第9話 熱に浮かされたお嬢様が、甘えてくるなんて聞いてない
「……38.9度!?」
体温計の表示を見た瞬間、俺は声を上げた。
エリザベートはリビングのソファにぐったりと座り、水の入ったグラスを持ったまま、うっすらと目を閉じている。額にはうっすらと汗、頬は真っ赤で、まるでいつもの気の強さが抜け落ちたみたいだった。
「な、なによ……そのくらい、平気よ……」
いつもの調子で強がってはみせたものの、その声はかすれていて、すぐに視線がふらつく。立ち上がろうとしてふらりとよろけたその瞬間、俺は咄嗟に身体を支えた。
「お、おい、立つなって……! 倒れる気かよ!」
彼女の身体は驚くほど軽くて熱かった。顔を間近で見ると、まつげの先にうっすら汗が光っていて、無意識に息をのむ。
「バ、バカ……変なとこ、触るんじゃないわよ……」
「……それ、今言う?」
俺は苦笑しながら、エリザベートをそのまま抱きかかえた。
お姫様抱っこ。
あのエリザベート・ミハイロワ・鳳条院を、だ。
目を丸くした彼女が「ちょ、ちょっと待ちなさ……っ」って文句を言いかけるも、途中でまた意識がふわっと飛んでしまったように体の力が抜けた。
「今は……言い争ってる場合じゃないんだよ」
そのまま寝室へ向かい、ベッドに静かに寝かせる。シーツに沈んだ彼女の身体は、やけに頼りなく見えて——
たぶん俺、もうこの時点で動揺しまくってた。
タオルで汗を拭き、冷えピタを取り出して額に貼る。
あとは冷蔵庫からポカリと氷を持ってきて、枕元にセットする。
ひとまず、応急処置は完了——と、思ったそのときだった。
「……うぅん……パパ……やだ……ひとりに、しないで……」
寝言?
エリザベートの眉が苦しげに歪み、細い声が漏れる。
その響きは、いつものような強がりや高慢さとはまるで違っていて。
「……わたし、いい子にするから……もう怒らないで……」
その言葉に、胸の奥がズキンと痛んだ。
あの鳳条院エリザベートが、こんな風に弱音を吐くなんて。
普段は絶対に見せない、幼さの残る表情。俺の知ってる彼女とはまるで別人みたいで——でも、なんかすげぇ、可愛い。
「……ったく。いつも強がってばっかなのにな」
俺は苦笑しながら、そっと彼女の髪をかき上げてやる。額に貼った冷えピタの端が剥がれそうになっていたので、そっと指先で押さえた。
そのとき。
タオルの下から、ちらりとパジャマのボタンが外れているのが目に入ってしまった。
(っ……やべっ……!)
胸元の谷間が、不意に視界へ飛び込んでくる。
(いやいやいや、見てない。見てねぇから俺は! これは事故! 不可抗力!)
慌てて目を逸らし、タオルをしっかりかけ直す。
だけど、赤くなった顔の熱が、自分の耳まで届いてるのがわかる。
そしてもう一度、エリザベートの寝顔を見ると、今度はさっきより穏やかそうな表情で眠っていた。
「……安心したのかよ」
思わずそう呟いたあと、そっと彼女の枕元に椅子を持ってきて腰を下ろす。
そのまま、しばらく彼女の寝顔をぼーっと見つめていた。
その寝顔が、ほんの少し微笑んだように見えて。
俺の心臓が、ドクンと跳ねた。
その瞬間だった。
「……ん……しょ、うま……」
うっすらと目を開けたエリザベートが、ぼんやりとこちらを見つめた。
熱で潤んだ瞳が、俺を見つけてわずかに安堵の色を浮かべる。
「……よかった……いたのね……」
掠れた声で、彼女はぽつりとそう言った。
そのまま、シーツの中から細い指が伸びてきて、俺の手をそっと掴んだ。
「ちょ、ちょっとお前……?」
驚く間もなく、彼女は俺の手をぎゅっと握りしめたまま、目を閉じて——けれど、はっきりとした声で言った。
「……お願い……ちょっとだけ……そばにいて……」
その言葉が、やたらと甘く耳に残る。
ドクン、ドクンと、心臓の音がうるさい。
(試されてるのか? これ、完全に男子としての理性、試されてるやつじゃないか……!?)
ベッドの縁に座り直す。
エリザベートは、うとうとしながら俺の手を自分の頬にあてがうように寄せてきて、そのままうっすら微笑んだ。
「翔馬……あったかい……」
その声が、熱のせいなのか、それとも本心なのか、俺にはもう判別がつかなかった。
けれどひとつだけ、確かなことがある。
この状況……逃げられないし、むしろ——
「……いや、マジで、俺どうすればいいんだよこれ……」
と、心の中で叫ぶしかなかった。
◆
一方その頃——
静まり返った夜の高級マンション。その応接間は、まるでモデルルームのように整いすぎていて、どこか人工的な寂しさを漂わせていた。
革張りのソファに腰掛けた御門隼人が、ティーカップを片手に言葉を紡ぐ。
「カイル君。このままでは、お姉さんが……不幸になるかもしれない」
目の前の椅子に座る少年。エリザベートの弟、カイル・鳳条院。
まだ幼さの残る顔立ちには、だが一瞬の影が走る。
「姉さんが……庶民に懐いてるなんて、俺にはちょっと信じがたいけど」
「それでも、現に今、彼女の隣にいるのは彼だ。しかも一つ屋根の下でね」
カイルの目がわずかに細められる。
「……それで俺に、どうしろと?」
「“家”の代表となる人間として、君には彼女を守る義務がある。血縁であり、後継候補としてもね」
御門の声は柔らかいが、底の見えない冷たさを帯びていた。
「……つまり、それは俺に、あの男から姉さんを“奪還”しろってこと?」
ティーカップを置いたカイルが、まっすぐ御門の目を見据える。
その視線に、御門は満足げに微笑んだ。
「ふふ、理解が早くて助かるよ」
応接間に満ちる静寂。
その中に、じわりと不穏な空気だけが広がっていく。
そして——
「父さんの代わりに、俺が……鳳条院家を守る」
カイルの低い呟きが、夜の闇に溶けていった。




