別というわけではない。彼を疎ましく思った両親が彼を手放した。それだけのことだった。

 そんな鈴丸を拾い上げたのが当時彼のいた施設にたまたま立ち寄っただけのミハエルだ。ただの気まぐれで、あの手この手を使って自分の手元に連れて来た鈴丸をミハエルは勿論、当時彼の周りに居た傭兵たちも可愛がっていた。

 あらゆる分野において専門的な知識を持つそれぞれに色んなことを教わった彼は気が付けばミハエルでさえついていけないほど器用になっていた。鈴丸が傭兵になったのもある種自然な流れだった。

 それが彼にとって本当に幸せなことなのか、未だにミハエルには分からない。

「反抗期だと思えば可愛いもんさ」

「そうかしら」

 ベルは顔をしかめながら口を動かしていたのの次の言葉はサイレンの音で掻き消されてミハエルに届くことはなかった。




 モニターを眺めながら九条柚樹葉は退屈そうに頬杖をついた。

「話には聞いていたけれど本当に面倒くさいね」

 その視線の先には食い入るように柚樹葉と同じ画面を見つめているミハエルがいる。

 柚樹葉の頭の上に乗ったスペーメが「やっぱりさすがベルガモットの上なのです頭おかしいのです」

 はぁーとベルが息を吐く。

「やめてちょうだい、その言い方。うちの上層部みんながみんなあんなんじゃないのよ」

「ただ一人のせいで全てがそう見えるなんてことは世間じゃよくある話だよ」

 んーと大きく腕を伸ばした柚樹葉は「今日はα型だね」と小さく笑った。

「相変わらず意地悪な言い方する子ねぇ」

 自分の頭に伸びて、そのままなでなでと優しく撫でつけてくるベルの白い手を柚樹葉はぺちんと振り払った。

「撫でないでよ」

 不満げな柚樹葉の声に、はいはい、とベルは渋々両手を背中に回した。

「しかし、実際見てみるとこりゃまた凄い光景だこと。あんたをうちに引き抜きたいくらいだ」

 ミハエルの言葉に柚樹葉は薄い笑みを浮かべた。

「生憎、泡夢財団の支援で今のところは不便していないからね。ヘッドハンティングはお断りだよ」

「そりゃ残念だ」

 画面の向こう側では熊の形をしたディスペアがグルルと鳴いている。

 その視線の先に居るのは、親指に変身していた梨花だった。斧を握りしめて、相手を睨み付ける彼女を見つめながら「どうする、リカ」と彼は小さく微笑んだ。




 そうとも知らず、梨花は自分の後ろに居た太李に目配せした。


 ぱくぱくと口が動く。それを辛うじて理解した太李が顔を引きつらせながら小さく頷いた。

 背後で火薬の匂いが立ち込めて「人魚! お前病み上がりなんだからあんま暴れんなって!」という鈴丸の怒鳴り声が響く。それを聞き入れる気は一切なさそうに三叉槍がカラスを切り裂く。

 早く終わらせよう、梨花がそう決めると同時に地面を蹴り込んでディスペアが爪を振り上げたまま彼女目がけて飛びかかってくる。

 その両手を避けようともせず、掴み取る。ガウ、とディスペアが驚いたような声をあげる。

 お互い一歩も引かずに取っ組み合いの体勢になる。顔を歪めながらも彼女はある限りの力を両手に込めると踏ん張りながら両手ごとディスペアの体を徐々に振り回し始めた。

「んにゃああ!」

 ある程度のスピードを持って振りまわれていた体がそのまま梨花の手から離れて飛んでいく。

 それに合わせて太李がマントを振り払う。

「最も哀れな役に幸せなエピローグを!」

 途端に現れたレイピアが空中で一斉にディスペアに突き刺さる。

 地面を蹴り上げ、同じ高さまで上昇した彼が叫ぶ。

「リベラトーリオ・ストッカーレ!」

 突き出された刃がディスペアを貫いた。

 うおっと、とバランスを崩しながら着地した太李の頭上にはすでにディスペアの姿はない。

 暗くなっていた空が徐々に明るくなって行く。変身を解きながらがっくりと太李は肩を落とした。

「やることがめちゃくちゃですよ梨花先輩……」

「ご、ごめんね?」

 ぱっと変身を解いてから梨花は小さく笑った。

 全く、と太李が半ば呆れているとようやく変身を解いた巳令がじーっと彼を見つめていた。

「な、なんすか鉢峰サン」

「…………」

「やめて! そんな怖い目で俺を見るな!」

 何も言わず、ただただ太李を見るだけの彼女に「巳令さん?」と不思議そうに梨花が首を傾げた。

「さ、て、と」

 拳銃を素早く片付けて、マリアは後ろへ振り返った。

「てっめぇえ鈴、梨花を言い訳にしてミハエルのオッサンから逃げやがってぇえ!」

 やっべと顔を引きつらせた鈴丸が逃げ出したのはすぐだった。

 どの道帰る気でいたといえど、マリアに怒鳴られながら帰るのは絶対に嫌だ。そんな妙な意地が彼の中にあったからだ。




 泡夢財団に戻ってくるやいなや、鈴丸を出迎えたのは彼の育ての親だった。

「よう坊主。何年振りだ」

「どういうことか説明して貰おうかクソジジイ」

 一気にミハエルと距離を詰めた鈴丸は淡々と問いかける。

「何をどうボケちまったら梨花をアシーナに入れようって発想になる?」

 え、と梨花とアシーナのメンバー以外の全員が彼女に振り返る。ミハエルの方はそんな鈴丸の横をすり抜けて梨花の前までやってくると「どうも、リカ・トウテンコウ」と片手をあげた。

「ミハエル・アウレッタだ。会えて嬉しいよ、いつもうちの坊主やマリアが世話になってる」

「い、いえ、こちらこそ迷惑かけっぱなしで」

 背筋を伸ばしながら恐縮しきった様子の梨花にふっとミハエルは笑った。

「それで、先日の話の続きだ。俺はなかなか君に興味があってね」

 腕を組みながらミハエルは「支部から報告を受けた。彼らを雇ったと」あのお喋り共め、と鈴丸は内心吐き捨てた。

 太李が捕まった際のことだ。泡夢からクビを言い渡された鈴丸たちに協力を仰ぐため、梨花は自分の金であの三人を雇ったのだ。

 それがミハエルには愉快で仕方のないことだった。

「他に手段がなかったからとはいえ、あの荒っぽい連中を雇ってやろうという君の度胸を俺は買いたい」

 こんなことなら、雇われない方がよかったのか。一瞬、鈴丸はそう思ったが、しかし、すぐにその思考を振り払った。ミハエルのことだ。梨花が親指姫を続ける限りは遅かれ早かれ、勧誘に来ていたことだろう。

 そこまでの人材だと判断されてもなんら不思議はない。鈴丸にはそう思えた。

「我々の仕事は命を売る仕事だ。嫌なら断ってくれて構わない。二度と勧誘もしない」

 そう言って微笑むミハエルに梨花は顔を伏せながら小さく告げた。


「あたしなんかで、よかったら」


 小声ながら梨花にしてはよく通った声だとマリアは思った。

 ミハエルからの梨花への勧誘の話をマリアは知っていた。無論本人が日本にまでやってくるとは思っていなかったが。

 彼女は決めるのは梨花だからと一言も口を出さなかった。ベルもこの仕事がどういうものなのかと説明しただけだった。鈴丸には自分で言うから黙っていて欲しい。そんな梨花の要望も勿論あっさりと受け入れた。

 その上で出た結論ならばもう自分に言えることも止めることもないとマリアは目を閉じた。こんな大事なことを勢いで決めるほど馬鹿な奴じゃない。それを分かっていたからだ。

 分かっていながら、納得しきれていないのが鈴丸だった。

「いいのかほんとに」

「は、はい」

「分かってんのか、命売る仕事なんだぞ。嫌だからって逃げられないんだぞ」

「それが」

 まっすぐ鈴丸を捉える梨花の目は恐ろしいほどに澄んでいる。

「それが、あたしのためですから」

 重たく言い放たれた梨花の言葉に鈴丸は舌打ちした。それから、「条件がある」とミハエルに向き直った。

「ほう」

「汚れ仕事は絶対にさせない。それと、フェエーリコ・クインテットとしての役割が終わるまでは日本から出さない」

 それから、と鈴丸は笑った。

「所属はうちのチームだ。体術から何まで基礎を叩き込んだのは俺だ、今後も俺が面倒見る。文句ねぇな?」

「リカはそれでもいいのか?」

 ミハエルの言葉に梨花は「あたしは、むしろ嬉しいというか」と困ったように頷いた。

「ベル、マリア、いいな?」

「……まーいいんじゃねぇの? 歓迎はしてやるけど」

 けらけら笑うマリアにベルは小さく溜め息を吐いてから「勝手になさい」と肩をすくめた。

「じゃあその結論で上に持って行ってみる」

 ミハエルの言葉に「ああ、それと契約金は高くつけろよ。梨花はそんなに安い女じゃない」と笑う。

「……変わったなぁ坊主」

「余計な世話だ」

 ふんと視線を逸らす鈴丸を見上げていた梨花に「どういうことですか!」と巳令が説明を求めていた。


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