小話「ずるいおとなのはなし」
ぺたぺたとサンダルが床を踏む音が響き渡る。
上下に揺れる肩にしがみつきながら今日の柚樹葉は機嫌が悪いらしいとスペーメは心の中で呟いた。口に出して確認しなかったのはそれを言えば彼女の機嫌は更に降下するだろうと判断したからだ。
階段の踊り場から下を覗き込んだ柚樹葉は目的の人物を見つけて、はじめて声を発した。
「九鬼さん」
自分の名を呼ばれたことで仰々しく彼女の姿を捉えた。柚樹葉には、その動作は酷く面倒そうに見えた。
「なんだ九条」
「いえ、純粋に自分の疑問を解消しようかと思って」
ぺたぺたと階段を下りながら柚樹葉はゆっくり首を傾げた。
「なぜ、蒲生と惣波はチームから外されたままなのでしょうか?」
フェエーリコ・クインテットたちが太李を連れて帰って来てから早三日、九鬼の口から鈴丸とマリアの名が出ることはなかった。
彼の救出において大変尽力した彼らを再び雇うことはなんら不思議なことではない。態度こそ悪くてもどれほど有能であるかということをあらためて知らしめていたはずだ。マリアに至ってはその身一つでトレイターとやり合ったという。
柚樹葉の言葉に九鬼は冷たい視線を彼女に投げつけた。
「何か勘違いが生じているようだ、九条」
「勘違い?」
「私は、灰尾太李を助けてこいなどと命令してはいない。彼らが勝手にやったことだ」
白衣のポケットに突っ込んでいた手を柚樹葉はぎゅっと握りしめた。
「本来ならクインテットも全員チームから外してもよかったのだがチェンジャーの初期化にかかる費用も無駄になる。戦力を失わなかったという点において評価はしている」
「…………」
「だがしょせんそれだけだ」
つまりは、二人を再度雇う気は一切ないらしい。
でもそれは答えになっているようでいないんだよなぁ、と柚樹葉は心の中で溜め息を吐いた。
「じゃあ一つ聞かせてください」
歩き出そうとしていた九鬼の背に柚樹葉は投げ掛けた。
「そこまで頑なにあの二人を雇わないのは何か理由が?」
一拍置いてから九鬼が答える。
「上の方がね、今回の件はあまりにも出来過ぎていると」
「……それに関しては私も同意ですが」
クインテットの合宿所付近にディスペアが現れて、都合よく他の適応者が居て、さらわれた。
出来過ぎている。自分もベルにそう言った記憶がある。柚樹葉が眉を寄せていると九鬼が言い放った。
「組織の中に手引きした者がいるのではないかともっぱら噂だ」
「それが蒲生と惣波だとでも?」
「確固たる証拠はない。が、疑わしきはとも言っていられないんだ。何せ、我々は組織だからな」
両手を広げる九鬼は「九条、君はよくそれが分かるだろう?」と首を傾けた。柚樹葉は形式的にええ、と相槌を打つ。
本気で言っているのなら、この男はやっぱり自分より遥かに馬鹿だ。と彼女は心の中でせせら笑った。一番疑わしいのを残してどういうつもりなんだか。
それともわざとやってるのか? 考えるのも馬鹿馬鹿しくなって柚樹葉は小さく頭を下げた。
「ありがとうございました」
会話を終結させるためだけの、形式的な礼だった。
「はぁ? あたしらがスパイだぁ?」
ベッドの上で胡坐をかいていたマリアが顔を歪めた。
泡夢財団を追い出され、泊まる場所もなくなったマリアと鈴丸が泊まっているホテルだった。それなりの広さのある部屋に全員揃ったクインテットと柚樹葉にスペーメ、そしてマリアがいた。
クインテットたちから驚愕の視線を送られるのも気に留めずパプリカに噛り付くマリアに柚樹葉は淡々と答えた。
「一応君らをクビにした建前はそういうことらしい」
「冗談だろ」
「うん、馬鹿馬鹿しくてとても聞いていられなかったよ」
ひらひらと手を振りながら柚樹葉が続ける。
「そもそも鈴丸やベルガモットはともかく、君はスパイにするにはあまりにも素直すぎる。そういう行為も好きじゃなさそうだしね」
「ったりめぇだ、スパイなんてきたねぇ真似したら罰があたっぞ」
ばりばり音を立てながら流し込むように野菜をかじっていくマリアにそういうと思ったよとばかりに柚樹葉は肩をすくめた。
そういえば、と巳令が辺りを見渡した。
「鈴丸さんはどうしたんですか?」
「あ? しーらね。朝、何も言わずに出てってそれっきり」
「君の同僚はどうしてそうなんだ」
はぁ、と柚樹葉が深々と息を吐く。
「ベルガモットもまだ部屋に引きこもったままだし」
泡夢財団に戻り、九鬼に報告を終えてからそれっきり、ベルは自室に閉じこもって出てきていなかった。
南波と梨花と、三人でババ抜きを始めていたよもぎがそれに答える。
「無理もありませんよ、なんだかんだで相当応えてましたもん、あれ」
うわばみを見た瞬間の彼女は誰が見ても普段の『ベルガモット』ではなかった。
なんだったのだろう、と巳令は戻って来てからずっと考えていた。
南波の手札から一枚トランプを抜き取ったよもぎが顔をしかめる。抜き取ったカードを手札に加えて、そのまま梨花に差し出した。
「二人が無実だって分からなかったら戻ってこられないんですよね?」
太李の問いかけに「分かってもどうかなぁ」と柚樹葉が顔をしかめた。
パプリカのヘタをぽんっとタッパーにしまってからごろんとベッドに寝転がったマリアが手を振る。
「あのオッサン、よっぽどあたしらが嫌いなんだろうな」
「仕方ないさ。組織に嫌われるのは正しかろうがなんだろうが我が道を行って全体の意向に従わない存在だよ」
よもぎの手札から迷った末にカードを引き抜いた梨花がびくっと跳ね上がる。カードの上では小馬鹿にしたようにピエロが笑っている。
うー、と唸ってから梨花は手札をシャッフルして南波の前に差し出した。
「君らはそういう意味では組織に嫌われるには充分だよ。規格外の金額を吹っ掛けてくる傭兵と自分の理念を第一としてヘタをしたら言うこと利かないで突っ走るタイプだから」
「今さら言うなよ、性格なんだから」
ごろごろ転がりながら「でもなぁ。お前らをこのままあのオッサンのとこに置いとくのもなぁ」
一度は太李を見捨てようとした存在だ。組織としてはそう動くのが正解でもだからといって味方であるはずのそこに殺されては意味がない。
「もういっそ、お前ら全員アシーナに来ちまえばいいんじゃね?」
「無理言わないで。チェンジャーの制御システムは泡夢の設備じゃないと動かせないんだから」
柚樹葉の言葉にむぅ、とマリアが顔をしかめた。
南波の手が見事に梨花に握りしめられていたババを避けて数字のカードを引く。わかりやすいんだよなぁ、と南波は心の中で呟いた。
「でも、マリアさんもいつまでも仕事ないのは困りますよね」
巳令の言葉にマリアは「いつかは困りそうだな」と顔をしかめた。
「いざとなりゃ、支部に行けばなんか仕事貰えそうだけどな。まー確実に海外だろうけど」
「そうですよね……」
しゅんと肩を落とす巳令に「お、おい、なんだよ。別に今すぐ出て行くなんて行ってねーだろ」とけらけらマリアが笑う。
やったー! と何もなくなった両手をあげるよもぎの声が響く。決着がついたらしい。
「灰尾を助けられた。それは後悔も何もないくらいすげぇ誇らしいことだと思ってる。実際、梨花の依頼って建前がなかったら支部はヘリ貸してくれなかっただろうし」
「そのヘリは上空で爆発四散しちゃいましたけどね」
「しゃあねぇだろ鈴がやれっていうんだから」
ぶすっと答えるマリアに巳令はくすくすと笑った。
そんな彼女をじっと見つめていた太李の手をちょんちょんとスペーメが突いた。
「ん? なんだよ?」
「お前呑気にしてるけど鉢かづきにちゃんと話したですか?」
「馬鹿!」
ぐいっとスペーメを掴み上げながら太李がしゃがみ込む。
「灰尾?」
不思議そうに首を傾げる巳令に「なんでもない! なんでもないから!」と笑うと彼はスペーメと顔を突き合わせた。
「お前……さては聞いてたな」
「聞いてたわけではないです聞こえてたのです」
「同じことだろ!」
「どさくさに紛れてなかったことにしようとするなんてさすがヘタレなのです。ヘタデレラなのです」
「うっさいお喋り毛玉!」
むにーっとスペーメの頬を引っ張りながら太李は声を潜めて言い返した。
合宿のとき、太李は巳令にディスペアとの戦闘が終わったら自分の気持ちをきちんと伝えると宣言した。
ところが、そのディスペア戦の際に自分は敵陣営まで連れ去られ、それどころではなくなってしまった。帰って来てから何度も伝えようと決意してはみたものの話し出すタイミングは掴めずにいて、巳令の方は巳令の方で何事もなかったかのように過ごしていてなおさらそれがタイミングを失わせていた。
「ヘタレのお前がうかうかしてるうちに鉢かづきに何かあったらどうするですか」
「何かって?」
「もうお前に振り向いてもらえないと悟って若気の至りでとんでもない彼氏作っちゃうとか」
そのスペーメの言葉に太李が想像したのはいかにも不良のリーゼント頭の男と仲睦まじげに腕を組む巳令の姿だった。
「いや、まさか」と否定の言葉を口にすると「分からないなのですよ女子高校生って奴は」とスペーメが嫌に深刻そうに告げる。
そんな一人と一体を見ながら「何お話してるのかな?」と梨花はトランプをまとめながら首を傾げた。
「さあ。でもとても楽しそう」
ちょっと羨ましいです、とぼそりと続けた巳令を不思議そうに見つめていた柚樹葉の携帯が突然鳴り響く。
立ち上がった柚樹葉は各々から距離を置きつつそれに応答した。
「あ、そうだ、今度はみれー先輩とマリアさんもゆずちゃん先輩も一緒にやりましょ! ババ抜き!」
「お、いいぜ。こう見えてあたしはな、日本に住んでた頃はババ抜きの女帝なんて家の中で恐れられてたもんだぜ」
「なんだそのコメントに困る称号は」
誇らしげなマリアに南波が冷たく返すと「いや、馬鹿にすんなよ。こう見えてマジでつえーぞあたし」とマリアはにっと笑った。
トランプをきりながら梨花が告げる。
「なんだか意外です……マリアさん、その、こういうの、やるんですね?」
「ああ。たまにな。負けた奴は風呂掃除だったから死ぬ気でやったもんだぜ」
「なんですかそれ」
くすくす笑う巳令にへへっとマリアも笑い返した。
そこで通話を終えた柚樹葉が真面目そうな顔をして戻ってきた。
「ごめんね。私は一旦本部ビルへ戻るよ」
「どうしたんですか?」
「いや、少し制御システムの調子が悪いらしくて。調整に戻るだけ」
スペーメ、と彼女が呼びかけると「はいです!」と太李の腕から抜け出したスペーメがぴょんと柚樹葉の肩に飛び乗った。
「それじゃ、マリア、鈴丸が帰ってきたらよろしく伝えておいて」
「おー」
背を向ける柚樹葉にマリアが手を振った。
それから疲れ切った様子の太李に「ほら、灰尾もやろーぜ。ババ抜き」と笑いかけた。
泡夢の本部ビルのエントランスに辿りついた柚樹葉はふと足を止めた。
警備員に呼び止められて、カバンの中を検査させられているだぼだぼの作業服姿の男がいたからである。帽子を深く被っているせいでその顔までは見えない。
受付カウンターまで向かった彼女は「あれなに?」と男を指差しながら受付嬢に声をかけた。
「ああ、今日、水道管の検査があるらしくて」
「一人でやるの?」
「いえ、責任者の方が先に下見にとのことでした」
「……ふーん」
目を細める柚樹葉に「何か?」と受付嬢が首を傾げた。
「ううん。随分体格のいい配管工だと思ってね」
そう言ってから彼女は受付嬢に「システム室に九条が来たと連絡いれてくれる?」はい、と受付嬢は人のよさそうな笑顔を浮かべた。
人混みの中に柚樹葉が飛び込んでいく中で「よいのですか」とスペーメが問いかけた。
「何が?」
「……なんでもないのです」
ははっと柚樹葉は渇いた笑いをあげて、スペーメの頭をぽんぽんと彼女は撫でた。
一方でようやく警備員から解放された男は大荷物を抱えながら受付カウンターまで歩み寄った。
先ほどまで九条柚樹葉がここにいたことを思い返しながら「入館証を」はい、と受付嬢がケースに手を伸ばした。
サングラスの奥にある瞳を彼女に向けたまま、落ち着かない様子で顎ひげに手を伸ばす彼に「どうぞ」と受付嬢は笑顔で入館証を差し出した。
「どうも」
「お帰りの際はこちらに入館証をお返しください」
返せるかなぁ、と心の中で呟きながら男はもう一度だけ彼女に頭を下げた。
カバンを担ぎ直しながら彼はギリギリしまりそうだったエレベーターに駆け込んで五階のボタンを押した。一般の入館証で入れる限界だった。
降りて行く社員の波に紛れてそこに降りた男は迷わずトイレの方へ向かうとカバンの中から立ち入り禁止の立札をそこに置いた。
幸いなことに、中には誰もいなかった。ふぅ、を息をついてから男はカバンを床に放ると帽子とサングラスをさっさと取っ払い、顎のひげに手を伸ばすとそれを一思いに剥がしてしまった。付けひげだった。
もう少し、手間取ると思ってたんだけど。鏡の向こう側に映る普段の自分に彼は苦笑した。
そこにいたのはもう、配管工の男などではなく、傭兵・蒲生鈴丸だった。
大きめの作業着を脱ぎ捨てた彼はぴったりとしたスーツを着込んでいた。二重底になっていたカバンの中からリュックサックを取り出した彼は必要最低限の道具をその中に移し替えた。
スーツのポケットから黒縁の伊達眼鏡を取り出すとそれをかけ、帽子の下で乱れてしまった髪を整える。
パッと見るだけならば、普段から傭兵として高校生たちにあれやこれや言ってきた男とは思われない。腕時計をはめながら鈴丸は「うっし」と両手で頬を張るとトイレから出た。
わざわざ猫背を作りながらおどおどと辺りを見渡す。我ながらわざとらしいな、と思いながら鈴丸は一人の男性職員に目をつけた。
タイミングを見計らって男の目の前に体を滑り込ませる。鈴丸の狙い通り、男はバランスを崩し、その場に座り込んだ。
「あ、す、すみません! ぼ、ボク、つい慌てて」
わざとらしいほどの猫なで声を作ってあわわと男に手を伸ばす。
鈴丸の手を借り、立ち上がった男は「新しく入った人?」と問いかけてきた。いいから行けよ! 心の中でごちつつ、鈴丸は笑顔を作ってそれに答える。
「は、はい。営業部の方に……、引き抜きで、あ、その、お怪我は?」
「ああ、大丈夫大丈夫。大変だねぇ、この時期から」
「い、いえ、好きでやってますから」
話がなげぇんだよおっさん! 心の中で悪態をつきつつ彼は必死に取り繕った。
「いいねぇ、仕事に自信が持てる! その調子で頑張ってくれ! 石の上にも三年というしね!」
「は、はい……為になります」
何年目か分からなくなるくらいにはこの仕事やってるわ。
それでも鈴丸は気弱な後輩職員を演じきった。はっはっは、と高笑いしながら「また会おうじゃないか!」と彼は立ち去って行った。
「……本当に、ありがとうございました」
手の内に収まっていた職員用のIDカードを見ながら鈴丸は口元で笑みを浮かべた。
南波の手に握られた二枚のトランプに指を伸ばしながらごくんと太李は唾を飲んだ。
太李がどちらのカードに手を伸ばしても南波は表情一つ変えない。だからこそ、難しい。これがポーカーフェイスという奴かと思いながら直感的に太李は右側にあったカードを引き抜いた。
それがハートの五だと分かるやぱっとトランプの山に放り投げてガッツポーズ。
「よっしゃ! 南波に勝った! 南波には勝った!」
「……お前に負けたと思うとなんか凄いいらっとする」
太李に冷たい視線を向けながら彼はそう吐き捨てた。いまだに嬉しそうな太李の後ろでその台詞を聞いたよもぎが「まっけおっしみーまっけおっしみ」と適当なメロディをつけて歌っている。
間もなく、そんな彼女の頭に南波の手刀が振り下ろされた。
身悶えるよもぎを無視してトランプをまとめていた巳令が「そういえば」とマリアを見上げた。
「ん?」
「単純な疑問なんですけど、マリアさんはどうして傭兵に? 言いたくなかったらいいんですけど」
巳令の問いにマリアは銀髪を掻き毟りながら「そうさなぁ」と考え込んだ。
「んまぁ、なりゆきかな」
「なりゆき、ですか?」
びっくりした風に身を乗り出す梨花に「おう」と返した。
「前にも言ったかもしれねーがあたしはそもそもは実家の教会でシスターをやってたんだ」
自分の前職はシスターだ。そう言っていたマリアのことを太李は思い出した。
「親父が神父で、母さんがシスター。そんな中にあたしも入って、小さい教会だったが幸せにやってた」
「それが、どうして傭兵に」
南波の言葉に「最初に言っとく。湿っぽい話になる」と前置きしてからマリアは続けた。
「ある日親父は、知り合いの婆様とその息子を助けるために家を飛び出して、そのまま帰ってこなかった」
「……帰ってこなかったって」
「不幸な事故と言えばいいのか、神様のお導きだとでも言うのか、悪魔の仕業とでも言えばいいのか、親父は死んだ。殺された」
はっと笑いながらマリアは更に、
「あたしは、怖くて親父を止められなかった。心にどこかで親父は危ないかもしれないと分かっていたのに。それがずっと心のどこかに溜まってて、とても納得できなかった。親父の死を納得できなくて、色々あってあたしは半ば逃げるように日本に来た」
うーんと難しそうに唸りながら続ける。
「いや、目的はあったのかもしれない。それを勝手に使命と言い聞かせ、あたしは親父を見殺しにした事実から逃げたんだ」
「……マリアさんのせいじゃ」
「あたしのせいじゃねぇ。妹にもそう言われた。挙句、神の前で許されちまった始末だ。だから、今じゃあたしの中でもう終わってる。でも当時のあたしはとてもじゃないがそう思えなかったんだ」
太李に笑いかけてから「だからあたしは自分で決着をつけた。自己満足だった目的を達成して、色んなことにケリをつけた」
ただ、と碧眼を伏せた。
「そうなっちまうと、あたしは目的を完全に失った。国にも帰れず、シスターにも戻れず、何をしたいというわけでもねぇ。そのときのあたしは抜け殻だった」
ぎゅっと手を握りしめながら「周りのダチは、色んな目標を見つけて行った。だから焦ったんだよ。あたしにはそういうのがなかった」そんなとき、とマリアは窓の外を見た。
「あたしは、ベルに出会った。傭兵になって一緒に、世界中の困ってる人を助けましょうってそう言ってくれた」
笑っちまうよな、と彼女は真後ろのベッドに倒れ込んだ。
「一度は、シスターをやめ、人を救うことから逃げたあたしがまた人助けなんて。でもあたしはそれにすがるしかなかった」
「だから、傭兵に?」
よもぎの問いかけにおうとマリアが笑う。しゅんと巳令が項垂れた。
「なんか、すいません」
「あ? 別にいいって。終わった話だし。こうしてつるんでる以上はいつかはあたしがこういう人間だって話はお前らにしないといけないなと思ってたし。ベルに感謝してるし」
だから何かあったなら力になりたいんだけどな、とマリアは心の中で溜め息を吐いた。
それから「だぁ! そんな湿っぽくなんなよ! やめろってば!」と銀髪を掻き毟って彼女が言う。
「こういうときはあれだ! 焼肉食いに行くぞ! 焼肉!」
「え、なんでですか?」
「うっせぇ! あたしが食いたいんだよ!」
怒鳴りながら起き上がったマリアは「奢ってやるから来い! パーッと食うぞ!」と部屋から飛び出して行った。
カタカタとキーボードを叩きながら柚樹葉はぐっと唇を噛み締めた。
おかしい。どこにも不具合なんて見られないのに。
同じように判断したのか「柚樹葉、これおかしいのです」とスペーメが顔を上げた。
「やっぱり? こっちもプログラム上の不備は全く見られない」
「もしかして第三者が何かしたんじゃないです?」
「まさか」
ぱち、と手を止めながら柚樹葉は顔をしかめた。
「そこらへんの防御システムとはレベルが違うんだよ? それこそウイルスなんてそうそう簡単に」
「最先端は案外アナログに弱いのです」
ぽふんと自分の膝に座るスペーメを見て「なるほど」と柚樹葉は頭を掻いた。
もし本当にスペーメの言う通りだとしたら。顔をしかめているとばちっと柚樹葉のパソコンの電源が落ちた。
「ただの馬鹿だと思ってたけど厄介な相手だったのかもね」
周りでざわめく職員たちに「うるさいな! これならまだ攻撃の初期段階だ。相手もこっちのシステムを完全に落としきれてない。君らはいい歳した大人なんだからどうすればいいかくらい自分で考えて!」と言い放つと彼女は白衣のポケットから自分の携帯端末を取り出して、下へと潜り込んだ。コンピュータの蓋を強引にこじ開けて、ぱっぱと繋ぐと起動させる。
「何が落ちてもここだけは落とされるわけにはいかないね」
「はいです!」
そう頷き合った瞬間、今度は警報が鳴り響く。ディスペアの出現とは違うものだ。
それに構わず柚樹葉は画面を睨み付けた。ぴょんと柚樹葉の膝から飛び降りたスペーメは一人で職員の足元まで行くと「おいお前! これはなんの騒ぎですか!」と問いかけた。
「そ、それが五階の火災報知器が作動したらしくて」
「五階?」
何やってるんだ、とスペーメは白い体を震わせた。入館証で入れる限界の階。それだけで自分が先ほど視認していた鈴丸の仕業の可能性が高いことくらい判断はできた。
居ても立ってもいられずにスペーメは扉の小さな隙間から廊下へ飛び出した。警備員が職員たちが忙しく行き来している。
とにかく五階に降りなければとスペーメが前足を振り上げたと同時にその体が持ち上げられた。
「よう、久々だなスペーメ」
自分の頭上から聞こえた声にスペーメは口を開いた。
「何やってるですかがも、むぐ!」
「あんまり騒ぐな。正式なアポとって中にいるわけじゃないから」
スペーメの口を塞いだのは鈴丸の手だった。
鈴丸は小さな口を手で覆ったままで低く告げる。
「俺のIDカードはどこだ。まだ処分されてないよな」
ぱっと鈴丸の手が放れる。
「し、知らないのです。持ってるとしたらベルガモットなのです」
「ベルは駄目だ」
「どうしてお前のIDカードがいるですか」
スペーメの問いかけに「仕事で使う」
「……スペーメはここでは柚樹葉の予備ID代わりです。といっても出来るのはせいぜいシステム起動くらいですが」
「何が言いたい?」
「お前の手助けをしてやるです。だからお前も柚樹葉を助けろなのです」
鈴丸は小さく舌打ちした。ロボットの癖に取引きとは生意気な。
だがここまで来た以上、彼も後戻りはできなかった。
「分かった」
それだけ言うと彼はリュックから筒を取り出して、放り投げた。
彼の手を離れ、地面に叩き付けられた瞬間、筒が煙を吐き出した。天井に取り付けられていた火災報知器が鳴り響く。
「やっぱりお前の仕業だったですか」
「火ぃつけてないだけマシだと思え」
スペーメを抱きかかえながら鈴丸は走り出した。
至る所で鳴り響いている警報が不愉快で仕方ないと九鬼は眉間に皺を刻み込んだ。
先ほど内線で発煙筒が火災報知機の下に設置されていただけとは言われていたがそれでも止まない警報は彼にとって不快でしかない。
役立たず共が、と内心吐き捨てていると今日何度目か分からない内線が鳴り響く。荒々しくそれを拾い上げた。
「今度はなんだ!」
「申し訳ありません九鬼主任、ご確認願いたいことがあるのでロビーまで来た頂けますか?」
電話越しに聞こえてきた若い男の声に九鬼は更に苛立った。
「ああ、すぐ行く!」
乱暴に受話器を叩き付けてから彼はパソコンの電源を落として、立ち上がった。
扉を開け、そのまま廊下を進んでいく。その後ろ姿を見つめながら扉の後ろに隠れていた鈴丸とスペーメが中に潜り込んだ。
内線に無理やり繋いで、九鬼を誘い出す。簡単なもんだ、と鈴丸は心の中で笑っていた。
電源が消えたパソコンを見つめながら、彼はスペーメに促した。
「スペーメ、頼む」
「任せるです」
財団内の全てのパソコンはIDがなければ起動できない仕様になっている。IDのスキャナーにべったり張り付くスペーメは感心したように告げる。
「にしても、蒲生は器用なのです。声、全然違ったですよ」
「まーな。これくらいできないと色々不便だから」
喉元に手をやりながら鈴丸が苦笑すると「蒲生はどうして傭兵なのですか」と問いかけた。
彼はスペーメが予想していたよりも早くそれに答えた。
「金が欲しかったから。一番儲かるんだよ、これが」
パソコンが再び立ち上がる。
IDとパスワードの要求に怯みもせず、彼はキーボードで決められた英数字を打ち込んだ。なぜ知っている、とは聞かずにスペーメは質問を続けた。
「その仕事は好きですか?」
「好きとか、嫌いとかってもんじゃないだろ。金が入るからやってるだけだ」
画面を食い入るように見つめながら「天職だとは思ってるよ、我ながら」同意なのです、とスペーメは丸くなった。
「でも、ま。今やってることは楽しいかな」
手慣れた様子でエンターキーを押すとぐぐっと腕を伸ばした。
これで自分の仕事は終わりだ。残りは向こうが勝手にやってくれるだろう。
「んで? どうやって柚樹葉を助ければいい?」
鈴丸の問いかけに「今からお前はスペーメの言う通りに指を動かせばよいです。こっちからまとめてぶっ潰すです」とスペーメは彼の肩に飛び乗った。
うっし、と鈴丸が笑う。
クーラーのよく利いたロビーで九鬼は腕を組み、足踏みをしながら周囲に自分がいかに不機嫌であるかを知らせていた。
九鬼の周りにはそんな空気を嫌って誰も近づかない。そんな中で、かつかつと足音が響く。
夏という季節には不釣り合いな黒いブーツに真っ白なナポレオンコートに身を包んだ彼女は「九鬼さん」と声をあげた。九鬼は彼女の方へ振り返り、驚愕で目を見開いた。
「ベルガモット……いつ」
「ご迷惑をおかけてして申し訳ありませんでした。突然お呼びしたことも謝ります」
ぺこりと頭を下げるベルに彼は「どういうつもりだね」と低く問いかけた。
「いえ、ただの確認ですよ」
「確認だと?」
愛想のいい笑顔を浮かべたままのベルに九鬼が不愉快そうに顔を歪めていると「やあ、九鬼くん」と初老の男性がゆっくり二人の元へ歩み寄った。それに九鬼は背筋が凍るかと思ってしまった。
「佐ケ野会長……!?」
白髪が混じりの髪をオールバックにしたこの男は、この泡夢財団の会長という身分だった。
冷や汗が流れるのを感じながら九鬼がごくりと息を飲むと佐ケ野はのんびりと話し出した。
「いやぁ、フェエーリコ・クインテットの活躍は聞き及んでいるよ。先日もトレイターたちの拠点を潰したとかどうとか」
「ええ、まぁ……」
「でも、実は昨夜、こんなものが私のところに届いてね」
そう言って佐ケ野が取り出した紙の束を九鬼は奪い取るように見た。
告発状と書かれたそれには匿名で泡夢財団にトレイターと繋がりのある職員がいることが書かれている。
そして最後には九鬼が名指しされていた。
「な、まさか、会長、こんなでたらめを信じてらっしゃると」
「まさか。優秀な君がそんなわけないだろうと私も思っているが」
送られてきた以上は、ね。と佐ケ野が薄く笑う。それをうすら寒いとすら彼は思った。
そんな重苦しい空気の中、持っていたタブレットを開いたベルがわざとらしく声をあげた。
「あらあら、大変です、佐ケ野会長。どうして、なぜだか、トレイターとは無縁でスパイでもなんでもないはずの九鬼さんのパソコンに入っていたデータとしてこの間壊滅させた拠点の見取り図や詳細な指示書が送られてきました」
その言葉に、九鬼はベルを睨み付けた。
彼女の手元には鈴丸から転送されていたデータを示すタブレットがある。
「ベルガモット、まさか、貴様、はじめからこれが」
「あ、ここなんか九鬼さんの名前があります。灰尾太李が連れ去られてから、私たちがこの場で待機するように仕向けろということらしいですね」
「これは罠だ」
「まぁ、しかも今さっきまでフェエーリコ・クインテットの変身システムを攻撃していたウイルスの制御プログラムまでありました」
九鬼が眉を寄せた。
「今さっきまで?」
「はい。もう、うちの優秀すぎて困っちゃう傭兵がきちんと阻止しました」
がっと自分の部屋の方を睨み付けながら九鬼は喉が潰れんばかりに叫んだ。
「蒲生鈴丸!」
当然それに鈴丸が答えるはずもない。
自分を見つめている佐ケ野に九鬼は必死にしがみついた。そこにはもはや、今まで溢れかえっていた自信も、余裕も、プライドすらもない。
「ち、違うんです会長、私はこの女に」
「傭兵団体アシーナ専属チームテセウス、五月某日に仲介人ベルガモットを通し、泡夢財団と契約を結びました」
淡々と、ベルガモットが続ける。
「依頼人は、泡夢財団会長、佐ケ野 義照。依頼内容は」
九鬼を見下ろしながらベルは非情なまでに明るい笑みを浮かべた。
「ディスペア撲滅プロジェクト主任、九鬼 孝明の外部組織との癒着の調査です」
そこで九鬼は、完全に言葉を失った。
はじめから泡夢財団の上層部が疑っていたのはマリアや鈴丸などではない。九鬼自身だ。だから裏側でこっそりと彼女は動き回った。
茫然とする九鬼の手を振りほどきながら「残念だよ、九鬼くん」と佐ケ野が告げると同時にどこからともなく現れた黒服の男たちが彼を掴み上げた。
はは、と九鬼が笑う。
「なんの茶番だ、これは」
「茶番? 何言ってるの? 自業自得でしょ」
冷たいベルの言葉に九鬼が吠える。
「ベルガモット! 貴様! 俺がどれだけお前に賭けてやったと!」
「知ったこっちゃないわよ。幼気な高校生たちダシにして、自分だけいい思いしようだなんてムシのいいこと考えるからよ。ずるい大人が損する世の中じゃなくっちゃ、あの子たちだって安心できないわ」
にっこり笑うベルに食って掛かろうとしたものの九鬼は両方から固められて、ちっとも動けなかった。覚えてろ、そう叫ぶ彼をふんとベルは笑い飛ばした。
どこかに連れ去られていく九鬼を見ながら隣にいた佐ケ野が告げる。
「ご苦労だった。ベルガモット君」
「いえ、むしろ突然部下をこの仕事に絡ませてしまって申し訳ありませんでした。わたくしの不手際です」
ぺこりと頭を下げるベルが言っているのは鈴丸のことだった。
本来ならフェエーリコ・クインテットのアシスタンという表面上の依頼に隠れ、この依頼は水面下でベル一人の手によって進められるはずのものだった。
ところが、それに目ざとく気付いたのが鈴丸だった。相変わらず金の匂いを嗅ぎつけるのが得意な男だと彼女はいっそ感心すらしてしまった。
ははっと佐ケ野が笑う。
「なに、気にすることはない。彼にはよく働いて貰っているからね、臨時ボーナスだとでも思えば。ただ発煙筒はやりすぎだと言ってくれ」
「はい、よく言って聞かせます」
「それより、大丈夫かい。和歌くん、色々と」
懐かしい名前に、彼女は困ったように頬をかいた。嫌がらせ、の意思はないのだろうとベルは判断した。
「ひとまずは。それに会長のご厚意でやっとここまで来られたんです、無駄にはできません」
「そうか」
ふんわりと笑った佐ケ野は「それじゃあこれからも頼むよ」とぽんとベルの肩に手を置いた。
そうだ、自分はここで立ち止まっているわけにはいかないのだ。
ぎゅっと拳を握りしめて、彼女は佐ケ野の背が見えなくなるまで深々と頭を下げ続けた。
柚樹葉は復旧したコンピュータを見てはぁーと息を吐いた。
まるで処理が追いついていなかったウイルスが嘘のように消えて行った。大方、スペーメと鈴丸の仕業だろうと思いつつだらりと椅子に腰かけた。
それを待っていたかのように彼女の携帯が鳴り響く。発信者は太李だった。
「なに?」
「あ、九条さん? どう? 仕事終わった?」
「たった今だよ」
げっそり答えると「そうか、ならよかった」と彼が言う。
「これからマリアさんが奢ってくれるから、焼き肉行くんだけどよかったら九条さんも」
「……へぇ」
全くいいね、君らは気ままで。
うんざりした風に天井を仰ぎながら「なに、鈴丸とベルガモットも連れて行けばいい?」
「きてくれんのかな」
「大丈夫、あの二人、今はきっと君らと話がしたくて仕方ないはずだよ」
色々積もる話があるはずだ。私にも彼らにも。
そんなことを考えながら柚樹葉は「すぐに合流しよう」ときっぱり告げた。
長い焼き肉パーティになりそうだ。そう一人笑いながらである。