第12話 お嬢様と“あの夜”の話はしない約束
朝の光がダイニングの床に反射して、穏やかな一日の始まりを告げている——はずだった。
向かい合って座る俺とエリザベート。
テーブルの上にはトーストと目玉焼き、それに妙な沈黙が横たわっている。
「……おはよう」
「ええ、おはよう……」
ぎこちない挨拶。
昨日のこと——カイルとの会話、エリザベートが見せた素直な表情。あれが頭から離れない。
そして、きっとあいつも同じことを考えてる。
俺の言葉。自分でも驚くくらい、まっすぐに言ってしまった「そばにいるって、そういうことだろ」ってやつ。
(なんであんなこと、真顔で言っちまったんだ……っ!)
エリザベートはいつも通りツンとすました顔をしているが、どこか落ち着かない。
紅茶カップに手を伸ばし——指先がカップの縁に引っかかり、ガタッと音を立てる。
「あっ」
思わず俺も手を伸ばす。
その瞬間、指先が触れた。
「っ……べ、別に平気よ!」
ツンと跳ね返す声。だけど、耳まで真っ赤になってるのは、見逃さなかった。
俺も、視線を落としながら心の中で小さくうめいた。
(あいつ、昨日の……聞いてた? まさか、聞いてたからこんな空気……?)
視線が交差し、すぐに逸らし合う。
「「……っ」」
ふたりの咳払いが重なった。
食卓に流れるのは、いつもとは違う“沈黙”。
距離は変わっていないのに、なんだか妙に遠く感じる。
でもその逆で、やけに近くも感じてしまう。
どちらからともなく、言葉が出てこない。
紅茶のカップから立ち上る湯気だけが、ぽつりぽつりと時間を刻んでいく。
(……ダメだ、何話していいかわかんねぇ。話そうとすると、昨日のあれが頭に浮かんじまう)
妙な緊張と気まずさ。
でもそれは——たぶん、悪いものじゃなかった。
ただ、いまはまだ、その気持ちを“言葉”にするのが怖いだけで。
そうしているうちにカチャリ、とドアの開く音がした。
ダイニングに入ってきたのは、ぶすっとした顔の少年——エリザベートの弟、カイル・鳳条院だった。
無言で椅子を引いたかと思えば、俺とエリザベートの距離をじっと見つめ、眉間に皺を寄せる。
「お前、姉さんの隣に当然みたいに座んなよ」
「……は?」
トーストをかじっていた手が止まり、俺は思わずカイルのほうを見る。
「なんだよ、いきなり」
カイルは俺の言葉には答えず、険しい目つきのまま言葉を続ける。
「……そこは、俺の席だったのに」
その声には、どこか意地と寂しさがにじんでいた。
場の空気がピリついたのを感じて、エリザベートが間に入る。
「カイル、なにを言ってるの。席なんて、空いてるところに座ればいいでしょ?」
「……別にいいけど。どうせ今は、俺よりそっちが大事なんだろ」
その言葉にも、カイルはふてくされた表情のまま視線を逸らした。
「……前は、俺だけの姉さんだったのに」
ぽつりとこぼされたその一言に、俺もエリザベートも言葉を失う。
(……おいおい。そこまで本気で拗ねてんのかよ)
カイルは俯いたまま、テーブルに手をつくこともなく、くるりと背を向けた。
「……もういい。朝食も食べない」
そのままダイニングを出ていくカイル。
静かに閉まるドアの音だけが、妙に耳に残った。
「カイル……」
エリザベートの呟きは、小さく、そしてどこか寂しげだった。
そんな彼女の横顔を見て、俺はふと、朝よりも少しだけ“大人びた姉”の姿を見た気がした。
俺はパンの最後のひと口を飲み込みながら、小さくため息をついた。
(……あの弟、ほんとめんどくさい。……でも、ちょっとだけ、気持ちは分かる)
その日の学校は、なんてことのない一日だった。
授業も小テストもこなし、昼休みには弁当をかきこみ、午後は少し眠気と戦った程度。
でも、その裏で——カイルにはカイルなりの戦いがあったらしい。
夕方。帰り道の途中にある公園の隅で、俺は思わぬ光景を目にした。
カイルが、同年代の数人のガキに囲まれていた。
「なあ、お前んとこ、ほんとに没落したってマジ?」
「前はメイドとか執事とかいたんだろ? 今は庶民以下じゃん」
「うちの親、鳳条院ってもう終わったって言ってたぜ」
からかいとも、いじめとも取れる言葉が、やけに軽い口調で飛んでくる。
カイルは歯を食いしばって拳を握りしめていた。
「……うるせぇよ」
静かな声。けれど、その拳は震えていた。
「お前らに何がわかんだよ……!」
その瞬間だった。
「おい」
俺はベンチの影から声をかけ、ゆっくり歩いていく。
「他人の家のこと、ネタにして楽しんでんのか? ちょっと性格悪くね?」
「な、なんだよ兄ちゃん……」
子どもたちは戸惑ったように一歩引いた。
「俺んちなんか、水道止まったことあるし、風呂も薪で沸かしてた時期あったぞ?」
「う、うそだろ……」
「マジだよ。夏場の冷房なし生活、あれはサバイバルだったな。今思えば、忍耐力だけは育ったわ」
ニヤッと笑いながら言うと、ガキたちの表情が少しずつ緩む。
「理不尽と仲良くなるコツ、教えてやろうか? まずは……雑草食っても文句言わないことだな」
「ははっ、なにそれ、やば……」
笑いが起きる。
さっきまでの殺伐とした空気が、いつの間にか和らいでいた。
「とにかく、家のことは関係ねぇ。本人がどうあるかってだけの話だろ」
最後にそう言って、俺はカイルの肩を軽く叩いた。
ガキたちはやがて散り、カイルと俺だけがその場に残された。
カイルは何も言わず、ただ無言で立ち去った。
その日の夜。
夕食後、片づけを終えた俺がリビングでぼーっとしていると——
「……今日のこと、誰にも言うなよ」
背後から、ぼそっとした声。
振り返れば、そこには照れ隠し全開のカイルが立っていた。
目は合わさない。けど、耳が妙に赤い。
「言わねーよ。……強がるとこ、誰かに似てんな」
俺がニヤリと笑うと、カイルは「チッ」と小さく舌打ちして、そのまま自分の部屋へ入っていった。
バタンと閉まるドア。
……なにツンデレしてんだよ。
けど。
(まあ、ちょっとだけ可愛いな)
「翔馬君、カイルともずいぶん仲良くなってきたわね。“本当の兄弟”って感じ」
その声に、俺は一瞬固まった。
飲み物を口にしていたわけでもないのに、咳き込むように「ぶっ!」と変な声が出る。
慌てて背もたれから体を起こすと、振り返った先にいたのはナターリアさんだった。
皿を手にしながら、どこか楽しそうな笑みを浮かべている。
「な、なに言ってんですか、ナターリアさん……! 兄弟って……いや、それはさすがに……っ」
うろたえる俺の様子を見て、ナターリアさんはますます微笑を深める。
「ふふっ、そんなに動揺しなくても。それとも私たちと家族は嫌?」
まるでいたずらっ子のように、無邪気な顔で俺の反応を楽しんでいるその姿に、俺の顔は完全に真っ赤になっていた。
「嫌と言うか俺はただ、同じ家に住んでるから、ちょっとくらい関わってるだけで……!」
言えば言うほど、余計に墓穴を掘ってる気がする。
それでも言い返さないと収まりがつかなくて、俺は思わず机の端を握りしめた。
ナターリアさんはそんな俺を軽く受け流しながら、穏やかな声で締めくくる。
「……でもね、翔馬君。家族って、そういうささやかな積み重ねでできていくものなのよ?」
その言葉に、俺は返す言葉を失った。
(……ほんと、この家の人たちは、どこまでも油断ならねぇ)
そのくせ、時々とんでもなく優しい顔を見せてくるから——やっぱり、俺は今日も振り回される。
でも。
その悪くない疲れも、今夜は少しだけ心地よかった。