第2話 お嬢様の家で味噌汁をすする
薄曇りの空の下、俺はドキドキしながら丘の上の豪邸に足を踏み入れた。
自分が購入するかもしれない家。その豪奢な門の先から、声が聞こえてきた。
「だから、売らないでって言ってるでしょ!」
銀髪が風になびき、怒気を孕んだ声を響かせる少女。エリザベート・ミハイロワ・鳳条院。
クラスのアイドルにして、今は没落したお嬢様だ。
ショートパンツから伸びた白く美しい太ももが、怒りで震えているのが目に入ってしまい、思わず目を逸らしそうになる。
「もう契約は済んでますので」
淡々と答える不動産業者の男。その態度に、エリザベートはさらに食い下がる。
「この家は家族との思い出そのものなの! ここが家族にとって心の支えなのよ!」
「ですが私どもには関係のないことですので」
「母は病気なの! それに弟だってまだ中学生で――」
その言葉に、俺の胸がチクリと痛んだ。俺にも病気で療養中の母がいる。家という存在がどれだけ心を支えるものか、痛いほどわかる。
「ならばお金、払えるんですか?」
「お金ならパパが稼いで、帰ってくる……はず……」
「ほう、それはいつです? 今? それとも五十年後ですか?」
業者の冷たい言葉に、エリザベートは言葉を詰まらせた。
その横顔は、強がっているようで、今にも泣き出しそうに見えた。
ふと視線を下げると、白く滑らかな太ももが小さく震えている。
こんな場面で、思わずそんなところに目が行ってしまう自分が情けない。
深く息を吸った。
こんな状況で、黙って見ているだけなんてできなかった。
「すみません、その家……俺が買うことになってます」
二人の視線が一斉に俺に向けられた。エリザベートの目が大きく見開かれる。
「……あなた、同じクラスの……なんでここに……!?」
「話は聞かせてもらいました」
緊張で手のひらに汗を握りながらも、必死に笑顔を作った。
「もしよければ、この家……俺と一緒に住まないか?」
「……は?」
エリザベートはぽかんとした表情を浮かべ、次の瞬間、顔を真っ赤に染めて叫んだ。
「な、何を言ってるの!? バカなの!? それに私の太ももばっかり見てない!?」
「いや、見てない! ……見てたけど!違うんだ!」
俺は必死に頭を振った。こんなやり取りをしている場合じゃない。
「俺の母や姉なら、絶対言うんだ。『男なら甲斐性見せろ』って」
自分の決意を固め、真っ直ぐ彼女を見た。
「この家を守りたいなら、俺が力になる。一緒に暮らして、守っていこう」
一瞬、エリザベートの目が潤んだ。しかし次の瞬間、唇を噛みしめ、鋭い視線を向けてくる。
「そんなこと言って……お金で私を好き勝手にしようとしているんでしょう? どこまで人を見下して……! 太もも触ったら許さないんだから!」
「触らない! 誓う!」
「本当なんでしょうね……!」
エリザベートはしばらく黙り込み、太ももに置いた手をギュッと握りしめた。肩を震わせ、小さく「……信じられるわけない」と呟いた。
俺はただ黙って頭を下げた。
どんな結果になっても、もう決意は変わらない。
やがて、エリザベートは大きく息を吐き出したが、目は揺れていた。
不動産業者が腕時計をちらりと見て「今すぐ決めてもらわないと契約は進めますよ」と冷たく言い放った瞬間、場の空気が一層重くなる。
エリザベートは拳を震わせ、視線を宙に泳がせたまま唇を噛み締めた。選択を迫られていることは誰の目にも明らかだった。
「……こんなのってないわ。найгірший день」
小さく絞り出すような声が漏れる。
それでも、渋々ながら彼女は俺に向き直り、涙目で睨みつけるようにして言った。
「同居……してあげてもいいわよ。ただし、エッチなことをしたら、即追い出すから!」
(家主は俺だよな!? その場合、追い出されるのは鳳条院さんの方なのでは……ま、いいか)
俺は安堵の笑みを浮かべて深く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
こうして、クソ貧乏(元)な俺とお嬢様(元)の同居生活が、静かに幕を開けたのだった。
◆
翌朝。
俺と姉が引っ越しの荷物を自転車のカゴとリアカーに詰め込み、ぜえぜえ息を切らせながら鳳条院邸へとたどり着いた。
丘の上にそびえ立つその豪邸の門前には、エリザベートが腕を組んで仁王立ちしていた。
その隣には、優しげな笑みを浮かべる女性と、仏頂面の中学生男子が立っている。
「ようこそ、我が家へ……もう貴方の家だけど」
どこか不機嫌そうに言いながらも、エリザベートはちらりと俺を見て、すぐにそっぽを向いた。
その姿すら気品があり、思わず見とれてしまう。
特に、ショートパンツから伸びる太ももが朝日に照らされていて……って、ダメだ、意識しすぎると変な空気になる。
「このたびは、ありがとうございます」
彼女の母がそっと頭を下げる。
「いえ、事の成り行きというか」
オトナのやさしい声に、隣にいる姉ちゃんが笑顔で「気にしないでください」と返す。
エリザベートの弟くんはというと、露骨に不満を顔に出していた。「なんで知らない男と住まなきゃいけないんだよ……」とボソッと呟いている。
いや、俺の姉ちゃんはいいのかよ。
そうして俺たちは、ほぼ無言のまま屋敷に案内された。
「さっそく、お昼にしましょうか」
「あ、じゃあ私たちも手伝いますよ!」
姉ちゃんはエプロンを手に取り、すっと立ち上がった。
姉ちゃんは料理の手際が良い。特に野菜のカットにかけてはプロ並みだ。
……まぁ我が家でいう野菜って、半額のモヤシだけど。
「包丁、どこですか? あっ、これよく切れそう……!」
「気をつけてくださいね。私も何か作ります」
俺も手伝おうと立ち上がると、エリザベートの弟くんがこっちを見て小さくため息をついた。
「……なんで僕たちが料理なんて。普通は専属のシェフがやるものだろ」
そう言いながらも、おぼつかない手で食器を運ぶ姿が妙に微笑ましかった。
ダイニングには、銀のフォークとナイフがきらめく見事なセッティングが並ぶ。向かい合って座る俺たちと鳳条院家。けれど、会話は……なかった。
「…………」
「…………」
気まずい。味噌汁の香りが漂っているのに、どこか異世界に来たような感覚。
目の前にある皿には、キャビアが乗ったステーキが置かれている。その横には姉ちゃんが道草(その名の通り、道端で取ってきた草)で作った佃煮の瓶が。
――なんだこのギャップ。
しかも学校指定のジャージ姿な俺たちとは違って、鳳条院家の三人はキチンと清潔な恰好をしている。
あらゆる違いが静かに主張していた。
「えっと……今日の味噌汁、姉ちゃんが作ったんです」
沈黙に耐えかねて口を開くと、エリザベートの母がふわりと笑った。
「お味噌……いい香りですね」
その言葉に場の空気が少し和らぐ。
内心では「味噌が薄すぎて肌色の絵の具混ぜたお湯」ぐらいにしか思ってなかったけど……金持ちだもんな、料理の格付けチェックとか得意そうだし。
「良かったらこっちのも食べますか? 私の故郷の料理で、ヴァレーニキです。日本の餃子のようなもので……」
「ママはウクライナ出身なの」
「へぇ……すごい、本物の異国の味だ」
俺は恐る恐るヴァレーニキに箸を伸ばし、一口かじった。
「……うまっ!」
思わず声が出た。優しい味に、どこか家庭の温もりを感じて、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「具はジャガイモと玉ねぎ、それにチーズかな……。初めて食べるのに、なんだか懐かしい感じがします」
「もちろんよ」と、エリザベートが得意げに言う。俺が思わず笑ってしまうと、彼女もすぐに顔を逸らしてしまった。
思わぬ異文化交流に、少しだけ距離が縮まった気がした。
お互いまだ打ち解けきれない空気の中、エリザベートの母と俺の姉ちゃんが視線を交わし合い、自然と自己紹介の流れになった。
「私は、エリザベートの母です。ナターリアと申します」
「高坂翔馬の姉、佳織です。今日からよろしくお願いします」
続いて、俺も箸を置いて軽く頭を下げた。
「高坂翔馬です。……これから、お世話になります」
「エリザベートよ。ま、名前を呼ぶ機会があるかは分からないけどね」
くっ、あくまでも高飛車な態度はそのままか。
もっと俺に感謝してくれてもいいと思うんだけどな!?
「……ほら、貴方も」
ナターリアさんが自己紹介をするよう促すと、ムッと黙ったままだった弟君が仕方なさそうに口を開いた。
「鳳条院アレクセイ。……姉さんに何かしたら、許さないからな」
「よろしく、アレクセイ君」
名前を交わしただけだったけど――それでも少しだけ、鳳条院家のみんなと距離が近づいたような気がした。
――はずだったんだけどなぁ。
「うわっ――!」
食後、引っ越し荷物の整理に取りかかっていた俺は、大きな段ボールを持ち上げようとして、足元のコードに気づかずバランスを崩した。
そして視界の先には、目を見張るほど白くて眩しい太もも。
(やばいやばいやばい……!?)
「ちょ、ちょっと!」
その叫びに我に返るも、倒れる勢いはどうにもならず。反射的に目の前にあったモノへ、そのまましがみついてしまった。
「――痛ったぁ。もう、何するの……ってどこ触ってるのよ、バカァ!」
顔を真っ赤に染めて叫ぶエリザベート。
「す、すみません! 反射で! 本能が……いや違う! 事故です!」
「アンタ、今から私の半径百メートル以内に入るの禁止!!」
「いやそれもう同じ家に住めないですよね!?」
この前途多難すぎる同居生活、一体どうなっちゃうんだ――!?