第一話「俺はヒーローになりたかったのになったのはなぜかお姫様でした」
灰尾太李は極々一般的な高校二年生の男子であった。
運動が人より出来たわけでもなければ、頭がいいというわけでもなく、特別可愛い彼女がいるというわけでもなかった。
普通の家族に囲まれて、普通に育ってきた青年だった。人並みに勉強して、人並みに中学を出てから、みんなが行くからというなんともゆとりの代表のような言い訳をしながら高校に入った。
強いて特筆すべき箇所があるとすれば、それはきっと彼は今日という日において、転校生という立場にあったことだろう。
あと、彼はささやかにヒーローというものに憧れていた。それだけである。
神の都と書いて『じんと』、それが今日から彼の通う高校の名前だった。
比較的新しい公立高校で制服は男子が学ラン、女子は淡いラベンダー色のブレザーに黒いスカートという珍しいものだった。
編入試験に合格し、めでたく神都高校の一員となった彼は真新しい学ランに身を包みながら転校生にありがちな期待と不安に胸を膨らませていた。
担任の合図と共に扉が開かれ、中に招き入れられる。恐る恐るその中に入ってから彼は思いっきり頭を下げた。
「灰尾太李です。えっと、両親の都合でこっちに越してきました。よろしくお願いします」
そんな当たり障りのない自己紹介にもクラスは湧き上がった。転校生というものにすっかり浮かれ切っていたのだ。
「じゃあ、灰尾くんは鉢峰さんの隣に座ってもらおうかな」
そう言った担任は退屈そうに窓の外を眺めていた一人の黒髪を短く切り揃えた女生徒に向かって手を振った。
「鉢峰さん」
しかし、当の彼女から返答はない。担任は負けじとばかりに声を張り上げた。
「鉢峰さぁん!」
そこでようやく気付いたのかぴくっと肩を跳ね上がらせてから彼女は慌てて耳につけていたヘッドフォンを外して首にかけた。
「は、はい?」
「またホームルームやってるのに気付いてなかったのね」
「すみません……」
肩を落として小さくなる彼女に担任は息を吐き出してから「鉢峰さん、転校生の灰尾くん。わからないことが色々あると思うから教えてあげて」
ぽんと背を押され、太李は慌てて彼女の元まで行くと「灰尾です」と頭を下げた。それに彼女は目を細めてからまた窓に視線を戻して、ぼそりと一言だけ。
「鉢峰 巳令です」
とだけ告げた。
随分冷たい人だな、というのが太李が巳令に抱いた第一印象だった。
「前の学校はどこにあったの?」
「部活は何やってたの?」
「好きな食べ物なんですかー! あ、待って当てるから!」
そんな質問攻めがどっと押し寄せていた。
昼休みになってもそれは留まるところを知らず、彼はほとほと参っていた。
休みが中盤になってきた辺りでようやく昼食を食べなければという理由でその質問攻めも終了していった。
やっと飯が食える。とふらふら彼が教室を出て行くと「今からどちらへ?」と巳令が首を傾げていた。
「どこって……購買」
「場所分かるんですか?」
「なんとか」
「というか、今から行っても多分間に合いませんよ。ほとんど売り切れです」
「ええ!?」
前の学校ならそんなことはなかったのに。どうやらここは買い食いする生徒が多いらしい。
昼飯は抜くしかないだろうかと考え込んでいるとぽいっと彼の手元に何かが投げつけられた。慌ててキャッチすると生暖かい。視線を落として、『焼きそばパン』と書かれたラベルに目を見開いた。
「これ」
「どうせこうなるだろうと思って買ってあげました。不要でしたか?」
「いや、ありがとう」
焼きそばパンを抱え、太李が小さく笑うと巳令もくすくす笑った。
「あ、それとこれも」
次いで紙パック入りの麦茶が放物線を描いて飛んでくる。それもなんとかキャッチして「あ、ちょっと待って金」とポケットを探るとふるふると彼女が首を左右に振った。
「私が勝手にやったことです。いりません」
「でも」
「転入祝いだとでも思って受け取ってください」
それだけ言うと彼女はくるりと太李に背を向けた。
ヘッドフォンに手を掛ける彼女に「えっとさ、鉢峰さん」
「なんですか?」
「ん、いや、音楽聞いてるの好きなのかなって」
太李の言葉に巳令は足を止め、わずかに眉を寄せた。
少し考え込むようにしてから彼女は首をほんの少し傾けた。
「どうでしょう」
「というかいつも何聞いてるんだ?」
「別に特定のものは。ただ個人的に好きなものを聞いてるだけです」
なにか文句があるのか、と続きそうなほど突き放した言い方に太李は「そうか」としか返せなかった。
冷たいと思っていたら焼きそばパンを買ってきたり、かと思ったらちょっとした質問にもこんな態度だ。訳が分からないと彼は思った。
わざわざ教室に戻るほどの気力もなく、別に廊下で昼食をとってはいけないと言われていたわけでもないので太李はその場で焼きそばパンの袋を開けるとかじりついた。ともかく彼が分かったのは巳令が根っからの嫌な女ではないということだった。
その光景を見て、自分への言葉がもうないと巳令はヘッドフォンにまた手をかけた。
そのときだった。ぱっと一瞬窓から光がこぼれたかと思うと次には外が真っ暗になっていた。
巳令が慌てたように窓の外を見て、太李が焼きそばパン片手に硬直した。
「え、あれ、なんで……曇った?」
一人茫然とする太李を置いて、巳令はつかつかと教室に戻ると自分のカバンを担いで戻ってきた。
それからうろうろと視線を泳がせる太李を見て、驚いたように目を丸くしてからふぅと息を吐いた。
「灰尾くん、大丈夫なんですか?」
「え、何が?」
きょとんと自分を見返す彼に巳令はこくこく頷いてからやがてぽんぽんとその肩に手を置いた。
「ここを動かないで。絶対に」
「なんでだよ?」
「いいから。わたしもすぐ戻ります」
ね、と言い聞かせるように言ってから巳令は廊下を駆け出した。
その後ろ姿を見送りながら太李はまた焼きそばパンを一口かじった。
いくらなんでも遅すぎる。
十分ほど待っていたものの一向に巳令が戻ってくる気配はなかった。外も相変わらず暗いままだ。何より、先ほどからなんの音も聞こえない。何かあったのではないだろうかと太李は不安を煽られていた。何もしないのも落ち着かないのだ。
教室を覗き込むと全員揃って机に突っ伏していた。一人だけなら呑気に眠りやがって、と思えていたのだがそれがクラスにいる全員だと気付き、彼は小さく息を飲んだ。
「どうなってんだよ、これ」
力なく倒れ込んでいる姿は眠っているというより気絶しているという方が正しいのかもしれない。しかもその顔はどこか苦痛に歪んでいた。
なぜこんなことになっているのか。巳令はどこへ行ったのか。なぜ自分は今大丈夫なのか。
たまらず、彼は廊下を駆け、階段を駆け下りた。どこに行けばいいのかは分からなかったが外に出ればその答えが見つかる。そんな気がしてならなかった。
グラウンドに出てから彼は再び言葉を飲んだ。
そこにいたのは真っ白で、巨大な蛇だった。赤い目が彼を捉えた。
そして、その足元にいたのは一人の女だった。
紅色の着物を着て、その手には刀のようなものが構えられている。
その頭には黒塗りの大きな鉢のようなかぶっている。顔は伺えない。黒く、長い髪が地面につきそうなほど伸びているのを知るのがやっとだった。
大きな何かに立ち向かう誰か。まるでいつかテレビの中に見たヒーローのようだと太李は呑気に考えてしまった。
ぜぇぜぇと息を切らしながらぶんっと刀を振るったその女は一度それを鞘にしまうと大きく飛び上がった。
「悲しき魂に救いの最期を。多幸ノ終劇!」
勢いよく落下しながら彼女が叫んだ。
すれ違いざま、鞘から抜かれた刀がその体を斬り付けた。地面に着地した彼女はふぅと息を吐いた。
何に巻き込まれてるんだ俺は、と物陰から見つめていた太李は思っていたがその思考も長く続かなかった。
ぐぐっと白蛇の巨体がわずかに動く。女の方もそれに気付いたのか身構えたがすでに遅かった。
その体が尻尾に弾き飛ばされ、太李の真横に倒れた。
「が」
「あ」
呻きながら小さく丸まった彼女に、太李は見覚えがあった。
「は、鉢峰さん……?」
震えた声で問いかけると彼女は太李に視線を向け「動いちゃ駄目って言ったじゃないですか」と苦笑した。
どうやら本当に巳令らしい。どうしようか迷った挙句、彼は謝罪の言葉を口にした。
「ご、ごめん」
「それにしても、あれを喰らってまだ立つなんて」
刀を支えにして立ち上がった巳令は目前の蛇を睨み付けるとまたふらっと倒れ込んだ。
その体を太李が慌てて受け止めた。
「なんなんだよあれ」
「その説明はあとなのです!」
背後から声が聞こえて、彼は振り返った。
そこにいたのは人ではなく、何やら毛玉のようなものだった。小さな鼻や口、ぴょんと飛び出た耳が辛うじて分かる。
「……毛玉?」
「スペーメはアンゴラウサギなのです。ふざけるなです!」
ぴょんぴょんと跳ねまわるそれは巳令に視線を向けると「鉢かづき、彼を迎え入れましょうです」
「でも、彼男の人だし」
「問題ないです。お願いです」
巳令は鉢の下でわずかに顔をしかめてからやがて仕方ないとばかりに懐を探って何かを取り出すと太李に差し出した。
それを手にのせ、見てみると銀色の指輪だった。模様が刻まれているがよくは見えない。
「なに、これ」
「さあ、そこの野郎! それを指にさっさとはめて、掲げながら変身と叫ぶがよいです!」
「はぁ!?」
毛玉かアンゴラウサギかよく分からないものの言葉に彼は思わず声を荒らげた。
なんだそれは。
「ふざけてんのか、どっきりか何か?」
「この期に及んで信じないなんて鉢かづきより往生際が悪いですね。いいから」
「いやいや全然意味が分からない」
頭を抱えながらうーんと彼は唸った。変身と叫んだら一体何が起こるというのか。
「死にたいなら何もしなくていいです。死にたくないなら叫びなさい」
ずるずると白蛇が巨体を引きずって来た。巳令の言葉にぐっと太李は黙り込んだ。
それからやがてわしゃわしゃと頭を掻きむしって「あーもー分かったよ! 分かりましたよ!」と中指にそれをはめるとその手を掲げた。どうせドッキリか何かだろう。付き合ってやろうじゃないか。
「へ、変身!」
そう叫んだ瞬間、彼の体は青白い光に包まれた。思わず目をつぶってから、その光が止むのを待って目を開いた。
頭が重い。胸も重い。太李は自分の手を見て白い手袋がはまっているのを確認してから「え」と間の抜けた声をあげた。
「おおーついにシンデレラ誕生なのです!」
そんな声に彼は愕然とした。
茶色のロングブーツに細身の青いズボンに白と青基調の貴族服風の衣装。背中には淡い水色のマント。黒で短かったはずの髪は水色のロングヘアーに。それが今の太李の姿だった。
何より、彼は胸の方を見下ろしてから驚愕した。
本来男であるはずの自分にはない胸の膨らみが服の上から確認できる。試しに持ち上げてみるとふにふにと柔らかい感触が布越しでも分かる。間違いなく、俗にいうおっぱいという奴である。
「男の人の胸ってやわらかーい」
とか一人で呟いてから彼はいやいやと首を左右に振った。
そんなわけはない。数刻前まで自分の胸は確かにぺったんこだったはず。
「ど」
わけがわからず、彼は叫んだ。
「どうなってんじゃこりゃぁああああ!」
その声すらも心なしか甲高いように感じられた。
一方で巳令もその光景についていけてはいないようで身を引きながら「どうしてこうなったんですか」
「そりゃ姫になるんだから女の子になるのは当然なのです!」
「いっみがわっからん!」
太李はぐいっと毛玉を掴み上げるとぶんぶん左右に揺さぶりながら「なんなんだよこれはぁああ!」
「そ、それより今は!」
その手を掴んで止め、巳令がある場所を指差した。
そこには大きく唸る白蛇の姿がある。
「あれを倒すことを考えるんです!」
「考えろたって、どうやって」
「あーもう!」
重そうに頭を振りながら巳令は掴んだままの太李の手を示しながら続ける。
「あなたの指にはまった指輪に力を込める! あとはどうにかなりますから!」
「込めるって……」
「イメージ! 想像! なんとかしろ!」
「無責任だなお前!」
ばんっと白蛇の尻尾が思いっきり振り下ろされた。
咄嗟に地面を蹴り上げ、それを回避する巳令と取り残され、地面に叩き付けられた太李。
「灰尾くん!」
「い、ってぇ」
とりあえず死んではいない。はーと息を吐きながら彼はふらふらと立ち上がった。
とにかく今は、言われた通りにすることで精一杯だ。太李は自分の中にある想像力を絞り出して言われた通りのことを想像した。するとその手の中に細身の剣が現れた。
何をどうしようと思ったわけでもないのに太李の手が勝手に動き、剣を構える。さらには口までもが勝手に動いて言葉を紡いだ。
「最も哀れな役に幸せなエピローグを!」
ばっと太李の手が彼の頭上に上がるとそれを合図にしたように無数の剣が現れた。
「リベラトーリオ・ストッカーレ!」
そう叫ぶと同時に周りにあった剣が次々と白蛇の体に突き刺さる。同時に、地面を蹴って駆け出した彼の剣がとどめのように突き刺さる。
断末魔をあげながら、白蛇がもがき、やがて動かなくなった。
巨体は徐々に小さくなって、最後には一枚の紙になった。そこには先ほどの白蛇の絵が描かれている。それを拾い上げてから、もう一度だけ「どうなってんだよ、これ」と呟いてから太李は弱々しくその場に座り込んだ。