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第3話 お嬢様、庶民の冷蔵庫に驚愕す


 同居二日目の朝。


 まだ眠気の残るまぶたをこすりながら、俺は台所で味噌汁の仕込みをしていた。


 湯気が立ち上る鍋の音に、少しずつ現実に引き戻されていく。


 ――はずだったのだが。



「ふふん、紅茶の準備は完璧よ。見なさい、やかんに水を入れたわ」


 そんな声とともに、背後から気配がした。


 振り返ると、パステルカラーな薄ピンクのキャミソールとホットパンツという、油断しすぎな格好のエリザベートが得意げな笑みを浮かべている。


 だが肝心のやかんは、コンロに乗せてあるだけ。



「……せめて火、つけてから言ってくれ。それじゃただの置物だろ……」


「は!? そういうのは先に教えなさいよ!」


「いや、常識レベルでは……」 


 胸を張る彼女の言い分に、思わず鍋の味噌汁をかき混ぜる手が止まった。


「じゃあ火をつけなさいよ、庶民代表」


「命令口調やめて。てか自分でやれよ」


「火って……どうやってつけるの? 危ないじゃない。ほら、女の子に優しくするのが男の役目でしょ?」


 くるんと振り返り、上目遣いでこちらを見るエリザベート。


 くっそ、そうやって甘えるの、反則なんだって……! 



「……わかったよ。火つけてやるから、そこで待ってろよ」


「やったわ! 見なさい、この完璧な待機姿勢!」


 言いながら胸を張る彼女。


 いや、その格好で胸張ると目のやり場が……っ。



「……あのさ、もうちょっと服装なんとかならないの? 朝っぱらから刺激強すぎなんだけど」


「暑いのよ! それともなに? 見たいの? 見たいんでしょ? 変態っ」


「もう肌寒い秋だよ!? っていうか見てない! いや、ちょっと見たけど違う! 違うからな!?」


「……ふふ、焦ってる焦ってる。やっぱり見てたじゃない。ふふん、エリザベート様の美しさにメロメロになるのも無理ないわ」


 なぜか勝ち誇ったように鼻を鳴らす彼女に、俺は頭を抱えた。


(なんだこいつ! クラスではお淑やかで優等生ぶってたくせに、家じゃクソ性格悪いな!?)



 そうしている間に彼女は、軽やかな足取りで冷蔵庫へ向かった。やたらと自信満々な動きでドアを開けたかと思えば、中を覗き込むと同時に動きが止まった。


「ねぇ、フォアグラはないの!?」


「そりゃねえよ! 俺んち、庶民だもん! ていうか冷蔵庫にバターがあるだけでも奇跡だよ」


 彼女は不満げに眉をひそめて、冷蔵庫の中をさらに探る。


「キャビアもトリュフもないし……ローストビーフもないなんて。ねえ、まさかそれが普通の家なの?」


「うん。今さら何言ってんの?」


「……庶民って、大変なのね」


 冷蔵庫の前で肩を落とすエリザベート。その背中が、ちょっとだけ小さく見えた。



「……ていうか、本当にこれだけで毎日やりくりしてるの? 毎日、毎食、これだけの食材で?」


「そうだけど?」


「信じられないわ……私だったら三日で倒れる」


「倒れてないし、元気だし。むしろモヤシが主食でも健康体だからな」


「……それはそれで、どうかと思うけど」



 彼女は冷蔵庫を閉めて、こちらをじっと見た。


「……ねぇ」


「ん?」


「たとえばだけど……その、庶民って……どうやって“おいしいもの”を作るの?」


「ん、ああ……材料よりも、工夫かな」


 俺は微笑んで冷蔵庫を指さす。


「たとえば、卵が一個あれば、目玉焼きも卵焼きも、チャーハンも親子丼も作れる。工夫次第で、同じ卵でも全然違う料理になるんだ」


「工夫……?」


「そ。料理ってのは“愛情と工夫”だって姉ちゃんが言ってた」


「愛情と……工夫」


 エリザベートはぼそっと呟き、小さく首をかしげる。



「じゃあ、その“庶民の技”ってやつ、教えてちょうだい」


 不意にこちらをまっすぐ見上げて言ったその瞳には、思いがけず真剣な光が宿っていた。


「べ、別に庶民に憧れてるとかじゃないけど……どうせなら美味しいものを食べたいしっ」


 言い訳っぽく付け足すその姿が、どこか可愛らしくて、俺はつい笑ってしまった。


「わかった。じゃあ今日は、“卵で一番簡単で美味しい料理”を教えてやる」


「なによそれ、気になるじゃない。やりなさい、今すぐ」


「なんでそんな上から目線なんだよ。……まぁいいか」


 こうして俺たちは、人生初たぶんの“庶民的煮卵”に挑戦することになった。



 ◆


「それで? なんで買い物に出かけるわけ?」


 道中、腕を組んで不満げに歩くエリザベートが、当然のように俺に問いかけてきた。


「冷蔵庫がスカスカだっただろ。とりあえず、足りない食材を補充しに行くんだよ」


「……庶民って、毎回そんな手間をかけて生きてるのね」


 なんとも失礼な物言いだったが、俺は黙って自転車のカゴにエコバッグを突っ込んだ。



 向かったのは、近所の商店街。俺にとっては戦場、生活の最前線だ。


 到着早々、エリザベートがスーパーの自動ドアをくぐった瞬間だった。


「круто(クルート)……!!」


 店内に響き渡るほどの大声に、数人の買い物客がぎょっとして振り返った。


「おい、声でかいって! ってか“クルート”ってなに!?」


「見なさい翔馬! この肉、98円!? どういうカラクリなの!? 正気!? いやこの国、ほんとに大丈夫!?」


「値札見て叫ぶな! 普通だよそれ、特売って言うんだよ!」


 商品棚の前を移動するたびに、エリザベートの驚きの声が飛ぶ。



「このパン、ひとつ80円!? えっ、これ原価割れてない!?」


「うるさいってば! 目立ちすぎて恥ずかしいんだってば!」


 そのとき、特売卵コーナーで小さな修羅場が勃発していた。


 主婦たちが群がるその隙間に、エリザベートが突撃する。


「押さないでくださる!? 私は正当な卵購入希望者です!」


 しかし多勢に無勢、エリザベートはじわじわと後退を余儀なくされ、ついにはバランスを崩して後ろによろけた。



「わ、危なっ……!」


 とっさに俺が支えようと手を伸ばす。


 ――しかし、思っていたより勢いが強かった。


 そのまま俺は彼女を抱きとめる形になり、顔面が彼女の胸元に、ずぼっと――


「なっ……ちょ、どこに顔つけてるのよ、このヘンタイ! !」


「ち、違う! 違うんだって! 本能が……いや事故! 事故だから! !」


 俺は真っ赤になりながら顔を背け、倒れた彼女の肩をそっと起こした。


 エリザベートは頬を真っ赤に染めながらも、卵のパックを俺にグイッと突き出し――


「ほら、手に入れたわよ。まったく、酷い目に遭ったわ」


「いやお前、勝手に突っ込んで行ったじゃん……」


 俺はパック詰めされた特売卵を大事そうに胸に抱えながら、ふうっと息をついた。



 ようやく落ち着いて、レジに並ぶ。


 そのすぐ横、青果コーナーの奥に立っていた年配の店主が、俺たちの方を見てふっと笑った。


「にぎやかでいいなぁ。っていうか翔馬じゃねえか。今日は一人じゃないのか?」


「おっちゃん、おはよう。いや、ちょっと訳ありでな」


 店主はニヤリと笑って、俺の隣に立つエリザベートをちらりと見る。


「なるほど、彼女か?」


 その一言に、俺よりも先にエリザベートが反応した。


「はっ!? ち、違います! 私は誇り高き鳳条院家の娘です! 男性と交際など、一度たりとも――」


 と胸を張った瞬間、彼女の声が少し震えていたのは、俺だけが気づいた。



「そうかそうか、あの鳳条院家のお嬢様だったか。でも鳳条院家といえば、昔は奥さんも、よくこの商店街に通ってくれてたんだぜ?」


 え? と思って振り返ると、エリザベートも目を丸くしていた。


「うちのママが……?」


「ああ。最近じゃめっきり見ないが、若い頃は毎週のように来てたよ。きれいで気さくでな、誰とでも気軽に話す人だった。まだ旦那さんと結婚する前で……あの頃はよく、婚約者さんに手料理をふるまってるって嬉しそうに話してたっけな」


 エリザベートが小さく息を呑んだのがわかった。


 いつもはふんぞり返っている彼女が、今は静かに俯きながら、レジ袋の取っ手をぎゅっと握っている。


「……そんなの、知らなかった」


 ぽつりとこぼすその声には、驚きと、そしてほんの少しの誇らしさが混じっていた。



「さ、帰るぞ」


「……ええ」


 袋を提げ、並んで歩き始めた彼女の背筋は、さっきよりも少しだけまっすぐだった。



 ◆


 屋敷に戻るなり、エリザベートはキッチンに突撃した。


「さて、まずはこの卵を茹でて……って、あれ?」


 彼女は卵を手に取る――が、そのまま殻ごと粉砕。


「ちょ、なにこの卵、軟弱すぎない!?」


「違う、アンタの握力の問題だろ! ってか片手で潰す奴なんて初めて見たわ!」


 白身がベタベタと床に落ちていくのを見ながら、俺はため息をついた。



「……レシピ変更だ。まずは卵焼きから教えるか」


 鍋をフライパンに持ち替え、今度は慎重に進行。


「このへらで、こうやって返すんだよ。力入れすぎないように……」


 俺は彼女の後ろに立って、そっと手を添えた。


「こう、優しく……そうそう、その感じ」


 ふと気づけば、彼女の頬が真っ赤になっている。


「……そ、そこ! 息が当たってるっ!」


「わ、悪い!」


 慌てて距離を取る俺。


 が、エリザベートはじとっと睨んでくる。



「やっぱり私にエッチなことをするつもりなんでしょ……! ちょっとでもスキがあればって思ってるのね……!」


「してねぇよ! 今、完全に教育者の気持ちだったから!」



 なんだかんだで、焦げもなく、いい感じの卵焼きが完成した。


 二人で立ったまま、並んで試食。


「……うん、悪くない。庶民料理にしては上出来ね」


「評価、上からすぎだろ……」


 ふっと笑うと、彼女が視線を落として、ぽつりと呟いた。



「……ありがとね」


「え? お、おう。最初からそんな態度を取ればいいのに……」


「よ、余計なことは言わなくていいわよ! バカッ!」


 そして、パシン! と俺の太ももに彼女の太ももが炸裂。


「いってぇ! てか太ももで攻撃すんの反則だろ……!」


 笑いながら俺は頭をかいた。


 なんだかんだで――悪くない、同居生活かもしれない。



「そういえば私、明日から学校に復帰するから」


「あぁ、お父さんの件でずっと休んでたもんな……ん?」


(あれ? もしかして明日から一緒に登下校するのか――!? )






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