第15話『……誰よ、その女。』
「あれ、翔馬? 久しぶりじゃん!」
その声に振り向いた瞬間、いろんな記憶が一気にフラッシュバックした。
そこに立っていたのは、綾乃。昔の幼馴染で、俺の“元カノ”。
明るい笑顔も、少し跳ねたポニーテールも、変わってない。
「うわっ……綾乃?」
「ほんとに翔馬だー! 元気してた? 高校変わったって聞いてから、ずっと会えてなかったよね」
綾乃はまるで昨日も会っていたかのような自然さで、ぐいぐい話しかけてくる。
「今なにしてんの? 部活とかやってる? あ、昔みたいにまだ絵とか描いてる?」
「あー、まぁ……ちょっとだけ」
「やっぱり! 翔馬ってそういうとこ、ブレないもんね。覚えてる? 小学六年の時に校庭の桜の絵描いて表彰されてたやつ。めっちゃかっこよかったやつ!」
綾乃のテンションは昔と変わらず明るくて、俺もつい苦笑いしながら相槌を打っていた。
「……で、そっちの子は彼女さん?」
綾乃が俺の隣に目を向けた。
エリザベートはと言えば、いつものクールな表情を装ってはいるものの、明らかに目つきが鋭くなっていた。
視線だけで『誰この女』と全力で語っているのがわかる。
「あー、いや。こいつは……一緒に住んでるだけで」
そう答えた自分に、少し後悔が残った。
でも他に言いようがなかった。下手な説明をすれば、もっと変になる気がして。
エリザベートは何も言わずにそっと目を逸らした。
「ふーん……なんかちょっと意外」
綾乃がふっと笑った。悪気はないんだろうけど、その無邪気さが余計に引っかかった。
「じゃあ、また連絡してもいい?」
「え? あ、うん……まあ」
曖昧な返事をする俺の隣で、エリザベートの肩がぴくりと揺れた。
綾乃は手を振って、あっけらかんとその場を去っていく。
残された俺たちは、しばらくその場に突っ立っていた。
(……最悪のタイミングだったな)
俺は苦笑いしながら、隣に目をやる。
エリザベートは、顔こそそっぽを向いているが、耳までほんのり赤い。
何も言わないけど、これは……確実に“怒ってる”。
それから俺たちは、無言のまま歩き出した。
夕暮れの街は、あいかわらず穏やかで、なのに足取りはやけに重かった。
エリザベートは終始黙っていて、隣を歩く俺にも一切目を合わせようとしない。
口を真一文字に結び、つま先でアスファルトを軽く蹴るような歩き方。
(……分かりやすいな、ほんと)
「……怒ってる?」
思い切って聞いてみた。
「別に」
即答だった。
語気が少しだけ強かった気がするけど、俺はあえて何も言わなかった。
しばらく沈黙が続いたあと、俺は口を開いた。
「……お前も無関係じゃないから言っておくけど、あの子、綾乃っていうんだ。昔、俺の家の隣に住んでた幼馴染で——」
ゆっくりと、ぽつりぽつりと、俺は綾乃との過去を語り始めた。
綾乃は、昔——まだ俺が“普通の暮らし”をしてた頃、家の隣に住んでた幼馴染だった。
気づけばいつも一緒にいて、気を遣わない関係で、自然と好きになっていた。
それはきっと、あっちも同じだったんだと思う。少なくとも、あのときはそう信じてた。
「中学のとき、綾乃に告白されて……まあ、付き合ってたんだ」
その言葉に、エリザベートの足が一瞬だけ止まりかけるのが視界の端に見えた。
でも、気づかなかったふりをして、俺は話を続けた。
「だけど……母さんが倒れて、難病って診断されて。医療費とか色々で金が足りなくなって、親父も転職して、俺ら引っ越すことになってさ」
エリザベートは黙ったまま、俺の隣を歩き続けていた。
「そのとき、綾乃は“待ってる”って言ったんだ。でも……結局すぐに別れを切り出してきて」
言葉が、少しだけ喉につかえた。
「そのあとすぐに、サッカー部のイケメンと付き合ってたって聞いて。……まぁ、ダメージでかかったな」
自嘲気味に笑ってみせたけど、本音は、笑い話になんてできるほど軽くはない。
「それ以来、誰かを好きになるのがちょっと怖くなった。どうせ、普通じゃないと続かないって、どこかで思っちゃっててさ」
言い終えたあと、ふっと長い息が漏れた。
隣にいるエリザベートは、まだ何も言わなかったけれど——その沈黙は、少しだけ優しく感じた。
「お前も、貧乏な俺と暮らしてるのは嫌だとは思うけどさ……それでも俺は——」
最後まで言う前に、エリザベートの声が重なった。
「……別に、私は嫌じゃないわよ」
その言葉は、まっすぐだった。
振り返ると、エリザベートは前を向いたまま、少しだけ頬を赤くして続けた。
「むしろ、アンタの優しさに甘えて……じゃない、感謝してるの。ちゃんと」
語尾はどこかふてくされていたけれど、その声は確かに照れていた。
俺は驚きながらも、つい口元が緩んだ。
「……そっか」
それ以上、言葉は要らなかった。
しばらくの間、俺たちは並んで歩きながら、静かにその空気を味わっていた。
そして、コンビニの明かりが視界に入ったとき——
「アイス食べたい!」
突然の宣言に、思わず足が止まった。
「こんな寒いのに!?」
顔を向けると、エリザベートはむっとした表情で腕を組み、小さく顎を上げた。
「いいじゃない! 私、暑がりだし」
(いや、そういう問題か……?)
内心で突っ込んでいる間に、エリザベートはもうコンビニの中へ入っていた。
仕方なく、俺は財布を取り出して溜め息を吐く。
「……どうせ財布係は俺だもんな」
ぼやきつつ、コンビニのアイス売り場に向かう。
ショーケースを覗き込みながら、「お嬢様はハーゲンダッツとか好きそうだけど……高ぇな」と心の中で計算していると、横からエリザベートの声。
「これ……気になる」
指さしたのは、二本入りのパピコ。
「二人で分けるの? 食べてみたい」
ちょっと意外だった。
だが、その瞳は真剣で——子供のような好奇心が宿っていた。
「……ああ、じゃあこれで決まりだな」
レジを終え、二人でコンビニ前のベンチに腰を下ろす。
「ほら、一本ずつってやつ」
俺がパキッと割って片方を差し出すと、エリザベートはそっと受け取った。
「……こういうの、初めて」
小さく呟いたその声に、どこかくすぐったい気持ちになる。
しばらく無言のまま、俺たちはそれぞれのパピコにかじりついた。
少しずつ、さっきまでの重さが溶けていく。
そして、食べ終わった頃——
「……二人で分け合って食べるのも、悪くないわね」
エリザベートがぽつりと言った。
俺はふっと笑い、「お嬢様にしては、ずいぶん庶民的な発言だな」
「う、うるさいわね……今のは撤回!」
頬をふくらませながらも、その表情は明らかに嬉しそうだった。
◆
そのあと。
(……何なのよ、あの女)
(なんであんなに楽しそうに笑えるのよ)
エリザベートは、さっきまでの出来事を思い返していた。
翔馬の隣で、自然に笑っていた綾乃。
無防備に昔話を楽しそうに語る彼女。
そして、それを笑って聞いていた翔馬。
(……でも)
(翔馬は今、私と一緒にいるのよ)
(だから大丈夫。……たぶん)
気づけば、夕焼けが街を柔らかく染めていた。
並んで歩く二人の影が、地面に寄り添うように揺れている。
その足取りは、ほんの少しだけ——けれど確かに、近づいていた。