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ゆきのまちシリーズ

雪霊

作者: 謎村ノン
掲載日:2026/03/03

 雪の粒が横殴りに舞っていた。風がレンタカーのボディに当たるたび、乾いた爪で引っ掻かれるような音がした。ワイパーは、最大スピードで動かしても、すぐ雪が積もっていく。

 僕――克己(かつみ)は、隣で地図アプリを見ている由奈(ゆうな)を盗み見た。彼女は、頬を紅くして、楽しそうに笑っている。大学の卒業旅行で、古い温泉旅館に行くことになり、東北の雪景色の中、優雅にドライブのはずだったが、こんなに吹雪になるのかと、ちょっと軽く考えすぎていたのかと思った。

「すごいね、ほんとに真っ白。映画みたい」

 彼女は、窓の外へ指先を向ける。指輪は、まだない。けれど、その先に伸びる未来まで彼女は、当然のように信じているらしかった。僕は、ハンドルを握る手の汗を感じて、暖房の温度を少し下げた。

 山へ向かう道は、いつの間にか除雪の線が細くなっていた。ワイパーがせわしなく動き、視界の端で雪の壁がゆっくりと迫ってくる。ナビは「あと十三キロです」と淡々と告げるが、距離の感覚が削られていく。白が世界を塗りつぶすと、遠近は頼りなく、吹雪の音以外は何も聞こえない。

 由奈は、いつしか口数を減らし、窓の曇りを指で拭っていた。そこに描いた丸い輪郭が、ふっと消える。結露の水滴が流れ、指の跡だけが一瞬残って、すぐ曖昧になった。僕は、慌てて、レンタカーのエアコンのスイッチを入れた。

「大丈夫かな。道」

「大丈夫、たぶん。この車、スタッドレスって言っていた。チェーンも後ろに積んであるって」

 そう言いながら、僕は「たぶん」という言葉が、舌に重いことに気づく。いや、ちょっと不安はあったが、彼女の前では、デキる男を演じたいのだ。

 日が沈みかけたころ、ようやく旅館の灯りが見えた。谷間の斜面に貼り付くように建つ古い木造の建物だった。軒の下に提灯が揺れ、黄ばんだ光が雪へ滲んでいた。ずっと白だけだった景色が、そこだけ古い絵の具で塗られたようにくすんで見えた。

 駐車場に車を滑り込ませると、除雪されてはいたものの、雪はさらに深かった。靴が沈み、足首の周りがすぐ冷えた。僕は荷、物を持ち、由奈は肩をすくめて笑った。

「なんか、すごい遠いところに来ちゃった、って感じするよね」

 その言葉の響きだけが、妙に胸に残った。来ちゃった――戻れなくなる場所へ、うっかり足を踏み入れたかのような、軽い言い方だった。

 玄関の引き戸を開けた瞬間、湿った木の匂いと、古い畳の甘さが鼻を撫でた。暖気が頬を包み、視界が一瞬ゆらいだ。ロビーは広いが、人は少なかった。薪ストーブの前に、三脚とカメラが置かれている。

 そこにいたのは、見覚えのある顔だった。

 帽子を目深に被り、フリースの上から派手なダウンを着た女だ。目が異様にぎらついているように見えた。隣には、無口そうな男が機材ケースを抱えて立っていた。

「え、うそ……キクリン?」

 由奈が弾けるように駆け寄る。僕は、足が止まった。霊感系ユー○ューバー、キクリンだ。幽霊スポットで叫び、祈り、時に泣き、時に笑う……再生数は、桁違いだと聞いたことがあった。

 由奈は、スマホを握りしめ、サインをねだり、写真を撮り、はしゃいでいた。キクリンは慣れた笑顔で応じ、カメラマンらしい男は無表情のままレンズを拭いている。

 その光景の端で、僕は、ゆっくりと由奈が「ここを選んだ理由」を思い出しかけて、すぐ引っ込めた。たしかに、彼女は、オカルトっぽいものが好きだった。女性なら、誰でもそうだろうとあまり気にしていなかったが、目の前に「あの人」がいる以上、偶然とは言い難い。

 受付から女将が現れ、貼り付いたような笑顔で、僕たちに深々と頭を下げた。細い体で、きっちり結われた髪をしていた。

 僕は、鍵を受け取りながら、できるだけ軽い声を作った。

「あの……この旅館って、いわゆる“出る”って噂、ありますか?」

 女将の笑顔が、一瞬だけ引きつった。ほんの刹那、皮膚の下にある恐れが浮いた気がした。

「いえいえ。あれは……宣伝のための企画でして。イベント会社さんにお願いしているだけですから。お客様には、安心して――」

 言葉が早い。息継ぎが浅い。僕は「それ」を感じ取り、胸の奥が冷えた。何かを隠している、のがバレバレだった。

 由奈は、そんな空気に気づかないようだった。キクリンに向かって何度も手を振り、僕の袖を引いた。

「ね、すごいね! 同じ日に泊まれるなんてさ!」

 すごい? そうだろうか。僕には、運がいいというより、何かに引き寄せられたように思えた。

 雪が深いせいか、宿泊客は、僕と由奈、キクリン達の他には、数名いるだけのようだった。ロビーはやけに広く、薪ストーブの火がぱちぱちと乾いた音を立てるたび、空間の余白が余計に目立った。濡れた外套の匂い、古い畳の甘さ、湯の気配が混じり合い、あたたかいはずの空気に、どこか冷たい芯が残っている。

 チェックインの手続きを待つ間、僕は、何気なく周囲を見回した。帳場の前に立っているのは、山用のザックを背負った中年の夫婦と、窓際で湯呑みを両手に包んでいる老人、それに――ロビーの隅で機材を組み立てているキクリン達。カメラマンの男が三脚を伸ばし、キクリンは小声で「ここ、雰囲気ヤバいね」と笑っている。声は楽しげなのに、笑いが床に落ちる前に吸い込まれていくようで、僕は無意識に喉を鳴らした。

 ロビーの壁には、古い絵が飾られていた。雪の山、黒い木々、その間に立つ白い着物の女の絵であった。目の部分だけが塗りつぶされているような感じだった。額の隅には、黄ばんだ紙が、何枚も貼られていた。御札のようで、文字は読めない。剥がれかけた端が、暖気でふわりと揺れていた。

 由奈は由奈で、例のごとくキクリンに目を輝かせている。偶然一緒になったことを「運がいい」と受け取っているらしい。けれど、僕には、雪に閉じ込められたこの旅館が、限られた人数を「選んだ」ように思えてならなかった。外は白く、道は一本。逃げ道が少ない状況の中で、こうして人が少ないのは、安心というより不気味さを増幅させる。

 女将は、こちらを待たせたことを詫びるように何度も頭を下げ、館内の説明を始めた。僕は、視線を逸らし、案内の後ろについた。

 女将の声は柔らかいが、言葉の継ぎ目が妙に早い。慣れた口上を滑らかに読み上げているのに、どこか、急いで終わらせたい調子がある。

「お食事は、お部屋にお持ちします。温泉は、今夜は十二時まで、朝は六時からでございます。お部屋の鍵は――こちらで……」

 僕は、頷きながらも、女将の後ろに伸びる廊下の暗さに目を奪われた。古い木の柱が影を作り、照明の輪郭が揺れている。廊下の奥には、壁に沿って幾つか扉が並んでいるが、そのうちの一つだけが、妙に目についた。

 大浴場の案内板の横、少し引っ込んだ位置にある扉だった。木目の古い引き戸に、赤いテープが斜めに貼られている。その上から紙札が重ねられていた。文字は崩れていて、ぱっと見では読めない。けれど「ここから先は境目だ」とでも言いたげな、拒む雰囲気がある。

 僕は視線を外せず、つい口を開いてしまった。

「あの……すみません。あの大浴場の横の扉、立ち入り禁止になってますけど、あそこは何ですか」

 言った瞬間、女将の顔色がわずかに変わった。笑顔が消えたわけではない。ただ、貼り付いていた表情が、ほんの少し引きつり、頬の筋が硬くなる。まばたきが一度だけ遅れて、目の奥の落ち着かない光がちらりと覗いた。

「……ああ、そちらは」

 女将は間を置き、声のトーンを少しだけ下げた。聞かれたくない話を、できるだけ短く済ませようとするみたいに。

「これは、古い露天風呂でございます。昔は使っていたのですが……老朽化が進んでおりまして、現在は閉鎖しております。危ないので、行かないでくださいね」

 最後の「くださいね」が、やけに優しい響きを装っていた。けれど、そこに含まれているのは、お願いというより命令に近い。危ない、という理由も、どこか曖昧だ。落ちるとか、崩れるとか、具体的な危険の説明がない。代わりに、踏み込んではいけない、という気配だけが濃くなる。

 僕は、「わかりました」と答えながらも、胸の奥がじわりと冷えた。赤いテープの端が、暖房の風でほんの少し揺れた気がした。その揺れ方が、誰かが内側から息を吹きかけたように見えて、僕は反射的に視線を逸らした。

 由奈は気づかない。キクリンは遠くで笑っている。宿泊客の少ないロビーに、薪の爆ぜる音だけがやけに大きく響いた。僕は、今の言葉をただの「安全上の注意」として受け取れないまま、鍵を握り直した。

 廊下は軋み、ところどころに小さな鏡が掛けられていた。どれも曇っていて、自分の顔がうまく映らない。照明は暗く、木の節が影のように見える。

「へえ……」

 扉を開けた瞬間、由奈が小さく声を上げた。バイトのお金をつぎ込んで奮発しただけあって、割と広く、なかなか良さそうな、趣のある部屋だった。

 女将は、礼をして去った。

 窓の外は、雪が壁のように積もり、ガラス越しに白い闇が広がっている。まるで、外に世界が残っていないみたいだった。


***


 夕食は、豪華だった。

 山菜の小鉢、川魚の塩焼き、湯気を立てる鍋がでた。なぜか、刺身の舟盛りもあった。香りが立ち上り、舌がほどけた。

 由奈は、頬を上気させて、箸を止めない。

「ね、こういうの、憧れだったんだ。ウチ、そんなに旅行とかしなかったからさ。雪の宿でさ、温泉入って、部屋でごはん食べて」

 僕は、笑い返しながらも、さっきの女将の目を思い出していた。あの瞬間の揺れ。慌てた声の裏にあるものは、何を隠したのだろうか。

 食後、由奈は浴衣の紐を結び直し、鏡の前で髪をまとめた。

「先に温泉行ってくるね。克己もあとで入って!」

 彼女は、軽やかに部屋を出ていった。僕は、缶ビールを開け、ほろ苦さで喉を濡らした。テレビをつけると、画面がブロックノイズ混じりで、雑音が混じった。電波が弱いらしい。スマホも圏外表示のまま動かなかった。

「この天気のせいかな?」

 独りごちて、まあでもそのまま見るかと、バラエティー番組をそのままかける。

 外の白い闇が、窓ガラスへぴたりと貼りついていた。

 僕は、湯に浸かれば気が紛れると思い、浴衣の帯を締めた。

 大浴場の入口で暖簾をくぐると、湯気が肌へまとわりついた。照明は淡く、床は濡れていて、硫黄と木の匂いが混じった。

 湯船に足を入れた瞬間、あまりの熱さに、じわりと震えがきた。車の中は暑かったと思ったが、思ったより冷えていたようだ。

 湯は、白く濁っていた。柔らかく、目に優しい感じだった。肩まで沈めると、体の芯からじんわり温まっていく気がした。

 先客が、一人いた。痩せた老人だった。背中の皮膚は、染みだらけで、湯の中でも骨の輪郭がわかった。目だけが妙に澄んでいて、僕の方を見た。

「お若い人、旅行ですか?」

 声が、かすれている。けれど、よく通った。

「卒業旅行で……」

「そうですか。いい時期に来ましたね。でも、この山は気をつけた方がいい」

「え、雪女でも出るんですか?」

 僕は、冗談で言ったつもりだった。

 しかし、老人は湯面を見つめ、しばらく黙った。湯気の向こうで、目が細くなった。

「雪女というのは、雪で亡くなった者の霊だといいます。迷って倒れ、白の中で息を止めた者は、白と同じ姿になって戻るのですよ」

 言葉が、湯の熱より冷たく胸へ入ってくる。僕は笑えなかった。

「ここは、あの霊場の山の裏鬼門にあたります。冬の深い日、雪に迷った魂が、雪と一緒に現れるという言い伝えがありますな」

 老人は、誰でも知っていると思われる文豪の名前を挙げた。

「彼は、それを書き残していますよ。作品集で見てみるといい。それに、湯治客が“見た”という話もあります」

 老人は、淡々と語る。作り話を語る調子ではなく、事実を思い出すような、静かな確信めいた口調だった。

 僕は、自然と、ロビーの白い女の絵を思い出していた。

「それで……今日も、そういう日なんですか?」

 老人の口元が、わずかに歪んだ。笑いなのか、別のものなのかわからない。

「さあて。しかし、ここは雪が深いほど、境が薄くなるようですな。雪は、水でできています。水は――」

 そこで言葉が途切れた。老人は、僕の後ろを見た気がした。視線だけが、湯の外へ滑っていく。

 僕も、振り返った。入口付近に、立ち入り禁止の扉があった。

「それでは、わたしは出ますのでな。ごゆっくり」

 老人は、湯から上がり、体を拭くと、静かに出ていった。その背中が、やけに小さく見えた。

 僕は、湯に残り、目を閉じた。ここは、由奈が選んだ宿だ――偶然だと思いたい。たしかに、由奈はオカルトが好きだが、単に、女の子は、占いとかが好きということの延長ではないか……?

 湯を出て脱衣所へ向かうと、空気が急に冷えた。鏡の前で髪を拭いていると、ふと、鏡の端が白く曇った気がした。息が当たっただけかもしれない。しかし、その曇りは指で擦っても消えにくかった。

 僕は、早々に浴衣を着て廊下へ出た。

 そのとき、遠くのロビーの方向から、かすかな笑い声が聞こえた。若い女の声だ。由奈だと思った。安心しかけた。

 しかし、その声は、すぐ途切れ、代わりに「ころり」と鈴のような音が聞こえた。短い響きだ。

 僕は、足を止めた。廊下の木目が、妙に波打って見えた。照明も、一瞬揺れた気がする。

 部屋へ戻ると、襖の向こうは静かだった。

 ――由奈は、まだ戻っていない。

 僕は、スマホを握り直し、圏外表示を睨みつける。テレビは、「電波受信状態が悪くなっています」と黒くなっていた。

 僕は、スマホの電子書籍アプリで本を読んだが、時間だけが過ぎていった。

 由奈が、あまりにも遅いと思った。

 心配が、じわじわと旨に染みこんできた。僕は、フロントへ降りた。


***


 フロントには、仲居がいた。若い女性で、笑顔は丁寧だが目が眠そうに見える。

 僕が事情を説明すると、すぐに頷いた。

「確認してまいります」

 彼女は、懐中電灯を持ち、浴場へ向かった。僕は、ロビーのソファで待った。薪ストーブは、ぱちぱち音を立て、火が赤く踊っている。しかし、足先が冷たくなった。

 ロビーの絵が、視界の端でじっとこちらを見ている気がした。

 数分後、仲居が戻ってきた。首を小さく振る。

「どなたも、いらっしゃいませんでした」

 言葉が、頭の中で二度鳴った。

「え? でも、先に――」

「女性側にも、脱衣所にも……」

 僕は、立ち上がった。心臓が速く打った。

 由奈は、ふざける性格ではない。まして、知らない場所で迷うほど、不注意でもない。

「僕が行きます」

 廊下を急ぐ。足音がやけに響いた。途中、壁の鏡に自分の影が伸びた。映る顔が、少しだけ歪んで見えた。

 大浴場へ着くと、暖簾が揺れている。中は湯気で白く、湯の音が静かに鳴っていた。男湯を確認し、次に女湯の入口を覗く。呼びかけるが返事がない。脱衣所には、誰の服もないようだ。

 それでも、床は濡れていた。ついさっきまで誰かがいたような湿り気が残っていた。湯気が、当たり前のように漂っている。

 僕は、その湿り気の中に、微かな香水の匂いを嗅いだ。由奈が使う、柑橘系の甘さだった。胸がぎゅっと縮んだ。

 そのとき、視界の端で「それ」が動いた。

 立ち入り禁止の扉の前に貼られた赤いテープが、垂れ下がっていた。誰かが触ったのか、端が剥がれ、床に落ちかけている。そして――扉が、わずかに開いていた。

 冷気が、そこから漏れている。湯気が近づくほど薄くなり、空気の匂いも変わる。土と、古い鉄と、凍った木の匂い。

 僕は、喉を鳴らし、扉へ近づいた。止めた方がよいとは思ったが、足が止まらなかった。

「由奈……?」

 返事はない。代わりに、どこか遠くで「ちゃぷん」と水が跳ねる音がした。湯の音ではない。もっと冷たい、澄んだ水の音だった。

 僕は、扉を押した。ぎい、と乾いた音がした。内部は、細い通路で、壁が湿っていた。照明はなく、奥から微かな明かりが漏れていた。雪明かりなのか、別のものなのか判断できない白い光だった。

 通路を進むと、石造りの古い露天へ出た。屋根はなく、空が黒かった。雪が静かに降り、月の光を吸っていた。

 そこに、由奈がいた。

 浴衣のまま、縁に座り込んでいた。肩が、がたがた震え、指先は白くなっていた。顔は青ざめ、目だけが大きい。僕を見ると、唇がかすかに動いたようだが、声にならない。

「由奈!」

 僕は、駆け寄り、肩へ手を置いた。皮膚が冷たい。湯気の世界にいたはずの人間の温度ではなかった。

 彼女は、震える指を上げ、露天の向こうを指した。

 雪の積もる庭の奥、灯りに照らされた白の中に、小さな影があった。

 小学生くらいの女の子だった。

 白っぽい服を着て、髪は黒く長い。足元は雪に沈まず、まるで地面に触れていないように見えた。彼女は、雪の中を舞っていた。踊るというより、雪片に混じって揺れている。空気そのものが、人の形を取っているようだった。

 顔は、はっきりと見えなかったが、こちらを見ている気配があった。

 由奈の口が、ようやく音になった。

「……乙芽(おとめ)

 声が、掠れていた。僕は、耳を疑った。

「え?」

「乙芽ちゃん……」

 彼女の目には、涙が溜まり、頬を濡らした。寒さで出る涙ではなかった。別の感情が、高ぶっているようだ。

 僕は、その名前に、何か覚えがあった。そうだ、昔、聞いたことがある――ニュースで、山で行方不明になった子だ。

 野外教室、捜索、見つからないまま――春がきた。

 由奈は、小さく嗚咽しながら言った。

「近所の子で……親友だった。あの日、一緒に行ったのに……私が、花を摘みに行って……帰ったら……いなくて」

 露天の向こうで、白い影がゆっくりと近づいた。雪が舞い、彼女の周りだけ粒が細かくなったように見えた。音が消えていく。世界が、白に吸い込まれていくように思えた。

 僕は、身構えた。怖かった。

 しかし、由奈の目は、恐れより痛みで満ちているように見えた。

 白い影が、露天の縁に立った。そこまで来ても、足跡はなかった。彼女から、湿った冷気が流れ出しているように思えた。

 そして、彼女は言った。

「……迎えに、来てくれたの?」

 声は、子どものものだった。しかし、年齢に似合わない落ち着きがあった。

 由奈は、唇を震わせ、何度も頷いた。

「ごめん……ごめんね……」

 彼女は、謝り続けた。白い影は、首をゆっくり振った。

「いいの。もう、寒くない。……迎えが来たから」

 その言葉の意味がわからないまま、僕の背中が粟立った。迎え? 誰が、どこへ?

 雪の粒が、一瞬だけ渦を巻いた。風が露天を撫で、灯りが揺れた。

 白い影は、由奈へ手を伸ばした。指は細く、透けていた。

 僕は、思わず、その前へ出た。守るつもりだった。しかし、その手は僕を避けるように、由奈の頬へ触れた。触れたはずなのに、皮膚がへこむ感覚がなかった。冷えだけが、空気越しに移った。

「……またね」

 白い影は、そう言って微笑んみ――次の瞬間、彼女の輪郭が雪へ溶けた、ように見えた。

 雪片がふわりと浮き上がり、光の中で砕け、何もない空間へ散っていった。

 そこには、ただ、雪だけが残った。

 由奈は、その場に崩れ、声を殺して泣いた。

 僕は、彼女を抱きしめ、凍えた肩を擦った。自分の鼓動が、やけに大きく聞こえた。

 僕は、ここが「閉鎖」されている理由を理解した気がした……閉じておかないと、境が開いてしまい、あちら側が、こちらへ滲むのだ。

 僕は、由奈を支え、もう一度、大浴場へ戻った。

「とにかく、お湯に浸かって。暖まって」

 彼女は、頷いた。

 部屋へ戻ると、彼女は布団へ潜り込み、そのまま眠った。

 僕は眠れなかった。

 外は静かだった。雪は音を奪い、時間さえぼかす。僕は、窓の白い闇を見つめ続け、いつの間にか朝になっていた。


***


 翌朝、空は嘘みたいに青かった。

 雪は降っていない。昨日の猛吹雪が幻だったのではないかと思うほど、光が澄んでいた。白い山肌が陽に照らされ、きらきらと硬い輝きを返していた。

 由奈は、無口だった。朝食の箸は動くが、目線はうつろだった。

 僕が何か言おうとすると、彼女は小さく笑って誤魔化した。

 昨夜のことを、口にしてはいけない気がした。言葉にした瞬間、それが現実として固定され、逃げ道がなくなるようで、怖かった。

 チェックアウトのとき、女将はいつもより深く頭を下げた。視線を上げなかった。何かを聞かれるのを恐れているように感じた。

 ロビーでは、キクリンたちが機材を片付けていた。キクリンは頬を上げて僕らに手を振る。

「昨日、すごかったよね! ここ、やっぱヤバい!」

 彼女は、笑いながら「ヤバい」を軽く使う。しかし、その目の光は、興奮と欲でギラついていた。怖いものを見て、怖がるより先に「撮れたか」を考えているのだろう。

 僕は、曖昧に頷き、由奈の肩へ手を回した。彼女は、少しだけ身を固くした。

 外へ出ると、空気が刺すように冷たかった。しかし、昨日の冷えとは質が違っているように思えた。

 車へ荷物を積み込み、エンジンをかける。ナビがようやく位置を掴み、帰路を示した。僕は、アクセルを踏み、旅館から離れた。

 バックミラーに映る建物は、雪の中に沈んでいった。提灯の赤だけが、最後まで目に残った。まるで、あそこがまだ息をしていると示す、心臓みたいだった。

 由奈は、窓の外を見ていて、唇がかすかに動いた。祈りなのか、別の言葉なのかを聞き取れなかった。

 由奈は、知っていたのだろうか――ここがそういう場所だと。

 宿を選んだ理由が、ただの「雪景色がきれいそう」だけではない気がしてならない。しかし、無理に割れば、血が出る気がした。

 僕は、黙って運転した。

 帰り道は、不思議とスムーズだった。昨日の苦労が嘘みたいに、道は、開けていた。まるで、山が「帰れ」と言っているようだった。いや、違う。「もう来るな」と言っているのかもしれない。

 駅前に着き、レンタカーを返したとき、僕はようやく肩の力を抜いた。現実が戻った。

 その瞬間、由奈のスマホが震えた。通知が連続して入っているようだ。

 彼女は、画面を見て、指が止まった。顔色が、少しだけ青ざめていた。

「どうした?」

「……なんでもない」

 由奈は、笑って、スマホを伏せた。

 僕は、それ以上は、追わなかった。追えば、またあの女の子がこちらへ来るような気がした。

 

***


 数日後、日常に戻っても、僕は、まるで現実に薄い膜が貼っているように思えた。

 世界が少しだけ遠く感じた。講義は終わり、卒業式があり、就職の準備が始まった。

 忙しさが恐れを薄めるはずなのに、ふとした瞬間に「白い影」が目の端へ浮かぶような気がした。

 由奈は、あの夜の話をしなかったし、僕も触れなかった。二人の間に、踏んだら沈む雪原が広がっているように思った。

 ある夜、ふと思い出してキクリンのチャンネルを開いた。サムネイルは、あの旅館のロビーだった。提灯の赤、白い女の絵が映っていた。タイトルは過剰で、煽る言葉が踊っていた。

 再生すると、キクリンはロビーでテンション高く話し、廊下を歩き、立ち入り禁止の扉の前で身を乗り出していた。

 僕の背中が冷えた。あそこへ入ったのか。

 彼女は、昨夜の通路へ歩いていく。

 映像が露天へ出た瞬間、画面が一瞬だけ乱れた。ノイズが走り、音が歪んだ。

 キクリンが叫んだ。

「見て! 今、何かいた!」

 カメラマンが息を呑む音。そして、雪の庭の奥に、確かに白い影が映っていた。小さな、人の形だった。

 僕は、スマホを握りつぶしそうになった。あれは、あの夜の子だった。

 コメント欄は騒ぎ、信者が興奮し、アンチが嘲笑し、世間が消費していった。

 僕は、胸焼けを覚えた。あれは、娯楽ではない。彼女は「ただのネタ」ではない。

 動画の後半には、解説として招かれた男が登場した。

 元学者を名乗り、薄い笑みを浮かべ、妙に自信満々に語る。

「水にはね、すべての粒子に過去の記憶が詰まっているんですよ。雪の六角形の結晶配置は、その記憶をアンテナみたいに呼び覚ますんです。地球の磁場と経緯度の関係で、特殊なスポットができると、そこでチューニングが合うんです。そこでは、記憶の霊が――」

 僕は、眉をひそめた。眉唾だ。科学の言葉を借りたオカルト。そう切り捨てたかった。

 けれど、由奈は動画を一緒に見ていた。彼女は無言で、男の言葉を聞き、画面の雪を見つめていた。表情は硬い。信じているというより、確かめようとしている顔だった。

「ねえ、由奈。あれは、ただの――」

 言いかけて、僕は止めた。彼女の目が、画面の奥へ引き込まれていた。僕の声が届かない。

 その夜、由奈は僕の腕を掴んで言った。

「乙芽ちゃんね、私のこと、待ってたと思う」

 その声は静かだった。泣いてはいない。しかし、涙より重い確信があった。

「迎えに来てくれたから良かったって……あれ、たぶん、私だけじゃなくて……」

 彼女は言葉を探し、唇を噛んだ。

「私のお腹の中にいるものにも、言ってた気がする」

 僕は、息を止めた。

「……え?」

 由奈は自分の腹へ手を当てた。まだ膨らみはない。しかし、その仕草は、未来の母親のものだった。

「妊娠、してるかもしれない」

 世界が一瞬だけ止まった。喜びが先に来るはずなのに、僕の中では別の感情が浮いた。冷え。白い影。迎え。

「病院へ、行こう」

 由奈は小さく頷いた。目の奥に、雪が積もっていた。


***


 妊娠は、本当だった。

 医師の淡々とした説明。エコーのぼんやりした影があった。由奈の手が震え、僕はそれを握った。喜びは確かにある。しかし、胸の隅に小さな棘が刺さったままだった。

 すぐ結婚することになった。慌てて結婚式場を探し、式は簡単に済ませた。

 仕事は忙しく、給料は多くない。由奈は、つわりで辛そうにしながらも、時々ぼんやり窓の外を見ていた。冬が近づくたび、彼女の視線は遠くなる。

 僕は、あの旅館のことを調べた。ネットには噂が散らばっていた。雪女、目撃情報、霊場……。しかし、どれも断片だった。

 地方紙の記事に、野外教室で行方不明になった少女のことが書かれていた。名前は確かに「乙芽」だった。捜索は難航し、遺体は見つからなかった。春になって打ち切られた。関係者の証言は曖昧で、真実だけが残った。


 由奈は、妊娠中、奇妙な夢を見るようになった。白い庭、雪の音のない世界、子どもの歌。彼女は夜中に目を覚まし、僕の肩を掴み、息を荒くした。

「……呼ばれてる」

 夢の中で誰かが「おいで」と言う。そう話す。僕は抱きしめ、ただ「大丈夫」と繰り返した。しかし、その言葉は薄い毛布みたいに頼りない。

 やがて、冬の終わりに娘が生まれた。小さな泣き声と、温かい体で赤い顔でおぎゃあと泣いた。指が僕の指を掴んだ。その力だけが、この世の確かさだった。

 由奈は涙を流し、僕は胸がいっぱいになった。恐れは、少しだけ遠のいた気がした。

 娘の名前を決めるとき、由奈は一瞬迷った。口が動きかけて、別の音になった。

「……ねえ、雪って、きれいだよね」

 唐突にそう言った。僕は、笑って頷いた。彼女は娘の頬を撫で、微笑んだ。しかし、その微笑みの端に、どこか「決めてはいけない名前」を飲み込んだ痕が見えた。

 僕はそれを見なかったふりをした。


***


 娘はすくすく育った。よく笑い、よく食べ、夜も比較的よく眠った。僕は忙しい仕事の合間に帰宅し、小さな手に触れるたび救われた。由奈は母親として懸命で、家の中には穏やかな時間が増えた。

 それでも、違和感は、ある日突然現れた。

 娘が二歳を過ぎたころ、言葉が妙に早かった。単語ではなく、文章で話す。しかも、言い回しが幼児のそれではない。まるで、誰かの古い口調を借りているみたいだった。

「おとうさん、外は、きょう、白い?」

 雪が降っていない日でも、彼女は「白」を気にした。窓の外が曇っていると、じっと見つめ、時々小さく歌を口ずさんだ。歌は聞いたことのない旋律だった。高く、短く、雪が落ちる音みたいに途切れる。

 夜、彼女は、寝言を言うようになった。ときどき「こっち」と言い、手を伸ばす。抱き上げると、体が異様に冷えている日があった。暖房のせいではない。布団の中にいるのに、冷気が皮膚から滲む。

 僕は、何度も体温を測ったが、熱はない。健康だ。医師にも相談したが、成長過程でそういうことはあると笑われた。

 由奈は黙っていた。しかし、娘を見つめる目だけが、時々、あの露天で見た視線に似ていた。恐れと、罪悪感と、そして、懐かしさが混じる目。

 ある日、由奈が洗濯物を畳んでいると、娘が突然言った。

「ゆな、ありがとう」

 母親の名前を呼び捨てにすることは、普段しない。由奈は手を止め、笑おうとした。

「どうしたの。ママ、でしょ?」

 娘は首を傾げ、しばらく黙った。まるで、呼び方を思い出すのに時間がかかっているみたいに。

「……ママ。迎えに来てくれたから、良かった」

 由奈の顔から血の気が引いた。僕の心臓が一度大きく跳ねた。

 その言葉は、あの夜のものだった。乙芽が言った「迎えに来てくれたから良かった」。あれと同じ。

 僕は、娘の目を見た。澄んだ黒い瞳。そこに、雪の白が一瞬だけ映った気がした。照明の反射ではない。もっと奥、瞳孔の向こうに、白い闇があるような。

「……どこで、覚えたの?」

 僕が問うと、娘は笑った。無邪気な笑顔。しかし、その奥に、年齢に似合わない静けさが潜む。

「知らない。雪が教えてくれた」

 由奈が息を呑み、僕は言葉を失った。

 その夜、由奈は僕の腕の中で震えた。久しぶりに見る、あの震え方だった。

「克己……ごめんね」

「何が」

「私、あのとき……乙芽ちゃんに、約束したのかもしれない。いつか、迎えに行くって。だから……」

 彼女は泣いた。僕は抱きしめた。娘の寝息が隣の部屋から聞こえる。その音が、急に遠く感じた。

 僕は、考えたくない答えに近づいていくのを感じた。あの夜、乙芽は消えたのではない。形を変えただけかもしれない。雪の結晶の中の記憶が、別の器へ移っただけかもしれない、と思った。

 そして、その器は――


(了)



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