第二話 断罪の鉄槌、黄昏の後悔
叢雲家のリビングは、その夜、さながら最前線の作戦司令室へと変貌した。ローテーブルの上には、俺がこの数週間で集めた「武器」が整然と並べられていた。
「なるほど。計画的かつ組織的ないじめ、暴行、名誉毀損、窃盗……。考えうる限りの犯罪行為のオンパレードだな」
俺の傷の手当てを終えた父、猛が、テーブルに広げられた証拠の数々を鋭い目つきで検分していく。元陸上自衛隊特殊作戦群の教官だった父の眼光は、物事の表面ではなく、その奥に潜む本質を射抜く力がある。
「主犯は天王寺凱。実行犯が伊集院蓮。陽向葵は偽計を用いた精神的加害の主担当、および傍観による不作為の共同正犯。他のグループメンバーも同様ね」
母、玲奈は、俺が録音した音声データをイヤホンで聞きながら、冷静に法的評価を下していく。大手法律事務所のパートナー弁護士である母にとって、これらの証拠は勝利を確定させるための強力な駒に過ぎない。
「見事な証拠収集だ、朔。特にこの音声データ、相手の発言を正確に引き出し、こちらの被害を明確に記録している。暴行を受けた際の受け身も完璧だ。肋骨の骨折は、相手の過剰な暴力を示す上でこれ以上ない証拠になる」
父が俺の肩をぽんと叩く。その手は大きく、無骨だが、絶対的な信頼を感じさせた。
「SNSの投稿は、全て発信者情報開示請求の対象になります。投稿者の特定は容易よ。学校側にも、生徒の安全を確保するべき『安全配慮義務』がある。この義務違反を徹底的に追及すれば、彼らは全面的に協力せざるを得なくなるでしょう」
母はすでに、刑事と民事の両面から攻め立てるための完璧な訴訟戦略を頭の中で構築し終えているようだった。
俺は、最強の両親という圧倒的な戦力を背景に、復讐のチェス盤を組み上げた。彼らが俺から奪った平穏、踏みにじった尊厳。その全てを、法と実力という名の鉄槌で粉々に打ち砕く。俺が望むのは謝罪ではない。許しでもない。ただ、彼らの人生を根底から覆す、完全なる破滅だ。
月曜日の朝。学校は静かなパニックに陥った。校長室に、玲奈が代理人として署名した内容証明郵便が配達されたのだ。そこには、俺に対するいじめの事実が時系列で詳細に記述され、学校側の安全配慮義務違反を厳しく指摘した上で、加害者生徒への厳正な処分と、警察への被害届提出を正式に通告する旨が、法的根拠と共に記されていた。見たこともない法律用語の羅列に、校長と担任は顔面蒼白になった。
反撃の狼煙は、そこから一斉に上がった。
その日の午後、母が学校に乗り込んだ。黒いパンツスーツに身を包んだ母は、穏やかな笑みを浮かべながらも、一切の妥協を許さないオーラを放っていた。校長、教頭、担任を前に、母は次々と法的要求を突きつける。
「まず、校内に設置された全監視カメラ映像の、過去一ヶ月分の保全と開示をお願いします。拒否される場合は、裁判所を通じて証拠保全の手続きを取らせていただきます」
「いじめに関する調査のため、第三者を含む特別指導委員会の即時設置を要求します。委員の人選については、こちらからも指定させていただきます」
訴訟という二文字をちらつかされた学校側は、為す術もなく母の要求を全て呑んだ。彼らにとって、学校の名誉と保身が最優先事項だったのだ。
時を同じくして、俺は父と共に所轄の警察署にいた。応対した生活安全課の警察官に、用意した被害届と告訴状、そして証拠品のリストを提出する。父が同席しているだけで、警察官の対応は驚くほど丁寧になった。
「暴行を加えた天王寺凱、伊集院蓮の両名は『傷害罪』。嘘の告白動画を撮影、拡散したグループメンバー全員を『名誉毀損罪』。SNSでの誹謗中傷については『脅迫罪』で告訴します。また、金品の窃取についても『窃盗罪』として被害届を提出します」
俺が淡々と述べると、警察官は驚いたように目を見張った。母はすでに旧知の検察官にも連絡を入れており、今回の事件の悪質性を伝え、少年法による安易な保護ではなく、逆送致による刑事罰も視野に入れた厳罰を求めていることも付け加えた。
「未成年だから捕まらない」
「どうせすぐに許される」
そう高をくくっていた凱たちの日常は、その日の夕方に終わりを告げた。それぞれの自宅に捜査員が訪れ、令状を提示してスマートフォンやパソコンを押収していったのだ。突然の出来事に泣き叫ぶ者、呆然とする者。彼らはその瞬間、自分たちが犯した罪の重さを初めて皮膚感覚で理解した。
さらに、母は民事訴訟という次なる矢を放った。被告は、凱や伊集院、葵をはじめとしたいじめグループのメンバー全員。そして、その監督責任者である親たちだ。俺が受けた精神的苦痛に対する慰謝料、治療費、調査費用などを含めた請求額は、彼らの想像を絶する数千万円に上った。
凱の父親が経営する地元有力の建設会社には、どこからか「社長子息による悪質な傷害事件と、企業のコンプライアンス意識の欠如」に関する情報が、匿名かつ合法的な形で広まった。株主や取引先から問い合わせが殺到し、会社の信用は失墜。株価は暴落した。緊急で開かれた役員会で突き上げられた凱の父親は、引責辞任という形で社長の座を追われることになった。凱が振りかざしていた最大の権威は、こうして呆気なく崩れ去った。
俺自身への最後の接触は、学校の廊下で起きた。事情聴取のために呼び出された伊集院が、逆上して俺に掴みかかってきたのだ。
「てめえ、親に泣きつきやがって! ふざけんじゃねえぞ!」
殴りかかってくる腕を、俺は水が流れるような動きで受け流す。そのまま相手の体勢が崩れた一瞬を突き、腕を絡め取って関節を極め、一切の抵抗を許さずに地面に制圧した。システマの動きは、力を必要としない。ただ、人体の構造と力学を理解していればいい。体育の授業ですら見たことのない、洗練された制圧術に、周囲で見ていた生徒たちが息を呑んだ。
「これは正当防衛だ。これ以上抵抗するなら、暴行陵虐の現行犯として私人逮捕も可能だ。理解できるか?」
俺は冷え切った声で、法律用語を淡々と口にした。俺の瞳には、怒りも憎しみもなかった。ただ、ゴミを処理するような、無機質な感情だけが浮かんでいた。伊集院は恐怖に顔を引き攣らせ、何も言えなくなった。
数週間後、全ての審判は下された。
天王寺凱と伊集院蓮は、傷害罪の悪質性が考慮され、家庭裁判所の審判の結果、中等少年院送致が決定した。退学処分となり、彼らの経歴には一生消えない傷が刻まれた。他のグループメンバーも、名誉毀損や窃盗への関与を認められ、保護観察処分となった。彼らが面白半分で投稿したデジタルタトゥーは、今度は自分たちの将来に暗い影を落とし続けるだろう。
民事訴訟では、裁判所の和解勧告により、被告全員に高額な賠償金の支払いが命じられた。支払いのために家や車を手放し、共働きを始める親。ローンの支払いが滞り、自己破産する家庭。凱たちが築き上げた偽りの友情は金の切れ目が縁の切れ目となり、彼らの家庭は次々と崩壊していった。因果応報。自らが蒔いた種を、刈り取る時が来たのだ。
そして、陽向葵。
彼女は直接的な暴力には加担していなかったため、少年院送致は免れた。しかし、嘘の告白という最も残酷な役割を担い、俺の心を破壊した張本人である事実は変わらない。グループ内で後ろ盾を失った彼女は、クラスの誰からも冷たい視線を浴びるようになった。「ひどい」「あの子が元凶だ」という囁き声が、彼女の心を蝕んでいった。耐えきれなくなった彼女は、自ら学校を去った。彼女の親もまた、賠償金の一部を負担することになり、笑顔の絶えなかった陽向家には重苦しい空気が漂うようになった。
全てを失い、自室に引きこもるようになった葵は、何度も自問自答を繰り返した。
なぜ、あんなことをしてしまったのだろう。
凱たちに逆らうのが怖くて、グループでの居場所を守りたかっただけなのに。
本当は、朔のことがずっと好きだったのに。
中学の頃のように、隣で静かに本を読む彼の横顔を、もう一度見たかっただけなのに。
後悔の涙は、いくら流しても枯れることはなかった。
ある雨の日、葵は傘も差さずに家を飛び出し、叢雲家の前に立った。変わり果てた姿で、ずぶ濡れになりながら、ただ家の玄関をじっと見つめていた。謝りたかった。許されるとは思わない。でも、もう一度、彼と話がしたかった。
やがて、玄関のドアが開き、俺が出てきた。部活の朝練だろうか、スポーツバッグを肩にかけている。俺は、雨の中に立ち尽くす葵の姿をはっきりと認めた。
しかし、俺の足は止まらない。
まるでそこに誰もいないかのように、道端の石ころでも見るかのように、氷のような無表情で彼女の真横を通り過ぎていった。
その瞳には、かつて向けられた優しさも、憎しみさえもなかった。ただ、完全なる無関心だけが、底なしの沼のように広がっていた。
その視線こそが、葵にとって何よりも重い、未来永劫続く罰となった。
自分は、彼の世界から完全に消去されたのだ。その耐え難い事実に、彼女はその場に崩れ落ち、声を殺して泣いた。
数週間後。教室の隅の席で、俺は以前と同じように分厚い法律書を読んでいた。だが、教室の空気は以前とはまるで違う。誰も俺に軽々しく話しかけようとはしない。俺の周りには、静かだが誰も侵すことのできない、絶対的な領域が生まれていた。
その静寂を破り、一人の女子生徒が、恐る恐る俺の机に近づいてきた。クラス委員の、確か白鷺という名前の生徒だった。
「あの、叢雲くん……。この前の現代社会のレポート、すごく分かりやすかったって先生が褒めてて。もしよかったら、参考にした本とか教えてもらえないかな?」
俺はゆっくりと本から顔を上げた。彼女の瞳には、恐怖や好奇心ではなく、純粋な尊敬の色が浮かんでいた。
絶望の底で一度は止まった俺の時間が、再びゆっくりと動き出そうとしていた。
夕暮れの光が差し込む教室の片隅で、ずぶ濡れになって泣き崩れた幼馴染のことなど、もう俺の記憶のどこにも残っていなかった。




