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結局、昨日は予想していた通りのサービス残業をきっちりこなしたせいで、若干寝不足でふらつく足をひきずりながらこの通勤ラッシュに挑むはめになってしまった。
朝のさわやかな空気を目いっぱい吸い込んで深呼吸すれば、少しはリフレッシュできるのかもしれない。でも、こんなにたくさんの人に囲まれた中で、しかもその大半がイライラしているとなると、リフレッシュどころか自分にまでそのイライラが伝染してしまいそうだ。
「はあ……」
仕方なく私はスマートフォンの画面に目を落とし、電車を待つ時間をつぶすことにした。SNSをチェックし、面白そうな記事や共感できるつぶやきを見つけては「いいね」を押していく。
本当に「いいね」なんて思ってる?
ほぼ無心で画面をタップしている私に、心の中にいるもう一人の自分、とやらがそう囁く。
5分で描いたというキレイなイラストはキレイだし、毎朝焼いているらしい美味しそうなパンは美味しそうだし、ちょっとした面白い瞬間をとらえた画像も面白いと思っている。
でも、たくさんの人が付けた、たくさんのハートの中に、私のハートを埋もれさせていくこの作業に何の意味があるんだろう。そんな風に穿った視点から自分をあざ笑う感情もあったりして。
「……いいなあ」
”両親の結婚記念日のプレゼント、今年はどうしよう”
ふと目に入った一文に、リアルに声を出して呟く。嫉妬と言うには弱く、憧れと言えるほど前向きではない。うらやましい、がいちばん近いのかもしれないけれど、もう自分の努力ではどうにもならない現実を鑑みれば、それもなんだか違う気がする。
父が事故で亡くなったのは、私が高校生の時だった。その何年か後に母も病気で亡くなり、親戚づきあいもなかったこともあって、私は今のところ天涯孤独という境遇に立たされている。
寂しさに苛まれて泣き暮らした時期を乗り越えた後は、とにかく自分で自分の面倒を見ることに全力を尽くしてきたけれど、この生活にもようやく慣れてきた。
そのせいか、気づいたことが一つある。独りぼっちというのは、意外と時間を持て余すのだ。
両親のことを考えては泣いて過ごすこと、日々の生活をこなすためにあくせくすることが、そこまで情熱を注げるものではなくなった今、空いた時間をどう使えばいいのか分からなくなってしまっていた。
学生時代に付き合いのあった友人との繋がりはすでに途絶えているし、今勤めている会社にも、友達と呼べる人は片手で充分足りる程度、否、指一本あれば事は済んでしまう状況だ。
となると、独りでできる楽しい何かを開発する必要がある。そう思ってガーデニングやらDIYやら、雑誌に掲載されていた”趣味”に片っ端からチャレンジしてみたはいいものの、何一つ続かなかった。
結局私が手に入れたのは、自分にはものづくりの才能がない、という自己認識だけだった。
「フラワーアレンジメントにアロマテラピーかぁ……。楽しそうなんだけどな」
SNS巡りがいつの間にか趣味探しに取って代わるのは、いつものことだ。そしてそれが結局実を結ばないのも、いつものことで――。
そう、いつものこと。普段通り。変わらない毎日。
辟易なんてしていない。こうして心穏やかに日々を過ごせるようになるまでに、ずいぶん時間がかかったのだから。
『3番線に電車が参ります。ご乗車の方は――』
ドアが開き、列が動き始める。
この電車に乗って、始業時間に間に合うように会社に向かうのも、毎日のルーティンのはずなのに。
私より後ろに並んでいた人が、突然立ち止まった私を追い抜かしてドアの向こうへと迷うことなく足を運んでいく。その様子をぼんやりと眺めながら、私はなぜかその場で立ち尽くしていた。
◇
「あっ、ちょっとそこのおねえさん!」
結局、次に来た普通電車も見送ってしまった私は、会社に電話をして午後から出勤をすることを伝えた。
応対してくれた仲村さんが変な声をあげて驚いていたのは、母の死後、事前の申請をしていた分を除けばまるで機械のように間違いなく9時5時勤務をしてきた私が、何の前触れもなくいきなりフレックスタイム制を使用したからだろう。
だけど、今はちょっとした繁忙週間。この制度を使うには明らかにタイミングを間違っている。きっと嫌な思いをさせるだろうと思っていたのに、驚いた後に了承してくれた彼女の声音はとても優しかった。
「ちょ、ちょっと……、ちょっと待ってってば」
有給休暇にするかと聞かれたけれど、それはさすがに辞退した。
繰り返すようだけど今は忙しい時期で、今日なんかはどちらかと言えば少し早めに出社しておきたいぐらいだったのだ。自分でも理由の見えない気まぐれで午後出勤にしたことを心苦しく思っているのに、休みなんかにしてしまえばきっと向こう半年は自分を責め続けてしまうに違いない。
「あ、あの、すいませ……、あっ、ごめんなさい、ちょっと、そこのOLさーん!」
OLという言葉は、昔、と言うか今も普通に使用されているけれど、最近は”放送するのは望ましくない言葉”として扱っているテレビ局もあるらしい。
OL=オフィスレディ、つまり女はオフィスにいるべきってこと!? 差別差別! なんていう声があるせいだとか。
「頼むから少しゆっくり歩……うわっ!」
急に立ち止まった私の背中に、衝撃を感じた。誰かがぶつかったのだ。
「良かった、聞こえていないのかと思った。あの、」
「ごめんなさい、間に合ってますので!」
私は振り返ることなくそう言い放ち、再び急ぎ足でその場を立ち去ろうとした。
「いやいやいや、宗教の勧誘とかナンパじゃなくて! ちょっと話を聞いてもらいたいんですって」
慌てたようにそう言うと、その”誰か”は私の手をがっちりとつかんだ。すぐに大声を上げればきっと自由の身になったはずなんだけれど、咄嗟のことでそこまで気が回らず、そもそもそんな勇気を持ち合わせていたかどうか怪しいということもあって、私は立ち止まらざるを得なくなってしまった。
「あのですね、実は、おねえさんみたいな方にぜひおすすめしたいプランがあって」
行く手を阻むかのように私の前方に回り込みながら、その人はニコニコと話し始める。
就活生を彷彿とさせる無難なグレー無地のスーツを着込んではいるけれど、くせ毛なのかパーマなのかよく分からないふわふわした明るい茶髪やダルそうな身のこなしが、お堅い服装とちぐはぐな印象を与えている。どちらかと言うと、今どきの若者感を前面に押し出した、正に流行全部乗せ!な服の方が似合いそうな、一言で言ってしまえば軽そうな人、という感じだ。
私は勢いよく首を横に振りながら、ついでにつかまれたままの手も振りほどいた。
「な、何だかよく分からないけど、私に必要なプランなら自分で探して見つけます。だからそれは別の人におすすめしてあげて下さい」
予定外とは言え、せっかく午前中に休みをもらったのだ。よく分からないキャッチセールスにつかまって時間を無駄にするなんて、すごくもったいない。そう思い、完全拒絶の姿勢を貫く構えでまくしたてるように答えると、立ちはだかる彼を避けてこの場を離れようとした。
「話を聞くだけでも構わないんです。自分、2日前からここで粘ってるんですけど誰も捕まらなくって」
「私にはそんなこと関係ないですから」
「実はこうやって声掛けたこと自体、初めてなんすよ。だからホント、お願いします」
悲壮感漂うその言葉。
私を自分のペースに引き込もうとする作戦であるという可能性に気付かなかったわけじゃない。たぶん、普段の私ならそれ以上何か余計なことを聞いてしまわないように走って逃げていたと思う。
それなのに。
「知らない人に声掛けるのって、仕事とはいえ難しいんですよねぇ。なかなか踏ん切りがつけられなかったんですけど、今やっと自分の殻を破れたと言うか」
もしそれが本当だとしたら、なんていう考えが浮かんでしまった。そうしたら芋づる式に、ちょっとかわいそうに思う気持ちが湧きあがってしまって、私はつい足を止めてしまった。
「や、でも……そうっすよね、おねえさんには関係ない話ですもんね。忙しいのに足止めさせちゃってすみません、頑張って他の人に当たります」
「……5分」
「えっ」
「5分くらいなら、話を聞いてもいいですけど……」
「ほ、ホントっすか!?」
コクリと遠慮がちにうなずいた私に、彼は元々下がり気味だったまなじりを更に下げ、顔が溶けたんじゃないかと思わせるような笑顔を見せた。