第11話 まだ名前を知らない、この気持ち
翌朝。
日差しが少しずつ春めいてきたとはいえ、まだ布団の中のぬくもりは手放せない季節。
俺はキッチンで簡単な朝食の準備をしながら、リビングの方をちらちらと気にしていた。
……というのも、さっきから妙に気配がする。
「おい、翔馬」
振り返ると、不機嫌そうな顔の少年が、参考書の山を抱えてリビングに突っ立っていた。
「お、おう……カイル」
エリザベートの弟、カイル・鳳条院。
最初からこの屋敷に住んでいる、超シスコンの中学生。見た目は整ってるけど、性格は生意気でぶっきらぼうだ。
「家庭教師、もう雇えねーから。今日から姉さんに見てもらう」
「……あー、そっか」
鳳条院家が都落ちしてから、そういう部分の“貴族的な生活”はごっそり削られてる。
「でも、姉さんが教えるって……」
「うるさいな、バカにすんなよ。姉さんだって俺のことぐらい教えられるだろ」
と、言いつつもカイルは参考書をテーブルに並べて不安そうにちらっと姉のほうを見る。
「いいわよ。ちゃんと見てあげるから、感謝なさい」
「ふん……最初からそのつもりだし」
ちょっと距離の近い兄妹のやりとりを見ながら、俺はなんとなく気になって近くのソファに座った。
しかし、しばらくして——
「なあお前、これってどう解くんだ?」
カイルが突き出してきた問題集を、何気なく覗き込む。
「あー、これは……ここを先に整理して、こうやって解くんだよ」
「……マジか、なんでそんなスラスラ出てくんだよ」
「別に天才ってわけじゃねーよ。バイトばっかで勉強する時間なかっただけで……やってみたら、案外わかるもんだな」
そう言って説明を続ける俺に、隣でエリザベートがじっと視線を向けてくる。
「……翔馬、意外と……すごいじゃない」
「ん? まぁ、なんか最近、頭スッキリしてるし」
そのとき、カイルが再びじろっとこちらを睨んだ。
「……なぁ、お前。ほんとに姉さんのこと守れんのか?」
「……は?」
「姉さんは不器用で、バカみたいにプライド高いけど……俺の、たった一人の姉弟だ。中途半端な気持ちでそばにいんなよ。……あと、姉さんに変なことしたら殺す」
言葉の最後に、ぐっと睨みを強める。
「……うっせーな、わかってるよ」
思わず口を突いて出た言葉に、エリザベートが驚いたように顔を上げた。
「翔馬っ……!」
怒ってるわけじゃない。ただ、黙ってるわけにもいかなかった。
「俺だって……ちゃんと考えてるよ。そばにいるって、そういうことだろ……?」
言いながら、自分でもちょっと照れくさくなって、視線を逸らす。
(……なにかっこつけてんだ俺。顔、熱っ)
すると——
エリザベートは一瞬驚いた顔をして、それからそっぽを向いて、小さく呟いた。
「……ちょっとだけ、カッコよかったかも」
◆
その夜——
俺は一人、ベランダに出ていた。
秋の夜風は思った以上に冷たくて、Tシャツ一枚じゃ少し身震いするくらいだった。
それでも、不思議と気持ちは落ち着いていた。
むしろ、心の中がやたらざわざわしていて、部屋の中じゃ落ち着かなかったのだ。
(……今日、あいつ……)
エリザベートの、あの顔。あの声。あの距離感。
全部が、どうしようもなく胸に残っていた。
「……俺、アイツのこと……本気で……」
つぶやいた声は、夜の風にあっさり溶けて消えた。
でも、それでよかった。誰にも聞かれたくなかったから。
「あいつといると、ドキドキばっかで……でも、それが嫌じゃない。むしろ、もっと見たい……笑ってる顔とか、甘えてくる声とか——」
自分で言って、思わず顔を両手で覆った。
「うわ……俺、なに言ってんだ……」
それでも、心臓の音は止まらなかった。
(声に出さなきゃ、気づかれない。でも、出したら——どうなるんだろうな)
◆
一方その頃——
実は、もう一人ベランダにいた。
翔馬が背を向けているその奥、ベランダの端の死角に、ひっそりと身を潜めている少女の姿があった。
エリザベート。
本当に偶然、空を見たくなってベランダに出たら、翔馬がいた。声をかけようか迷ったけど、聞こえてきた言葉に、思わず息を飲んでしまった。
(……翔馬? な、なに真面目な顔してるのよ……)
彼の独り言。
その一つ一つが、胸にじんわり染み込んでくる——はずだったのに。
(べ、別に、あたしに向けて言ったわけじゃないし……ひとりごとよ、ただの)
翔馬の背中越しに、彼の気持ちが伝わってくる。
(……ドキドキ? ばっかで……? ……なによそれ、変なこと言わないでよ……)
なんだか、頬がじんわりと熱くなる。
(っ……はあ!? な、なによ、そんなの……バカじゃないの!?)
そう思って首をぶんぶんと横に振る。
(そんなの、ちょっとだけ嬉しかったからって……って、違う違う違う! 嬉しくなんてないし! ほんの、気のせいよ……たぶん)
でも、心のどこかが、ふわりと温かくなっていたのは確かだった。
(ほんっと、バカみたい。でも……)
その胸の奥に、小さく芽生えた“なにか”を、エリザベートはまだ、名前で呼ぶつもりなんて、これっぽっちもなかった。