第41話 ただいまの声
冬の午後。雪がちらつきそうなほどの寒さの中、玄関のチャイムが鳴る。
この家に来客が訪れることは滅多にない。何かを予感した俺は少し躊躇いながらも、ドアノブに手をかけた。
ゆっくりと扉を引くと、そこには――
「……父さん。母さん……」
数ヶ月ぶりに見る二人の姿があった。
父さんはいつものようにどこか飄々とした雰囲気で立っていて、髪の毛は心なしか少し白くなった気がするけど、笑っている顔は昔と変わらない。
一方の母さんは、やや痩せてはいたものの、その頬には穏やかな笑みが戻っていて、まるで病気なんてなかったかのような柔らかさがあった。
二人の足元には大きなスーツケースが一つ。母さんの肩にかかったストールが風に揺れ、どこか旅の終わりを告げるような情景を作り出していた。
母さんがふっと笑みを浮かべた。
「ただいま、翔馬」
その一言で、時間が止まったように感じた。
思わず何か返そうとして口を開いたけれど、声が出ない。
喉の奥が詰まったように、言葉が形にならなかった。
次の瞬間、母さんがふらりと一歩近づき、俺の肩をそっと抱いた。
あたたかな手のひらが、背中にそっと添えられる。
その動きはゆっくりで、だけど確かで、優しかった。
「……おかえり」
ようやくそれだけ言えた声は、情けないくらいに震えていた。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
気恥ずかしさと、安堵と、懐かしさが混ざり合って、俺は黙って目を閉じた。
この温もりを、ずっと待っていた気がした。
やっと、自分の家族が元に戻ってきた。そんな実感が、胸の奥からじわっと湧き上がった。
俺は母さんの腕からそっと離れ、玄関に立つ父さんと目を合わせる。言葉にしなくても、ちゃんと伝わってくるものがあった。安心感と、長い時間を埋めるような優しいまなざし。
再会の余韻を胸に、みんなでリビングへ向かった。
ドアを開けた瞬間、紅茶の香りがふわっと漂ってきた。
そこには、すでにエリザベートとナターリアさんが座っていた。
ナターリアさんは、いつもと変わらぬ優しい笑顔でティーカップを手にしながら、静かにこちらを見ていた。
「おかえりなさい、昌也さん、佳代さん」
その声は落ち着いていて、どこか懐かしく、自然と緊張がほぐれていくような気がした。
エリザベートもにこやかに笑っていたけど、少し肩がこわばっていた。どう接すればいいのか、少し戸惑っているのだろう。
テーブルの上には、ナターリアさんが作った温かい手料理が並んでいた。
煮込まれた手羽元や、季節の野菜を使ったスープ、香ばしいパンの匂いが食欲をそそる。どれも家庭的で、心がほっとするような料理ばかりだった。
「お身体、大丈夫ですか?」
エリザベートが小さな声で母さんに話しかける。普段より、少しだけ声がやさしかった。
母さんはちょっと驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。もう大丈夫よ。少し痩せちゃったけど、元気にしてるから」
その言葉に、張りつめていた空気が少しずつやわらいでいった。
みんなで料理を囲み、談笑を交わすうちに、部屋には穏やかな雰囲気が戻っていた。ナターリアさんが料理をすすめたりして、誰もが自然と会話に加わっていく。
しばらくして話題が落ち着いた頃、俺は意を決して、静かに切り出した。
「……エリザベートの父さんと、父さん……昔、知り合いだったんだよな?」
その瞬間、空気がピンと張り詰めた。
箸を動かしていた父さんの手が止まり、沈黙が訪れる。
父さんは一度視線を落とし、それから静かにナターリアさんの方へ顔を向けた。
ナターリアさんは微笑みを崩さぬまま、静かにうなずき、促すように目で合図を送る。
それを受けて、父さんは大きく息を吐き、ゆっくりと語り始めた。
「……あいつとは、若い頃からの付き合いだったんだ。俺と佳代、そしてナターリアさんと彼……四人でよく一緒に過ごしてて、まるで家族みたいだった」
懐かしそうに目を細めながら、父さんは続ける。
「仕事でも、彼とはずっとパートナーだった。信頼できる男だったし、本当に頼りにしてた」
ここで、父さんの声が少し重くなった。
「……佳代が病気になったとき、いろんな病院に行って治療を探した。でも、治療費がとても高くて……」
少し沈黙があった後、父さんは静かに言葉をつないだ。
「そんなとき、あいつが……いや、彼が、わざわざ漁港まで来てな。俺がマグロ漁船に乗ってるって聞いて、船が戻ってくる日を狙って訪ねてきたんだ」
父さんは遠くを思い出すように目を細めた。
「会社の金を動かしてでも、佳代の命を救いたいって……それしか考えてなかった。相談もなく勝手なことをして……けど、それでも本気だった。あいつなりの正義だったんだよ」
母さんは静かにうつむき、エリザベートは驚いたように息をのんだ。
「気持ちはありがたかった。俺たちのことを思っての行動だったって、ちゃんとわかってた。でも、相談もなく、勝手にそんなことをして……それがどれだけ危ないことだったか……」
父さんの声が少し震えていた。
「もちろん、俺も佳代も猛反対した。そんなやり方は望んでなかった。でも、彼の気持ちは固くて……どうしても助けたいって、止まらなかった」
そして、父さんはゆっくり目を閉じて、最後に一言だけ付け加えた。
「……それがきっかけで、彼は姿を消した。どこにも連絡を残さずに」
それ以上は、誰も何も言わなかった。
リビングには、深く静かな空気が広がっていた。




