第十七話「やっぱりさようならよりおかえりと言いたいようです」
煙と共に肉の脂の匂いが部屋に立ち込めていた。
網の上に乗せられた切り揃えられたカルビがじゅうじゅうと音を立てながら脂を下へと落としている。赤みが徐々に色づいていく様に梨花は顔を輝かせていた。
トングでそれを突いていたマリアが「うーっしもういいだろ」と梨花の小皿の上にそれを乗せる。ぱぁっと彼女の顔が輝いた。
「あ、ありがとうございます!」
「おー、食え食え。遠慮せずにガンガン食え」
「はい!」
笑顔を浮かべる彼女を見ながらマリアも自分の小皿にそれを乗せた。
梨花はマリアが乗せてくれたカルビを軽くタレにくぐらせてから手元に置いてあったご飯の上にとんとんとつけ、タレのついた白米と共に口の中に放り込んだ。ほろほろと柔らかい肉としつこくない脂が白米によくあっていて梨花はふにゃぁと気の抜けた笑みを浮かべた。
その横で、別の網を突いていたよもぎの声が響く。
「あ、ちょ、益海先輩、それ! それ、春風のカルビ! もう! なんでまた横取りするんですか!」
ばんばんと机を叩くよもぎに隣に座る太李を見た南波が答える。
「灰尾が食っていいって言った」
「言ってねぇよ! なんでそんな平気な顔で嘘吐くんだ!」
「灰尾先輩! なんてこと言うんですか!」
「言ってないってば!」
冤罪だぁ! と叫ぶ太李の皿を見ながら「ほら灰尾、野菜。野菜食べないと」と巳令が彼の皿にししとうを放り込んだ。
「あ、お、おう、さんきゅーな」
「みれー先輩お嫁さんみたいですね」
「およめさ!?」
びくっと肩を跳ね上がらせる太李におおこりゃおもしれーやとよもぎはまだ南波に食べられていなかったカルビを口に運んだ。
巳令はただただにこにこしているだけだった。なんで彼女はそんな平気な顔をしているのだろうかと太李には不思議で仕方なかった。まさかこの間のことはすでに巳令の中で何かしら結論づけられてしまって勝手に終わってるのではなかろうかという不安も煽られる。
その光景を見ながら「あなたたち相変わらず愉快ねぇ」と入店してきたばかりのベルが呟いた。その後ろには柚樹葉と鈴丸もいた。
「ベル姉様!」
よもぎの嬉しそうな声に彼女はにこりと微笑んだ。
「引きこもりやめて来ちゃった。焼肉なんてほんと久しぶりー。あ、マリア隣いい?」
「おー」
大した興味もなさそうにマリアは網をいじりながらベルの言葉に答えた。
さも当然のごとく、巳令の隣に座る柚樹葉を見てから「隣、座ってもいいか?」と鈴丸が梨花に首を傾げた。口を白米でいっぱいにしながら梨花がこくこくと頷く。ハムスターみたいだと鈴丸は心の中で笑った。
「で、マリアの奢りなんですって?」
「え、あたし鈴とお前の分は奢らねーぞ」
微笑むベルにマリアが顔を引きつらせながら答えるとえ、と戸惑いを含んだ声が鈴丸とベルから上がる。逆に驚いたとばかりにマリアが告げる。
「なんで奢られる気満々なんだよお前ら! 年下にたかんな!」
「そう言われても、ねぇ?」
「俺ら財布持ってきてねーぞ」
「帰れ!」
「まぁ、いいわ。とりあえず中ジョッキ!」
「酒頼むな!」
がぁっと吠えるマリアに「あら冷たいこと言わないでよ」とベルが苦笑する。
「素面じゃ話し辛いこと話すんだから、ちょっとくらい大目に見て」
ぴたっとマリアの動きが止まる。
小さく舌打ちした彼女は「しゃーねぇなぁ」と頭を掻いた。
「今度はお前が奢れよ」
「ええ」
そんなやり取りを横目に、注文を取りにやってきた店員に鈴丸が告げる。
「肩ロースとホルモンとタン塩……あ、あと豚トロと中落ちカルビと大ジョッキ」
「お前もなんか話すのかよ」
やたら手慣れた様子で頼んでいく鈴丸にマリアがむすっと問いかけると彼は首を傾げてそれに答えた。
「いや、俺は飲みたいから頼んだだけ」
「お前はほんと帰ってくれ……つーかなんでスーツなんだよ就活かよ」
「うっせぇほっとけ」
上着を脱ぎながら締まっていたネクタイを緩める鈴丸に「あ、でも鈴さんスーツ意外と似合いますよねー。デキる男って感じです」とよもぎ。
「意外とは余計だっつの」
「お、おおおおおしごとれしゅか!」
「ん、まぁな」
梨花の声に軽く笑い返すと彼女はぎゅっと両手で箸を握りしめたきり動かなくなった。
あらーこれも面白いなーとよもぎが思っているとごく自然な流れで巳令の皿からカルビを奪取した柚樹葉が言う。
「それより、色々話すことがあるんでしょ。君らには」
「ねぇ、柚樹葉、今私のお皿からカルビ持って行きましたよね。私のカルビ」
「鉢峰、やる。俺のやるから」
むすーっと不満げな巳令に太李がカルビを渡していると「やっぱり話さなきゃ駄目かしら」とベルが首を傾げた。
「そのためにわざわざ君らを引きずって来たんだよ。私の労力も考えてよ、あ、これ美味しい」
「そうですか私のカルビ美味しいですか」
「やる! ししとうもやるから落ち着け鉢峰!」
ずずずっと暗いオーラを背負っている巳令に太李がししとうも差し出す。
悔しそうに柚樹葉を見つめる巳令に笑いながらベルはぼそっと呟いた。
「九鬼さんが主任から外されたわ。つーか解雇処分喰らったわ」
え、と鈴丸と発言者のベル以外の全員が固まった。肉が焼ける音だけが嫌に大きく響く。
一番に声を発したのはマリアだった。
「な、ななななな、なん、なんで」
明らかに動揺している彼女に声にベルは肩をすくめた。
「さあ? 今日突然、そういうことになっちゃって」
「く、九鬼さんってあの人ですよね! 鈴丸さんをいじめてた人!」
太李の言葉にベルが鈴丸に視線を送った。
「え、そうなの?」
「おう鈴丸さんいじめられてた」
こくこく頷く鈴丸にふーんとベルは上辺だけの興味を示した。
柚樹葉はまっすぐベルを見つめながら問う。
「でも、どうして? 嫌に急だね」
「だから、何度も言うけど私にもよく分からないの。そういう辞令がくだったとしか」
白々しい、と鈴丸は苦笑した。
誰でもなく自分が相手を処分に追いやった張本人だというのに。
それをこの場で代わって口に出してやるほど鈴丸は自分が『親切な男』だとは思っていなかった。
店員がサイズの違うジョッキ二つと肉の盛られた皿をテーブルに並べて行った。中ジョッキの方が自分に来ていて鈴丸はベルを見たもののすでに彼女は大ジョッキを呷っていた。
口元を拭いながら彼女は告げる。
「私ね、昔、婚約者がいたのよ」
だらんと椅子に身を投げ出しながらベルが喋り出した。
前にも聞いたことのある話だと巳令は思っていたが口には出さなかった。恐らくこれには続きがある。そう思ったからだ。
実際に、彼女はそのあとの話も淡々と喋り続けた。
「それはそれは素敵な人だったわ。ある軍に勤めていた開発者で、私も同じ軍に所属していた。私の兄もそうだった」
一拍置いてから、ごくごくとベルの喉元をビールが通り過ぎていく。いつもより苦く感じながら彼女は一息ついてまた口を開く。
「ある日彼は、いえ、彼と兄はと言った方がいいわね。とにかく、ある技術が生まれたのよ」
「技術?」
「失われた生命をもう一度取り戻す技術、とでも言えばいいのか」
柚樹葉がわずかに目を見開いた。
「馬鹿げてる」柚樹葉の唇から震えた言葉が漏れた。
「ええ、馬鹿げてる。でもそのときの私はそうは思わなかった。ううん、私だけじゃない。その場にいた誰もが、そんな馬鹿げた奇跡を信じていた」
いつもと変わらない愛想をたっぷりと含んだ笑みを浮かべながらベルによもぎが問いかける。
「でも、それと今回のこととどう関係が」
「ディスペアが見せる悪夢って、どういうものか知ってる?」
唐突な問いかけに、その場にいた全員が固まった。無理もない、とベルは思う。ここにいるのは適応者か、あるいはあのっ空間へ対応できるように適応薬を打たれた人間だけだ。眠ったことはない。いや、柚樹葉は一度その経験があるが恐らくは覚えていないだろう。
「幸せの絶頂からね、突き落とされる夢なのよ」
ベルのぽつんとした言葉に柚樹葉は目を伏せた。言われてみれば、という状態らしい。
「突然悪夢を見せられて、茫然としている人間が生きるために使っているエネルギーを集めてる。それがディスペア」
「……話の繋がりが全く見えないよ、ベルガモット」
「そのエネルギーを、その技術でちょっとだけ変換して死んだ人間の体に注ぎ込むの。すると」
「蘇る、とでもいうの?」
「ええ」
大きく頷くベルに柚樹葉は頭痛がすると言いたげに額を押さえた。それでもベルは構わずに続ける。
「人一人蘇らせるのにも莫大なエネルギーがいる。しかも全てが全て、変換出来るわけでもない。だから彼らは何度も何度もディスペアを使ってそのエネルギーを集め続けている」
網に乗っていた肉をひっくり返しながら「最初はね」とベルは薄く笑った。
「最初は、こんな風になるはずじゃなかったのよ。必ず、人間のエネルギー以外の何かで代用できるようにして、人を蘇らせるじゃなくて、もっと別のことに活かせたらって」
「それがどうして」
「……あれが出来てから狂っちゃったのね、私たちの人生って」
ぽつんと呟くように言ったベルは「彼はね、壊れたわ。無理な実験であの技術は有能であると示そうとした。だから私の兄と対立した」
「それで」
「……兄は死んだわ。彼を止められないままね。そして生まれてきてしまったのよ、トレイタートディスペアという存在が。彼の手によって」
「やっぱり」
薄々嫌な予感がしていた太李が言うより早く、彼女が告げる。
「うわばみ、っていうのはね、私の婚約者だった人。もう違うわ、あれは別人よ、私の知ってる彼は死んだわ」
ふるふるとベルが首を左右に振る。恐る恐る、巳令が問う。
「じゃあ、ベルさんは」
「せめて兄が半分は造ったシステムをこれ以上悪用されないように、私も彼を追ったの。以前の私を殺した。名前も変えた、髪も染めて、眼鏡もかけた」
それでも、と苦笑した。
「この間会ったとき、どうにもできなかったけどね」
その寂しげな笑顔に、誰も何も言うことができなかった。
「それが、私が傭兵になった理由。あなたたちと戦い続けている理由よ」
「どうしてそんな話を、私たちに?」
「なんでかしら、話してもいいかなって思っちゃったのかも」
巳令の言葉ににっこり返して、ベルはまたジョッキを呷った。
沈黙が訪れる中で、わざとそれを壊そうとよもぎが「っていうか!」と南波の方に視線を投げた。
「なんで益海先輩は無言で肉食ってるんですか!」
「そこに肉があるから」
「これだからこの人は!」
がんっとよもぎが机を叩くと南波はちらとベルを見ながら「別に。ベルさんが昔何があって、どうして俺たちに協力してるかなんて至極どうでもいい。俺がやることが変わるわけでもないし」
また全員が動きを止める中でふふ、とベルが笑みをこぼした。
「やーねぇ、南波くんったらぁ。ぐずぐずされるの嫌だけどそーやって流されちゃうのも悲しいなー」
「同情して欲しかったか?」
「まさか」
うふふと楽しそうに笑ったベルは「すいませーん大ジョッキ追加でぇ」と楽しそうに手を振った。
「あら、梨花さん手が止まってるわよ。食べて食べて」
「え、あ、はい!」
「サンチュも頼んじゃおっか。どーせマリアの奢りだしぃ」
「だからお前らの分はぜってーおごんねーかんな!」
叫ぶマリアにおほほほとベルはわざとらしい笑い声をあげた。
ハイヒールが地面を蹴る音が響くたび、誰かが自分に振り返る。そんな視線の集合が麗子にとっては愉快で仕方なかった。
そして自分は誰に対しても振り返らない。わずかな優越が彼女の中を満たしていく。
紙袋を抱えながらまだ真新しいドアノブを捻ると「あ、れーこおっそーい!」とウルフの声が響き渡った。
「引っ越したばかりですのよ? 子供なあなたと違ってこちらは色々とやることがあるんですの」
「ぶー。あ、飴かってきてくれた? あーめ!」
「ありますわよ」
はい、と手渡された円形の棒キャンディにウルフはきらきらと目を輝かせた。
袋をはぎ取りながらがじがじとそれに噛り付きつつ彼女はさらに首を傾げた。
「じゃあ、本は? 本!」
ぴたっと麗子の動きが止まる。
それからやがて、自分の額をこつんとウルフのものぶつけると「本は駄目ですわ」と低く言い放った。
「どーして?」
「本なんてなくってもうわばみやわたくしがあなたに必要なこと全て教えてあげますわ。だからあなたには本なんていらない」
彼女が外界の知識を必要以上に取り入れることを麗子は恐れていた。このまま純粋に自分たちについてきてくれる存在でいればそれでいい。
かじっていたキャンディを袋に戻しながらウルフは目を伏せた。そんな彼女の頭を麗子は優しく撫でる。
「わたくしがあなたに間違ったことを教えたことがあって?」
「ううん。れーこがいうならしょーがないよね……」
「ええ。外の本なんて読んでも仕方ないことばかりですわ」
こぼれ落ちた言葉は少なからず嘘を孕んではいなかった。彼女にとっては仕方ないことばかりだからだ。
「んじゃーしょーがないかられーこがあそんでくれたらそれでよしとしてやります!」
「生意気なクソガキですわね。そんなガキはこうですわ」
締め上げるように麗子の腕がウルフの腹部を圧迫する。
それすら楽しいのかきゃーっと叫び声をあげながら彼女は満面の笑みで両手足をじたばたと動かした。
「れーこのかいりきー! ごりらー!」
「あら、あなたなかなか抱き心地がよろしいわね。これからわたくし専用の抱き枕にして差し上げてもよくってよ?」
「いやー! れーこにだきころされるぅー!」
きゃっきゃっとはしゃぐウルフを振り回しながら麗子は笑い声をあげた。
久々に、心の底からこぼれた笑みだった。
「随分楽しそうだね」
扉の向こう側から聞こえた声に、はっと麗子は動きを止めた。立っていたのはうわばみだった。
ごほんとわざとらしく咳払いしてから「嫌ですわ、わたくしったら」と彼女はウルフの小さな体を地面に下ろした。そのままウルフの体を抱き締めていた腕を彼の首に回した。面白くなくてウルフはむぅと唸った。
「それにしてもやっぱりあなたは酷い人。知り合いが蓮見ならそうだと早く言ってくださればよろしかったのに」
甘ったるい声にははっとうわばみは笑って返した。
「言っていたらどうした?」
「一番に殺しましたのに。わたくし、あの女が嫌いですから」
「向こうは多分君を覚えてない」
「だからムカつくんですわ」
ぎゅっと彼を抱き締めながら「まぁ、でも今はわたくしの元にあなたがいますからよろしいですけど」と囁いた。
ウルフがげしげしと小さな足でうわばみを蹴り飛ばした。ひょいっと彼女を抱き上げて「遊び相手がとられて不満げだね、ウルフ」
「うっせうっせばぁか!」
その体を肩車してやるのを見ながら「あなたが来たということは、ディスペアをけしかけて来いってことですのね」
「ああ。悪いね、邪魔して」
「いいえ。それがわたくしの使命ですもの」
軽く会釈すると「それでは、ごめんあそばせ」と彼女は踵を返した。
ソファに放り出されたベルはううん、と苦しそうに唸りながらその上で丸まった。
「ぎもぢわるいぃぃ……はぐぅう……」
「ちょ、ベル姉様待って! 今桶! 桶!」
あわわと慌てるよもぎに鈴丸が苦笑しながら告げる。
「心配すんな、いつもそう言って吐かないから。調子乗って昼間っから飲むからだばーか、自業自得なんだよー!」
「やめろぉ……耳元で叫ぶなぁぁあ」
じたばたと手足を上下させるベルに「ざまぁみろ」と鈴丸は吐き捨てながらげらげら笑った。ああこの人も酒入ってるなぁとその場にいた全員が思った。
泡夢財団の休憩所までベルを運んできたのは鈴丸だった。今現在無関係者である彼が中に入るために他のクインテットが同伴した。それだけのことだった。
それになんとなくついてきたのがマリアで彼女は自分の財布を眺めながら深々と溜め息を吐いた。
「お前ら……ほんとに奢らせやがって……」
「あ、あの今からでもあたしだけでも自分の分」
カバンに手を突っ込んで財布を取り出そうとする梨花に「いや、いい! お前はいいんだ!」とマリアが笑う。
「んまぁ、あれだ。別れの挨拶にゃあ安すぎるくらいだぜ」
へへっと笑うマリアにクインテットと柚樹葉が純粋に驚いた視線を向けた。
視線を受けながらマリアは「なんつー顔してんだよ」と苦笑した。巳令が震えた声で問いかける。
「だって、マリアさん、今すぐ行かないって」
「ん、あたしもそのつもりだったんだけどな。んまぁ、九鬼の親父がいなくなったんならお前らは心配しなくても大丈夫だろうし? ベルの本音も全部じゃねーけど分かった。これ以上、あたしが日本にいる理由ってねーよ」
「で、でも」
「心配しなくてもベルは残るんだしさ。あたしら、クビになっちまったし? あの親父がやめちまったからってまたここで雇ってもらえるとも限らないしな」
にっとマリアが笑う。
引き留めるのはわがままだ。そう思っていても太李はそのための言葉を探さずにはいられなかった。
居心地の悪い沈黙を打ち破ったのはディスペア出現を告げるサイレンだった。
「う、うるざいぃ……」
ソファの上に転がっていたベルが更に丸くなったのと、「どうする?」と南波が小さく首を傾げたのは同時だった。
ちらりとベルを見た柚樹葉は舌打ちしてから「スペーメ!」と叫んだ。部屋の隅でスリープモードに突入していたスペーメがぴょんぴょん跳ねながら柚樹葉の元へ駆け寄った。
「場所は?」
「Aの八地点なのです!」
「なんだ、近場じゃない。よかった。クインテットを案内してやって」
「了解なのです!」
ぴょんと巳令に飛びつくスペーメを見てから「君らの最優先任務はディスペアの退治だ。ほら、行って」
マリアを柚樹葉を見比べながらやがて、太李がそっと二人に背を向けた。それに倣って残りの四人も戸惑いながら飛び出していく。
柚樹葉を見て今まで黙っていた鈴丸が口を開いた。
「新しい主任はまだ未着任状態、高校生のガキだけで動けるのかよ」
「君にぼったくられるよりマシだよ」
白衣を翻しながら「私はこれで失礼する。さっさと君らも帰るといい。新しい仕事を探しなよ」じゃあね、と手を振って彼女もまた廊下へと消えて行った。
その後ろ姿を見送ってから鈴丸は「なぁ、マリア」と自分の同僚に呼びかけた。
「あん?」
「お前はさ、死んじまった人間を蘇らせたいと思うか?」
「全然」
間髪入れず返ってくる答えに彼は小さく笑った。彼女らしいと思ったからだ。
「ちょっと悩めよ」
「ばっか。神様がくださる一つの運命なんだぜ? それに背くのはどんな理由であろうとやっちゃいけねぇことだ」
「安心したよ」
ほっと息を吐く彼に「おめーはどうなんだよ、鈴」彼は一拍置いてから肩をすくめただけで何も答えなかった。
そこは工事現場だった。足場では安全メットをかぶった男たちがぐったりと倒れ伏している。
「悲しき魂に救いを与える姫、鉢かづき!」
「悪しき心に罰を与える姫、親指!」
「不幸な存在に光を与える姫、人魚」
「残酷な宿命に終わりを与える姫、いばら!」
「哀れな役に幸せを与える姫、シンデレラ!」
変身を終えた五人が得物を構え、口々に告げる。
ひゅんっと巳令が虚空を斬って、続けた。
「悪夢には幸せな目覚めを」
そういえば、きちんと名乗ったのは随分久しぶりだと太李は考えていた。
今さら恥ずかしいとは思わなかったが少しだけ物足りないような、そんな気がしていた。
「フェエーリコ・クインテット!」
二メートル近いサソリが尻尾を振り上げた。その周りにはいつもの鳥たちが空を埋め尽くさんばかりの数飛び回っている。
通信機のスピーカー越しに柚樹葉の声が響く。
「いい? 相手はβ型だ。連携技で一気に畳み込め」
その声に「じゃあ」と梨花は斧を担ぎながら答える。
「あたしは、えと、鳥さんたちに回るね」
「そうだね、頼むよ」
柚樹葉の声に返事するより早く、梨花は地面を蹴り上げて斧を真上に振り上げた。
刃に切り裂かれ、何匹もの鳥が宙に散る。バランスを崩しつつ、地面に着地すると梨花は真上を睨み付けた。
よもぎが弦を引く。
それを合図にしたように残りの三人が間合いを詰めた。一番に自分の元に辿りついた南波にディスペアが大きなはさみを振るう。
はさみを跳びあがってかわすと、その上に乗り、南波は捻じ込むように三叉槍を突き刺した。ぎゃあ、と声をあげ、後退していくディスペアから南波が離れると一歩踏み込んだ太李がレイピアを突き出す。皮膚を破り、刃が突き刺さった。
さらに巳令が鞘から刀を抜き、斬り付ける。緑色の液体を噴射させながら更に後ずさって行く。
よもぎが弦を放そうとしたまさにそのとき、ディスペアがその長い尾を左右に振った。
途端、周囲に砂煙が巻き起こり、思わず四人は目を閉じた。
砂でできた煙幕が晴れるとディスペアはそこにはいなかった。
「……逃げた?」
「まだいるのですー!」
端の方へ逃げていたスペーメが叫ぶ。
四人が得物を構える中、不敵に太陽の光を反射させるサソリの尾が南波を襲う。
気付いたときにはもう遅く、南波の体に尾についていた針が突き刺さっていた。するりとそれが抜け、再びディスペアが姿を消す。
その場で崩れ落ちる彼に巳令が駆け寄った。
「人魚!」
「いい、平気だ」
平気だけど、と自嘲気味に笑った。
「体が動かん」
「それは平気とは言いません!」
やはり毒針だったか、と巳令は内心舌打ちでもしたい気分だった。
南波のすぐ横で柄に手を掛けながら宙を睨みつける。そうする以外なかった。
そんな彼らの目の前で突然、火柱が上がる。事態が飲みこめず、四人が硬直する中、「はぁい」と通信機越しにベルの声が響く。
「ベルさん、今の」
「まず、改めて挨拶させてね」
太李の問いに答えず、彼女はつらつらと自分の用件を述べた。
「先ほど、このディスペア殲滅チームの主任待遇になりましたベルガモットです。これからは、あなたたちには私の指示に従ってもらいます。九鬼さんと違って私はばんばん首突っ込むから、よろしくね」
多分向こうでベルガモットがウインクでもしているのではないだろうかとその場にいた誰もが疑わなかった。
また火柱が上がる。巳令の視界の端には黒い何かが映っていた。
「それともう一つ、あなたたちには絶対お知らせしないといけないことがあります」
火柱と共に、今度はディスペアが姿を現した。四人がそれぞれ構える中で先ほどのものとは比べ物にならないほどの爆発が起こる。
「この場を持って、蒲生鈴丸、柊・マリア・エレミー・惣波の両名と再契約。まだまだ日本に居て貰うわよ」
「そういうことらしいぜ」
爆風を碧眼で捉えながらランチャーを担いだマリアがひょいっと四人の前に現れ、「よっ」と手を挙げた。
「マリアさん!」
「なんかさーあたしあーんなかっこつけて別れの挨拶までしちまったのに再契約までされちまっちゃあかなわねーよな、ほんと」
ランチャーを足元で転がしながらあははとマリアが笑う。
腰に携えていた銃を一丁取り出して、安全装置を外す。そんな彼女を茫然と見つめていると「残念だったな、鬼教官から逃げられると思ってたのに」と鈴丸の声まで響いてきた。痺れたままの体でなんとか南波が言葉を発した。
「ああ、残念だ」
「はっはっは、言うなぁこいつぅ、痺れてる癖にぃ。腕立て五十回な」
あっさりペナルティを課した彼はそのまま「マリア、お前から九時の方向に一人。外すな」とだけ告げた。すっと彼女の腕が持ち上がる。
「りょーかい!」
言われた通り、銃弾を撃ち込んでマリアはその場を離れた。
それに答えるかのようにマリアが元居た場所に銃が撃ち込まれる。「あっぶねぇ」と額を拭った。少し間を置いてから「本当に、面白い方ですわね!」と麗子が吐き捨て、その場を去って行った。
爆風が晴れ、ようやくディスペアの姿が見えるようになった。それに太李と巳令が踏み込んだ。考えることは同じようだと、太李の方が心の中で苦笑する。
「行きますよ!」
「おう!」
レイピアが構えられるのと同時に巳令が叫ぶ。
「オーラ!」
「ベアート!」
突き出されたレイピアと鞘から抜かれた刀が同時にディスペアに直撃する。
叫び声すらあげる間もなく、砂となって消えていく。
梨花に加勢していたマリアは、最後の一匹に弾丸を撃ち込むとはーっと息を吐いた。
「マリアさん!」
「うお!? やめろって梨花! 苦しい!」
変身を解除するのも忘れてぎゅっと自分を抱き締めてくる梨花にマリアは笑みを浮かべた。
「ちゅーか益海先輩! ちょ、マジ大丈夫ですか!?」
「心配すんな。もうだいぶ動く」
そう言って両手を動かして見せる南波によもぎが「いやそれもなんすけど」と視線を逸らす。
「腕立て」
「やめろ言うな」
地面を蹴りながら彼は吐き捨てた。
「あの鬼教官め」
でもその呟きがなんとなく楽しそうで、よもぎは小さく笑ってしまった。
そんな彼女の頭に南波の手刀が落ちたのはすぐあとのことだった。