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雨にけぶる山中、峠道を下り始めたところのカーブ。
一台の白いセダンが、車線の進行方向とは逆に頭を向けてぽつんと停まっている。バンパーからボンネットにかけての部分は、ガードレールに衝突した勢いを物語るかのように酷くひしゃげ、原形を留めていない。
また、フロントガラスは助手席側から何かが飛び出したかのように不自然な形で破れており、その隣の運転席では、黒いスーツを着込んだ若い男が気を失っている。こめかみは赤く腫れ、左の太ももからは出血が見られる。胸元は弱弱しくではあるが上下し、まだ命を繋ぎ止めていることを表していた。
「く、そ……」
真後ろの席では、もう一人の男がシートに体を横たえ、苦し気に喘いでいた。この男もまた黒いスーツに身を包んでおり、胸元に社章と見受けられるような、銀色に輝くひし形の小さなピンバッジを着けている。
男の側腹部からは大量の血液が流れ出ていて、その蒼白な顔色や弱い息づかいからも、恐らくそう長くは保たないだろうことは誰の目にも明らかだった。
「ダメだ、このままじゃ……」
小さく呟き、腹の傷に強く手を押し当てながら、何とか上半身を起こしていく。
彼を重篤な状態に陥らせた怪我の原因となりそうなもの――例えば大きなガラスの破片や、先の尖った金属製のものなど――は車内にはない。衝突のはずみで車外に飛び出したか、あるいは車には三人目が乗っており、その人物によって持ち出されたか、それは分からない。ただ、この現場を見た者がいたとして、彼は衝突事故ではなく人為的な力が作用して負傷したのではないか、という疑いの目を向けてもおかしくないような状況だった。
彼は、ちらりと窓外に目をやった。小雨が柔らかくガラスを撫で、その向こう側には雨煙の漂う林が続いている。
景色を眺めているのか、何か別の思惑を巡らせているのか。彼はしばらく虚ろな眼光をそちらに向けた後、パワーウインドウのボタンを押して窓を開け始めた。そして、握りこぶしが通るくらいのところで止めると、胸元に光っていたひし形のピンバッジを強く握り締めた。
「気付いてくれ、頼む」
祈りを込め呟きながらそれを引きちぎるように外すと、開いた窓から出した手をできる限り強く揺らして放り投げる。小さなピンバッジは音を立てることもなく深い草むらの中に落ちていった。
この”落とし物”を再度探し当てるのは、草むらへ投げ入れた張本人であっても大変難しいだろう。その事実は、傷の痛みのせいで苦悶に歪んでいた表情を少しでも和らげるほどに、彼を安堵させたらしかった。
少し強くなってきた雨音に交じり、車の走行音が近づいてくる。ひび割れたフロントガラス越しにその車の姿を見止めた途端、彼の表情は再び険しく強張った。