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第十八話「図書委員には案の定、事情があったようです」

 耳に届く蝉の声が徐々に遠くなっていくのを感じながらよもぎはひたすらに真っ白な廊下を突き進んでいった。

 腹いっぱいに鳴き続ける彼らの声をよもぎは不快だと思ったことがなかった。むしろ羨ましいと思ってしまうほどだ。

 手元にあるメモと部屋の前にかけられているナンバープレートを見比べながらやがてそれが一致する部屋を見つけて彼女は足を止めた。

 クーラーの風に吹かれ、首筋に通っていた汗が彼女の体温を奪っていく。夏独特の涼しさに心地よさすら感じながらよもぎは恐る恐るその扉を叩いた。

「どうぞ」

 返事はすぐさま飛んできた。

 大きく息を吸い込んだよもぎは失礼します、と形式的に告げると扉を開けた。


 瞬間、頭を下げる。


「お久しぶりです、京さん」

 そう再会の挨拶を述べ、ゆっくり頭をあげたよもぎの視線の先にはベッドに横たわったまま南波の幼馴染たる京が驚いた表情で彼女を見ていた。

「おま……春風か?」

「はい。春風です」

「……随分、また派手に」

 南波や和奈と同じ反応によもぎは苦笑するほかなかった。

 自分はそんなに変わってしまっただろうか? いや、変わっているとしたらそれは髪の色や服の趣味が変わっただけで『春風よもぎ』という人間そのものは変えられてはいないのだろうと思う。

 そう思うと先日のベルの話が彼女の心にどこか重く圧し掛かっていた。自分は変わろうとはしたもののベルのように元の自分を殺すほどの覚悟はない。

 自分の変化はとても中途半端で甘ったれたものではないのだろうかと彼女は疑わずにはいられなかった。

 そんな思いを振り払おうとやって来たのがここだった。

 手に持っていた見舞い用のカゴを机の上に置いてから椅子に腰かけ、改めてよもぎは頭を下げた。

「すいません、何度か来ようとは思ってたんですけどなかなかタイミングがなくって」

「いや、全然」

 ふるふると頭を左右に振る彼によもぎは安堵して微笑んだ。

 何を話そうと思ってきたわけでも、どうしようと思ったわけでもなかった。ただ単純に、なんとなく京の顔を見に来ただけだった。

「今、春風、神都にいるんだって?」

 京の問いかけによもぎはゆっくりと頷いた。

「はい。益海先輩が言ってました?」

「いや、和奈の方。南波は学校の話全然しないから」

 あの人らしいな、とよもぎは苦笑した。

 そんなよもぎを見ながら京は小さく尋ねた。

「南波、学校ではどう?」

 純粋に、南波を心配する気持ちから飛び出す問いなのだろうとよもぎは思った。

 余計なことを言うのはいかがだろうかと、彼女はにぱっと笑みを浮かべた。

「もー相変わらずぶすーっとしてますよ! それになんかやたらぼーりょくてきだし。最近なにかっつーとすーぐ春風にチョップするんですよ!」

 ぶーっと唇を尖らせるよもぎに京は笑みを浮かべた。

 安心したような、どこか優しい笑みに彼女はほっと息をついた。

「あいつはどうも、昔から不器用が過ぎる」

 くすくすと笑いながら告げる京によもぎは何も言わず、微笑むだけだった。

「頑張りすぎというか、無謀というか」

「……そうですね」

 涼しい顔をして、いつも苦しい場所に居る。なんとなく、京の言葉の意味を理解できるようになってしまった。

 よもぎが顔を俯かせていると勢いよく病室の扉が開いた。

「京くーん!」

 明るい笑顔を携えながら中に入ってきたのは和奈だった。

 彼女はよもぎに気付くなり「あれ、よもぎちゃん?」と首を傾げた。

「どうもっす! 宗本先輩!」

「どうしたの?」

「嫌ですねー、ただのお見舞いっすよ」

 と後ろの方を伺ってから彼女は本当に無意識に尋ねていた。

「益海先輩は?」

「あー、今日は来られないって。多分用事があったんだと思うな」

「そっすか」

 まぁ、ぐちぐち言われるよりいいけど。よもぎは改めて京に向き直ってから頭を下げる。

「じゃあ、自分はここで」

「なんだ、もう帰るのか」

「色々用事があるもんで。宗本先輩も、また」

「うん、ばいばい」

 無邪気に手を振る和奈に笑顔で振り返してからよもぎは病室を出た。

 後ろからは扉越しで明るい和奈の笑い声が聞こえてくる。その声を聞き流しながら彼女はロビーの方へと足を伸ばした。

 かつかつと足音が鼓膜を揺らす中で医師に囲まれたスーツ姿の男が見える。特に意味もなくそちらに視線を投げかけると男の持っているスーツケースに描かれたロゴによもぎは顔をしかめた。


 自分が今まさにその本部へと行こうとしている場所のロゴにそっくりだったからである。




 訓練場で横たわりながら南波は自分の右の掌をじっと眺めていた。

 時折、開いたり閉じたりを繰り返しながら体を支配する気だるさに目を閉じる。

 今日はどうも調子が悪い。和奈から京の病室に行こうとかかってきた電話に断りを入れ、やることもないと召集時間より早くここに来たまではよかったが、結局それでもやることが見つからずにこうして冷たい床に横たえているだけだった。

 こんなことなら本でも持ってくるんだったと彼がわずかに後悔してると「益海くん?」と頭上から小さな声が南波に投げ掛けられた。

 閉じていた目を開き、ぐるりと振り返ると梨花がぺたんと彼の横に座り込んでいた。

「……東天紅先輩か」

「ど、どうしたの? 早いね」

「そんなこと言うとあんただって早いじゃないか」

 上半身を起こしながらそう言えば梨花は「あたしは、いつも、この時間だよ?」と小さく首を傾けた。

「いつも?」

「うん。なんとなく、落ち着かなくって」

 ふーんとさして興味なさげに南波が返事した。

 そこで会話は途切れる。微妙な居心地の悪さを感じて梨花がまた口を開いた。

「きょ、今日はいい天気だねー」

「話題がないなら無理しなくてもいいんだぞ、東天紅先輩」

 きっぱり言い放たれて、梨花はしゅんと肩を落とした。

 南波としては気を遣っているつもりなのだろうがそう言われるとなんだか自分が余計なことをしたようで梨花は気が重くなった。それに彼は深々と溜め息を吐く。

「そんな顔するな」

「ご、ごめんなさい!」

 慌てて梨花は自分の頬を引っ張って笑顔を作ってみせた。

 そうじゃないんだが、と南波は思ったものの口には出さなかった。代わりのように「あんたは凄いな」

 不思議そうに彼女が首を傾げた。

「凄いって?」

「別に」

 頭の上にいっぱいの疑問符を浮かべる梨花に南波はかすかに笑いかけた。

 南波に褒められたのが意外で梨花は難しそうに顔をしかめてからやがて、ぽんと両手を打った。

「益海くん、どこか悪いの?」

「なんでだ」

 眉を寄せる南波に「な、なんとなく」と梨花は視線を逸らした。そんな彼女に南波はぽつんと告げた。

「いつぞやに、あんたに言ったことあったよな。どうしてこんなことしてるんだって」

 彼の言葉に梨花の脳裏にはほんの数か月前、まだよもぎが加わる前に図書室で南波と交わした言葉が蘇る。

 梨花が小さく頷くと南波は掻き消えそうな声で告げた。

「俺は、どうしてこんなことしてるのか正直よく分かってない」

 南波の言葉にゆっくり梨花が視線を戻した。

 悩ましそうに髪を掻き毟る後輩に何か声をかけよう。そう梨花が口を開きかけると訓練場の扉が大きな音を立てて開いた。

「おー、はえーなお前ら。まだ召集時間まで三十分くらいあるぞ」

 中に入ってきたのはマリアだった。

 南波に声をかけるのはひとまず保留して梨花がぺこりと頭を下げた。

「こんにちは、マリアさん」

「おう。って、あ?」

 梨花の後ろにいる南波に気付いたマリアは面白そうに彼を覗き込んだ。

「なんだよ、梨花はともかく益海がはえーの珍しいな」

「悪いか?」

「んな怖い顔すんなよ」

 ひらひら手を振るマリアに「これは生まれつきだ」と南波は肩を落とした。

 その場に腰を下ろしながら南波と向き合ったマリアは不思議そうに首を傾げるだけだった。




 炎天下、灰尾太李は顔を伝っていく汗への不快感を押し殺しながら太陽の光を浴びて熱を持ったコンクリートを蹴り飛ばしていた。

 紅葉の奴、と彼は心の中で自分の妹に吐き捨てた。少しだけと言っておきながら結局一時間近く彼女の宿題に付き合うことになってしまった。

 兄として自分を頼ってくれるのは嬉しいことではあるのだが勉強くらいは友人に教えて貰って欲しいと思わずにはいられない。

 どうにかならないものかと思いながら彼は自分の携帯電話を見て顔をしかめた。遅刻ギリギリだった。

 泡夢財団の本部ビルに飛び込んでから一目散にエレベーターの方へと向かった太李はズボンのポケットを探った。自分のIDカードを見つけるためだった。


 ところがどこを探しても手にはそれらしい感覚が引っかからない。どこにしまっただろうかと一人で慌てていると「これ」と自分の真横に目的のIDが突き出された。

「あ、ありがとうござ」

 とそこまで言いかけてからそれを差し出しているのがにっこり笑っている巳令だったことに気付いてびくっと姿勢を正した。

「お、おう、鉢峰」

 自分の顔が引きつっているのが太李にはよく分かった。巳令の方は相変わらず笑みを携えたままで「探し物は違いましたか?」と首を傾げている。慌てて彼は首を横に振った。

「いや、合ってる合ってる! さんきゅーな!」

「ならよかった」

 彼女の真っ白な手からそれを受け取った彼はタイミングよく開いたエレベーターに誤魔化すように乗り込んだ。そのあとに巳令も続く。

 それ以外には誰もいない。狭い空間で二人きり。そんな状況を彼は恨めしいとすら思った。

 エレベーターの扉が閉まり、ゆっくりと箱型のそれが上って行く。開発区画に繋がっている五階まで向かう一分足らずの間ですら恨めしい。

 巳令はそんなこと気にした様子もなく、ヘッドフォンから流れてくる音楽に合わせて体を小さく揺らしている。

 一方的に気まずい沈黙が流れる。話さなければいけないことはあるはずなのに太李の口からそれがこぼれ落ちることは決してなかった。

 りん、と軽やかな音と共にエレベーターの扉が開く。巳令が先に外に出て、そのあとを太李が追った。

 忙しなく通り過ぎていく職員たちとすれ違いながら彼はどうせ聞こえていないだろうと思いながらぼそりと言葉を放った。

「今日は何聞いてるんだ?」

 聞こえなくても構わない。そんな気持ちで放たれた彼の問いに巳令はヘッドフォンを外しながら小さく答えた。

「クラシックです。ショパン」

 予想外にも返ってきた言葉と音楽の授業で数回聞いた程度の作曲家の名前とで困惑しながら「へぇ」としか太李は返せなかった。

 会話が途切れる。何かと思ってからそういえば巳令が遅刻だなんて珍しいと口を開きかける。

 しかし、彼が会話を振るより先に、彼女は小さく鼻歌を歌い出した。ヘッドフォンから流れてくるリズムに合わせて奏でられるそれは確かに耳慣れた曲だった。

 すっかり会話を再開するタイミングを失った彼は溜め息を吐いてから巳令の鼻歌に合わせて自分も同じように歌い出した。一瞬だけ太李の方に振り返った巳令は嬉しそうに笑みを浮かべてからそのまま軽やかに進んでいく。


 結局二人は、訓練場に辿りつくまでずっと鼻歌を歌い続けていた。




「で? なんで仲良く歌って入って来たお前ら」

 遅刻までして。そう続けて不機嫌そうに腕を組む鈴丸に二人はさっと視線を逸らした。

 鈴丸の後ろにはだらんと倒れたままの南波と扇風機の前であーと声を発するマリアと梨花の姿が見えた。一人足りない、と先に気付いたのは太李だった。

「よもぎちゃんは?」

「華麗に話を逸らすな」

 眉を寄せながら鈴丸がきっぱり告げる。

「知らん。連絡来てないし」

「珍しいですね」

「仲良く歌って乱入してくるお前らもなかなか珍しかったけどな」

 巳令の言葉にそう返してから「全員揃ってないけど先に始めるかなー」と鈴丸はなんの前触れもなくがっしりと太李の首を掴まえた。

「んで?」

「んで、って?」

「いや、仲よく入ってきたから俺に報告することはないかなと聞いてるんだよ灰尾くぅん」

「なんですか気持ち悪いですよ急に」

「はっはっは、絞め殺されたいか己」

 ぎゅうっと首に回された腕に力がこもるのを感じて彼は慌ててその腕を叩いた。

 締めるほどの力ではないものの、それでも太李にそう易々と解ける腕力ではなかった。渋々、彼は小声で返した。

「その、タイミングが掴めなくて」

「出ましたヘタレの常套句」

「俺だって、言えるもんなら言っちゃいたいんですけど」

 不満げに唇を尖らせる太李にどう叱ってやったらいいかと鈴丸が考えていると扉が開き、明るい声が響き渡る。

「ちゃーっす! 春風おっくれましたー! いやーちょー面目ねぇ!」

 その明るい笑い声を聞きながら「命拾いしたな」と鈴丸はぽんと太李の背を叩いた。

 ほっと彼が息をつくのもよそに南波の声が淡々と彼女に問いかけた。

「何してた」

 南波の問いによもぎは一瞬だけ顔を歪めてから、またいつも通りの笑みを浮かべた。

「春風にだって用事くらいありますよーやだなぁ、益海先輩ったら。ちゅーか、顔色悪いっすよ? 大丈夫っすか?」

「別に。ちょっと眠いだけだ」

 視線を逸らす南波にそうですか、とよもぎは無機質に返した。意識してそうしたわけではない。

「南波ーきつかったら無理すんなよー」

「大丈夫だ」

 ゆっくり立ち上がる南波を見ながらそうかい、とだけ鈴丸。

 それ以上、言ったところで聞きはしないだろう。そんな気がしたからだった。




 ぴょいと台の上に乗っかりながらスペーメは大きな瞳で耐熱ガラスでできたティーポットをじいっと見つめていた。

 ティーポットの中では緑色の葉が浮き沈みを繰り返している。ふりふりと尻尾を振りながらスペーメは隣で座っていたベルに声をかけた。

「珍しいもんを淹れてるです」

「いくらクーラーが効いてるとはいえ、訓練したらそれなりに暑いもの。あっつい紅茶は嫌がられるかと思って」

 そう言いながらベルは手際よく棚からガラス製のカップを取り出した。この季節にちょうどいい、透明で涼しげなものだった。

 カップの中に固形の氷を放り込まれる。その中にポットから浅緑がかった液体が注ぎ込まれる。からんと音を立てて氷と混ざり合った。

 夏らしい爽やかな香りに彼女は小さく笑いつつ、残りのカップにも同じように茶を注ぐ。

 全員分のカップが浅緑に染まると同時に休憩所の扉が開き、先ほどまで訓練を続けていた彼らが各々汗を拭いながら中に入ってくる。

「いい匂いですね」

 中に入るなり一番に反応したのは巳令だった。

 すすっと自分の方にやってくる彼女にベルはくすりと笑う。

「今日はハーブティー淹れてみました。普段淹れないからあまり自信はないのだけど。お好みで蜂蜜かレモン入れてね」

 あっという間に並べられていく全員分のカップを見ながら「はぁ」と巳令が感心したような声をあげた。

 カップを並べ終えたベルは素早く後ろに控えていた皿を運んで、そのまま置いた。梨花が嬉しそうに笑う。

「チョコレートだ」

「梨花さんはチョコレートは好きかしら?」

 ベルの問いかけにこくんと梨花は頷いた。

 ならよかったわ、とベルはふんわり微笑んだ。

「あ、というかみんなハーブティーは平気? そこまで強く淹れてないんだけどミントだから好き嫌いがあるかもしれないわね。そしたら紅茶でアイスティー作るから」

「あー、つーか俺、そもそもハーブティー自体はじめてです」

 太李の言葉に「あら」とベルは口元に手を当てた。

「そうだったの。お口に合うといいんだけど」

「まぁ、でもベル姉様の淹れるお茶で外れた試しないっすからねー」

 もうすでに席に着きながらニコニコ笑うよもぎに「全く、調子がいいんだから」とベルは苦笑した。

 えへへとよもぎが笑いながらカップを傾ける。

 そのいつも通りの会話を聞き流しながら南波は自分の手を見つめながらまた開いては閉じるを繰り返している。隣に座っていた太李が首を傾げる。

「南波?」

 太李の声にはっとしたようにそれをやめると「なんだ」と南波は手を下ろした。

「ん、いや、どっか怪我でもしたかなと」

「まさか」

 答えてから南波は黙って円形のチョコレートに手を出した。珍しい、と太李は顔をしかめた。普段は菓子にはほとんど手をつけないのに。

 恐る恐る、と言った風に太李が問いかける。

「南波チョコ好きだっけ?」

「なんか腹にいれたかっただけだ」

 チョコレートを無感情に飲みこんでから彼は「九条はどうした」という問いかけを発した。それに答えたのはスペーメだった。

「今日は来ないですよ」

「どこにいる」

「言うとスペーメが怒られるです」

 面倒そうにそう言って、丸くなるスペーメを南波は少しだけ憎たらしく思った。

 また一つ口にチョコレートを入れてから彼は黙って頭を抱えた。

「おい、南波?」

 鈴丸の声に、彼が弱々しく返す。

「頭、クラクラする」

「熱中症か?」

「……わからん」

 ふるふると首を左右に振る南波は立ち上がろうと、机に手を掛けた。

 ところがその腕にすら思うように力が入らない。あっという間に倒れ込んだ。

 動かしたくても動かない。内心舌打ちしながら南波は黙って目を閉じた。




 次に南波が目を開けるとそこには不満げに自分を見下ろしている柚樹葉の姿があった。

「九条……」

「ああ、いいよ、起きなくて。辛いんでしょ?」

 どこか叱責するような柚樹葉の言葉に南波は大人しく従った。

 ベッドの上に倒れたままの彼を見ながらこんこんと彼女は机の端を指で叩いた。

「いつから?」

 毛布にくるまりながら南波が小さく答えた。

「この間のディスペア戦のときから」

 呆れたように柚樹葉が息を吐く。

 サソリ型のディスペアと交戦した際に南波は毒による攻撃を受けていた。簡易検査こそ行ったもののそこで異常が見つからず、万が一、少しでもおかしいと思えば南波が柚樹葉に伝えるという手はずになっていた。

 やってくれたよ、と柚樹葉は誰にでもなく呟いた。それは何も言わなかった南波に対してでもありながら異変に気付かなかった自分への苛立ちのようにも思えた。

「俺は死ぬのか?」

「馬鹿も休み休み言いなよ。そんなことになってたら今頃大騒ぎだ」

 ふんと柚樹葉は腕を組む。

「そもそもそこまで強い毒じゃないようだから血清でなんとかした。少しは体が動くでしょ? まぁ、しばらくは大人しくしてもらわないと駄目だけど」

「もしディスペアが出たら?」

「君は待機」

 きっぱり言い放たれ、南波は舌打ちした。

 それから、目を閉じて呟くように、

「体が動かないって、こういうもんか」

 ははっと柚樹葉は乾いた笑い声をあげた。

「相変わらず君は馬鹿だね。私がチェンジャーを持って行ってやったときから何も変わっていやしない」

 柚樹葉の言葉に南波は何も答えなかった。

 その代わりのように、少し間を空けてから「俺が死んだらどうなる?」別に、と柚樹葉は目を伏せた。

「人魚姫のチェンジャーを初期化して、新しい変身者を探すだけだよ」

「違う、そうじゃない」

 そんなことはどうでもいいんだと首をわずかに左右に振りながら絞り出すように南波が更に問う。

「京さんはどうなる?」

 ややあって柚樹葉は「さあ。治療継続くらいはするんじゃない? 君の名誉の死に敬意を示して」

 そうか、と南波が吐き出した。安堵するような声音に柚樹葉は眉を寄せた。

「自分から持ちかけておいてあれだけど、どうしたら成功するかも分からないのに他人のために命がけで戦うのかが私にはとても理解できないよ」

 矢代(やしろ)京の治療に力を貸す。チェンジャーを手渡された日に言われた柚樹葉の台詞を南波は脳裏に巡らせた。

 泡夢の本分は元々、新薬の開発に力を入れている組織だ。結果は確かなのに燻っているだけの薬も少なくはない。それを普通は回ってこないはずの彼に投薬する。勿論本人にはきちんと話をした上で、である。

 勿論成功する保証はない。しかし、ベッドで眠ったままだった京を見て南波は二つ返事でそれを了承した。

 不治の病というわけではなかった。それなりに時間をかけて、リハビリもして、安静に過ごせば人並みには生活できる。でも南波にはそれが納得できなかった。それだけの話だ。

「してくれなくたっていい」

 俺だけが分かっていればそれで十分だ。

 柚樹葉は退屈を誤魔化すために自分の髪を見つめていた。

「なんのためにそこまでする?」

「……さあ」

 京のため? 和奈のため? それとも自分のため? 南波は未だに自分の気持ちがどこに向いているのかが分からなかった。

 ふぅ、と息を吐いて柚樹葉はパイプ椅子から重たげに腰を上げた。ひらりと白衣の裾が舞う。

「君は馬鹿だよ」

「馬鹿を選んだのはお前だ、九条」

 柚樹葉は何も言わずに白衣を翻した。


 そんな彼女が医務室から出てくるとそこにいた不安げな後輩の姿に目を開いた。


「何してるの、よもぎ」

 俯いたままだったよもぎがはっと顔を上げる。

「みんなで来るのもどうかなって。自分だけ」

「心配しなくても言ったでしょ、死ぬような毒じゃないんだって」

 そうですけど、と彼女は不満げに唇を尖らせた。

 目の前で倒れたところを見た分、自分より心配するのは必然だろうかと柚樹葉は思った。

 それより今生まれた疑問を解消しようと柚樹葉は口を開いた。

「聞いてた?」

 ぴくっと眉を動かしてからえへへとよもぎは頭に腕を回した。呆れて柚樹葉は歩き出した。慌ててそのあとによもぎが続く。

「立ち聞きするつもりは全然なかったんですよ」

「分かってる」

 君はそういうことをする奴じゃないからね。

 よもぎの瞳をちらりと見ながら「で?」と柚樹葉は首を傾げた。それに合わせてよもぎもゆっくり首を傾ける。

 仕方ないので柚樹葉が更に続ける。

「私を責めるかなと。幼馴染を盾にして、彼を戦わせることに関して」

 ああ、とよもぎは自分の茶髪を指に絡めた。

「いやー灰尾先輩とかみれー先輩だったら怒ってたかもしれないっすけどウチは怒らないっすよ。むしろそういう質問が柚樹葉先輩から出たのに素直に驚いてます」

「ほっとけ」

 楽しそうに笑い声をあげるよもぎに柚樹葉はすぐさま言い放った。

 へいへい、とつまらなさそうにしながらよもぎは手をふりふりと宙で振った。それから一拍置いて、「むしろよかったんじゃないんですかね、益海先輩的には。どういう形にせよ、チャンスが巡って来たんですから」

 チャンス、ねぇ。と柚樹葉は心の中で呟いた。

「まぁ、それでも、無茶されちゃうのは困っちゃいますけどね」

「全くだよ」

 困ったように二人が笑いあうのと同時に何かを切り裂くようにサイレンが鳴り響いた。




 閃光が晴れた中から出てくるなり、巳令は刀を引き抜いた。

「悲しき魂に救いを与える姫、鉢かづき!」

 そのあとに、斧の柄を握りしめた梨花が続く。

「悪しき心に罰を与える姫、親指!」

 本来なら、あるはずのやる気のない声が聞こえてこないのによもぎが気付き、ワンテンポ遅れて叫んだ。

「残酷な宿命に終わりを与える姫、いばら!」

 そして最後に、太李のレイピアが宙を裂く。

「哀れな役に幸せを与える姫、シンデレラ!」

「悪夢には幸せな目覚めを」

 それぞれが得物を構え、声を揃えた。

「フェエーリコ・カルテット!」

 やっぱり一人足りないだけで物足りないな、と横で拳銃の安全装置を外していたマリアは思った。

 大きな二枚貝が口を開けたり閉じたりを繰り返している。その周りにはいつものカラスたちが歪な鳴き声をあげながら飛び交っている。

 マリアの拳銃が火を吹いた。それをきっかけにして、四人が一斉に駆け出した。

「今日はαよ、さくっといきましょう」

「はい!」

 通信機から聞こえるベルの声に太李が返した。




 その様子を見ながら「あるぇー」とウルフは目を丸めた。


「おっかしいなーおさかなやろーいなーい」

 長い爪をがしがしと音を立てながら合わせつつ彼女は不満げにそうこぼした。

 彼女が探しているのは南波だった。基地に乗り込まれた際に小馬鹿にされて以来、ウルフは南波が更に嫌いになった。

 今日は殺してやろうと思ったのに。「なんで休むんだよー!」ウルフは地団駄踏んだ。

「魔女のやつぅ、サソリはウルフちゃんがつかおーと思ってたのになんで使っちゃうんだよばぁかばぁか」

 この場に居ない麗子が高笑いしているような気がしてウルフはますます不機嫌になった。

 五人を再度見てから「むしゃくしゃするから全員しけーしっこうです! 今きめました!」と自分の爪を反射させた。


「俺はここにいるぞ、クソガキ」


 背後から聞こえてきた声に、振り返ると彼女はにたぁと笑みを浮かべた。子供らしからぬ笑みだった。

「なぁんだ。いるじゃん、おさかなやろー」

 そこにいたのは自分が探している男、つまり益海南波だった。

 苦しそうに息を荒げながら、胸に掛かったネックレスを掴んで「変身!」

 光の中から出て来たときには、南波はすでに人魚へと変わっていた。三叉槍を握り、金髪を振り払う南波を見ながらウルフは「やっぱおまえが一番最初にしけーじゃなきゃね!」と彼に飛びかかった。

 自分に襲い掛かってくる鋭い爪を三叉槍で振り払いながら距離を取り、大きく息をついた。その間に地面を蹴り上げたウルフがまた南波に爪を振り下ろす。

 今度は横に転がってかわすとそのまま槍を横に薙ぐ。ぴょんと飛び跳ねてかわすとその上に乗って、ウルフは爪を横に振り払った。南波が上半身を逸らしてそれをかわすときゃはっと楽しそうな声をあげながら槍を蹴り、ウルフが距離を取る。

「またびゅんびゅんうごけよ!」

「うるさい!」

 動かない足と腕を必死に動かし、踏み込んで三叉槍を振り下ろすももうそこにウルフはいない。

 身構えるもそのときにはすでに遅く、彼女は南波に体当たりした。

 南波の手から槍が離れ、そのまま地面に叩き付けられる。倒れ込んだ南波の上に乗りかかりながらウルフはにまにまと笑みを浮かべた。

「ばっかだなぁ、毒があるならおとなしくしてればよかったのにぃ」

 抵抗しようにも体は思うように動かない。

 ウルフの爪がぐいっと南波の喉元に押し付けられる。


 ところがその爪が南波の喉を切り裂くより早く、二人の間に矢が通り抜けて行った。


 驚いたのかびくっと体を揺らし、固まったウルフのほんの一瞬を突いて南波はあらん限りの力を込めてどうにか彼女を蹴り飛ばした。

 ぎっ、と歪な声をあげ、ウルフの小さな体が地面を転がって行く。それを見ながら後退した南波は三叉槍を足に引っかけて、蹴り上げた。

 宙に浮かんだ槍の柄をぱっと掴むと同時にウルフが口元を拭いながら立ち上がった。

「全員まとめてころすー! ころすころすぶっころーす!」

 きーっと子供特有の甲高い声をあげながら彼女は爪を構えて、駆け出した。

 爪の端が南波の左腕を捉えて、かすめた。血を噴きながら未だ手に握ったままの槍を振り上げる。

 その槍の先端がウルフの頬の皮膚を切り裂いた。ぴっと血が流れた。

 瞬間、ウルフは口から声を発するのをやめて、小さな手で頬を拭った。自分の血を見つめながら金色の目を見開いた彼女は、ぶわっと涙を目に溜めると爪を思いっきり地面に叩き付けた。


 砂煙が巻き上がり、なくなった頃にはすでにウルフの姿はその場にはなかった。


 逃げたか、と顔をしかめながら南波はずるずると地面にへたり込んだ。

 あのまま病院のベッドで寝ているのがあまりにも彼にとっては気に入らなかった。少なからず生きているうちは戦い続けなければ、そんな気がしてならなかった。

 はーっと大きく息を吐いていると靴が地面を蹴る音が規則的に響く。それはやがて、南波のすぐ近くで止まると「先輩!」というよもぎの鋭い声に変わった。

「なんだ」

「なんだじゃねぇよなんだじゃ!」

 ぐいっと腕を掴み上げながらよもぎは目を吊り上げ、怒鳴る。

「怒ってるんですよ! 春風、めっちゃ怒ってるんですよ!」

「……九条には怒らなかったのにか?」

「あのねぇ!」

 聞いていたのかと聞くことすら忘れてただよもぎは言葉を吐いた。

「いいですか! 無理するなとも無茶するなとも春風は別に言いませんよ! そう言っても先輩聞いてくれる人じゃないし、そういうことが必要なときだってあると思いますから! でもね、死ぬなんて許しませんから!」

 キッと南波を睨み付けたままよもぎが更に続けた。


「人のために、益海先輩まで犠牲になるなんて春風は絶対許しませんから……!」


 今のよもぎは自分を見ているようで、そうでない。そんな気がして爆発音を背後から聞きながら南波は言葉を飲みこんだ。


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