第13話 庶民文化、私が体験してあげるわ
日曜日の朝。春先の光が差し込むダイニングで、俺はトーストにバターを塗りながら、ぼーっとスマホを見ていた。
いつもより静かな朝。カイルはまだ寝てるらしいし、エリザベートの姿もない。
そんなとき、スマホの画面が震えた。
『買い物ついでにこれお願い! ついでに何か甘いのも! by 姉』
「……なんだよ、俺はパシリか」
とはいえ、断れるわけもなく、俺は溜息ひとつついて立ち上がる。
財布とエコバッグの確認をしていると——
「どこかへお出かけ?」
振り向くと、ナターリアさんが微笑んで立っていた。
その優雅な佇まいに、つい背筋が伸びる。
「ちょっと姉貴に買い物頼まれたんで。すぐ戻ります」
「そう……それなら、エリザベートも連れていってくださるかしら?」
「へ?」
「最近、あの子、あまり外に出たがらないから。よい気分転換になると思うの」
言い終えたナターリアさんは、紅茶をひと口飲みながら微笑を深めた。
(……たまに思うけど、この人もなかなか策士だよな)
と、タイミングよく二階から降りてきたのは、問題の“あの子”だった。
「おはよう」
「お、おう……おはよう」
いつも通りの冷ややかな視線——じゃない。
なんか……妙に視線がそわそわしてる?
「……母様から聞いたわ。外に出るんですって?」
「まあ、姉貴の買い物だけどな。すぐ帰ってくるつもりで——」
「同行してあげても、いいわよ」
「え?」
なんだその“上から”な言い方。
「べ、別に退屈してたわけじゃないけど、あまりに閉じこもってばかりだと身体に悪いでしょ?」
「……あ、ああ、うん」
そうしてしばらく待たされたあと。
階段から降りてきたエリザベートを見た瞬間——
(……えっ)
声にならないほど固まった。
髪はゆるく巻かれていて、淡いラベンダー色のカーディガンに白いロングスカート。
いつもの質素な部屋着とはまるで違う、軽やかで清楚な印象。
(似合いすぎでは……?)
見惚れていたことに自分で気づいて、慌てて視線を逸らす。
(……いや、なんかドキッとしたとかじゃねぇし。ただ、ギャップに驚いただけで)
「……なにかしら、その顔」
「べ、別になんでも」
朝から振り回されるのは、どうやら決定らしい。
◆
ショッピングモールに着いた瞬間から、エリザベートの目が忙しなく動いていた。
「……これが、庶民の娯楽施設ってやつね」
初めての場所に緊張しているのはバレバレだが、本人はいたって堂々と歩いているつもりらしい。
「まあ、ちょっとした買い物だけど。あ、あそこのプリクラとか……やってみる?」
「ぷり……くら?」
エリザベートが小首を傾げた。
「ほら、写真撮って落書きできるやつ。思い出に一枚くらいさ」
「ふーん……まあ、庶民の文化に触れてみるのも悪くないわね」
と、強がって言う割には、ブースに入ってから妙に距離が近い。
「ちょ、ちょっと、近い……」
「しょうがねぇだろ、狭いんだから」
撮影の瞬間、思わず顔が寄って、エリザベートの肩がピクリと揺れた。
「い、今の……変な顔じゃなかったかしら……」
「いや、普通だったよ。むしろいつもより柔らかい表情だったかもな」
エリザベートは黙って画面を見つめたあと、プリクラの落書き画面に目を向ける。
……と、そこには「しょうま♡エリザベート」の文字が。
「な、なによこれっ!!」
「いや俺じゃねーぞ!? 店のサービスか、誰かが勝手にやったんだろ」
真っ赤になりながらも、エリザベートは目を逸らして画面をそっと消す。その手元がほんの少しだけ、震えていた。
そのあと、クレープの屋台の前で立ち止まった俺に、エリザベートが眉をひそめる。
「……なんであんなに人が並んでるの?」
「人気なんだよ。甘くて美味いし。……食ってみる?」
「別に興味はないけど……せっかくだから試してあげてもいいわ」
なんだかんだ言いながら、クレープを受け取ると一口。
「……ちょっと、美味しいじゃない」
その言い方が、あまりに小声で。思わず聞き返してしまいそうになる。
(え、今の小声……可愛すぎでは?)
俺はすかさずニヤリとする。
「今“美味しい”って言った? クレープ様に謝ったほうがいいな」
「なんで私がクレープに謝らなきゃいけないのよっ!」
ツンと怒った顔のくせに、口元には生クリームの跡。
(……ヤバい。気づいてないのか?)
俺はそれを指で拭ってやろうか迷った末、やめておいた。
(……触れたら、たぶん、俺が色々終わる気がした)
人混みの中を歩きながら、並んでいるだけで変に意識してしまう空気。
だけど、少しずつ。ほんの少しずつ、肩の力が抜けてきた気がした。
(なんなんだろうな、この感覚。別に、恋とかそういうんじゃ……)
(……いや、わかんねぇな。俺のこの感じ)
そのとき、館内放送が流れた。
『本日センターコートにて、和文化体験イベントを開催中です。浴衣試着・茶道・書道など、日本文化を気軽に体験いただけます』
「……和文化、だってよ」
俺がちらりと横を見ると、エリザベートは目を細めて、案内看板をじっと見つめていた。
「着物……着付け、茶道? ふん、庶民文化の極みね」
「やってみるか? せっかくだしさ」
そう言って誘いかけると、エリザベートは一拍置いてから、そっぽを向いた。
「……まあ、暇つぶし程度にはなるかもね」
表情はそっけないが、どこかほんの少しだけ期待しているような——そんな空気を、俺は感じた。