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第十四話「合宿で何やら青春っぽいイベントが起こりそうです」

 すっかり空になった食器を重ねながら紅葉は大げさなほど驚いた声をあげた。

「ええー、おにい、明日からいないのー?」

「ん、まぁな」

 自分の手元にあった皿も差し出しながら太李が頷けばむーっと紅葉は唇を尖らせる。

「なんだよそれー。夏休み初日からいきなし旅行かよー」

「いや、一応名目は合宿なんだけどな」

 旅行といった方が都合がよかったかもしれないと太李は少しだけ後悔した。

 終業式も終え、明日からいよいよ夏休みに突入するのだがその初日から合宿が始まると教えられたのはほんの数日ほど前だった。

 何も初日からいきなり行くこともないのではないかとは言ってみたものの「あら、早い方がいいでしょ?」とのベルの一声で決行される次第になった。

「なんだよ、おにいに宿題見て貰ってはやめに片付けようと思ってたのにー」

 けっと顔を逸らす紅葉に太李は苦笑する。

 ぶーぶーと紅葉は不機嫌そうに頬を膨らませていたがやがて、何かを思い出したかのようにあ、と声を漏らした。

「もしかして、あの美人さんも一緒かね?」

 きらきらと目を輝かせる紅葉に太李は首を傾げた。

「美人?」

「とぼけなさんなよー。あのショートヘアの美人さんだよ」

「ああ、お前鉢峰のこと言ってんの?」

 こくこくと頷く紅葉に「一応一緒だけど」と答えればがたっと立ち上がって自分の体を抱き締めた。

「マジかよ! やっぱり仲いいんだね紅葉ちゃんの読み通りですわ! いやらしい!」

「別に二人っきりってわけじゃないし……」

「とかなんとかいって二人で抜け出してランデブーだろ! 青春だぁ!」

 きゃーきゃーはしゃぎながら体をクネクネ動かす紅葉に太李が呆れかえっていると「紅葉ちゃんうるさい」と澄み切った声が彼女に向かって飛んだ。

 声の主は黒いエプロンを外しながらくすくすと笑っている。彼女こそ太李たちの実の母親の灰尾 彩花(あやか)である。

「だっておかあー、外泊だよ外泊。お泊りだよやらしーよ」

「やーね、太李くんヘタレだからそんなことできないよ」

「その否定の仕方は地味に傷つくよ母さん」

 机に顔を突っ伏しながら太李が彩花にそう言えば彼女はくすくすと笑って太李の頬を突いた。

「だってほんとでしょ? 太李くんかっこいいのに全然彼女とかできないし」

「母さんそういうのね、親馬鹿っていうの」

「ええー、太李くんの目は節穴だね」

「どうしてそうなった」

 心底楽しそうな彩花にからかわれてるな、と思った太李は苦笑するだけにとどまった。

 それが面白くなかったのか「そ、れ、よ、り」と彩花は彼の隣の椅子に腰かけた。

「なになに、ショートヘアの美人さんって、お母さん初耳だけど」

「だからただのクラスメイトだって」

 あと正義の味方仲間だけど、と心の中で付け足しておいた。

 そんな彼の言葉にけらけらと紅葉が笑う。

「またまたぁ、あんな仲良さそうに歩いといて何を仰るかこのおにい」

「仲良さそうってお前なぁ」

「やだー今度紹介してよー」

 ぎゅーっと彼の手を握りながらにこにこ笑う彩花に「だからそういうんじゃないんだってば……」とがっくり項垂れた。

「ああいうおねえなら私大歓迎だからおにい」

「お前それ間違っても鉢峰の前で言うなよ、絶対言うなよ」

 悩ましそうに太李が頭を抱えると同時に扉の開く音が響く。

 ばっと太李の手から自分の手を離すと「パパだ!」と彩花が嬉しそうに駆け出していく。そのあとに「おとー!」と紅葉が続く。

 なんだかなぁ、と太李は溜め息を吐いた。




 翌日、本部ビルのすぐ目の前に停まった八人乗り自動車に荷物を積み込みながら南波がぼそりと告げた。

「帰りたい……」

「早い早い」

 呆れ顔で太李が返すと南波はがっくりと肩を落とした。

 そんなに嫌か、と思いながら太李は南波とは対照的にわくわくした様子でナップサックの紐をぎゅっと握りしめる巳令を示した。

「ほら見ろ南波、鉢峰なんかあんな楽しそうだぞ」

「うるさいカオスカタルシス」

「もう頼むからそのネタやめてくんないかな」

 震える声でそう言いながら太李が荷台の扉を閉める。


 一方でよもぎが「そういえば」とベルに対して首を傾げた。

「これ八人乗りですよね?」

「ええ、それがどうしたの?」

「一人乗れなくないですか?」

 フェエーリコ・クインテットである自分たち五人、柚樹葉、そしてベルたち傭兵三人。全員で九人だ。

 それにベルが「ああ」と小さく笑った。

「私とマリアは別の軽自動車で行くから。現地で合流ってことになってるわ」

「ああ、なるほど……」

 納得した風に頷くよもぎを一瞥してから「それにしても」と彼女は梨花の方へ視線を向けた。

「梨花さん、そんなにリュックぱんぱんにして一体何が入ってるの?」

「ふぇ?」

 くすくす笑うベルに梨花は不思議そうに彼女を見返した。

 彼女のリュックサックは確かに他のメンバーに比べて大きく、めいっぱい詰め込まれているようである。

「え、えと、お菓子とかあと絆創膏とかお裁縫セットとか」

「あらあら、可愛い中身ね」

「す、すみません……」

 しゅんと小さくなる梨花の肩をぽんぽんと誰かが叩いた。

「んまーあれだ、川に遠足気分で行くと飲みこまれるぞっていう」

「遠足気分なのはあなたでしょ、マリア」

 ひょいっとマリアの横に置いてあったスポーツバッグを拾い上げ、ベルは呆れかえった。

 明らかに梨花のカバンの倍は入るであろうバッグがぱんぱんになっている。

「はい没収没収」

「あ、おいベルふざけんな!」

 勢いよく食い下がるマリアにふんとベルがそっぽを向いた。

 そんなやり取りを見つめていた鈴丸に太李が駆け寄った。

「荷物、積み終わりました」

「おーお疲れ。んじゃ、そろそろ行くぞ」

「はい!」

 力いっぱい返事する巳令に鈴丸は思わず苦笑した。

「さて」と車に乗り込む前に声をかけたのはよもぎだった。

「どー座りましょっか」

「どうってお前……」

 南波とよもぎが同時に太李と巳令を見る。

 二人が不思議そうに自分たちを見返した瞬間、南波とよもぎは頷き合った。

「なんか春風は、益海先輩とめちゃくちゃ隣になりたいです!」

「奇遇だな俺もだ」

 と、お互いを押し込むように南波とよもぎが三列あるうちの二列目のシートに腰を下ろした。

 三人掛けシートの一人分余ったスペースを見ながら柚樹葉に抱き締められていたスペーメが口を開いた。

「じゃあ柚樹葉はいばらの隣に座るのです!」

「え、何、なんで勝手に決めてるの?」

 きょとんとする柚樹葉の腕をよもぎが車内から引っ張った。

「どーぞどーぞ!」

「え、私、君の隣、決定なの?」

「嫌ですか?」

「うん」

「酷い!」

 ぎゃーぎゃーと言い合いながらも渋々といった具合によもぎの隣に腰を下ろす柚樹葉を見て、おろおろと梨花は視線を泳がせた。

 そんな彼女に助け船を出したのは鈴丸だった。

「よーし、梨花、お前助手席来い」

「え?」

「運転中たまに話しかけてくれ。眠くなりそうだから。嫌か?」

「いえ! よ、喜んで!」

 笑顔を浮かべながら梨花が助手席に乗り込んだ。

 そこでようやく自分が置かれている状況に気付いたらしい太李が「あー」と額を押さえた。ちらりと巳令を見て、彼は口を開く。

「俺ら、隣になっちゃうな」

「嫌ですか?」

 ふんわり微笑む巳令に「いや、全然」と太李は首を左右に振った。

「じゃあいいじゃありませんか。早く行きましょう」

「だな」

 三列目に座りながらひとまず太李は目の前に座っている南波を睨み付けた。




 柚樹葉がおもむろにカバンの中から菓子の袋を取り出したのは高速道路に入ったあたりだった。

 頭にスペーメを乗せたままぱんっと封を切って、中身を口に放り込む。気付いたよもぎが問いかけた。

「柚樹葉先輩何食べてるんですか?」

「柿ピー」

 食べる? と差し出されてよもぎは大人しくそれを受け取った。

 ぼりぼりと二人で音を立てながら咀嚼する音を聞きながら文庫本に目を落としていた南波が耐え切れず「おっさんか」とぼそりと呟いた。

 むっと柚樹葉が頬を膨らませた。

「美味しいじゃん、柿ピー」

「もっと女子高生らしい菓子はないのか」

「あとはさきいかと、チータラもあるけど」

「酒のつまみ! 酒のつまみだ!」

 おかしそうに腹を抱えて笑うよもぎに眉を寄せながら「ホタテの貝柱もあるけど」またおかしそうによもぎが笑い転げる。

「なんだよ、じゃあよもぎこそ何持ってきたのさ」

「ふっふっふ、じゃじゃーん!」

 誇らしげによもぎがカバンから取り出したのは五十本入りのカルパスだった。

 それを見た瞬間、「ぶっ」と南波が口元を押さえ、小刻みに震える。驚いて隣を見たよもぎが唇を尖らせた。

「ちょ、なんで笑うんですか益海先輩!」

「お前も大概酒のつまみだ」

「そ、そんなことないっすよ! 美味しいじゃないですか!」

 それからはっとして「ていうか」と慌ててよもぎは南波の顔を覗き込んだ。

「先輩笑いましたね! 見せてください! 春風にますみんスマイル見せてください!」

「気色悪い名前つけるな」

「あう!」

 自分の方によせられるよもぎの顔に手刀を喰らわせてから南波は再び文庫本を開いた。

 ぶーっと頬を膨らませながらよもぎがぼそりと告げる。

「そんな益海先輩にはカルパスあげませんから」

「別にいいけど」

「えええ!」

 びくっと肩を跳ね上がらせてから「せ、先輩、カルパスお好きじゃありませんでしたっけ?」とよもぎが恐る恐る尋ねた。

 きょとんとしながら彼はあっさりそれに答える。

「カルパスが好きなのは俺じゃなくて京さんだ」

「ジーザス!」

 勢いよくよもぎがカルパスの袋に顔を叩き付けた。

 自分の記憶違いだったのか、とよもぎは肩を落とす。どうせ南波のことだから何も持ってこないだろうし、どうせなら食べたいものをと思ったのに。

「ああ、もう、ああもう」

「元気出すがよいです」

 柚樹葉の頭からよもぎの肩へと飛び移ったスペーメがすりすり彼女の頬に顔を押し付けた。

 その小さな頭を撫でながら「ありがとスペちゃん」とよもぎは薄く笑った。

 溜め息を吐いて南波が視線は文庫本に落としたまま手を差し出した。

「春風、ん」

「はい?」

「カルパス」

 ぱぁっとよもぎが顔を輝かせ、「はい喜んで!」と彼の掌にカルパスをのせる。

 それから彼女はじーっと自分たちを見つめていた柚樹葉に「柚樹葉先輩もどーぞ!」と無理やりカルパスを握らせた。

「あ、あーうんありがと。じゃあ、さきいかいる?」

「はい!」

 楽しそうなよもぎを見ながらまぁいっかと柚樹葉はさきいかの封を切った。




 こくん、こくんと首を上下させる巳令を見ながら「鉢峰?」と太李が彼女の肩を軽く揺さぶった。

 巳令はびくっと跳ね上がってからぐわっと太李の方を向いた。

「な、なんだ灰尾でしたか……驚きました」

「あ、ごめん。もしかして眠い?」

「はい、実は」

 眠たげに目をこする巳令は小さく欠伸をしてから恥ずかしそうに顔を俯かせた。

「昨日はあまり眠れなくって」

「……もしかして楽しみすぎて眠れなかったっていうあれ?」

 えへ、と誤魔化すように笑う巳令に太李は呆れかえってしまった。

「お前なぁ、小学生じゃないんだから」

「お恥ずかしい限りです……」

 ふわぁ、と巳令がまた一つ小さく欠伸する。

 巳令が今回の合宿を心の底から楽しみにしていたことは太李も分かっていたつもりだったがまさかここまでとは、と太李は苦笑する。

 同時に、自分たちと出かけることをここまで心待ちにして望んでいてくれていたと思うと太李は無性に嬉しくなった。

「よっぽど楽しみだったんだな」

 太李が尋ねると巳令がにっこり微笑んだ。

「勿論です。とっても楽しみでした。今はとても楽しい」

「まだ移動中だぞ」

「こうしてみんなで同じ場所に向かうってだけで私にはもう充分すぎるくらいです」

 ふふっと本当に楽しそうに笑う巳令に「そうか」とだけ太李は返した。

 はじめて出会ったその日の人を拒絶するような巳令とはまるで違った。純粋な笑顔だった。今の方がいいな、と太李は若干思った。

「で、楽しみだったのは結構だけど、やっぱり睡眠はきちんととれよ?」

「あ、やっぱり駄目ですか」

「駄目だろ。移動、時間かかるって言ってたし、今のうちに眠っとけよ」

 うー、と小さく唸りながらやがて巳令は背もたれに身を投げ出した。

「着いたらちゃんと起こしてくださいね?」

「はいはい、起こす起こす」

「約束ですよ」

「はい約束しますします。だから寝てろって」

 疑わしそうな視線を太李に向けてから巳令はやがて目を閉じた。

 うとうととしていただけあって、巳令の方から穏やかな寝息が聞こえてくるようになったのはそのあとすぐのことだった。太李がそちらに視線を投げかけると黒い髪の隙間からあどけない寝顔が見える。

 真っ白で滑らかな肌に漆黒色の髪はよく映える。伏せられている長いまつ毛に整った唇は清楚で、まるで作り物のようだった。

「美人、だよなぁ」

 まるで確認するかのようにぼそっと呟いてからいかんいかんと首を左右に振って頬杖を突きながら太李は黙って目を閉じた。




 ぎゅっとリュックサックを抱き締めながら梨花が声を絞り出した。

「す、鈴丸ひゃん!」

「ん?」

 ハンドルを握り、あくまで視線は前に向けたまま鈴丸がそれに反応した。

 梨花は声が裏返ったのが恥ずかしくて顔を真っ赤にしながら「あ、あのその」となんとか話題を探した。

「きょ、今日はお天気があの、ちが、ええと」

 何を話題にすればいいのだろう、と梨花の頭の中は混乱していた。これを道中ずっと繰り返しているのだから可愛いもんだと鈴丸はしみじみ思う。

 やがて話題が見つからず、梨花はリュックサックに顔を埋める。これの繰り返しだ。

 しかし、今回はそれで終わりにはならなかったようで「す、鈴丸さんにはできないことって、ありますか?」と小さな声で問いかけた。

「できないこと? 俺が? そりゃ、色々あるだろ」

「……ほんとですか?」

「なんでそこを疑われなきゃならん」

 不思議そうにする鈴丸に「だって」と梨花。

「本当に、鈴丸さんならなんでもできそうだから」

 目を伏せる梨花に「んなわけないだろ」と鈴丸が笑う。

「じゃあ、例えば何ができないんですか?」

 むっとした風に自分に問う梨花に鈴丸は考え込んだ。

 自分に出来ないこと。なんだろう。しばし、考え込んでからアクセルを踏んで彼は梨花に言う。

「梨花、俺にできなさそうなことをあげてけ」

「え?」

 驚いて目を見開いてから梨花は少し間を空けてから口を開いた。

「お、お料理?」

「昔、海外のお偉いさんの家の調理場に潜り込む仕事があってな」

「えと、お裁縫?」

「マリアがボロボロにしてくる服を直すのは俺の仕事でだな」

「ギター!」

「ギターどころかベースもドラムもどんと来い」

「陶芸!」

「やった回数は少ないけど知識としては」

 そこまでやり取りしたところで梨花がくすくすと笑う。

「や、やっぱりできないことないじゃないですか」

「そうかもな」

「はぁー凄いなぁ」

 再びリュックにぼすんと顔を埋めながら「あ、あたしも、鈴丸さんみたいになりたいなぁ」それに鈴丸は思わず顔を引きつらせた。

「やめとけやめとけ。俺みたいになるとろくなことない」

「うー」

「梨花は、梨花のままで充分だ」

 ぽんぽんと鈴丸が梨花の頭を撫でる。

 まだ納得しなさげな梨花を横目に車が停まる。後ろに振り返って鈴丸が「おら、着いたぞ」と声をかける。

「うおお、やっと……! 体バキバキっすよー」

「そういえば後ろが嫌に静かだけど」

 と柚樹葉は振り返って、ははぁとわざとらしく漏らす。

「どうしたんですか、柚樹葉先輩」

「見てみれば分かるよ」

 うんざりしたようにそう告げ、正面に向き直る柚樹葉と代わるように後ろを振り向いたよもぎは「おやま」と一言だけこぼした。

 三列目では巳令と太李が仲良く頭をくっつけながら寄り添って、穏やかに眠っている。

「やーに静かだと思ってたらそういうことでしたか。これで付き合ってないんだから恐ろしいぜ」

「え、何、寝てんの?」

「そりゃもうぐっすり」

 よもぎの言葉に頭を抱えた鈴丸はシートベルトを外しながら「南波、チョップでもなんでもいいから一発かまして太李だけでも起こせ」とだけ告げた。

 助手席の梨花がシートベルトを外すのに手間取るのを見ながら「なぜ俺が」と南波が問う。

「いいから。男手がないと色々不便なんだよ」

 梨花のシートベルトを外してやってから鈴丸は扉を開けて、外に出た。

 無責任な大人だ、と思いつつ後ろを振り返った南波は手を伸ばしてから太李の額を中指で弾いた。

 たったそれだけのデコピンでも太李の意識を覚醒させるのには充分だったようでびくっと肩を跳ね上がらせてからまだ眠たそうな目を南波に向けながら額を押さえた。

「なにすんだよ南波ぃ……!」

「うるさい。もう着いたぞ」

 つまらなさそうにそう言い放ってから南波はさっさと扉を開けて外に出て行ってしまった。

 そのあとに続いて柚樹葉とよもぎ、梨花が出て行くのを眺めながらそこでようやく彼は自分の左側にずっしりと何かが寄りかかっているのに気が付いた。

 確認しようと視線を投げかけてからそれが未だぐっすり眠ったままの巳令だと気付いて更に動揺した。

「うわ、ちょ、鉢峰、起きろ」

 ゆさゆさと巳令の体を揺さぶると彼女はようやく重そうなまぶたを押し上げ、ぼーっとした表情で太李を見上げ、へにゃんと笑った。

「あ、灰尾……」

「お、おう。ほら、着いたってさ。降りるぞ」

「んん、もう十分だけ」

「駄目です! ほら、降りる!」

 また自分に寄りかかって睡魔を貪ろうとしている巳令を無理やり引っ張って、太李も車外へと飛び出した。

 眠たげだった巳令は辛うじてその目を開くと、広がっていた光景に「わぁ」と声をあげた。

 人の手は最低限しか入れていないような河原に流れる川の水が夏の日差しを反射させ、きらきらと輝いていた。周りに生い茂る木が木陰を作りながらさわさわと揺れている。

「お、ベルー! 鈴来た!」

「あら」

 少し離れたところで座っていたマリアとベルが手を振っているのに巳令は思いっきり振り返した。




 とんかんと不規則な音が響き渡る。

 金槌を振りおろし、杭を地面に打ち込んでいた南波は疲れ切ったように思いっきり息を吐くと「終わった」と一言だけで報告を済ませてしまった。

 反対側で同じ作業をしていた鈴丸はそれに頷きながら額に滲んだ汗を拭う。

「うっし、こっちも終わり」

「ということは」

「やっと全部終わったな」

 立ち並ぶ三つのテントを見ながら南波はほっと息をついた。

 一足先に作業を終えていた他の面々が座っているレジャーシートの方へ二人で向かえば「お疲れ様、二人とも」とベルが笑顔で出迎えた。

「おう」

「じゃあ、テントも張り終えたことだし少し早いけどお昼ご飯にしましょうか。これからの予定の確認もしたいし」

 そう言って、ベルは自分の後ろに控えていたバスケットを取り出して微笑んだ。

「お弁当作ってきたの。時間はあんまりなかったから大したものじゃないんだけどね?」

 そんな言葉と共にバスケットの中から出てきたのは綺麗に切り揃えられた色とりどりのサンドイッチだった。

 わっと梨花から歓声があがる。

「凄い……」

「やーね大げさなんだから。あ、これが卵で、こっちが海老カツでこれがハムね。あときゅうりとトマト。今、おてふき渡すから」

 そわそわと待ちきれない様子の梨花に手拭きを渡しながらベルは楽しそうに告げた。

 各々、手を拭きながらいただきますと一声かけて綺麗に切断されたサンドイッチを手に取った。

「どうかしら?」

「とっても美味しいです」

「ならよかったわ」

 卵サンドをかじりながらの巳令の言葉にベルは安心した。

「超美味ですよー。こういう美味しいもの作ってくれる人お嫁さんに欲しいですわー」

「じゃあよもぎさんのおうちに嫁いじゃおうかしら」

「マジですかベル姉様ー!」

 楽しそうに笑い声をあげるよもぎに微笑みかけてから彼女は水筒の中身をコップに注ぎながら「改めて」と手を叩いた。

「まずはみんな、ここまでご苦労様。といってもこれからが本番なんだけどね?」

「本番って、何するんですか?」

 海老カツのサンドイッチを口に放り込みながら太李が尋ねれば、待ってましたとばかりにベルがどこかを指差した。

「ここからもう少し行くと、少し広い場所に出るわ。この川は水が綺麗でね、色んな生き物がいるの。勿論、食べられるものもね」

「はぁ」

「早い話、夕飯の調達」

 鈴丸の言葉にクインテットと柚樹葉がばっと顔をあげた。

「自分で獲って来いってことですか?」

「そうなるわ。獲れなかったら夕飯なし。道具はあるから安心してね」

「水着って、そのために持って来いってことか……」

 はは、と困ったように笑う太李に「これも勉強よ」とベルが悪戯っぽく告げた。

「そういうわけでお昼食べ終わったら近くの更衣室で着替えて、お魚獲りに行きましょう」

 きゅうりのサンドイッチをかじりながらめんどくせーなとマリアは心の中で呟いた。




 ばしゃばしゃと音を立てながら水面を太李が叩くと水中の魚たちは一目散に逃げていく。

 逃げて行った先にはタモ網を構えた南波がいる。見事にタモ網の中に誘導されていった魚たちが逃げようとしたときには遅く、ばっと水から網が引き上げられた。

「入った?」

「入った」

 二人で頷き合いながら岸の方へ上がり、バケツに網の中の魚を放す。中ではすでに捕えられていた二匹の魚が泳ぎまわっている。

 バケツの横に座っていたラッシュガード姿のベルが「凄いわね、また獲れたの?」と楽しげに笑う。

「はい! 俺ら、タモ網があればどんな魚でも獲れるかもしれないです!」

「おい、灰尾。次行くぞ、次」

「おう!」

 また水の中に戻っていく二人を見ながら「若いっていいわねー」とベルがしみじみ呟いた。

「なんだよお前、結局ラッシュガードにしたのかよ」

 後ろから飛んできた声に文句を言ってやろうと振り返ったベルはその言葉を飲みこんだ。

 Tシャツに長ズボン、長靴に釣り用のライフベストを身にまとい、クーラーボックスと釣り道具一式を担いだ鈴丸が自分を見下ろしていた。

 サングラスを外しながらまじまじとバケツの中身を覗き込む鈴丸に「ガチ装備じゃない」とベルは呆れかえった。

「こういうときくらいしかのんびり釣りしてる暇もないだろ?」

「……あなた一人で全員分の夕飯用意できそうね」

「さすがに九人分は無理無理」

 軽く笑う鈴丸に何人分だったら大丈夫なのだろうかと思ったがこれ以上、部下の化け物っぷりを知るのが嫌になってベルは問いかけることをやめた。

「うわ、釣りのお兄さんがいる!」

 きゃっきゃっと明るい声が聞こえて二人が振り返れば着替えに手間取っていたのであろう女子たちがぱたぱたと駆け寄ってきていた。

「おう。遅かったな」

「いやーなかなか梨花先輩が出てきてくれなくてー」

 鮮やかな花柄の水着姿のよもぎの後ろにラッシュパーカーを握りしめたまま動かない梨花がいる。

「りーか」

「や!」

 ふるふると首を左右に振る梨花を意地でも見てやろうと鈴丸は告げる。

「すぐ出てこないとあれだ、お前だけ今度のミーティングで茶菓子なしにするぞ」

「ふぇ!」

 それは困るとばかりに、梨花は慌ててよもぎの背から飛び出した。

 白いパーカーの下に薄桃色のチューブトップ型水着は溢れんばかりの胸を辛うじて押さえつけているようだった。些細な梨花の動きにすら合わせて揺れてしまっている。

 恥ずかしさからか赤らめられた頬とわずかに涙を溜め、自信なさげにおろおろと泳ぐ目が背徳感をそそっていた。

 長く息を吐いた鈴丸は黙って梨花のラッシュパーカーの前を締めるとサングラスを掛け直した。

「す、鈴丸さん……?」

「すまんお前が反則級に可愛くてどうしようか困った」

 はぁーと悩ましそうな鈴丸に梨花の顔はみるみる赤くなった。

 釣り道具を抱えながら「んじゃ、俺もう行くから!」と取り繕うように彼はそそくさと立ち去ってしまった。

「ほ、褒められたんだよね……?」

「ばっちりっすよ、やっぱりこのよもぎちゃんの目に狂いはなかったんです!」

 まだぼーっと呆けたままの梨花によもぎはすりすりと頬ずりした。

「うわ、何あの面白い鈴、きもちわる」

 パレオ付きのひらひらした水着を着たマリアは「らしくねー」とケラケラ笑う。あなたの水着も充分らしくないけどね、と思いながらベルは結局その台詞を口には出さなかった。

 その代わりのようにスペーメを頭に乗せ、水色のワンピース型の水着を着た柚樹葉に「巳令さんは?」と問いかける。

「すぐ来るよ」

「そう」

 彼女が大げさに肩をすくめると同時に太李の声が大きく響いた。

「ベルさん! 魚! また魚獲れた!」

「はいはい」

 まるでお母さんね、と思いながらバケツの方に視線を向けると宣言通り、今度は三匹一緒に魚がバケツの中に放り込まれた。

 おお、とよもぎが歓声をあげた。

「凄い、もうこんなとれたんですか?」

「当然だ。これは俺と灰尾で優勝を貰うしかないらしい」

「いつから優勝とか決まってたの、これ」

 怪訝そうに太李と南波を見上げる柚樹葉だったが特に二人は気にした様子もない。

 やれやれと首を左右に振る柚樹葉の隣に誰かがしゃがみ込んだ。

「やあ、巳令。遅かったね」

「少し忘れ物があって。どうですか?」

「なかなか好調なようだよ」

「なかなかどころか順調そのも……」

 の、を言いかけながら振り返った太李はすっかり黙り込んでしまった。

 黒いフレアトップの水着を着た彼女の白い肌はいつにも増して白く、瑞々しく見える。

 滑らかで白い足に、引き締まった体は健康的な魅力で溢れ返っている。

 思わず見惚れていると巳令が心配そうに顔を歪めた。

「あ……もしかして似合いません?」

「や、逆! すげぇ、似合うと思う」

「……ならよかった」

 ふんわり微笑む巳令に恥ずかしくなった太李はばっと視線を逸らした。




 タモ網を構えながらマリアはなるべく水面を揺らさないようにしながら辺りを見回し、一点で視線を留めた。

 柄をぎゅっと握りしめ、一気に距離を詰めたマリアは網を水面に振りおろし、すくいあげた。

「うおりゃあああ!」

 ばしゃん、と音を立て水が跳ね上がる。

 きらきらと輝く水滴の中に立っているマリアに柚樹葉は呆れたように告げた。

「そんな馬鹿みたいに突っ込んで魚なんて入ってるわけないでしょ。もっと習性とか」

「獲れたぞ」

「……君は本当に型破りもいいところだね」

 網の中でぴちゃぴちゃ跳ねる魚を見ながら柚樹葉は引きつった笑みを浮かべた。

 その反応が面白くなかったのかむっと顔をしかめながらマリアは首を傾げる。

「んじゃそーゆーお前はどうなんだよ。まだ一匹もとれてねーだろ」

「い、今はまだ本調子じゃないだけだよ。この私が魚獲りくらいで苦戦するわけないだろ」

 ふんとそっぽを向く彼女にマリアは「一回くらいお前も突っ込めばいいだろ」

「馬鹿馬鹿しい。そんなので魚が獲れるなら苦労はないさ。君のはまぐれだよ、まぐれ」

「いいからやってみろって。ほら、あそこの奴らとか行けそうだろ」

 にっと笑うマリアに「そんなのうまくいくわけないじゃない」などとぶつぶつ言いながら柚樹葉はタモ網を構え、すくいあげた。

 網を引き寄せて、「あ」と声をこぼす。

「獲れてる……二匹も」

「な?」

 バケツの中に魚を入れる柚樹葉を見ながら楽しそうに笑うマリアに「もう一回! もう一回!」と彼女はタモ網を握りしめて走り出した。


 その光景を見ながら巳令は口元に手をやった。


「あら、柚樹葉も一匹獲れたみたいですね」

「なんですと」

 岩場に腰かけながら釣り糸を垂らしていたよもぎはむむ、と顔をしかめた。

「くぅ、普段ならネットで検索かけて必勝法を探すというウチの必殺技が封じられてしまった今、春風は自分の経験と知識からしか」

「そういえば梨花先輩は?」

「せめて最後まで聞いてくださいよみれー先輩」

 がくっと項垂れてから、そういえばとよもぎは眉を寄せた。

「いませんね……さっきまでそこでぼーっと釣り糸垂らしてたのに」

「ま、まさか流されちゃったとか……」

「いや、いくらなんでも」

 と言いかけてからよもぎは頭を抱えた。

「ありそうだなこんちくしょう! わにゃーとか言いながらどんぶらこっこされてそうだな梨花先輩!」

「ど、どうしましょう」

「どうしましょうって、探すしか――」

「ど、どうしたの?」

 背後から聞こえた声にばっと二人が振り返る。

 そこに立っていたのは何故か土だらけの梨花だった。よもぎが叫ぶ。

「いたー! 心配したんですよ!」

「え、あ、ご、ごめんなさい」

「というか、何してたんですか?」

 巳令のもっともな質問に「えと」と梨花はしゅんと項垂れた。

「あの、エサ変えようかなーってミミズとか探してたらちょっと粘土質の土があったからついついいじりたくなっちゃったっていうか、楽しくなってきちゃったっていうか、うう、ごめんなさい……」

「可愛いから全然いいですけどお魚獲りましょうね」

「ひゃい!」

 巳令の言葉に声を裏返し、びくっと背筋を伸ばす梨花に「よしよし」とよもぎは頷いた。




 辺りはまだ明るいものの支度もあるから終わりにしましょうというベルの言葉で水の中から太李と南波の二人が出た頃にはバケツの中は魚でいっぱいになっていた。

 中身を覗き込みながら「これ、全部食えるのかな」と太李が不思議そうに呟いていると「よっす」と満面の笑みを浮かべるマリアとそれとは対照的に疲れ切った表情でずるずる足を引きずっている柚樹葉がやって来た。

「あら、マリア、どんな感じ?」

「いやーあたしらは全然駄目だったぜー」

 ベルの問いかけにたははと笑うマリアの手元のバケツには大きめの魚が三匹入っているだけだった。

「だから、言ったじゃない、絶対、うまく、いかないって……」

「なんだよーお前だって終始ノリノリだったじゃねーか」

 ちぇっとつまらなさそうにマリアが顔を背ける。

「もう成果発表ですか?」

「おー鉢峰」

 くすくすと楽しそうに微笑む巳令に太李が軽く手を振った。

「ならばはい、どーん!」

 楽しそうにバケツを置いたのはよもぎだった。その中には小さめの魚がうろうろと泳いでいる。

「随分釣ったな」

「いやーほとんど梨花先輩なんですけどね」

 南波の言葉にえへへとよもぎが笑って返す。

「ということはあとはっと。あ、来た来た」

 ベルが手を振る先に居たのは重たそうにクーラーボックスを担いだ鈴丸だった。

「あ、鈴パパおかえりなさい!」

「誰がパパじゃ誰が」

 よもぎの言葉に不満げに返しながら肩からクーラーボックスを下ろす彼に「開けてもいいか?」とマリア。

「おう。あんま期待すんなよ」

「んー」

 マリアが開けたクーラーボックスの中には大小さまざまな魚が詰め込まれた。

「うわ、充分じゃねぇか」

「そうか? すっかり腕が落ちたよ俺も」

 本気でがっかりした様子の鈴丸に「こえーお前超こえー」とマリアが苦笑した。

「まぁ、夕飯に困ることはなさそうだし。着替えて下ごしらえしましょっか」

 ふふっと微笑んだベルが今日は一段と楽しそうに見える。マリアはそう思った。




 日もすっかり落ちた頃にようやく全ての調理が終わったといったところだった。

 それなりの大きさがある魚は焚き火で塩焼きにして、小さめの魚は唐揚げやホイル焼きにされた。

 その料理の数々を見ながらどうしようか迷ってから唐揚げを頬張って幸せそうに微笑む梨花は「そ、そういえば」と思い出したかのようにベルに問う。

「お風呂ってどうするんですか?」

「近くに温泉があるの。そこに行こうかと思ってるのよ」

「温泉!」

 がっとよもぎが身を乗り出した。

「いいですねー温泉、ていうか益海先輩、それ何気、ウチが育てた魚ですけど」

「食わなかった方が悪い」

「この人はいけしゃあしゃあと」

 もぐもぐと塩焼きを南波に冷たい視線を送るよもぎに「おら」とマリアが串刺しの魚を一本差し出した。

「やる。こんなとこでまで喧嘩すんな」

「うー面目ない」

「益海もだ」

「別」

「ま、す、み?」

「……はい」

 自分に圧され、渋々返事する南波ににっとマリアは口の端を引き上げた。

 そんな中、うーと低い唸り声が響く。声の主は柚樹葉の腕の中に居たスペーメだった。

「スペーメもお腹空いたです! 腹ペコなのです!」

「あ、そういえば君、今日充電まだだったね」

 じーっとスペーメを見つめながら柚樹葉がぼそっと告げる。

「どうせうるさいんだし、このまま充電切れにしても」

「なんてこと言うですか! このロボット殺し!」

「充電すればいくらでも再起動できるでしょ、君は」

 そう言いながらカバンを漁った柚樹葉は「あ、しまった、バッテリー、車の中だ。取りに行くの面倒くさい」と顔をしかめた。

「な、どうしてそう準備が悪いですか!」

「しょうがないじゃん、バッテリー自体は水に濡れたらおじゃんなんだから」

「防水加工しやがれです!」

「うっせうっせ」

 言い争う一人と一体を見て「じゃあ私が取ってきましょうか」と巳令が首を傾げた。

「お、いいの?」

「はい。散歩ついでだと思えば」

「さすが鉢かづき! 話が分かるのです!」

 ぴょんと巳令の腕の中に飛び込んだスペーメはそのまま丸くなった。

 そんなスペーメを見ながらくすくすと巳令が笑う。

「というわけなので、車の鍵、貸して貰えますか?」

「ん」

 ぽいっと鈴丸が鍵を放り投げ、それを受け取った巳令は「それじゃあ、すぐ戻りますね」と背を向けた。

 彼女の背中が暗闇の中に見えなくなったところで一部の視線が太李に集まった。魚に噛り付きながらさっと目を逸らす。

「なんで一斉に俺を見るの」

「あら、だって、ねぇ?」

 んふ、と楽しそうにベルが微笑んだ。

 忙しそうに魚を口に運んでいた梨花は今までの流れをあまり理解していなかったようでおろおろと視線を泳がせている。そんな彼女を見ながら「ほら、梨花、口元。ついてるついてる」とマリアが楽しそうにタオルで彼女の口元を拭った。

「灰尾先輩、春風、夜道に女の子一人歩きさせるのはどうかと思うんです」

「じゃあ何も俺じゃなくっても」

 よもぎの言葉にすっと南波と鈴丸に太李が視線を向ける。

「俺は魚を食うのに忙しいから」

「うん、ウチの魚ですけどね」

「いや、俺は梨花を見つめるのに忙しいから」

「何がなんでも俺に行かせる気だなあんたら」

 わざとらしい二人の言い訳に太李は深く溜め息を吐いた。

「分かった、わーったよ。行けばいいんでしょ、行けば」

「駄目よ太李くん、ほら笑って笑って」

 自分の口の端を両方とも人差し指で押し上げながらベルは目を細めた。

 ははと力なく笑いながら立ち上がった太李が巳令の後を追っていく。うーむ、とよもぎが唸る。

「あれで付き合ってないとは」

「ふぇ? あの二人付き合ってないの?」

「ああ、お魚大好きな梨花先輩の目にすらもうカップルに見えてたんですね」

 ふぅ、と疲れたように息を吐くよもぎにお人よしだなぁ、と柚樹葉は心の中で呟いた。

「まぁ、灰尾先輩をからかうのはそれなりにおもしろ」

 とそこまで言いかけて、よもぎはすでに二匹目に伸びかけていた南波の手をぱしんと振り払った。

「だーらそれウチが育ててる奴ですってば! なんでウチのばっかり狙ってるんですか!」

「俺の目の前にあるから」

「なんですかその勝手すぎる理屈!」

「先輩は敬え、春風」

「むっきー! 今日という今日は春風怒りますよー!」

 ぐぐぐっと取っ組み合いを始める南波とよもぎを見ながら二人もそうなんだけどなぁ、と思いつつ梨花はまた魚に噛り付いた。




 ぽつんぽつんと街灯が置かれただけの道を歩きながら巳令は空を見上げた。

 墨を流したような真っ黒な空に降ってきそうだと錯覚しそうなほどの数の星がきらめいていた。生暖かい風に吹かれながら巳令は目を細めた。

「綺麗ですね」

「そうですか? 星なんてちょっとなら別に家からでも見えるのです」

「スペーメはロマンがありませんね」

 むすーっと頬を膨らませながら夜道を進む巳令に「鉢かづき、ここに来てからずっと楽しそうなのです」とぼそりと告げた。

「だって楽しいじゃないですか」

「というより最近はずっと楽しそうなのです」

 静かな夏の夜にやけに響くスペーメの声に巳令は「え?」と聞き返すだけだった。

「前はずーっと仏頂面して、ただディスペアを倒すだけだったのに最近は変わったです。とっても楽しいそうなのです。鉢かづきが楽しそうだから柚樹葉まで楽しそうなのです」

「そうですか?」

 巳令の問いにはいです、とスペーメは短い首を上下させた。

「シンデレラが来てからです」

 そんなスペーメの言葉に巳令は足を止めた。

「そう、ですね」

「そんなに仲間ができたことが嬉しかったです?」

「……勿論、それもあります、けど」

 ぎゅっとスペーメを抱き締めながら巳令は小さく笑った。

 彼女の頭の中に浮かんでいたのは太李が転校してきたその日のことだった。

「灰尾とはじめて会った日に、私、彼に助けて貰ったでしょう? それが、なんだかとっても嬉しくて」

 そこに居たシンデレラは凛々しくもなければお世辞にもかっこいいとは言えなかったろうと巳令は今でも思う。あのとき勝てたのだって奇跡に近い。

「ずっと疑問だったんです、私は誰かを助けているかもしれないけれど、じゃあ私を助けてくれる人はどこにいるんだろうって。そんなことを考えて戦ってる自分がなんだかとても自分勝手なように思えて、大嫌いで。でもやっぱり戦ってることしかできなくて」

 でもあの日、と巳令はスペーメの体に顔を押し付けた。

「凄く勝手だけど、彼はもしかしたら私が求めていた、私がなりたかったヒーローなんじゃないかなって。こんな自分勝手な私すら守ってくれる人がいるんだって思って、なんだか嬉しくなって。私も彼を守りたくて」

 ようやく歩を進めながら彼女は続けた。

「クラスメイトとして過ごして、仲間として過ごして、私はそんなヒーローが大好きなんだなって」

「好きなのですか?」

 スペーメの小さな声に巳令は大きく頷いた。

「大好きです。私、灰尾のことが好きみたいです」

「それはきっと恋なのです」

「そうですね、憧れと一緒に恋慕しちゃったみたいです」

 ふふっと含みのある笑みを浮かべる巳令は「この話、誰にもしちゃ駄目ですよ」とスペーメの頭を撫でた。

 心地よさそうにスペーメは目を細めた。

「心配しなくてもシンデレラ以外にはバレバレなのです」

「マジですか?」

「マジなのです」

「……それはちょっと恥ずかしいですね」

 頬を赤らめながら巳令は顔を俯かせた。




 一瞬で足に力が入らなくなるのが太李にはよく分かった。

 へなへなとその場にへたり込みながら混乱する頭を押さえる。


 ――私、灰尾のことが好きみたいです。


 盗み聞くつもりはなかった。追いつこうとして距離を詰めたら偶然聞こえただけである。そんな偶然の言葉がぐるぐると彼の思考回路に絡みつく。

 好き? 巳令が自分のことを? そんな馬鹿なと思いながらも、しかし彼女がスペーメ相手に嘘を吐くとも到底思えず、嘘を吐いているようにも見えなかった。

 胸の外へ飛び出さんばかりに動く心臓の音が彼の鼓膜にこびり付いた。


 夏の生ぬるい空気が今の太李には冷たく感じられた。


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