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第十話「先輩後輩の仲というのは想像以上に面倒なもののようです」

 窓の外の雨音が大きくなって太李は仰向けになって漫画雑誌を頭に乗せたままうんざりした。

 せっかく部活も、訓練もない日だというのにこれではなんのやる気も起きない。珍しく勉強しようと思っていたのに、と彼は内心不満を募らせていた。

 そういえば、この間梅雨に入ったとか入ってないとか話題になってたっけ、などと考えながらベッドの上から渋々体を起こした彼はぱんっと両頬を叩いた。

 何かをしなければ勿体ない。掃除でもしようと漫画をベッドの上に置くと立ち上がった。

 引っ越してきてからまだ三ヶ月にも満たない、さほど汚れているようにも見えない部屋を見回してから彼は一点で視線を止めた。勉強机の下に押し込むように置かれていた段ボールがあったからである。

 まだ開けてない段ボールなんてあったっけ、と思いながら彼はそれを引きずり出した。一度開封の跡がある。なんだろうと思ってから箱を開けた。

 中には数冊のノートがぽつんと入っているだけだった。なんでこれだけのために、と思いつつ太李はぱらぱらとノートをめくった。


 そして後悔した。

 大学ノートにはびっちりと太李の字で何かが書き込まれている。『カオスカタルシス』、『ヴァーミリオンファントム』そんな丁寧な項目分けのあとに細かく設定らしきものが書き込んである。

 ヒーローになりたかった。そんな憧れをこじらせるあまり書いたものだと思い出すや太李は黙って立ち上がって机の引き出しからガムテープを取り出すと頑丈にそれを閉ざし、油性ペンで『開くな!』とだけ書くと再び机の下へ追いやった。

 それから頭を抱えて、その場に倒れ込んだ。

 俗にいう『中二病』と呼ばれる時期が当然のように太李にもあった。表出しにすることはなかったもののこんな風に自分のなりたいヒーローの設定をつらつらと書き連ねていた時期が。

 今となっては黒歴史もいいところなのだが何より普段から巳令に口うるさく言っている身としてはダメージが倍増して襲ってきた。その場で蹲りながら折れそうになる心を励ます。

 結局、太李の一日はそれ以降はただぼーっと過ごすだけのものになってしまった。

 もう二度とこの段ボールは開かない! 彼は心からそう誓った。




「黒歴史、ですか?」

 よもぎが首をこてんを傾げた。部室には現在彼女と太李しかいなかった。

 昨日起こったことをありのまま話した太李が「うん」と頷く。

「あーまぁ、ありますよ、自分にも。もう二度と見たくない写真とか」

「写真?」

「こういう風になる前の」

 ぺちぺち自分の顔を叩くよもぎにああ、と太李は納得した。

 生まれつきこんなギャル風な格好はしていなかったのだろう。そうなる前がどうだったのか、太李は知らないが彼女は気にしているのかもしれない。

 うっすらそんなことを考えていると「お待たせー」とプラスチック製の大きな横長のカゴを持った梨花が部室に入って来た。

 そっと机の上に置かれたそれが自分たちが作ったものだと理解するのはすぐだった。

「あ、この間のやつ。もう本焼き終わったんですか?」

 よもぎの言葉に梨花が笑顔で頷いた。

「うん! 色々と忙しいから焼けるときに焼いちゃわないと」

 と、それから妙に元気のない太李を見て梨花は心配そうに彼を覗き込んだ。

「ど、どうしたの、灰尾くん。元気ないね……」

「あーまぁ、黒歴史に心を殺されかけて」

 自分の作った器を手に取ってやさぐれた風に返してくる太李に梨花は頭の上いっぱいに疑問符を浮かべた。

 それにくすくす笑いながらよもぎが言う。

「梨花先輩には黒歴史とかなさそうっすよね」

「……そうでもないよ?」

 何を思い出したのか顔を真っ赤にしながら俯く梨花に「自作ポエムとか?」とよもぎが問いかければ彼女はびくんと肩を跳ね上がらせた。

「ひゃ、ひゃんでしっへるの!」

「言えてない言えてない。いや、なんとなく梨花先輩はそういうのやりそうかなぁって」

「うう」

 顔を両手で覆う梨花に「どーせなら今度見せてくださいよー」と冗談めかしてよもぎが言う。

「い、嫌です! 全部捨てちゃいました!」

 首を勢いよく左右に振る梨花にあははとよもぎが笑った。

「冗談ですよー」

「ううう」

 机に突っ伏した梨花を見ながらよもぎが満足そうにしていると部室の扉が開く。

 廊下から入ってきたのは巳令と南波、それに柚樹葉だった。顔だけそちらに向けていたよもぎが感心したように告げた。

「おやおや珍しい三人組で」

「廊下でたまたま会った。というか、なんで二人潰れてるんだ?」

 未だやさぐれ気味の太李と突っ伏したままの梨花を見て、呆れたように言う南波に「あー」とよもぎが頭を掻いた。

「その、灰尾先輩の『カオスカタルシス』の話が発展したあまり」

 よもぎの言葉にがっと太李が立ち上がった。

「ちょっとよもぎちゃん! 鉢峰と南波には言わないって約束したから俺話したのに!」

「あ、春風さんったらうっかり。てへぺろ」

「こんの確信犯めぇぇえ!」

 太李が作品をカゴに戻してからよもぎの肩を掴んで勢いよく前後させる。

 が、時すでに遅しとはこのことで、何のことだか意味が分からないと眉を寄せる南波とは裏腹に彼女の方がそのワードに反応していた。

「なんですかそのかっこいいの! なんですかそれ!」

「だから嫌だったんだよ!」

「灰尾! なんですかそのかっこいいカタルシス! 教えてください!」

「絶対嫌だ!」

 よもぎの肩を離して部室の端へ逃げていく太李を巳令が追った。

 じりじり追い詰められていく彼を黙って眺めながら柚樹葉が肩からカバンをおろし、ファスナーを引き下げた。開いたカバンから勢いよくスペーメが飛び出す。

「ふへぇ、シャバの空気がうめぇ! なのです!」

「相変わらずスペちゃんは見た目は可愛いのに言葉遣いが比例しませんねー」

 つんつんとスペーメの顔を突きながら「誰に似たんですかねー」とよもぎが柚樹葉の方を見る。

「なんで私の方を見るの?」

「さあ。つい」

 てへっと誤魔化してから梨花を一瞥し、「黒歴史、ねぇ」とよもぎは長いまつげを伏せた。




 部活が終わってから電車を乗り継いで目的の駅についた南波は降り注いでいる雨にうんざりした。

 学校を出るときは降っていなかったのに、思わずため息をついた。

 南波は現在、学校の近くに親戚のアパートがあるという理由から一人暮らしをしている。地元の駅から通うより遥かに楽で素直に助かっている。

 そんな南波が今日、地元の駅にやって来た。我ながら何をしているのだろうと思いながらコンビニはどこにあったかと辺りを見渡した。


 まさにそのとき。


「まっすみせんぱぁーい!」

 聞き覚えのある後輩の大きな声で南波は手を止めた。

 声のする方に振り向くと短いスカートをひらひら揺らしながら両手を思いっきり振っていた。彼はずかずかと彼女の元へ歩み寄り、手刀を一発。

「はうあ!」

「人の名前を地元の駅で! 大声で呼ぶなこの馬鹿!」

 それに彼女――春風よもぎは涙目になりながら「酷いですよぉ益海先輩ぃ」とマイペースに続けた。

 しかし彼はそれには構わずに先ほど見つけた売店の方へとすたすた歩きだした。慌ててそのあとをよもぎが追う。

「ちょっと益海先輩!」

「…………」

「なんで無視するんですか!」

「うるさい俺にギャルの後輩はいない」

「どうしてそういうこと言うんですか! 春風さん傷つきますよ!」

 まるで聞こえていないかのように南波は歩を進めた。

 よほど悔しいのかよもぎが声の音量をさらに上げる。

「ちょっとー!」

「というかお前はなんでここにいるんだ」

 ようやく放たれた南波の言葉によもぎは勢いを殺さずに答えた。

「そりゃ勿論おうちに帰るためですよ。でも雨降ってるし、かといって今こそとばかりに高い傘を買うと負けた気分になるし、どうしようかなって迷ってたんです」

 ああ、そうだった。中学が同じなんだから地元の駅も同じか近いに決まっていた。聞いておいて南波は後悔した。

 傘だけ買って与えたら大人しく帰るだろうかと南波が色々と考えていると「みーちゃん!」と自分を呼ぶ幼馴染の声に彼は珍しく慌てて振り返った。

「和奈……」

「雨降ってきたから傘持ってきてないと困るな、って思って」

 どうだ気が利くだろ、と笑う自分の幼馴染に南波は自然と頬が緩んでいた。

「悪いな」

「ううん。私こそ、ごめんね。急に」

 それから、和奈は隣にいたよもぎに気付いて首を傾げた。

「お友達?」

「あ、いや、こいつは」

 南波が口を開く前によもぎがわざとらしく頬を膨らませながら言い放った。

「酷いですよぉ宗本(そうもと)先輩、自分のこと、忘れちゃったんですか?」

 随分変わってるから仕方ないとは思いますけどね。

 うーんと悩む彼女を見ながら心の中で舌を出して、よもぎは改めて頭を下げた。

「春風です。春風よもぎ、中学のとき、一個下の後輩で」

「ああ! よもぎちゃん!」

 和奈は驚いたように手を叩いた。それからまじまじとよもぎを見つめて「随分、雰囲気が違うから全然わかんなかった」

「よく言われます」

 あははと笑いながらよもぎは南波の方にちらりと視線をやった。

「どうしたの、それ」

「まぁ、いわゆる高校デビューってやっちゃです」

 よもぎはピースしてから「似合いませんか?」とくるりとその場で一回転して見せた。

「ううん、すっごく可愛い」

「おーそりゃよかった。宗本先輩のお墨付きなら間違いねーや」

 にこっと笑いながらよもぎが首を傾げた。

「して、宗本先輩と益海先輩はまたなんで? これからデートで」

 すか、を言い終える前に南波の手刀が再びよもぎの頭に飛んだ。

「おぐあ」

「ちょっとみーちゃん!」

「心配するな和奈、こいつはこういう扱いだ」

「どういうことなの……」

 頭を押さえながら南波を睨み付けるよもぎに「ちょっと付き合って欲しいことがあって」と和奈が笑いかけた。

 ははぁ、と頬に手を当てながらよもぎはにまにまと笑みを浮かべた。

「どーりで邪魔されたくないわけですね、益海先輩」

「もう一発食らいたいらしいな、春風」

「おっと、チョップはもう勘弁」

 くるっとその場から離れて、「んじゃ、お邪魔虫は濡れてでも帰りますよーだ」と頬を膨らませた。

「あ、待って、よもぎちゃん」

「はーい?」

「よかったら、これ、使って」

 そう言って和奈が先ほどまで自分が使っていた傘を差し出した。

 それを驚いたように見てから「いや、でも」

「大丈夫、私はみーちゃんの傘に入ってくから」

 隣の南波が自分を驚いた顔で見ているのにも構わずに「みーちゃん経由で返してくれたらいいから! 女の子が体濡らしちゃうのはよくないよ」

 それに少しだけ躊躇ってからどうせ断っても無駄だろうなと判断したよもぎは傘を受け取りながら軽く頭を下げた。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

「うん!」

 受け取った赤い傘を見つめてから「それじゃ、今度こそ失礼しますね」と頭を下げ、よもぎは二人に背を向けた。

 後ろから飛んでくる和奈の声を聞きながら傘を開いたよもぎは溜め息をついた。




 駅から数分歩いたところに和奈の家はあった。

 昔から通い慣れたその場所に久々に足を踏み入れた南波はどこか気持ちが落ち着かない。

「よもぎちゃん、凄い変わってたね」

「そうだな」

 傘からはみ出て濡れてしまった肩を拭く南波がそう答えれば、和奈がくすくす笑った。

「でも、よもぎちゃんまで神都に行ってたなんてびっくり。なんでだろ?」

「さあ?」

 そんな曖昧な南波の言葉に和奈は少しだけ不満を抱きながら、しかしそれを言葉にすることもなく、冷蔵庫の扉を開けた。

 がちゃがちゃと中を漁る音を聞きながら南波は腕を組んだ。特に何か理由があるわけでもない。考え事をしているから話を振らないという言い訳が欲しかっただけだった。

 案の定、盆を持ってやって来た和奈の言葉は南波の予想通りのものだった。

「また考え事?」

 それには返事をせずに腕を解くと和奈はそんな幼馴染にまた笑みを浮かべた。

「というわけで、はいプリン。はじめて作ったからそんなに、自信ないんだけど」

「ん」

 小さなカップを受け取りながら南波は黙ってそれに手をつけた。

 突然、和奈が製菓を始めたのは高校に入学した直後だった。調理部に入部したのが主な理由らしく、自分だけでは味に自信がないからと時折、南波を家に招いてはこうして試食させている。

 その誘いを南波は今まで一度も断ったことはない。それは彼がお人よしだからというわけでもなく、『相手が和奈』だからという分かりやすい理由だと彼は理解している。

「どう? どう?」

 不安そうに自分を見上げる幼馴染を撫でつけながら南波は薄く笑った。

「うまいけど」

「ほんと? みーちゃんそれしか言わないから不安になっちゃう」

「だったら別の人に頼めば?」

 試すように彼がそう言うと和奈はうーと唸った。

「やだよぉ、こんなこと頼めるのみーちゃんくらいだもん」

 と、キッチンの方を一瞥してから掻き消えそうな声で呟いた。

「京くん、喜んでくれるかな」

 その言葉を聞かなかったフリをして南波は口の中にプリンをかき込んだ。




 翌日、前から召集がかかっていたこともあって泡夢財団の本部ビルの廊下を歩いていた太李の鼓膜を軽やかな声が揺らした。

「おはようございます」

 その声に振り返って、彼は見知った人物を見て笑みを浮かべた。

「おっす。早いな、鉢峰」

「灰尾こそ」

 にこりと微笑みながらヘッドフォンを外す巳令に「なんか落ち着かなくって」と太李は苦笑した。

「まぁ、早くに行けば行ったでやることもあるでしょうし」

「だよな」

「おー、おめーらおはよう」

 まだ眠たげなその声に二人が振り返ると欠伸をしながらマリアが自分たちを見つめていた。

「あ、おはようございます、マリアさん」

「おはようございます」

「ん。しっかし、真面目だなぁ。せっかくの休みまでこんな風に」

 けらけらと笑うマリアに「まぁ、好きでやってますから」と太李が笑うとお、と感心したような声を出してからマリアは彼の額を小突いた。

「んだよ灰尾、わかってんじゃねぇか」

「どうも」

「あ、真面目なのはいいけどよ、体壊すんじゃねーぞ」

「マリアさんこそ」

 くすくす笑いながら巳令が返すとマリアはぽんと自分の胸を叩いた。

「心配すんな。あたしは頑丈が取り得なんだ」

 にっと笑いながらいつの間にか辿りついていた訓練場の扉を開く。

 そのあとに続いて巳令と太李が中に入ると先客がそれに気付いたようで「あ」と嬉しそうな声をあげた。

「お、おはようございます! 灰尾くんと巳令さんもおはよう!」

「おはようございます、梨花先輩」

 ぺたんとその場に座っている梨花に頭を下げる巳令に続いて「おはようございます」と太李が頭を下げた。

 その後ろでは下ろした状態の彼女の髪に櫛を入れていた鈴丸が「なんだよもう来たのか」と呆れたように告げた。

「来ちゃいました。それより、何してるんですか、鈴丸さん」

「ん、梨花が自分で髪がうまくまとまらないっていうから俺がやってるところ」

 巳令の言葉にそう返すのを聞くなり「ひ、酷いの」と梨花が唇を尖らせた。

「鈴丸さんったら私の髪で遊ぶの。さっきもツインテールにされたし」

「遊んでねーっつってんだろ。ただついやりたくなるんだよ」

「だ、だからって盛ったりするのは完全に遊んでたじゃないですか!」

「というかなんでそんなことできんだよお前」

 じっと自分を見てくるマリアに鈴丸はなんのこともなさげに涼しく答えた。

「昔、スタイリストのバイトをちょっとだけやってた」

「……何者なんですか、鈴丸さんって」

 改めて、そんな疑問を太李が彼にぶつけると「ちょっと人より出来ることが多いだけで大げさだな」と笑うだけだった。

「でも、結局のところ本当になんなんですか、彼。日本人、ですよね」

 小声でこそこそと隣にいたマリアに巳令が問いかける。

 その巳令の問いにマリアは困ったように頭を掻いてから、一拍置いて答えた。

「なんなんだろうな、ベルもそうだけどあいつも経歴全然わかんねーんだよ。あたしが下っ端だからかもしれないけど」

「マリアさんで下っ端だなんてどんな化け物集団なんですか」

「さあな」

 大げさに肩をすくめるマリアに巳令はふぅと息を吐いた。

 そうこうしている間にも休まず手を動かしていた鈴丸の声が響く。

「うっし、終わり」

 そこにはいつも通り、ポニーテール姿の梨花がいた。チェンジャーを頭につけながら梨花がぺこりと頭を下げた。

「あ、ありがとうございました!」

「おう」

 ぽんぽんと梨花の頭を撫でる鈴丸を見てから「そういえば」と太李が尋ねる。

「ベルさんは?」

 ぴたりと鈴丸の動きが止まる。それからやがて、決まり悪そうに視線を逸らしつつそれに答えた。

「柚樹葉と話してる」

「九条さんと? なんで?」

「しーらね」

 頭の後ろに手を回しながら「それより南波とよもぎはどうした」と取り繕うように言った。

 そんな彼に何か言おうと口を開きかけた太李を額をぺちんと叩いてマリアが制止する。

「お前は余計なことしない」

 それだけ言って、にっと笑った。




 小走りで、泡夢財団の本部ビルの廊下を走りながら見慣れた後ろ姿を見たときよもぎはほっとした。遅刻気味だったのは自分だけではないらしい。

「まっすーみせんぱーい!」

 彼女の声に足を止めた南波は振り返って彼女を見るなり顔をしかめた。

「またお前か」

「なんですか冷たいなぁ。あ、でも今日はちゃんと返事してくれましたね」

 にっこりとよもぎが微笑むとそれには返答せずに南波が再び歩き出した。そのあとを追いかけながら彼女は手元にあった傘を南波に差し出した。

「先輩、これ、宗本先輩に返してください。ありがとうございましたと言っていたとも」

「ああ」

 黙ってそれを受け取る南波を見つめながらよもぎはふぅと息を吐いた。

「よかったですね、また宗本先輩に二人で会う口実ができて」

 どこか挑発的なよもぎの口調に彼は思わず後ろを振り返った。

 しかし、よもぎはその鋭い視線にも特に怯んだ様子もなく茶髪に指を絡めながら意地の悪い笑みを浮かべていた。

「そういうところ、変わってないですね」

 南波はただ視線を逸らすだけだった。

 そんな彼の態度によもぎは眉を寄せた。

「人に変われと申しておいて自分は変化なしっすか、先輩。ずるいですね」

「…………」

「なんですか、自分間違ったこと言ってます?」

 睨み付けられながらもはっとよもぎが笑った。

 何がそこまで腹立たしいのか、よもぎ自身にも分かってはいなかった。ただ、滑り落ちるように言葉が紡がれる。

「あーもう自分、先輩のそういうとこ嫌いです。宗本先輩に別に好きな人がいるだぁ? 関係ねーだろうが、本気で好きなら奪い取ってみやがれってんだ」

 結局、とよもぎが南波を睨み返した。

「逃げてるだけじゃないですか、意気地なし」

「黙れ元黒髪眼鏡」

 南波の言葉に「なんですって?」とよもぎは目の端を吊り上げた。




「んで、来たはいいけどなんで喧嘩してんのこいつら。馬鹿なの?」

 睨み合う南波とよもぎを見るなり、鈴丸は一番に吐き出した。

「さあ?」

 巳令が首を傾けると同時に睨み合う二人の間に割って入った梨花がぶんぶんと腕を振り回した。

「あ、あの、ふ、二人とも、け、けけ、喧嘩はよくないよ! な、なにか原因があるなら、ちゃ、ちゃんとお話したほうが、あの、どうしてこ、こんなことに」

「東天紅先輩」

 南波はぽんぽんと梨花の肩を叩きながら「ちょっと黙っててくれ」

 いつにも増して低い彼の声にひっ、と短い悲鳴をあげてから梨花が両手で口を覆った。それを見て、よもぎが「駄目じゃないですか」と唇を尖らせた。

「益海先輩はただですら怖いんですから、女の子にそういうこと言っちゃ。あ、だからモテないんですねごめんなさーい」

「ああ?」

「ひぃ……!」

 自分に向けられた視線でもないのに震えあがった梨花はその場で固まって動けなくなってしまった。

 とんでもない地雷原に飛び込んでしまった梨花に手を伸ばすのが先か、二人を止めるのが先かと太李が迷っていると巳令が表情を変えずに口を開いた。

「二人とも、何がどうしてこうなってるんです?」

「ただ益海先輩が逆ギレしてるだけですよ」

「逆ギレだと?」

 むすっとしたままよもぎが言い放つ。

「逆ギレじゃないですか! 図星突かれて! おっとなげねー! 大人げねーっすよ先輩!」

「お前に何が分かる」

 その言葉に、よもぎは異常なまでの苛立ちを覚えた。

 自分は何に対してここまで憤りを覚えているのだろう? 彼女自身にすらそれは分からなかった。南波がどうしようと彼の勝手だというのに。自分には関係ない。

 だとしたら何がそこまで自分の神経を逆なでする? 出所の分からない憤りとそれに対する苛立ちが混ざり合って言葉となってよもぎの口からこぼれ落ちた。

「もういいです。知りません。しりゃーしやせん! 勝手にやってろばーか!」

 投げつけるように自分のカバンを放り投げてからよもぎは走り去って行ってしまった。

「ちょ、ちょっとよもぎちゃん! おい、南波、何したんだよ」

「知るか」

 放り投げられたカバンをキャッチして、ふんと太李から視線を逸らす南波にうーと太李は頭を掻いた。

 その様子を見ながらしょうがない、といった風にマリアが立ち上がる。

「んま、なんでもいいけどよ。益海、おめー、ちゃんと決着つけろよ?」

「なんで」

「あ? あったりめぇだろ。殴り合って喧嘩して来いよ」

 ひらひらと手を振りながら「中途半端にしかできねぇなら喧嘩なんかすんじゃねぇ」

「別に喧嘩じゃ」

「うっせー!」

 そう叫びながら彼女はちらりと鈴丸の方を見た。




 自分は紅茶よりコーヒーの方が好みだったらしい。そんなことに柚樹葉が気付いたのはほんの数十分ほど前のことだった。

 元より、コーヒーよりも紅茶を口にする機会の方が多かったからかもしれないと彼女は思った。慣れというのは恐ろしい。そう思う一方でこの味覚を特にどうこうしようというわけでもない。

 目の前に広げた資料と紅茶を淹れた人物を見比べながら「で?」と彼女は首を傾げた。

「で、って?」

「単刀直入に聞こう」

 真っ白な履歴書をぼーっと眺めながら、柚樹葉が小さく笑う。

「君は何者?」

 その問いに彼女は――ベルは困ったように息を吐き出した。

「ただの傭兵よ」

「だったらどうしてβ型のことを知ってた?」

 その言葉の響きが不快で彼女は眉を寄せた。

「さあ。どうしてかしら」

「……ベルガモット、君、今自分がどういう立ち位置にいるか分からないの?」

 そこまで馬鹿だとは思っていなかった。そう言いたげに柚樹葉は資料を放り投げた。

 床に散らばった資料を集めるスペーメを見ながらベルは気怠そうに言い放った。

「どうするの? 私は今日限りでクビ?」

「いいや。君は主任のお気に入りのようだし、クインテットも君らに懐いてる。蒲生と惣波も、君がいなければこちらに制御できるとは思えない」

 首を左右に振りながら「でも」と柚樹葉はまっすぐベルを見つめ返した。

「もし君が私の敵なら処分を考えよう」

 なら大丈夫ね、とベルは心の中で笑った。

 少なからず彼女と自分が敵になることはない。そう確信していたからである。




 膝を抱えながらよもぎは屋上に設置されていたベンチの上で溜め息をついた。

 行くあても、目的もなく、ひたすらビル内を歩き回ってから不思議と上に行ってみたくなって階段を駆け上り、ここに辿りついた。梅雨の晴れ間らしく、湿度は高いというのに強い日差しがよもぎを突き刺していた。

 そんな光を浴びながら「あー」と意味もなく声をこぼした。

 自分は何をしているのだろう。つい感情的になってしまった。

 彼女は南波が和奈に好意を抱いていることを知っていた。紛れもない、彼の口から聞いてである。

 他のクインテットよりも付き合いが長い分、彼女は彼の性格を自分なりに理解しているつもりだったし、一年間会わなかったとはいえ変わっていなかったことに安堵したのも事実だった。

 しかし、何も変わりすぎていなかったことが苛立ちの原因だったのかもしれない。よもぎはうっすらそんなことを考えていた。

 少しくらい何かが変わると思っていた。でも、変わったのは自分のほんの一部だけ。それが無性に腹立たしくて仕方ない。

 ただの八つ当たりだと、彼女は自己嫌悪せずにはいられなかった。

 自分が何もできないのを、勝手に先輩に重ねて怒鳴っただけじゃないか。そんな自分に対して、よもぎは深々と溜め息をつくしかなかった。

 南波はきっと怒っているだろう。またやってしまったと、よもぎはそう思った。

 以前にも似たようなことがあったのだ。そのときも言ってしまった後にこうやってベンチの上で後悔していた。南波と出会ったのもそのときだった。

 戻らねばならないことを自覚している一方で彼女の足は鉛のように重かった。

 腕の中に顔を埋め、目を閉じた。何も見えなかった。聞こえてくる音もどこか遠くに感じた。まるで自分だけ切り離されてしまったようだと彼女は思った。


 そんな彼女を引き戻したのはベンチから伝わってきたわずかな振動だった。

 隣に誰かがいる。まさか、と期待を込めて目を開けてからよもぎは小さく肩を落とした。


 座っていたのは太李だった。


「……俺でごめん」

 なぜかどこか申し訳なさそうにそう告げる太李にふるふるとよもぎは首を左右に振った。

「いえ、別に」

「えっと、さ。よもぎちゃんと南波って、同じ中学だったんだって?」

 太李の言葉に彼女は伏せていた目を再びあげた。

「ええ。一応。部活も、委員会も違いましたけど。益海先輩から聞いたんですか?」

「うん、まぁ」

 そうですか、とよもぎは抱えていた足をまっすぐ伸ばした。

「色々あって、顔と名前と事情くらいは知ってる間柄だったんです。それこそ、なんでも話せる相談相手みたいな。先輩が高校に上がるまでは」

 太李は何も言わなかった。それが踏み込んでいいのか、あるいはそれ以上聞くべきではない話題なのか判断がつかなかったためである。

 それを察してか、よもぎが更に口を開いた。

「先輩、ウチには愚か、中学の誰にもなんにも言わずにこっちに来てたんですよ。もー陶芸部に来てみてびっくりですよ」

「そう、だったんだ」

「結局、なんでも話せるって思ってたのはウチの勝手な思い込みで」

 情けないなぁ、と彼女は茶髪を指に絡めた。その弱々しい横顔を見て、太李は無性に不安になった。

「でもほら、南波は、色々無口だし、不器用っていうか、だから、いや、俺は付き合いまだそんなに長くないけど、でもそういう奴じゃないっていうか」

 困ったように必死に言葉をまとめながら発する太李によもぎはにっこり微笑んだ。

「優しいですね、灰尾先輩は。ありがとうございます」

「……どう致しまして?」

 不思議そうな表情を浮かべる太李によもぎは何も言わずに笑う。

「あ、ちゅーか召集サボってこんなとこにいるとか、鈴さん怒ってませんでした?」

「お察しの通りです」

「あーやっぱりー」

 こういうの嫌いそうだからなあの人ーとよもぎは唸った。

 太李が来てくれたおかげで戻りやすくなった。立ち上がりながら「戻りましょっか。謝らないと」

「そう、だな」

「はい」

 くるっと入口の方に顔を向けてから彼女はおっと声をあげた。

 精一杯の強がりだった。

「なーにしてるんですか、益海先輩」

「南波……」

 太李も彼に気付いたようだが南波は特に返答するわけでもなく、「春風」とよもぎを呼びつけるだけだった。

「はいはい春風ですよ」

「気に障ったなら謝る」

「……どうしたんですか、らしくない」

 驚いた表情で自分を見返す彼女に南波は溜め息をついた。

「お前の言う通りだった」

「……いえ」

 ぺこりと頭を下げながらよもぎが言う。

「図星突かれてんのは、むしろ自分の方でした。すいません」

 そんな二人を見て「まぁ、さ」と太李が立ち上がった。

「ほら、これで仲直りってことで!」

「はい」

 にっと笑うよもぎに南波が背を向ける。


 けたたましいサイレンの音がディスペアが現れたことを告げるのはそのあとすぐだった。




 普段は喧騒で溢れかえっているショッピングモールは今はただ噴水が水を流し続ける音しか響いていなかった。

 中に居る人間たちはその場で動かない。そんな光景を老婆の背に背負われながら見つめていた少女が「んふふ」満足げに笑い声をあげた。

 灰色の髪を狼をデザインした黒いパーカーにしまいこんだ彼女は短い手足をめいっぱい伸ばしながら目を細めた。

「そーやって、どーんどん悪い夢みちゃいましょーね」

 フードについていた耳が彼女の体と共に揺れる。

 金色の瞳が世界を捉える。うきうきと「わーるいおゆめはみっつのあじー、みーんなうなされてーおーさーまがだいふっかーつ」と足をばたつかせた。

 しかし、その歌を歌い終える前に彼女は老婆の背から飛び降りた。自分とは逆方向に飛びのいた老婆が立っていたところには弾痕が残っている。

「うひゃあ、こわーい」

 両手で顔を覆いながら少女はぐるっと弾の飛んできた方を見た。

 そこに立っていたのは銀色の髪をした女――マリアだった。

「……お前、ただのがきんちょってわけじゃあなさそうだな」

「んむむ、お前はよーへーだな!」

 びしっとマリアを指差した少女は「あちしらの邪魔ばっかりしてるやつの仲間! 許すまじ! ウルフちゃんげきおこ!」と地団駄を踏んだ。

 引き金に指をかけながらマリアは眉を寄せた。

「ウルフ……?」

「マリアさん!」

 あとから続いて入って来た高校生たちを見た途端、ウルフは顔を歪めた。

 それに気付かず、巳令が問いかける。

「彼女は」

「わかんねー。ディスペアの背中に乗ってた」

 まさか、と太李は声を発していた。

「トレイター……?」

 きゃははっとウルフが笑い声をあげた。

 子供らしい、無邪気な声だった。

「そーだよおばかさんたち! いっつもいっつも邪魔ばっかしてぇ!」

 きーっと叫び声をあげながら地団駄を踏んだウルフは「特にぃ!」と太李と巳令を睨み付けた。

「そこのお前らふたり! せっかくのβがたをつぶしちゃうなんてしけいだね! しけーしっこうだね!」

「……β型?」

 巳令が首を傾げてから「とにかく」と腕輪を構えた。

「やられるわけにはいきませんね。行きますよ」

 それぞれが、チェンジャーを構え、一斉に叫んだ。

「変身!」

 眩しい光にウルフが思わず目を閉じると、次にその場にいたのはすでにフェエーリコ・クインテットとなった五人だった。

「悲しき魂に救いを与える姫、鉢かづき!」

「悪しき心に罰を与える姫、親指!」

「不幸な存在に光を与える姫、人魚」

「残酷な宿命に終わりを与える姫、いばら!」

「哀れな役に幸せを与える姫、シンデレラ!」

 巳令の刀が引き抜き、他の四人もそれぞれ得物を構えた。

「悪夢には幸せな目覚めを」

 声が揃う。


「フェエーリコ・クインテット!」


 それを聞いて、ふん、とウルフは鼻で笑ってから腕を鳴らした。

 ばきばきと音を鳴らしながら彼女の手には大きく湾曲した長い爪が現れた。

「ちょーなまいき! ぶっつぶしてやる! やまんば! からす! やっちゃって!」

 その声に今まで沈黙を保っていた老婆がよもぎめがけて走り出し、どこからともなく黒い鳥が現れて飛び回った。

 弓に矢をつがえる前に襲い掛かられたよもぎはしまったと身構えた。

「何やってる!」

 素早く振り下ろされた槍が老婆に直撃する。

 ぎぎ、と声をあげながら後退する老婆を見ながら彼女は槍の持ち主に「すみません人魚先輩」と小さく頭を下げた。

「……いいから行くぞ」

「はい」

 三叉槍を南波が構え直し、よもぎが改めて矢をつがえた。

 老婆の姿をしたディスペアは距離を取るとそこから鉈のようなものを投げつけてきた。南波が三叉槍でそれを振り落とす。

「いばら」

「わーってますって!」

 弦からよもぎが手を離す。

 空気を切り裂きながらよもぎの矢はディスペアめがけて飛んでいく。

 しかし、その矢が目的の場所についた頃にはディスペアはすでに別の場所に居た。


 その一方でマリアは吠えた。


「またこいつらかよ!」

「あ、あわわ、こないでぇ!」

 クソが、と引き金を引くマリアと斧を大きく振り回す梨花。

 そんな二人を見て、巳令が声をあげる。

「親指! マリアさん!」

「なによそみしてん、の!」

 ばっと振り下ろされた爪を、巳令は間一髪、刀で受け止めた。

「おまえらあるてぃめっとおばかさんの相手はあちしがしてやるよ! こーえーにおもってね!」

「ふっざけんなぁ!」

 ばっと突き出された太李のレイピアを地面を蹴り上げて交わしてからウルフはけらけらと笑い声をあげた。

 くるりと空中で一回転したウルフは壁を蹴りつけ加速をつけてまた爪を振り下ろす。

 巳令の腕にわずかに爪がひっかかり、そこから血が流れる。

「あ」

「鉢かづき!」

「だ、大丈夫です。かすっただけ……」

 そう言って刀を構え直す彼女を見ながらウルフは不満げに告げる。

「うでおとしてやろーとおもったのにぃ! うーごーくーなー!」

「トレイター……あなたたちが、ディスペアを?」

「うるさい! 聞くなぁ!」

「あなたたちの目的はなんなんですか」

「だーまーれぇー!」

 むきゃーと叫びながらまたウルフが地面を蹴り上げた。




 画面を食い入るように見ながらふむ、と柚樹葉が額に手をやった。

「驚いたな、まだ子供じゃないか」

「……あなたでも驚くことがあるのね」

「おや、心外だな」

 ベルの言葉に柚樹葉はにっこり笑った。

 そんな彼女に笑い返しながら、ベルは非戦闘員の退避を行っていた鈴丸の通信機に連絡を入れた。

「鈴丸、聞こえるかしら? まずいわよ」

 一拍置いてから彼はうんざりした風に言葉を返した。

「何が。敵の幹部が出てること? それとも非戦闘員の多さ?」

「いいえ、マリアと梨花さん。親指姫はパワータイプ、今の交戦相手とは相性が悪いわ。おまけに、マリアは今日お気に入りのマシンガン持ってないし」

「……早急にマシンガン持って応援に回りますっと」

 よろしく、と通信を切った彼女を見ながら柚樹葉は何も言わず、また画面に視線を戻した。

「いい仕事だね、ベルガモット」

「光栄だわ、柚樹葉さん」




 三叉槍を握りしめながら南波は小さく舌打ちした。

 ディスペアは遠距離からひたすら刃物を投げてくる。それだけならばよもぎの弓でなんとかできたのだが動きが早く、狙いが定まらない。しかし、近距離からしか攻撃のできない南波にとってもこの相手は分が悪かった。

 二人で背中合わせになりながら刃物を払い落とすことしかできなかった。

「どうします、消耗戦ですよこれじゃ」

「そうは言っても」

 と何かを言いかけてから、南波はそれを取りやめて、別の言葉を発した。

「なぁ、お前にはあれはできないのか」

「あれ?」

「シンデレラの必殺技みたいに」

 南波の言葉に、よもぎは太李の必殺技を思い出した。そういえばレイピアが何本も現れて、そこから彼が攻撃していた。そんな気がする。

「わ、わかんないですけど」

「……やってみてくれないか」

 槍で刃物を払い落す南波を見て、よもぎはぎゅっと弓矢を握りしめた。

 常識的に考えればできないことかもしれない。が。

「物は試し、ですね」

 そう言って新たに矢をつがえると彼女はディスペアではなく頭上に向かってそれを構えた。

 必殺技はイメージして出てきているんだ。だったらいつもの必殺技ではなく、拡散する矢のことを考えればもしかすれば。力いっぱい弦を引き絞ると彼女は手を離した。

 鋭い音と共に頭上へと消えて行った矢はぱっとその場で光ると次には辺りに降り注いだ。

「嘘……うまくいった」

 よもぎがきょとんとするのにも構わず、拡散する矢によって動きの止まったディスペアとの距離と南波が一気に詰める。

 そのまま槍で一撃をくわえればその体がよろめき、その隙にまた一発お見舞いする。次々と鮮やかに斬撃をくわえていく南波を見ながらよもぎはまた矢をつがえた。

 精一杯の力を込め、矢を放つ。

 同時に南波の槍が相手を貫いた。


 それに耐え切れず、ディスペアの体は一瞬で消滅した。


「なー!」

 巳令の刀を振り払いながらウルフは口を尖らせた。

「またβがたやられちゃったんですけどー! しかもからすもやられてるしー! 一人増えてるしー! あちしあんなのきいてないんですけどー!」

 地団駄を踏みながらウルフは「もー!」と伸びきった爪を横に大きく薙いだ。

 後退する二人を見ながら「なんなのなんなのー! ちょーむかつく! しーらね!」と二人に背を向けた。

「な、待ちなさい!」

 慌てて後を追う二人を嘲笑うかのように、ウルフがその場から消え去ると心なしか暗かった外が明るくなった。




「二人とも!」

 人が起きてきて、慌てて変身を解きながら太李が南波とよもぎに駆け寄った。

 同じく変身を解いたよもぎが「見てました! 今の!」と興奮気味に太李に詰め寄った。

「見てた見てた! すげー強かった!」

「凄いよ、二人とも息ぴったりで!」

「でしょー?」

 きゃっきゃっと梨花と手を取り合いながら喜ぶよもぎを見て南波はその頭に手を伸ばした。

 その手が勢いよく振り下ろされると同時に梨花の手から離れたよもぎの手がそれを防ぐ。

「な」

「ふふん、いつまでも先輩のチョップを喰らうほどあまちゃんな春風ではないのですよ! 悔しかったら出直し、いったぁ!」

 掴まれていない方の手で南波が手刀を作って躊躇なく振り下ろすとよもぎはその場でしゃがみ込んだ。

「馬鹿が」

「ひ、酷いじゃないですか! せっかくうまくいったのに! ばぁーか! 益海先輩のばぁか!」

 うえーんとわざとらしく泣き真似する後輩に南波はどっと肩が重くなった気がした。

「ほんと、よくこれで連携技ができるな」

「そうですね」

 呆れたようなマリアに巳令は苦笑を返してから「あ、そうだ」と手を打った。

「こうなったら技名つけないと」

 びくっと南波が肩を跳ね上がらせた。その彼らしからぬ反応に「さすがの南波も技名は嫌なのかー」と太李は他人事のように考えた。

「どうしてそうなる……」

「いいじゃないですか。技名があると合わせやすいですよ、何がいいかしら。やっぱりラテン語?」

「みれー先輩……自分もそれは遠慮したいです……」

「ええーなんでですかよもぎさん、遠慮しなくってもいいんですよ」

 にこにこ笑いながら巳令は「あ、そうだ」とくるりと太李の方に向き直った。

「せっかくだし、カオスカタルシス」

「やめろ!」

 慌てて彼が制止をかけるとええーと巳令が不満げに太李を睨み付けた。

「なんでですか。かっこいいじゃないですかカオ」

「やめろ二度とそれを口に出すな!」

「なんでですかー!」

 耳を塞ぐ太李とその周りをうろうろしながら不満そうな彼を見て「なんだよカオスカタルシスって」とマリアが首を傾げた。

「灰尾先輩の忘れたい過去、ですかね」

「はぁ?」

 わけわかんねーとマリアは銀色の髪を掻き毟った。

「人間忘れたい過去の一つや二つあるってもんですよ」

 南波をちらりと見ながらよもぎが続ける。

「でも、あってよかったな、なんて過去も案外あったりします」

「ふーん?」

 不思議そうにしながらマリアは「ま、かえろーぜ」とぐぐっと背伸びした。

 その光景を黙って見ていた鈴丸はふと、隣の梨花が顔を俯かせたままだったのに気付いて彼女を覗き込んだ。

「梨花? どうした?」

「え、あ、いえ」

 ぶんぶんと首を左右に振った彼女は弱々しく微笑んだ。

「どこか怪我したか? それとも体調がすぐれない、とか?」

「ほ、ほんとになんでもないんです!」

 大丈夫だから。まるで自分に言い聞かせるようにそう言った梨花に鈴丸はそれ以上、何も問おうとはしなかった。

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