きみのことばは
きみのことばは、リドル・ストーリー。
夏休みも終盤、だのに蝉はうるさく日差しもまた強く、出戻るどころか嫁にいく気配すらない猛暑の中、ぬるい空気をかき回すばかりの扇風機と全開にした窓という設備の教室内に、僕は這入った。
とたん、早速叱責が飛んできた。
「十五分の遅刻だけど。何してたの」
思わず首を竦める。女性にしては低い方である夢路さんの声は、暑さで茹っていた僕の脳みそをキリリと冷やしてくれた。冷えすぎて若干痛い。
時代錯誤な長い三つ編みと細いフレームの眼鏡という、かなり印象的な容姿の夢路さんは、僕の一学年上のつまるところ高校二年生だ。しかし我らが文芸部に、三年生はひとりも在籍していないので、事実上二年生が最高学年、要するに部長などの役職(とそれに付随する面倒ごと諸々)を引き受けなければならないのだが、我が文芸部は、部長でもない彼女がその責務の殆ど、否すべてを担っている。
時計に目を走らせればなるほど、長針と短針は約束の十時を十五分ばかり過ぎていた。時刻と規則に厳しい夢路さんが怒るのもむべなるかなである。
「夢路、そう責めてやるなよ」
窘める部長もどうやら遅れたのか、席につけずに立ったままだ。普段の飄然とした態度も今はなりを潜め、ハンカチで首筋の汗を拭っている。整った眉を困ったように顰めて、どうにか夢路さんの勘気を治めようと考えているらしい。部長というのは名ばかりの先輩だが、実作能力自体はかなり高い。書くのが井上ひさし師匠より遅いのが難点だが。
長身の部長に向き直り、夢路さんは言う。
「部長のくせに遅れたあんたはなんなの」
「だから、自転車が途中でパンクしたって言ったろ」
「点検くらいしておきなさいよ。あんたの自転車、ライト点かなかったりするんじゃないの?」
細い眉を吊り上げ、切れ長の目でじろりと部長をねめつける夢路さん。部長にすらこの態度なのだから、後輩である僕への態度は推して知るべしである。
腕ばかりか足も組んで、苛立たしげにため息をついた夢路さんの横に座っている僕と同級生の詩歌ちゃんは、肩身が狭そうに文庫本を取り出して読んでいるフリをしている。ちらちらと僕たちを見ているから、読んでいる黄色い背表紙の推理小説の内容は何一つ頭に入っていないに違いない。小学生と言っても通用しそうな幼い顔立ちが不安に揺れている。彼女は不穏を嫌う。否、怖がる性質なのだ。付け加えると、彼女は普段は天真爛漫という言葉が似合いな愛らしき少女だが、今は夢路さんの癇癪に心底怯え、いつ止めに入ろうかとタイミングを頑張って計っているに違いない。
「……はじめないのか、夢路」
冷静な声の鏡先輩に「黙ってなさいよ鏡」と謂れ無き(恐らくはそうだろう)言葉の暴力を振るう夢路さん。怒り心頭のようだ。まあ、彼女は他人の怠慢には厳しいが、自らのそれに対してもそれ以上に厳しいので、根はいい人なのだろう。
どうもかなり前に来ていたらしい鏡先輩は、シャープなペンを持って原稿用紙に向かっていた。あらかたその束のマス目は埋まっていたし、少なくとも下書きは完成しているのだろう。羨ましい。いつでもどこでも冷静かつマイペースな鏡先輩は、夢路さんの癇癪玉にも動じず、時折ペンを走らせる。執筆している様子ではないし、恐らくは校正かその類の仕事をこなしているのだろう。透明感のある中性的な容貌のこの先輩は、なかなか愉快な短編を書く。宮沢賢治が好きな人は好きだろう。
「もうとっくに始まってるはずなのよ、あんたたちが遅れなければね」
はあ、と聞こえよがしなため息をもうひとつ。うん、きつい。きつい人だ、夢路さん。というか何故彼女が部長にならなかったのだろう。
東大生が使っているというノートを広げ、熱心に書き込みをしている夢路さん。別に自主学習を行っているわけではなく、我ら文芸部の文集の印刷を然るべきところへ依頼するために奔走してくれているらしい。夢路さんに感謝のお祈りを。よって僕らは原稿を提出すればよいだけの状況になっている。無論これは途轍もない幸運だろうし、しかし夢路さんの好意に甘えてばかりというのもよくないということは勿論理解している、しているのだが、
「座んなさいよ、ふたりとも」
ではお言葉に甘えて。
座るタイミングを完全に逸していたらしい部長も、ほっと息をついて教卓のパイプ椅子に座り込む。って、いいのかそれ。
僕は詩歌ちゃんの後方の席につく。ちょっとだけ彼女は振り返って「いぇい」とピースを出してきた。明るい子である。僕は目礼でそれに応える。
「じゃあ始めましょ。まず文集の紙なんだけど……」
幾枚かの、種類の違うと思われる紙を取り出し、夢路さんは説明を始める。「これが予算の範囲内で一番いい紙。で、これが真ん中くらい、で、こっちが……」ううむ、違いが分からない。ぶっちゃけどうでもいい感があるが、夢路さんがそうはさせない。
僕が何を口を出さなくとも無事に紙やフォントやイラストの挿入位置(このイラストもほとんどが夢路さんと詩歌ちゃんの作である。感謝感激雨霰だ)は恙なく決定したらしい。話し合いを見るともなく見ていただけで、ひどく時間が経った気がする。ふと顔を上げると、なんと時計は十一時半を指していた。一時間半のキルタイム。
僕はいつでもそうである。いてもいなくても構わない、ただの数合わせとして自分の存在を敢えて埋没させる。気配を消すのは得意技なのだ。
ちらりと目を窓の外にやって、灼熱の陽射しの中、恐らくはフライパン状態になっているであろう灰色の運動場で走り続ける運動部諸君を見下ろす。「…おー、ふぁいおー、……」御苦労である。僕は別にそんな彼らの行為を不毛とは思わない。それは彼らにとって大切なことであるのだし、素晴らしい青春の過ごし方のひとつには、まず間違いなく数えられる行為であろう。せっかくの貴重な十五歳の夏を、こうして無為に消費している僕よりは充実した人生を送っているだろう。本人から見ても、第三者から見ても。
そういえば僕はまだ原稿を完成させていない。今は夏休み終盤、あと一週間弱で学校が始まる。そうなる前に完成させておくのが妥当と言うものだろう。まあ、僕の割り当てはそこそこの枚数だし、適当なおとぎ話でも書くか。
おとぎ話というのは往々にして残酷なことが多い。それはおとぎ話には限らず、古典作品や、或いはこの現実での歴史のように、滑稽なほど残虐で残酷なストーリーが語られることが多い。もしも天に我らが神がましますのならば、彼(彼女?)は、果たしてどのような気分で下界の我々を、更に言うならば、僕の今見ているこの光景を見ているのだろう。
「そういえば、部長」
突然の詩歌ちゃんの声に、孤高の"神の視点"まで昇りかけていた僕の意識が、急に現実に引き戻された。彼女は可愛らしい声で続ける。「部長、図書室の本、まだ返してないそうですね。夏休み前が返却期限だって、先生言ってましたよ。伝言しておいてーって」
司書の先生は、まだうら若き女教師である。夏休み直前にばっさりいったベリーショートくらいしか覚えていない。僕は人の顔を覚えるのが苦手なのだ。今の総理大臣の顔すらあやふやである。せめて一年やってくれれば覚えられるのだが。
「夏休み前ぇ?」
呆れたような声は夢路さんである。「あんたって人は……先生が髪切るより前じゃない」と、眉根を揉む。鏡先輩がその端正な顔の、見事なまでの無表情を崩さぬままに訊く。「何を借りたんだ」
部長はにやり、と、悪戯をする子供のように笑うと、意味ありげに指を一本立てた。
「――――女か虎か?」
鏡先輩が目を瞬かせる。「あの程度の長さ、読み終われなかったのか?」
確かに、彼の言う小説は短編である。短編集の中に入っていたとしても、部長が敢えてそのタイトルだけを口にしたということは、その話が目当てで借りたのだろうから、それだけ読めば用は終わりの筈である。まあ、現実はそうでもないんだろうが。
部長は指を立てたままでさらりと答える。
「いや、読み込んでたら返すタイミング逃した」
「部長、どうでもいいんですけどその指なんなんですか」
「ああ、意味はない」
と、引っ込めるのかと思ったら二本に増やした。意味がないのならやるなよ。
「読み込む? 結末を推理しようとでも思ったの」
夢路さんが得心がいかないとでもいうように首を傾げる。
「あのーぅ」
そこで挙手したのは詩歌ちゃんだ。視線を向けると、委縮したように首を縮めた。
「女と虎ってなんですか?」
ああ、そうか。彼女は知らないのか。確かに、中高生程度なら知らなくても無理はないかもしれない。
女か虎か、というのは、簡単に言えばリドルストーリーの古典的作品だ。ざっくりと誤解を恐れず言ってしまえば、最終的に女か虎か、という選択を迫られ、主人公が選んでしまったのはどちらか分からないまま終わるという話である。読んでいない人に詳細を教えるのは気が引けるが、分からなければ部長の言葉が通じないのだし、仕方がない。夢路さんが丁寧に物語の筋を辿って教えているが、詩歌ちゃんはうんうんと頷いているものの、あの顔は多分解ってないぞ。
「そもそも、なんでそんな本を借りたんだい」
そう言った鏡先輩に、二本のままの指をひらひらと振る。鏡先輩は自分の原稿から顔を上げないから、その行為は見えていない筈だが、それでも部長は芝居がかった調子で楽しげに指を振った。まるで指揮者の様だ。
「いや、実はさ」
笑みの意味が深すぎてマライア海溝並みになっている部長は、元から多少上げていた口の端を更に吊り上げ、
「俺も一個持ってんだ、原稿」
と、言った。
「は?」
部長、原稿もう書き上げてたのか。羨ましい。
「どういうこと?」
「いやさぁ、貰ったんだよ」
「誰によ」
「友達」
にやにや笑いのまま、部長はそれきり何も言わない。焦らしているのだろうか、イラつくだけだから早く何か言え。
「友達?」と詩歌ちゃんが不思議そうに首を傾げるのと「友達?」と夢路さんが訝しげに眉をひそめるのが同時。そして続けて、
「部長、友達なんかいましたっけ?」「あんた、友達なんかいたっけ?」
部長は表情を引きつらせながら答える。
「俺にだって何人もいるよ、友達くらい……」
珍しく部長がショックを受けている。そんなに友達がいないといわれたことが衝撃的だったのか。
「小説なのか?」
興味を示した風に、鏡先輩が顔を上げた。おや、意外な人が釣れた、と言わんばかりに部長が少し笑みを消し、驚いた表情をした。
「ああ、まあな。素人が書いたから、結構無茶苦茶だけど」
「あんたも素人でしょうが」
尤もな夢路さんの言葉に、部長はひょいと舌を出した。「俺の方がまだマシな短編書けるぜ」
「よく言うわよ、全然〆切守らない癖に」
それには言葉を返さず、部長はパイプ椅子から立ち上がった。うーんと伸びをすると、「別に公表する為に書いたんじゃないってそいつは言ってるんだけどさ、実生活で起きたショックな出来事がが反映されてんだってよ。でももう吹っ切れたから見せてもいいってさ」
実生活で起きたショックな出来事が反映、か。別に他人の人生に興味は無いから、僕は何も言わなかった。
「え、いいんですか?」
詩歌ちゃんが身を乗り出す。大仰なボディランゲージは彼女の天真爛漫な性格ゆえであり、彼女が立ち上がる際引かれた椅子の背もたれが、僕の座っている机に当たり、派手に揺れた。
「おう。未完成だけどな」
夢路さんがふっと眉をひそめる。
「気になるわね」
そりゃあ気になるだろう。だが未完成というのは少々いただけない。
「見たいわ」
夢路さんは催促するように、細い腕をびしりと伸ばした。無言だが、渡せということなのだろう。部長は、手に持った鞄を少し漁って、しばらくしてから曲がったファイルを取り出した。あそこまで曲がっていてはファイルの意味が無い。その中から、ばらりと、端のよれた原稿用紙の束を取り出した。まだファイルの中には(白紙の)原稿が入っているのが透けて、裏側が見える、恐らくそれが部長に割り当てられた分なのだろう。一ページも進んでいないようだ。部長に創作の神が降りてきますように、合掌。
いや、部長は確かひとつ短編を書いていたはずだ。割り当てよりは少なかったけれど。じゃああの原稿はなんなのだろう。あまりか。
「みんなで読みましょ」
え、僕もか?
「これ、誰が書いたの?」
「俺の友達だって」
にやりと笑い、指一本と共にそう答える部長。二本に増やす気配はない。夢路さんは頷く。
「そう。――――どういう話なの、これ」
視線を手元の原稿に落とす夢路さん。部長は少し記憶をまさぐるような間をおいて、「―――起承転結、の結末、の末が抜けてる感じ」
「気になりますね」
詩歌ちゃんが呟く。
「気になるよな」
部長も同意し、声を少し低める。「――――こっちも気になるんだよ、その結末」
本当に、あと少しのとこで切れてんだよなあ―――と、部長は腕を組んで天、もとい教室の天井を仰いだ。
「なんなら、推理してみるか?」
冗談混じりに言ったのだろうその言葉に、夢路さんはふとまばたきをした。
「―――いいわね。そうしましょう」
急に宿題を出されたような気分だった。
僕はその原稿に目を向けた。立ち上がり、椅子を持って、夢路さんたちと向かい合うように座る。これで見える。
作者名は無く、題名も無い。一行目から手書きの字が、用紙のマス目を埋めている。ペンや万年筆で書かれたような濃いインクが妙に違和感があって、ひどく生々しく思えた。
「結末を推理する?」
言いながら、鏡先輩も原稿の方に首を向ける。尖った筆跡が目に入り、鏡先輩が目を細めた。部長の金釘流とは大違いの、神経質な文字だ。書いた人がもしも男ならば、相当な癇症に違いあるまい。女性ならば珍しくはない程度の鋭さだが、少し神経の細いタイプかもしれない、と僕はひとりで推測を立てる。
「これで読める?」
夢路さんは言いながら、最初の一ページめを机の上にすっとすべらせる。皆で見られるようにという配慮だろうが、あいにく彼女たちと向かい合う形で座ってしまった僕は逆様にしか見えない。身を乗り出し、首を曲げる。古風な言葉が、目に飛び込んできた。
『これらの事の、総ての始まりから記します』
「手記のようだね」
淡々とした声で鏡先輩が言った。この書き出しからすると一人称ですすむのだろう。僕は首を傾けたまま、読みにくい傾いた字を追った。
『これらの事の、総ての始まりから記します。
私はある春の日に、あの学園にひとり着きました。―――小雨の降る、春とは到底思えない、寒い日でした。
萌黄の湿原に囲まれたその、城砦のような大仰な学園施設を見て、私はまるでいつの日か父の書斎で見たモン・サン・ミシェルを思い出しました。書斎の壁に貼られていたあの緻密なスケッチは明るい色合いで、見る人に訪れたいと思わせるような軽やかな絵でしたが、この建築はまるでその城を百年、或いは千年、人類が滅びそれでも尚、途方も無い年月晒されて―――凄絶なほどにその迫力を増した、古代の遺跡のような荘厳な雰囲気をまとっていたと感じました。
さまざまな灰色の建物の合間合間に見える翡翠や群青は、色濃く繁った樹木だったようです。空は白く、いえ、明るい灰色の雲に覆われて、そこはまるで、
地の果てのようでした。
悪い意味ではないのです。湿原はその学園を取り囲み、その向こうへずっと続いていました。周囲の山が、けぶるように降る雨のせいで遠く翳んで見えたからかもしれませんがその湿原がその後ろ、永遠に続いていくようで、それでいてこの世ではないどこかへ消えていくようで、それはとても現実感の無い、怖ろしい光景でした。怖ろしく、そして美しかったのです。』
詩歌ちゃんががんばって読んでいる感じがとても伝わってくる。彼女は漢字があまり得意な方ではないから、小難しげなこの文章を読むのは少し骨だろう。と、夢路さんが眉をひそめる。何か呟いたのが聞こえた。「夢路?」と鏡先輩が尋ねる。「今、なんて言ったかい」
「あんまり好きじゃないわって言ったの」
夢路さんはそこそこ本を読み込んで好き嫌いを分けるタイプだが、この文章は本能的に合わないと感じたらしい。またしっかりと読み込めば話は違うのだろうが、僕もこの文体はあまり好かない。なんというのか、どうも、書き慣れていない光景を無理に描写している感じがするというのか。
同じ感想を持ったようで、夢路さんは「熟練者じゃないわね」と批評を続ける。鏡先輩は「そうかな」といまいち同意しかねるようだが、彼は読んだ本をおよそ否定するということをしない人だから、例え初心者の書いた文章でも悪所を指摘することはない。
居心地が悪そうにそっぽを向いて立ちっぱなしだった部長が「俺が書いたんじゃねえからな」と主張する。「分かってるわよ」といまいち身の入っていない返事をした夢路さんが、次の段落に目を落とした。
『その学園こそが此の、無慈悲で惨酷な姦計の罠を仕掛けた、御伽噺にも似た人形劇の舞台。
そして、あなたとの、相反する二つの人生の、きっと一度きりの交点。
あのとき、あなたとの、たった一度の二人きりの逢瀬。
澄んだ瞳で虚空を見上げ、銀糸のような小雨にただ濡れていたあなたに、ああ私はこの人のことを好きになるだろうな、と―――私は確信したのです。
私はあの、いっそ滑稽なほど残虐な自らの所業を悔いてはいません。
けれど。
私の罪はどれほどの重さなのでしょう。
自らの恋のために、人間を(或いは己が友人さえも!)死に追いやったこの私の罪は、どれ程の重さなのでしょう。
その罪の重さで、私はあの湿原の底に深く深く、どこまでも沈んでゆけるのでしょうか。
私は望んでいた。
まるでこの世の外のような景色の中で、私は海に沈むように水に溺れるように、恋という美しくきらびやかなものだと私が信じて疑わなかった夢物語に溺れてそのまま死んでしまいたいほどに、幸せになれると信じていました。けれどそこには多大な勘違いが存在していたらしく、私の中で夢物語として構築された虹色にも瞬くロマンティックな華やかさは、現実には恋ではなく愛の世界にあるらしかったのです。常々分かりにくいと感じていた恋と愛の境には厳しく冷たい線引きがされていました。簡単なことです、恋はするものだが愛はしあうものであるということ。
私は望んでいたのです。
あ な た を 愛 す る こ と を!
私とKは友人でした。
Kは裕福な家庭の生まれでした。彼女はきっと「さなぎ」。この学園は、高貴な生まれの子供をまるで乳母日傘のように守り育てる、鳥の巣、或いはさなぎのような場所であると同時に、最期には煮殺される蚕を養う繭でもあるのでしょう。愛らしい鳥の雛であったKに対して、私は妾の子供で、父母はそんな私を疎ましく思い、この学園に入れたということは容易に想像がつきました。
Kが時折見せる仕草の優美さは、私をみじめにさせることがありました。
ペンより重い物など持ったことのなさそうな、白魚のような手。骨ばっておよそ女らしくない私の手とは大違いで、ふとした拍子に自ら手とKの手が同じ視界に入ると、そのどうしようもないほどの差に、私はひどく劣等感を刺激され、思わず黙り込んでしまうときもありました。
仔猫のように愛嬌のある笑顔を振りまきながら、彼女は、まるで野性の獣のように険しい表情しかしたことのないような私といつも一緒にいてくれました。
そんな私に、何も知らない無邪気なKは好意を向けてくれました。
湿原に囲われただけでももうそこは自然の要塞というのに、この学園はまるで牢獄のように高く、大きな鉄の扉で外界と鎖されていました。正門の無骨な黒の鉄骨は、荊のようなアイアンワークが施されていました。それは美術品として価値あるものだったのでしょうが、私にそれは収容所の荊棘線にしか見えなかったし、事実それを彷彿とさせるような鋭利なデザインを、敢えてしたのだと思います。
しかしKはそれを綺麗だと言いました。緻密に施された装飾の中の、鉄の棘に、彼女は気がつかなかったのでしょうか。
Kは愛らしい砂糖菓子のような女の子でした。成績はクラス、いいえ、学年でも一、二番であったはずなのにそれを鼻にかけるような素振りは一切なく、誰からも好感をもたれていました。
私が「繭」だとするならば、彼女は「さなぎ」のスタンダードモデルだったのです。誰もが彼女を天使と認めた。
そんな彼女が、親友という、人によっては人生を左右されるような大事なポジションに、なぜ私を選んだのかは、今でも分かりません。
『あなたも本が好きなの?』
英文のペーパーバックを読んでいた私に、Kはそう声をかけてきました。
放課後の図書舘でした。西日はまだ、炎を思わせるような橙には染まっておらず、ほんのりと蜜柑のような黄色さを湛えて、窓から差し込んでいました。その光の中に、Kは立っていたのです。
『あら、英語の御本? ―――植物図鑑かしら?』
驚いたように訊ねてきましたが、別に私はそれをしっかりと呼んでいたわけではないのです。ただ―――あなたの読んでいた本だったから。
Kは私のことを、それだけのことで尊敬してくれたといいます。
Kはすべての物ごとに美点を発見し、あるいは、ひとつの物ごとに両ベクトルからの見方があるのならば、必ず良い方向から見るという、馬鹿みたいに純粋で優しい、私の親友でした。
私のような人間にも、分け隔てなく接し、それどころか彼女の方も私を親友と呼び慕ってくれた、天使のような少女。
Kは、私のことを唯一無二の大切なものだと信じて疑わないような純粋さを持っていました。そこにあったのは言うまでもなく、至誠至純の親愛の情。
だからこそ。
彼女があなたと、二人きりでいるのを見たときには、眩暈がしました。どうして、K!(あなたは私の気持ちを知っていたはずなのに、)
初秋の音楽室。開けられた窓からは小麦色の湿原が見渡せて、いつもはひどく寒々しいような色彩の学園がすこし明るく見えていました。
そしてその、淡く色づいた景色の中で、嗚あなたたちはまるで恋人のように語らっていた!
Kが弾いていたのは私の知らない楽曲。けれどそれがとても上手なものであることは私にだって分かったし、隣で、彼女の演奏姿を見守っていたあなたと彼女は、まるで本当の恋人同士のように見えた! いいえ、私には、二人が親密な関係にあると、そうとしか見えなかった!
それは恐らく私の空想か、思い込みだったのでしょう。だって、Kは私の気持ちを知っていたのです。私のこの愚かで不器用な恋を応援すると、そう言っていたのです。
その気もちに嘘はないのでしょう。ただ、彼女は時折何も考えていないような行動をとることがあるのです。悪気も悪意も、何も無い。ただ、不用意なだけなのです。そのような隙が、およそ非の打ち所の無い彼女の唯一、人間らしいところであり、皆から好かれる要因のひとつでもありました。
だからこそ!
Kと私はよく御茶会を開きました。たった二人の、飾らない、他愛も無いおしゃべりのための時間。
二人部屋にたった独り、余ってしまって一人の私の部屋に二人で集まり、小さな机に白いレースのハンカチーフをかけて、紅茶と菓子を用意しての可愛らしいティータイム。
その日に、私が用意したのは、ジャスミンティーでした。
図書室の窓辺に、ぽつんと置かれた植木鉢。細く繊細な蔓の伸びたそれは、黄色いカロライナ・ジャスミンを咲かせます。
カロライナ・ジャスミンは、名前にこそジャスミンと入っているものの、本当はジャスミンの仲間ではありません。ジャスミンに黄色い花は咲かないのです。これは、世界一の猛毒の花の仲間。そしてカロライナ・ジャスミン自身も、とても強い毒性を持つ花だということです。
これはみな、あなたの読んでいた植物図鑑で知ったこと。
幸せを呼ぶ花、と、土にちょこんと差された紙製のプレートには書かれていました。
以前、何かの役に立つかもと戯れに思い、ジャスミンティーを作りたい、と司書の先生に言ったことがあります。彼女はこちらが不安になるほど容易く、花を幾つか貰うことを許可しました。図書委員である、あなたのいないときを見計らい頼んだので、私の所業は知られていないはずです。
ひとつは、Kが前にくれたことのあるふつうの茉莉花。もうひとつはカロライナ・ジャスミン。
ふたつのティーカップを乗せ、私は盆を持ってKと向かい合って座りました。
Kはいつものように、私に微笑みかけ『いつもごめんなさいね、あなたの部屋でばかり』そして、彼女の持ち物である手元のカップに目を落とし、琥珀色にも似た透き通る液体に目を丸くしました。『あら、ジャスミンティー?』
私は微笑みながら『そうよ、あなたのくれた』と言いました。
ちゃんと笑えていたと、思います。
Kが茶を飲み干したところで、私はこう言いました。
『K、あの曲はなんというの?』
Kが動かなくなったところで、私は彼女の身体を背負い、彼女の部屋へ戻りました。彼女のルームメイトがこの間転校してしまい(本当に転校したのかは分かりませんが!)彼女がひとりでいるということは分かっていたからです。『今度は私の部屋で御茶会をしましょうか?』とKが楽しそうにはしゃいでいたのを覚えています。
床にどさりと、彼女の身体を自然に落としました。立っていた体勢から崩れ落ちたら、このような形になるでしょう。ぐにゃりと、華奢で愛らしいお人形のような身体を投げ出して、Kは斃れました。
Kの飲み干したティーカップと、まだ少し中身の残っているティーポット。それと、何も載っていない御盆。
完璧です。
私は制服のポケットから、ネズミ捕りにつかう毒、砒素を取り出しました。
人を殺すには少々足りない程度の量ですが、ティーポットに少ししか残っていない程度の量のお茶の成分量として、恐らく最適でしょう。念のため、彼女の白い唇の周りにそれを少しだけ付着させ、最後にそれの入っていた、今は空っぽの瓶を彼女の部屋の机の上に置いて、私はそっと部屋を出ました。
Kが憎いわけではありません。彼女は昔も今も、私のただひとりの親友だったと思っています。
それでも、彼女があなたとあのように笑い合うというのなら。
これは愛でしょうか。
いいえ、私の夢見る愛とは、あなたのたましいとひとつになってしまって、どこまでもあなたに溶け込み永遠に共にあるという、語られる愛の基礎のようでありながら実は酷く難しい不可能極まりない夢物語のこと。
私はあなたをまだ愛せない。
S君。彼は、あなたと同じ、図書委員会でしたね。彼は「さなぎ」でしょうか。それとも「繭」でしょうか。遠目で一度見た限りでは、その人となりはよく分かりませんでしたので、判別はつきませんでした。Kと仲がよさそうに、本について語らっていたのを見たことがあります。あのとき、私は秘かに胸を撫で下ろしたものでした。
二人はまるできょうだいのように仲が良く見えたのです。Kはわずかに頬を染めながら、彼の差し出した本を受け取り、胸に抱いていました。その姿はまるで、天使のように愛らしかった。
そしてその、天使のように愛らしく、神に愛されたような少女が、理由不明の自殺をしたとあって、学園には不安と不穏が渦巻いておりました。とりわけ私達のクラスは悲しみに暮れ、私も大切で、大好きだった親友のために泣きました。
けれど、あなたは泣かなかった。私は酷くも、その事実に少しばかりの安堵を覚えました。
そして、S君。彼も、泣かなかった。
あれほど楽しそうな談笑は、上辺だけのものだったのでしょうか。そんなはずはないと思いますが、その可能性は無視できないほどには大きかったのです。
いえ、何も涙を流すことが、悲しみのすべてであるとは言いません。ひとり静かに故人を悼む方法だってあるでしょうし、何より、人の目につく場所で泣いていなかっただけなのかもしれません。
けれど。
彼が時折見せる所作には、私はふと気付くことがあります。あなたと言葉を交わすとき、あなたを見る彼の視線。
それはまるで、あなたを見る私と同じような。
それはけして、級友や親友を見るような目ではなかったと思います。
もしかしたらそれは私の思い違いかもしれません。けれど、悲劇の萌芽は摘まなければならないのです。根こそぎ。
まだ秋が終わらず、冬が未だか未だかとせっついて、勇み足にも霙の降った日でした。
彼のときは時間がかかりました。彼とはほとんど言葉を交わしたことがなかったし、クラスも違った。同級生ではあったけれど、性別が違ったから、お互い無口な方であったのも災いして、最初は全くきっかけがつかめませんでした。時折めぐってくるそのチャンスも、とても些細なことだったので、掴むには勇気と運が必要でした。
けれど私は、まるで舞い散る桜の花びらをつかんだように、その小さな小さなきっかけをものにできたのです。
図書室は背の高い本棚が林立しているせいでいつでも薄暗く、日が翳ってしまうとまるで逢魔ヶ時のように淡い暗がりに支配されてしまいました。
その中でたった一箇所だけ、窓に一番近い本棚だけは日の光に照らされ、明るかったのです。並ぶ本の背表紙も色褪せてしまうほど、そこはいつでも光が差していた。
書棚の整理も、図書委員会の仕事なのですね。彼は重そうに、返却された本を幾つも手に持って、本棚の合間を歩きまわっていました。
私は彼の持っていた本の一冊に目を止め、少し緊張しましたが、彼に声をかけました。
『その図鑑、借りたいんだけれど……』
S君は無口でしたが、あなたのように孤独で、孤高の人ではありませんでした。いつでも少しだけ微笑を浮かべて、他人の話を静かに聴いている人でした。沈黙にも優しい人だったのでしょう。
窓際の席は、窓から差し込む太陽の光で、明るく暖かいことが多かったんです。冬が本格的に迫ってきて、ひたひたと、湿原が冬の色の閉ざされ始める季節。
曇天の時も多かったけれど、そういう時は電灯をつけて、どことなく地下室めいた不思議な雰囲気の中、私は時折、不自然ではない程度に、彼にレファレンスを頼みました。
図書委員会は当番制なので、やがて私は、彼のいる日やあなたと組む時のローテーションを把握できるようになりました。
あなたたちは恐らく仕事を分担していたのでしょう。彼は普段、書棚の整理を主としていました。あなたはカウンターの中でいつでも、大判の図鑑を読んでいましたね。そんなあなたには声をかけがたくて、私はいつも悶々としていたのです。
遠くからあなたの読んでいた本を見て、後日、その近くの棚を整理してるS君に在り処を聞く。この繰り返しでした。
S君は何を尋ねても、嫌な顔一つせずに答えてくれました。その優しさに、私は少し、彼を殺すのを躊躇いました。
思い違いではないのか。
私は単なる自身の迷妄だけで、取り返しのつかないことをしようとしているのではないか。
Kを殺したのも、ひょっとしたら。
ほんの少しだけ、私の心に揺らぎが生まれました。
もしも、もしもそうなのだとしたら、私は。
そんな時でした。
細雪の降る日でした。寒くて、冷え切った廊下を歩きながら、私は図書室に向かっていました。
あなたは自らの領域内部に座ったまま、カウンター越しに彼と言葉を交わしていた。何を話しているのかは分かりませんでしたが、彼がその手に持っている本は、以前あなたが読んでいた本。ええ、私も読みましたから、間違いはありません。確か題名は……
およそ三文節以上の文章など、ほとんど話したことのないS、彼がその時はひどく饒舌でした。彼以上に寡黙なあなたを前にしてのことでしたが、それにしたってそれは、おかしなことでした。どうしてあんなに、彼はあなたに語りかける?
私は戸の隙間からそれを盗み見て、あなたの横顔と差し向かう、Sの横顔を見ました。その眸は、あなただけを見ていた。
まるで熱を孕んだ、そう、獣の双眸。
図書室には台車があるんですね。大判の本をたくさん戻す時、本を積載したそれを押しているS君を幾度か見かけました。あなたも何度か手伝っていたのを覚えています。
どこかの学年が授業で使ったのでしょうか、たくさんの図鑑や資料が積まれたそれはとても重そうで、偶然彼がひとりの時に見かけたら、彼は図書室の最奥部の辺りで、一冊一冊、丁寧に棚に戻していました。
私は出来るだけ不自然ではないように、棚の影から姿を現しました。S君はすぐに気がついて、私の方を振り返りました。
『S君、この本、知ってる?』
タイトルを述べると、彼は短く『待ってて』と言い、屈みこみました。私の立っている位置からは、彼の姿が台車に隠れて見えなくなりました。
私は台車に、まだ多く積まれたままの本に目を向けました。
一番上に置かれた本は、庭園植物記でした。
本はとても重いものです。そう容易く崩せるものではありませんでしたが、幸いにして私は思ったようにその本の塔を突き崩すことができました。
庭園植物記はとても立派な装丁で、隣に落ちている焦げ茶のカバーの学校史と見比べても遜色はないほど重々しい雰囲気でした。彼の身体の上に重なっている本や、脇にすべり落ちた本はかなり多彩で、何故こんなものをと思うようなものも少なくはありませんでした。
ふと、踵を返した私は、そこにあった移動式の本棚に目を止めました。
彼の生死は確認しませんでした。幾ら本が重いとはいえ、一抹の不安は残ります。けれど、身体に迂闊に触れることは憚られるような気がしたので、私は万全を期すため、その本棚に手をかけました。詰まっているのは、重い国語辞典や漢字辞書。
S君は不幸にも事故死したことになりました。事故なんて、珍しくもないことです。
私がこの学園に入ってから、一年が過ぎようとしています。
遅い遅い春も、ようやく遠ざかっていき、湿原には初夏が訪れようとしていました。
中庭に一本、樹があります。針のような葉しか持たない樹の多い中、たった一本だけ、早緑もあざやかなそれは、葉の天蓋を広げています。地面の草色に影を落とし、それは風に揺れていました。
風が私の頬を撫で、空へ舞い上がりました。
そこには、あなたがいた。
あなたは私の方を向き、その瞳を瞬かせました。
『―――――☓☓☓さん?』
そして、あなたは私の名前を呼んだのです。
息が詰まりそうでした。何故、どうして、と、ほとんど言葉を交わしたこともないようなあなたが、私の名前を知っているのか、という疑問と、知っていてもらえた、という歓喜で、私の脳はぐるぐると渦巻いてしまって、頬が熱くなるのも抑えられませんでした。
あなたはゆっくりとこちらに向き直り、口を開きました。
『何か、僕に言いたいことでもあるの?』
まるで千里眼です。私は余計頬が紅潮してしまい、うまく答えられなかったと思います。
『……言いなよ』
素っ気ない言葉でしたが、私は舞い上がってしまいました。
ああ、まるで夢のよう!
彼には決して知られたくない計略を蜘蛛の巣の様に絡ませ、挙げ句二頭の蝶を無惨に喰い散らかしたのは記憶に新しく、たとえこれが未だ色なく愚劣極まりない恋であり、あの凄艶にも晴れやかな愛には到底届かないものであったとしても。私には、耐えられなかったのです。
哀しいかなこれが私の恋愛だったのです。
そしてそれを告げるために、私はあなたに一歩、歩み寄る。
本当は、KもS君も、私は憎くはなかった。できることならば、殺したくもなかった。
けれど、私の邪魔をするのならば。
あなたに、近づくのならば。
こんな私が、生きていてもいいのでしょうか。
とうに死んでいて当然の命が、こうして未だ、二人の人間を犠牲に捧げてまで燃え続けていることがそもそも、間違いなのでしょうか。
そんなことをふと考えたら、急に足が止まりました。
私はこの恋を、告白してよいものか。
自らの気持ちのみを伝えて、それだけでよいのか。
私は結局、あなたを愛することはできなかった。
罪も告白し、彼に裁きを求めるべきではないのでしょうか?
あなたを愛したいがために犯したこの罪をすべて告げ、裁きを乞うべきでしょうか?
あなたが不思議そうな表情をしたのに気付き、私は慌ててまた足を踏み出しました。
私は結局、あなたを愛することはできなかった。湿原の浮島にひとり、佇むあなたに、私が触れる術などなかったはずなのです。
けれど今、私はあなたに想いを伝える術を持っている!
あなたは、初めて逢った春の日のように、澄んだ冷たい瞳で、私を見ています。
私はそんなあなたが大好きで、そんなあなたに裁いてほしかった。
あなたのために犯した、私の罪を。
底の無い深すぎる、この無様な恋心と、目眩がしそうなほどの腐汁に塗れた甘美な罪を。
私は口を開きました。
そして零れ落ちる、罪と恋の、破片。
すべてを打ち明けるのには、長い時間がかかりました。けれど、あなたはじっと、黙ってそれを聞いていてくれました。
すべてを語り終えた私とあなたの間に、一陣の風。
天に舞い上がったそれは、私とあなたを隔てるように。嗚呼。
私はあなたを見る。遠い、あなたを見る。
そして私は、あなたの答えを知りました。
あなたは口を開き、こう言いました。』
そして本文はこう結ばれていた。
『「 。」』
成程、これは未完成であるはずだ。所謂リドルストーリーという奴の典型である。
「え? ……え、え?」
詩歌ちゃんが戸惑った声をあげる。無理もない、この手記、というか手記のような何かは、だんだんと収束していき、もしかしたら結末があるんじゃないかと、未完成だと言われた僕らですら思ってしまったほど、物語は完成に近付いていた。だのに、最後の一行。
「……これで、終わり?」
ぱらりと原稿用紙をめくり、夢路さんが呆然と呟く。「らしいな」と棒読みで鏡先輩が一言。
「つまりこれって、完成してるんじゃないですか? ほら、結末はあなたの胸に的な」
読み終わって一瞬僕の脳裏に思い浮かんだのは、芥川の有名な短編小説である。あれや、部長の借りた短編は複数択一であったので少々違うかもしれないが、謎、というか謎のようなものが提示され、答えが顕かにされないまま有耶無耶となるという終わり方はそう珍しいものではない。この作品を読んだ部長が勝手に未完成と判断しただけではないか、と僕は当たりをつけた。何故なら、そちらの方が楽だからである。この最後の一文を代筆せよとか言われても困る。
部長は目を細め、口を開いた。「いいや、違う」
そうもきっぱり否定するということは、彼は何か知っているのではないだろうか。「部長、何か知ってるんですか、この話の最後」
部長は一度首肯すると、にやりと笑い、低く言った。
「俺はそれを書いた奴からこう言われた。………『この話の最後はどう終わると思う?』」
「質問かよ」
思わず言った僕に、部長は情けない顔をして言う。「俺に言わないでくれよ」
「でもこれって、答えられないでしょ」
夢路さんが原稿用紙の束を、ピンと指ではじいて言った。
「どこにも推理できるとっかかりがないんだもの」
「とっかかり?」
聞き返すと、夢路さんは原稿用紙をめくり、そこにあった『あなた』という単語を指差す。
「この文章内における『あなた』の人物像が、まったくと言っていいほど描写されてないじゃない。孤独で、冷たい人というだけで」
「ふーん」と声を上げながら腕を組もうとしたら、ちょっと早く鏡先輩が腕を組んだ。僕は出遅れて、なんとなく上げかけた腕を下ろす。代わりに指を組んだ。
「確かにそれはそうですね」
言ってみると「でしょ?」と夢路さんは頷く。眼鏡の奥の目を瞬かせると、机の上に置いてあったシャーペンを手に取り、弄ぶ。
「何をあてはめても正解になっちゃうじゃない」
「何をあてはめても、ってことはないと思いますよ」
僕の反論に夢路さんは眉をひそめた。「だって、この描写はみんなこの人の主観じゃない」
主観か。確かにそうだ。
僕は夢路さんの手の原稿用紙に目を落とす。その行動に気付いた夢路さんが原稿用紙を机の上に置く。遠慮なくそれを手に取らせてもらって、一ページ目から紙を繰った。
………成程、確かにそうだ。
特定の親しい友人を持たず、いつでもひとりでいるような雰囲気。醒めた眸をした、周りの全てに無関心な少年。
ここまで詳らかに描写されているわけではないが、ほんの少し行動に共感できるような気がして、僕は原稿用紙を机の上にそっと置いた。
ま、このままでもいいんじゃないでしょうか。
そう口を開きかけたところに、夢路さんの声が響いた。
「どうする? 気になるよね」
「なりますよね」
同意するように、詩歌ちゃんが深く頷く。そりゃ気になるだろうけれど、しかし敢えて顕かにせんでも。これもまた味わい深いのでは。
と、反論を用意したところで、鏡先輩が小さく首を縦に振った。
「興味はある」
ブルータスよ、お前もか。
正直言って、僕はそういったことがあまり好きではない。別に推理そのものを嫌悪しているわけではないが、何せ面倒くさい。そして付け加えると、今現在僕は空腹なのである。もしもこの場で推理合戦が始まってしまえば、残念ながら弁当などを持参していない僕としては少々胃袋が辛いことになる。
「どうする? そう時間はかかんないと思うけど、今ここでやっちゃう?」
「いや、かかるでしょう」
さすがに口を挟んだ。推理などという、およそ暇人の道楽のようなものなどに時間を割いているような暇は無い、何せ僕は空腹なのだ。
「そうかしら?」
首を傾げる夢路さんは分かっていない。大方の場合、会議などというものは無駄に長期化するものだ。長期化という言葉がこの場合正しいのかは分からないが、とにかく空腹時にやっていいものではない。断じてない。というか、結末が分かったからといって何になるのか。そんなことよりも僕にとっては本能的欲求の方が大事である。
「むー。なんでそんな反対すんの?」
詩歌ちゃんに睨まれてしまった。けれど僕は怯まない。「僕は腹が減ってるんです」
「じゃあ私のお弁当わけてあげるよ」
……成程、そうきたか。
そう言われてしまえば返す言葉も無い。無下に断るのもあれだし、僕はもっとクリティカルな帰宅する為の理由を模索するが、すぐには思いつかない。
「蒸しパンとメロンパンとどっちがいい?」
さっそく鞄を漁り、パンを取り出す、優しい詩歌大明神様に感謝の祈りを捧げつつ、僕は絶望的な気分で蒸しパンを受け取った。
「じゃあ先に腹ごしらえしちゃおうか」
言いながら、夢路さんが鞄から、小さなお弁当箱を取り出した。あんなに小さくて足りるのだろうか。
無言のまま鏡先輩も何かを取り出す。コンビニのおにぎり三種だった。部長に至っては、エネルギー補給ゼリーだ。出勤途中のサラリーマンか。二人とも色気のない話だ。
観察していたら、その視線に気付いた部長が無言のまま、もうひとつゼリーを取り出した。「やるよ」……ありがとうございます。
「これもあげるよ」と、夢路さんがなんとカニさんウインナーをくれた。ありがたくいただこう。ところで何故タコさんではないのだろうか。
と、僕の目の前に、牛カルビのおにぎりがそっと置かれた。その手の主を見ると、おかかを頬張っている鏡先輩だった。……僕はそんなに餓えて見えるのだろうか。
「でもこの話、ツッコミどころ多すぎですよね」
メロンパンをもぐもぐ頬張っている詩歌ちゃんがそう述べた。「うん?」と鏡先輩が首を傾げる。
「なんでいきなり相手に恋心と罪を告白するんですか。そりゃ相手だってびっくりですよ、こっちを見てるから何か言いたいのかなと思って何の気なしに尋ねたっぽいのに」
「いや、何の気なしとは限らないぜ」
部長がにたりとほくそ笑む。
「もしかしたら、ずっと『私』とやらの気持ちに、こいつは気付いていたのかもしれないぜ?」
成程、そういう考え方もあるか。僕は蒸しパンを咀嚼しながら考える。まあ、素人の書いた小説に目くじら立てるっていうのも野暮だろ、と部長は肩を竦めた。
こくり、と口の中の物を飲み込んでから、口を開く。「部長、何か知ってるんですか?」
部長が一瞬目を見開く。「なんで?」と、聞き返され、僕は言葉に詰まる。別になぜそう思ったのか、に理由はない。彼の態度からふとそう思っただけだから、答えられない。
僕が蒸しパンの咀嚼に逃げると、部長は唇を引き結んだまま僕をじろじろと見ていたが、やがて息を吐いて、目を伏せた。
「知ってる、ってわけじゃないけどな。或る程度、予測はつくよ。答え」
その言葉に、夢路さんと詩歌ちゃんが反応した。「何、どういうこと」
低い声で言った夢路さんに、部長は怯まず飄々と続ける。
「更に言うなら、俺は答えも持ってる。見てないけどな」
僕は我が耳を疑った。答えを持ってる、だって? だったら何故それを皆に教えない! なんという無駄な労力! これぞ徒労! と内心憤慨したことはおくびにも出さず、僕は部長の方へ視線を向ける。
「この際だからばらすけどな、俺は感想を聞かれたんだ。これを読んだ奴らがどんな反応を示すかって、な」
らしくもなく動揺した僕の内心を見透かすように、部長は僕の方をちらりと流し目で見た。
「……感想なんて、どうして」
詩歌ちゃんの言葉が、どことなく非難するような口調になってしまったのは仕方がないだろう。彼女としてはなんとなく騙されているような気分になったはずだ。
夢路さんが低い声で「感想?」という。
「この自己満足の結果でしかないような短編を、他人はどう読むか。拙いということは分かっているそうだぜ。『ひどい話だ』って自分でも言って笑ってた。この話の結末自体じゃなく、ただ、読んだ人がどう考えたか、を知りたいんだと」
部長は、無表情のままそこまで言い終えると、ふうと息をついた。
黙って聞いていた鏡先輩が、冷静に一言だけ言った。
「もしかしたら、それもまた一種の裁きかもしれないな」
響いた言葉に、夢路さんが眉を寄せる。どういうこと? とその顔に書いてある。
……まあ、答えは簡単、ということで。
「感想からの予測を聞くだけならそう時間もかかんねえだろ。いいよな?」
部長は、どこか面白そうな笑みを含んだ視線を僕へ投げかける。
僕は頷いた。仕方がないだろう、この四面楚歌の状況でひとり席を立てるほど、僕は人間関係に頓着しない人間ではないのだ。要するに、適当な答えを適当な論理と共に見繕えばいい。僕は瞑目して、もう一度あの話を反芻してみた。
………。
「作者からヒント。……『あなた』は、『私』の想いには応えなかった。ただし、『私』がその前に投げかけた問いには答えた」
部長はおかしそうな笑みを浮かべたままそう言った。僕は、彼の台詞を脳内で整理する。
夢路さん達の声が、一瞬遠くなる。
……?
部長の声が、補足をした。
「もうひとつ。……その言葉のせいで、作者は一時は自殺しようとも思った。まあ、現実には一ヶ月くらいで立ち直ったんだけどな」
……その言葉に、僕は、自分の考えの正確性を知る。
僕なりの答えだ。正しいのかは分からない。けれど、方向性はこれで間違っていない筈だ。
しかし、この答えは、あまりにも。
僕が目を閉じていたことは不審に思われなかったらしく、目を開けると、夢路さん達はさっそく何か紙を取り出して、例の短編……いや、手記というべきなのかもしれないが、それを机の中心に置いた。その周りを、囲むように椅子を移動させる。僕も、夢路さんの右隣の席に座った。しかし部長だけは立ったままで、窓枠にもたれかかり、笑みの無い表情で僕らを見ていた。
「いい、始めても」
自然と夢路さんが主導権を握った。別に異論は無い、僕らだって彼女が一番相応しいと思っているから、素直に首肯した。
「要点をまとめると」
夢路さんがペンを走らせるシャープな音が響いた。
白い紙の中央に箇条書きにされたそれを見て、僕は目を細める。
・「あなた」は孤独な人
・「あなた」は「私」の告白を聞いても動揺しなかった
・ 言葉は、罪を裁くだけでなく、その前の「『私』が生きていてもよいのか」という問いと「『私』は『あなた』を愛している」という告白にも答えているらしい
最後の文章を理解するのに少々時間を必要とした。ええとつまり、それは「私」を断罪するだけの言葉ではなかったということか。告白の断りと、相手の生死についての意見も述べているということか。ううむ、分かりにくい。
思わず腕を組んでしまった僕にはお構いなしに、夢路さんははっきりと通りの良い声で述べる。
「これに、部長の友達の証言を足す」
一行ほどの間隙をつくり、夢路さんはまたペンを走らせる。
・「あなた」は「私」の想いには応えなかった
・「私」はその答えに、自殺しかねないほどのショックを受けた
・ ただしそれは、一ヶ月で立ち直れる程度のショックだった
「まあ、その子が強かっただけなのかもしれないけど」
夢路さんはそう言いながら、最後の文章の頭の点を、ぐるぐるとペンで囲む。しかしその台詞に、詩歌ちゃんと鏡先輩が揃って首を傾げる。夢路さん自身も半信半疑の様子でそう言ったが、僕もそうだ。この物語の中で、ここまで冷静に二人の人間を殺している少女がもしも作者の分身なのだとすれば、今頃その作者は生きちゃいないだろう。そこまで『あなた』にのめり込んでおいて、想いに応えてもらえなかったとなっちゃあそりゃショックで自殺したっておかしくはない。むしろそうするのが自然というものだ。
「まあ、これはただ単に、その言葉で一気にその『あなた』への熱が冷めたってだけかもしれないし」
夢路さんがそう言うが、詩歌ちゃんがさっきとは逆方向に首を傾げ、口を開いた。
「いや、でもそうしたらきっと、こんな奴の為に私は大事な親友と級友を殺害したのかーって、後悔しまくるような気がするんですけど」
夢路さんがぐ、と言葉に詰まる。
「でもですよ、夢路せんぱい、この手記、全部終わったあとに書かれたにしちゃあ、そういう後悔とか自責の念とかが、ほとんど感じられないんですけど」
詩歌ちゃんの畳み掛けに、鏡先輩までもが口を挟む。
「まあ、この話を現実とリンクさせるのはほどほどにしておいた方がいいだろうな」
瞑目したまま言った彼に、夢路さんのぶすくれた表情は見えない。
「所詮ストレス発散みたいな形で書かれた作品だしな。結末が気になるだけって話だろ」
部長がそう言いながら含み笑いをする。どうでもいいが、妙に笑いのバリエーションが豊富な人だ。
「そうでもないわよ」
夢路さんは口を尖らせる。「結構この話、プロットとしてはいいじゃない。きちんと勉強して書きなおせば、結構面白くなる可能性もあるわ」
そうか? 僕は内心首をかしげながら、夢路さんを注視した。
「じゃあ、誰から発表する?」
夢路さんがそう言いながら、一同を見渡した時、当然のことながら誰も挙手はしなかった。授業と同じである。皆夢路さんと視線を合わせないように、下を向くかそっぽを向くか目を閉じるかしている。ちなみに僕は目を閉じている。
ため息をつくような気配があったので、右眼を薄っすらと開けると、彼女は胸の前に紙を掲げた。
「それじゃあ、私から発表するわ」
提示された紙の中心に、定規を当てたように真っ直ぐ書かれた文字列は、こうだった。
『死を以て、その罪を償え』
のっけからの強烈なアプローチに、部長が微妙にのけぞる。鏡先輩は瞬きをし、詩歌ちゃんはぎょっとしたように「えっ」と短い声を上げた。
「ロクなのが思いつかなくてごめん。でも、これくらいしか私が納得できるものがなかったの」
責任感正義感の塊のような夢路さんだ。たかが恋如きのために人を殺すような主人公に共感できるはずもないだろう。まあしかし、正義といえば苛烈が相場だというから、らしいと言えばらしいが。
「いや、これはないだろ……えぐいわ、お前」
「部長、それは言い過ぎですよぅ」
窘める詩歌ちゃんの声にも覇気がない。確かにこのラストは少々えぐい。狂うまでに自分に恋した少女を、こうまで冷酷に裁けるものだろうか。
断罪してくれ、と願ったのは少女自身だ。
「人を殺すってことは、到底許される罪じゃないと思う。本当の話じゃないってことは分かってるけど、でもこの作者の人は自分の中でそのくらい、重い罪を犯したって思ってるってわけでしょう。それなら、断罪されたいと本心から思ってるなら」
このくらいはいいんじゃない?
そう言い、夢路さんは不安げにこう付け加えた。
「それとも、私だけなのかな」
彼女だけ、ということはあるまい。人を殺す、或いはそれに値するような行為を嫌う気持ちは分かるし、それを罰したいと思う、疼くような気持ちだって悪とは言えるはずがない。けれど、それはあまりにも残酷すぎやしないか。
そう、部長らは言いたいのではないか。
瞑目したまま、鏡先輩が口を開く。
「却下」
「違うんじゃないか」
部長の否定の言葉と、鏡先輩のやんわりとした反論が重なった。
「どうしてよ」
反駁の理由を問う夢路さんに、鏡先輩が目線で部長に先を促す。すると、部長は「いや、お前が言えよ」と鏡先輩に手で理由の明示を薦めた。「俺は一応、本人から正解を聞いてるようなもんだからな」
肩を竦めた部長に、鏡先輩は「そうか」と一言だけいって、夢路さんに向き直る。
「夢路、忘れるな。これは恐らく、現実に著者が言われた言葉だ。お前の提示したような、そんな言葉を、普通に罪と愛を告白された程度で言うか? いくら『裁いてほしい』と懇願されたからといって」
夢路さんは少し身を引き、唇を噛む。「……でもそれは、『恐らく』じゃない。実際に言われた言葉そのままじゃないかもしれないわ」
それが苦しい言い訳だというのは、夢路さん当人にも分かっていただろう。鏡先輩は目を伏せ「どうなんだ」と部長に問うた。
部長はにやりと、チェシャ猫のように口角を持ち上げた。そこはさすがに焦らしたりせず「実際にばっちり言われたらしいぜ」と述べた。
「あのー、せんぱい」
そこでなんと詩歌ちゃんまでが、控えめに挙手して発言権を希望した。「ちょっと言わせてもらってもいいですか?」
上目遣いで、しっかとこちらを見据えている。……これは、なかなか断れまい。
「……ええ。何?」
夢路さんの声に、詩歌ちゃんは「えっと」と少し思考を整理するような表情をして、
「そのう、なんていうか、わたしの中で、この『あなた』って、……君と同じような人かなって思うんだけど」
突然の言葉に、僕はついていた頬づえを思わず崩してしまった。ずるりと顎が滑る。ちょっと待て、なんだって?
「こいつと?」
部長が代表で、驚いたような声を発した。夢路さんも、あの鏡先輩までもが目を見開いて僕を凝視する。……い、いや、そう真剣に見なくとも。
「本当に、なんとなくなんですけど……」
詩歌ちゃんはたどたどしく、概念の次元のことを言語の次元へ昇華させようと奮闘する。語彙をまさぐるような間があって、
「孤独、っていうか、なんていうか、うーん……多分、思考回路が似てるんじゃないかな、って」
ちょっと待て、僕はこんな薄情そうな人間ではない。いや、薄情と描写されているわけではないが、一人の人間を自殺に追い込みかねないようなことは言ったことはない、つもりだ。
「それは君の思い違いですよ。僕はこんな人間ではありませんから」
そう打ち消すと、詩歌ちゃんは「自覚がないって怖いよねっ」と恐ろしいことをさらりとのたまった。
「誰ともちょっと距離をつくってるところとか、ちょっと似てるよね」
待て。誰がいつ人の気持ちをスルーした。言いがかりにも程があるだろう。
そう言いたいが、少し心当たりが無いでもないから始末に負えない。さてどう言ったものか、脳内で算段をつけていると、部長が肩を竦めた。
「まあ、そいつもこいつのことは知ってるからもしかしたら似てるかも知んねーけど、直接のモデルは違うぜ」
それはよかった。って、作者が僕を知っている?
「作者って、誰なんですか?」
「あー、俺の女友達」
意味深長、という四字熟語が似合う笑顔で、部長はくすりと笑った。
夢路さんが不機嫌そうに眉根を寄せた。「むー、何よみんなして」とぼやく。いや、僕は何も言っていない。
それにしても、だ。僕は中心に置かれた件の原稿用紙にちらりと目を走らせる。やはり書いたのは女性か、と自らの推測が正しかったことを知る。
「それじゃあ、時計回りで」
透き通るような低音でそう述べ、鏡先輩が、ゆったりとした仕草で裏にしてあった紙をひっくり返した。
『僕は君を、許さない。』
無言で、皆がその文字を読む。鏡先輩は自らの答えに目を落としたまま、こう続けた。
「基本的には、僕も夢路と同じ考え方だ。けれど、僕は夢路ほどには辛辣にはなれない」
淡々と言うが、夢路さんの目がつり上がってるぞ、鏡先輩。「辛辣って何よ」とぶすくれた様子で口を尖らせる。
「『あなた』に『私』を断罪する権利は無い筈だ」
夢路さんに答えたのかそれとも独白か、鏡先輩は落ち着いた声で、しかしきっぱりとそう言った。
「あくまで彼が――『あなた』が、『私』を、許すか許さないか。そして、同時にそれは、彼女が――『私』が生きていてもよいのか、という問いにも、暗に答えを示していることに、なりはしないか」
最後の部分を疑問形にまとめた鏡先輩は、少しだけ不安げに、皆の顔を見回した。
僕はふっと息をつく。奇しくも全く同じタイミングで、部長もふん、と鼻を小さく鳴らした。
そして同時に、口を開く。
「違うな」
「弱いんじゃないでしょうか」
部長の否定には「そうか」とだけ言った鏡先輩が、少し遅れて届いたらしい僕の声に、訝しげに眉を寄せた。
「弱い?」
僕は頷いてみせる。どういうことかと問い詰めんばかりの表情の夢路さんと、意味が分かっていないような表情でぽかんとしている詩歌ちゃん。部長は窓枠にもたれかかり、微妙に笑みを浮かべて僕の方を見ている。
「この物語に出てくる『私』は、とても度胸がある、恋に生きた女の人ですよね。よく言えば、ですが。まるでサロメのよう」
言ってから、はてサロメは愛を得るために誰を殺したのだったっけ、と肝心なことを思案する始末だが、そんなことはおくびにも出さず、僕はできるだけさりげなく言う。
「なんというか、そんな、悪く言ってしまえば狂気的な人の一人称で進む、結構えげつない話のラストが、そんなのでいいんでしょうか」
きっぱりとした拒絶ではあるものの、どうにも収まりが悪い気がするのだ。僕としては。
僕は自らの言った言葉を反芻する。
狂うほどに愛を求めた『私』に、果たして『あなた』は、どんな拒絶を浴びせたのか。
冷酷で無慈悲な断罪、そうでなければ『私』は報われない。
裁くことすら拒むというのは、何を思ってのことなのか。
『あなた』は、『私』をどう見ていたのか。
あるいは、
「ねえってば、」
唐突な声に、僕はびくりと肩を震わせた。
「じゃあ次は、私ってことになるの?」
僕に話しかけてきたのは詩歌ちゃんだった。ちょっと不安そうに視線を、ちらりと先輩方に向ける。まあ、時計回りという順番で進むのならばそうだろう。「そうですよ」
詩歌ちゃんは自信がなさそうな表情で、少し迷った様子を見せたが、やがて口を開いた。「えっと、自信は無いんですけど……」
机の上に置きっぱなしだったシャーペンを手に取り、女の子らしい丸い字で答えを書く詩歌ちゃん。
『ごめんね。』
「希望があるわね」
夢路さんがそう言ったのに対し、部長は首を振る。「却下」
それはそうだろう、彼女だってこれが正解だとはまるで思っちゃいない筈だ。
「どうしても救いがほしかったなーって……」
詩歌ちゃんはそう言って首を竦めた。上目遣いに僕らを見る。「だって、あまりにも可哀想じゃないですか。たとえ許されないことをしたとしても……」
確かに、彼女が最後に救いを求める気持ちも分からなくはない。だが、正解はそれではない。ただし、『私』を断罪しなかった、というのは、いい線をいっていると思う。
「まあ、確かにこれ、君っぽくないもんね!」
元気よく言うな。
理論的に否定するまでもないと思ったのか、鏡先輩は「悪いね」と言い、その紙を横にのけた。そしてそのまま、僕の方を見る。
詩歌ちゃんの左隣に座っていた僕は、夢路さんが箇条書きにした条件の紙を、失礼してちょっと手に取った。一息つくと、口を開いた。少し考えてから、発声する。
「先に言っておきますけど、これはあくまで推理の結果です。もしも僕だったらこう答える、ということではないことを言っておきたいと思います」
そう前置きをして、手元の紙から顔を上げる。背筋を伸ばして、真剣に聞き入っている夢路さんに、普段と変わらない無表情の鏡先輩、そして緊張しているのか、肩の線が硬い詩歌ちゃん。そしてひとり、窓枠にもたれてつまらなそうな顔をしている部長。
全員の顔を一通り見回したところで、僕は紙に視線を戻す。「さて」と口火を切った。
「少し説明が必要だと思うので、先に説明したいと思います。いいですよね?」
確認するように敢えてゆっくりと言い、僕は視線だけを上げ、ちらりと面子の表情を確認する。部長以外が、しっかりと頷いた。
「先ず僕は、「あなた」が「私」の犯行を知っていた、という前提で話していきます」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
出だしから腰を折られ、僕は一瞬調子が乱れる。「……なんでしょうか」
「どうしてそんな仮定をするの? 証拠でもあるの?」
「ないですよ。そもそも、こんな抽象的な物語に物的証拠なんて望むべくもない。細部が曖昧すぎて隙がない。ですから、心理的な証拠や、あるいは常識に照らし合わせて考えていくしかないんです」
まあ、それだけのヒントで、十中八九正解であろうこの言葉を導き出せてしまった僕は、不本意ながら詩歌ちゃんの言うように「あなた」と思考回路に相通ずるところがあるのかもしれないが。
「まず、『私』が殺した『K』は、周囲には自殺と認知されています。原因不明というところに怪しさを感じても、どうも舞台は怪しげな曰くつきの学園です。そんなことでいちいち他殺ではないかと疑問を抱くような人はいないでしょう。人気者であるが故に持つ悩みというものも、世の中にはあるそうですし」
そこで僕は一度、乾いた唇を舐める。息をつき、また説明を再開した。
「しかし、それを『私』が殺したのだ、殺人事件だったのだ、と聞かされても『あなた』の態度はほとんど変わりません。これは、実は既に或る程度推測がついていたのではないでしょうか。無論、『S君』のことも同様です。
彼は、全ての真相に気がついていたのだとしたら」
ふと、喉の渇きを覚えたが、僕はそのまま続ける。荒唐無稽な仮定だと、謗られるかもしれない。だが、別にいいのだ。重要なのは、結果であり、答え。それに至るまでの過程は、仮定であっても構わないのだ。
誰も何も言わない。小さな隙にも鋭く切り込んでくる夢路さんですら、口を閉ざして、僕の説明の続きを待っている。
多少の居心地の悪さを覚え、僕は身じろぎをした。また、口を開く。
「これは勿論推測の域を出ませんが、そう仮定すれば、彼は……『あなた』は、自らの友人らが殺されたというのに、ただ黙ってそれを見ていたということになります。
つまり彼は、『あなた』は、『私』が、自分を求めて足掻いているのを、ただ静観していたということになります。
何か理由があったのか。それは、この話の中では分かりません。
これが現実ですが、この話を書いた人は、現実でも同じように、裁きを求めたのでしょうか。それとも、愛を告白しただけでしょうか。どちらにしろ。その両方を、彼は突き放した。
ひょっとしたら、彼は、被害者である二人を、友人とは思っていなかったかもしれませんね。
とにかく、『あなた』は『私』の罪を糾弾することも、皆の前でこいつが殺人犯だと、裁くことだってできた筈です。いつ「あなた」が「私」の犯罪行為に気付いたのかはさだかではありませんが、作中でふたりの人間が死んでから、数カ月が経っている。その間には確実に気付いたでしょう。ならばなぜ、その時に弾劾しなかったのか。
僕はこう考えました。……最初から、彼は、彼女を裁くつもりなどなかった」
部長が、ついと目を細めた。鋭い視線が僕の視線と、正面からぶつかった。僕は怯まず、彼のその視線と真っ向から張り合う。
……ふっと、部長の目が和らいだような気がした。
僕はまた唇に舌を這わせた。もう少しだ。
「これは僕の妄想です。ただ僕がそうと信じ込んでいるだけで、違うかもしれない。ですが、僕は十中八九、これが正解だと思います。
彼は、自らに裁きを求めてきた少女を裁くことはなかった。
……かと言って、彼女の行為を享受しようとは、彼女の気持ちを甘受しようとはしなかった。彼は、彼女を裁いたわけでもないし、彼女の気持ちを受け入れたわけでもない。
つまり、どういうことかというと」
かというと。
僕は深く息をついた。気がつかなかったが、背に汗をかいていた。
「つまり、なんなのよ」
夢路さんが、僕に解答を促す。僕はシャーペンでさらりと、できるだけさりげない字で、原稿用紙の上に答えを書いた。多少素っ気ない感じになってしまったが、別にいいだろう。
僕はその紙を、机の中心にすべらせた。
皆の視線が一瞬、それに集まる。
「うわ……」
思わず、と言った感じで夢路さんが呟いた。鏡先輩も、顔色が変わるというほど顕著ではないが、軽く血の気が引いた。詩歌ちゃんが頬を引き攣らせた。「そんな……」と、絞り出すような声で呟く。
典雅先輩はにやりと笑うと、折り畳まれた原稿用紙を、あの曲がったファイルから取り出した。それを開き、ぱらりと僕らに中身を見せた。
その中心にたった一文、神経質そうな文字で記された文章。
それを見て、僕は満足した。
僕はつとめて淡々と、その言葉を読み上げた。
「甘えるな。」