第6話 変わる距離
(美紅と幸次の関係が少しずつ変わり始める)
① 何気ない会話
教会の掃除を終えた後、美紅は少し休もうと外のベンチに腰を下ろした。
冬の空気は冷たいけれど、静かな教会の庭は落ち着く場所だった。
「寒くねぇのか?」
ふと声をかけられて振り向くと、北村幸次が立っていた。
「大丈夫です。慣れてますし」
「そうか」
幸次は、美紅の隣に腰を下ろす。
少し前までは、幸次がこうやって自然に隣に座ることなんてなかった気がする。
「……北村さんこそ、寒くないんですか?」
「寒いっちゃ寒いけど、まあ平気だな」
「へぇ、意外と強いんですね」
「昔、長崎にいた頃は冬でも外歩き回ってたからな」
「へぇ……長崎って、どんなところでした?」
美紅はふと気になって聞いた。
幸次は少しだけ考えて、ぽつりと言う。
「……昔は、いい街だったよ」
「昔は?」
「いや、今もいい街なんだろうけどな。俺が知ってる長崎とは、もう違うかもしれない」
美紅は、その言葉の意味を考えた。
幸次にとっての“長崎”は、もう60年前の景色なのだろう。
彼にとっては、ここ東京だってそうだ。
今、自分たちが当たり前に過ごしているこの世界が、幸次にはどこか遠くのものに感じられるのかもしれない。
「……なんか、変な感じですね」
「何が?」
「北村さんが知ってる東京も、私が知ってる東京も、同じ場所なのに、全然違うってことです」
「そうだな」
幸次は、少しだけ笑った。
「……でも、お前はここが“今の東京”で当たり前だろ? 俺にとっちゃ、まだ馴染まねぇよ」
「じゃあ、早く馴染めるようにしましょうよ」
「お前、簡単に言うな」
「だって、馴染まないと、この先ずっと違和感の中で生きることになりますよ?」
美紅はそう言って、少しだけ笑う。
「私は、せっかくなら“今”の北村さんを知りたいですし」
幸次は、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……今の、俺か」
「うん。せっかく生きてるんだから、ずっと“昔の人”のままじゃもったいないですよ」
「……なるほどな」
美紅の言葉に、幸次は珍しく真面目な顔をする。
(俺は、今を生きてるのか?)
この60年間、変わらないままでいた自分は、本当に「生きている」と言えるのか?
そんなことを、少しだけ考えた。
② 些細な違和感
その日の夜。
美紅は帰り道で、結花と並んで歩いていた。
「ねえねえ、美紅」
「ん?」
「今日さ、北村さんと一緒にいたでしょ?」
「え、まあ……うん」
「なんかさ、最近美紅、北村さんのこと気にしてない?」
「え?」
「いや、なんかさ〜、こう……普通の知り合いって感じじゃないっていうか?」
「いやいや、そんなことないから」
美紅はすぐに否定した。
「えー、でも結構話してるし、一緒にいること多くない?」
「それはたまたまでしょ」
「ふーん……」
結花はじっと美紅を見つめる。
「な、なに?」
「いや、もしかして美紅……」
「え、何?」
「北村さんのこと、好きになっちゃうのでは!?」
「……は!?」
美紅は思わず立ち止まった。
「いやいやいや、ないから!」
「ほんとぉ?」
「ほんとほんと!」
「でも、美紅って今まであんまり男の人と関わらなかったじゃん?」
「まあ……それはそうだけど」
「じゃあ、もしかして意識しちゃうかもしれないよ?」
「ないない! 絶対ない!」
美紅は顔を軽く手で覆った。
(いや、ほんとにそんなわけない……)
……けど。
今日の幸次との会話を思い出すと、ちょっと胸の奥がざわつくような気がした。
(……なんでだろ)
③ 幸次の違和感
一方、幸次もその日の夜、教会の部屋で1人考えていた。
(“今”の俺、か……)
美紅が言っていた言葉を思い出す。
「せっかく生きてるんだから、ずっと“昔の人”のままじゃもったいないですよ」
そうだ。
自分は生きている。
それなのに、60年前で止まったままみたいに、この世界に馴染もうとしなかった。
(……今を生きる、か)
ふと、幸次は気づく。
美紅と話しているとき、自分はあまり「過去」のことを考えていなかった。
彼女の言葉に引っ張られて、少しずつ「今」に目を向けていた。
それが、なんとなく不思議な感覚だった。
(あいつ……不思議なやつだな)
……いや、考えすぎか。
幸次は、深く考えるのをやめて、静かに目を閉じた。
④ 変わり始めるもの
美紅も、幸次も、まだ自分の気持ちに気づいていない。
けれど——
2人の関係は、少しずつ変わり始めていた。
それが、どこへ向かうのかはまだわからない。
でも——
確かに、何かが動き出していた。