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白い壁の部屋ー水唯の場合



12月ともなれば、どこもかしこも年末年始に向けて慌ただしさが増す。それは病院も例外ではなく、むしろ冬の間は繁忙期と言っても良い。ひっきりなしに外来の受診者が往来し、特に総合診療科は日々対応に追われていた。看護師が患者の名を呼ぶ様子だけでも忙しなさが窺える。そんな風景を横目に、水唯は待合室で一人佇んでいた。

無論彼は患者という訳では無い。とある約束のためこの総合病院まで赴いたのだ。

間も無く外来の診察時間が終了し、段々と待合室からも人が少なくなる。やがてここにいたままで良いものか少しだけ不安になりかけた時、ようやく待ち合わせしていた人物が顔を出した。

「悪い、水唯。随分待たせたな」

「いえ。むしろお忙しいのにすみません」

瑛久が申し訳なさそうに駆け足で現れたことに対し、水唯は恐縮気味に首を横に振った。そのまま瑛久が誘導し、病院奥の廊下へ進む。

総合病院はフロアマップを確認しなければ迷子になりそうな程広い。様々な病棟があり病室数も多いからだ。だがやはり職場だけあって瑛久は慣れた足取りで迷い無く歩を進めている。彼に先導され、水唯は半歩後ろに付いて目的地へと向かっていた。

「四季は? 一緒じゃないのか」

「後で合流します。今日は一旦各々のこと優先という形で動いているので」

「あー、そういや弥生がそんなこと言ってたな」

ぼんやりと頭に思い浮かべながら瑛久は納得した、単体で行動することが珍しいと思ったのだろう。無論四六時中彼らと共に行動している訳ではない。新見の件が一旦落ち着いたため、三人の共同生活も間口を広げ自分が二つの家を行き来する形となった。プライベートな空間が増えるため自分だけが得しているような気分にならないでもないが、他二人は特に気にしていない様子だ。接する機会が少しだけ減るとは言え、それでも同学年で一番時間を共にしている。そうせざるを得ない理由もまたあるからだ。

「弥生がいるとは言え、美都ちゃん一人にする不安とかあるだろ?」

今しがた瑛久が名前を出した人物──美都という一人の少女について。傍から見れば一般の女子中学生だ。しかし彼女には大きく二つの使命が課されている。世界の命運を左右する二つの鍵。その一方である破壊の力を持つとされる《闇の鍵》の所有者であること。そしてもう一つはその鍵を悪きものから守るための守護者であることだ。

特に《闇の鍵》の所有者は狙われやすい。その為にもう一人の守護者である四季が常に彼女の身を案じている。それはもう守護者の度を越して保護者のようにも見える程に。

「四季はしきりに心配そうにしてましたけど、出掛けに強めの結界を張ってきたので問題ないはずです」

「あいつ過保護だもんなー。まぁそんなら大丈夫か」

無論守護者は所有者を守る立場にあるので四季の行動は正しい。だが瑛久が溢した単語に同意もする。守る対象である美都が危なっかしく見えるのか──実際危なっかしくはある──四季の意識は大半が彼女に向いているのだ。

「結界か。そう言えば……」

独り言を呟きながら瑛久が斜め後ろで歩く水唯を返り見る。その所作に応じるように水唯も視線を向けた。

「シャツ、切って悪かったな」

「! いえ……あの時はそれこそ自分の方が……」

「まぁお互い様か。俺も久々の実戦だったし、加えて対人間は初めてだったしな」

互いにさる日の出来事を思い出しながら謝罪を重ねる。否、この場合は瑛久が謝る機会を作ってくれたのだろう。彼は実戦から離れていたとは思えない身のこなしで、少なからず動揺したことを覚えている。

「単純に、あんなに動けることに驚きました」

「一応これでも守護者だったんだぞ。それと仕掛け技に関してはそれこそ剣道で習得したものだし」

「瑛久さんの試合スタイルが目に浮かびますね」

「お前と真逆だろ?」

彼の剣道での試合は見たことがないが、仕掛け技と口にするあたりやはり攻めの姿勢なのだろう。そう考え苦笑したところを、見計らったように返される。そしてその通りであった為さらに苦い顔を浮かべた。共に剣道経験者だけあってみなまで言わずとも互いに理解出来る。おかげで会話のテンポが心地良い。そもそも瑛久の人当たりの良さもあるだろう。さすがに医師という職業だけある。こういった頭脳派が味方にいるとそれだけで心強くなるものだ。

「はい。防御特化型なので瑛久さんのようには立ち回れません」

「よく言う。応じ技が得意な人間程、感情的にならずに冷静に物事が見られるだろ。瞬時の判断がモノを言うんだしさ。そう考えるとお前らはいいバランスだな」

返答している途中で何かに気付いたのか、瑛久はふと目線を宙に向けた。一括りにされた二人称複数形で大方の予想はつく。

「四季は意外と感情型ですね」

「そう言うことだ。いざって時に感情先行する人間ばっかじゃ話にならんだろ? あいつ意外と子どもっぽいんだよなぁ」

瑛久のぼやきに妙に納得する。和解前はそんなに懇意にしていなかったからか、四季に対する印象は冷静でソツなくこなす人間、というものだった。しかしここ最近の出来事を思い返すと一概にそうは言えない。特に美都のことが関わると途端に冷静さを失うのだ。二人の関係を間近に見て思ったが、実際には兄妹に近い気がする。四季の年齢が一つ歳上のせいもあるだろう。恐らく彼女のペースに知らずに乗せられているのだ。彼自身がそれを理解していないだけで。

「まぁ何にせよだ。お前が改心してくれて良かったよ」

「! ……色々とご迷惑をお掛けしてすみません」

「俺は何もしてないさ。それに今回のことは偶々(たまたま)俺の領分で起きてることに関わってるだけだし」

気を遣わせないためか、恐縮する水唯に対して軽く返答した。そうは言うものの瑛久の功労は大きい。彼が間に入っていなければ今頃どうなっていたか知れないのだ。それに以前から気にかけてくれたおかげで、”彼女”の安全が保たれている。

段々とすれ違う看護師の数も減り、前を歩く瑛久の足取りが遅くなった。部屋番号を確認しながら照らし合わせているようだ。この廊下の病室だけネームプレートが見当たらないからだろう。すると該当の部屋番号の扉の前で立ち止まった。

「ちょっと待っててな」

そう言って二度軽く扉を叩くと、先に瑛久が扉を開けて入室した。閉まっていく扉からは病室の窓しか見えない。しかし確かに聞き知った声だった。兎も角も指示があるまで扉前で待機だ。

「……っ──」

己でも緊張しているのがわかる。何せまともに会うのは数年ぶりだ。こんな心持ちで会話など出来るのだろうか、と不安になる。何を話せば良いのか。何から話せば良いのか。そして今のこの状況をどう説明すれば良いのか。

目を瞑って深呼吸する。以前自分はどう話していたのだろうと記憶を遡ろうとした。しかしそんな時間の猶予などは無く、室内から俄に聞こえていた会話が途切れると再び扉が開いた。

「お待たせ。でもそんな長くは話せないと思ってくれ」

瑛久からの言葉に無言で頷いた。そしてそのまま彼に誘導され室内へ通される。病室の香りというのも久しい。あまり癖づいて良いものでは無いが今回に至ってはこの時間の後に寂寞の思いに駆られそうだと感じた。殺風景な白い壁を見ながら二、三歩もすると途端に視界が開ける。そしてすぐに甲高い声が飛んできた。

「────水唯……っ!」

既に泣きそうな声で、ベッドの背にもたれている女性がそう名前を呼ぶ。久しぶりに見た彼女の顔に胸が詰まった。そして少し安心もしたのだ。記憶の中の彼女と変わりないことに。

口を手で覆い、必死に嗚咽を飲み込もうとしているその女性に少しずつ歩み寄る。緊張からか心臓は煩いくらいに鳴っている。

近付くにつれ、女性の表情が鮮明に見えてきた。輪郭がはっきりとしたことでようやく現実味が増す。

「……──母さん……」

病床の傍まで来てそう呟くと、女性は大きな瞳を一層潤ませた。そして優しく少年の腕を引き寄せ、尚もベッドに腰掛けたまま彼の身体を包みこむ。瞬間、長い間忘れていた温もりを感じ目頭が熱くなった。

「水唯……よかった……」

自分が立っているせいで、母親の顔が下にある。以前よりももっと下に感じる。それだけ時間が経ったのかと少し苦しくなった。こんなに小さい女性だっただろうかと。

落ち着いたのか、彼女がゆっくり身体を離した。そして今度は頬に手が当てられる。見上げる瞳には少し情けない自分の姿が映っていた。

「背が伸びたわね」

柔らかく微笑む母親の言葉に、コクリと頷く。何とか口角を上げようと努めるが、上手くできているか掴めなかった。

するとそれまで無言のまま居た瑛久が、気を遣ってか小さく声を掛けた。

「じゃあ私は部屋の前に居りますので。時間になったら彼を呼びにきますね」

面会時間は限られている。医師としての管轄もあるのだ。瑛久はそう伝えて踵を返そうとした。

「いいえ、櫻医師(せんせい)。ここに居てください」

「しかし……」

「医師はこの子の──私たちの事情を理解されているんでしょう?」

思わず瑛久は声を詰まらせた。親子の事情、と端的な言葉で表されても当然すぐに把握出来た。何せ恐らく担当医よりも患者のプライバシーに踏み込んでいるのだ。そしてこの状況を作ったのも己だ。無論否定はできない。だが水唯は母親と二人で話したいこともあるのではないかと考え目配せを送った。

「ご迷惑でなければいてください」

「それはないが……久しぶりの再会なのに部外者が居ると話しづらいだろ?」

事情を知っているとは言え、圧倒的に部外者であることに関わりない。関係者と言うことも出来るがそれは”守護者側”に関してだ。水唯が携わっていた組織に対して正反対の位置にいる。この微妙な立場ゆえに判断が難しい。患者のプライバシーと守護者としての役目。所有者の少女を守るためには、どんな情報でも知りたいと思うのは事実だ。恐らくは近いうちに何かしら事が動くのだから。

「櫻医師、大丈夫です。確かに次はいつ逢えるか分かりませんが……でも、このままですとその『次』の機会が来るか分からないことの方が危ういんです」

真っ直ぐな瞳が向けられる。その姿勢に瑛久は再度息を呑んだ。まるで不穏にも聞こえるその言葉を口にせざるを得ない状況だと、女性は理解している。彼女にも彼女の信念があるのだと窺える眼差しであった。

「……わかりました。では星名さんの体調を見つつ同席させて頂きます」

女性からの申し出を受け、あくまで回診の意味も含めて了承の返事をした。業務時間外ではあるが本来ならば一人の患者の病室に留まることはしない。なので尤もな理由をつけて二人のやり取りを見守ることにした。

瑛久からの返事を受け取った後、女性は再び水唯に向き直る。

「第一中に転校したって聞いたわ。それは……あなたの意思じゃなく、お父さんからそう指示があったのね?」

母親からの問いに水唯は無言で頷いた。普段から口数が多い方ではないが身内の前であっても同様らしい。

「転校したのは俺だけで──……()()()は今どうしているかは俺も知らない。俺は……」

「いいの。ひとまずはあなたが無事だっただけで。お父さんだって何も考えていないわけじゃないはずだもの。それに──」

水唯が用いた二人称に関して、即座に弟の事かと瑛久は脳内で思い浮かべた。以前母親から息子が二人いる旨は聞いている。しかし驚く程に”弟”に関して水唯から話題が出て来ない。何か後ろめたさを感じているかのように。彼の話し振りからして同じ中学に在籍していたことは把握出来た。しかし弟は今回の件には無関係なのだろうと推測する。

すると母親は一拍置いて真っ直ぐな瞳を水唯に向けた。

「あの子に何かあれば、あなたには分かるはずでしょう?」

その言葉に思わず眉を顰めた。今の彼女の言い方には何か確信めいたものがある。水唯と弟が何かしらで通じているのだと知っているのだ。無論二人だけの兄弟なので相互互助もしてきただろう。だが水唯は家族の危険を知って尚、命令に背いた。下手したら弟に制裁がいってもおかしくは無い。その心配を水唯自身がほとんど見せていないということは、母親の言葉通り無事を確信しているからだろう。

「どうして第一中だったの? 何か理由があるんでしょう?」

「……それは──……」

途端に水唯が口籠もる。実のところ瑛久も彼と同じ想いでいた。果たしてこの母親は”どこまでの事情”を知っているのかと。鍵という存在。水唯に宿り魔が憑いていたこと。己が人質であること。恐らくは水唯もそこを測りかねているのではと考えた。

「水唯、まずは確認してみたらどうだ? お母さんが何を知っているのかを」

上手く話が纏まっていないように思え、助け舟を出すつもりで口を挟んだ。すると水唯は少しハッとしたしたように我に返る。先程の文言から察するに、母親も無知ではないはずだと思ったのだ。

「”鍵”については……」

「──もちろん知っているわ。やっぱりそのことが関わってるのね?」

当然だと言わんばかりに母親は頷く。それがただの単語としてのものではなく、世界の命運を左右するものだと知っての反応だ。水唯からその言葉が出た際に、彼女の優しい顔に少しだけ影が落ちた。そして問いに頷く息子を見て、また苦虫を噛み潰したような顔を浮かべる。

「あなたが守護者なの?」

今度は首を横に振った。その反応に女性は少し安堵の息を漏らしたようにも見え、瑛久は怪訝な表情を浮かべる。しかし話題は水唯の言葉ですぐ次に移った。

「鍵の所有者が第一中にいると言われた。その人物を効率よく探すために……同じ学校の方が都合が良いと」

「……! どうしてそんなことが……」

絶句した後、母親は心底信じられないといった表情でポツリとそう呟いた。その反応に思わず疑問が湧く。

「星名さんのその表情は、何のことについてですか?」

あまり親子の話に関わらないつもりでいたが、どうにも聞き流すことが難しい。それに彼女の反応から察するに、自分と同様の疑問を抱えているのかもしれないと感じたからだ。すると案の定、難しい顔をしたまま女性が小さく声を発する。

「どうして()()、第一中に……と」

「また──……?」

これは違う、と即座に判断する。自分が考えていたのは「なぜ第一中に絞り込めたのか」という疑問だ。しかし彼女の呟きは方向が違っていた。反復の意味を持つ単語の意味とは、と瑛久は眉間に皺を寄せる。

「──……以前にも、第一中に所有者がいたんです」

初めて知る事実に瑛久は目を見開く。そんな情報は耳にした事がない。それどころか自分の時は所有者が見つからなかった。対象となった者にも第一中の生徒は含まれていなかったはずだと記憶を遡る。しかし今は、と女性が口にした事実から紐解くのが優先かと思考を切り替える。

「星名さんも第一中ご出身なんですか?」

「……いいえ。私は違います。私の知り合い──……」

問いかけに女性は小さく首を横に降り、不意に目を細めた。その瞳の奥に何かを映し出すように、己で止めた言葉を反芻している。

「大切な──友人が。……友人たちが第一中でした」

複数形で言い直したということは、鍵の所有者の他にも知り合いがいたのだろう。だがそう話した彼女こそがあまり晴れやかな顔をしていない。無論鍵が関わっているのならばその反応はおかしくないのだが、旧友の話にここまで繊細になるものかと疑問を抱く。それは傍で彼女を見ている水唯も同様だったようだ。否、水唯はその母親の言葉で何かを思い出したように目を見開いた。

「父さんの昔馴染みに心当たりは?」

息子からのその問いを受け、声を詰まらせた。難しそうな顔をして口元を押さえている。

「……────あるわ」

「! それは一体──」

「でも────」

一体どんな人物かと追及しようとした言葉を、女性は否定の接続詞で遮る。相変わらず彼女は苦々しい表情を浮かべたままだ。その後に続く内容が良いものではないことは明らかだった。

「わからないの。今はもう、何も……」

片手で顔を覆ったまま、女性が視線を落とす。その応答に聞いていた二人はどういう事か意味を測りかねていた。

「……母さんの記憶に、制限がかけられてるのか?」

「いいえ違うわ。顔も名前も、思い出そうとすればはっきり覚えてる。忘れるはずないわ」

衣奈に憑いていた宿り魔を祓った際、記憶に制限がかかったことを思い出し水唯は可能性としてそう口にした。しかし母親は首を横に振る。その後の語気も妙に強い。

「だって……っ──私もずっと一緒にいたんだもの。忘れるわけ……ない……っ!」

その言葉に目を見張った。つまり自分が仕えていた《主人》は母親とも顔馴染みだったのだと。彼らが一体どこで知り合ったのかは聞いたことがない。しかし双方とも顔見知りのため、患っている母を盾にしたのだと瞬時に思い至った。

「っ……でも、今はもう違う──もう、私の知ってる()じゃないの……!」

その瞳の奥で描いている人物像を否定するかのように、続け様に譫言を繰り返す。時が経てば人の性格が変わるのは止む無しだ。旧友であろうとも置かれている環境が違えば簡単に性格は転がる。彼女が嘆くのは、負の方に変化してまったが故だろう。母親のその様子に困惑と疑問を抱きつつも水唯は側で話に耳を傾けた。

「私の……せいよ」

不意に声量を落とし、そうポツリと呟く。己で口に出した台詞を真顔のまま噛み締め、瞳を大きく揺らした。直後、彼女の息が不規則に浅くなり始める。

「……っだから今こんな──あなたまで巻き込んで……!」

「それは違う! 母さんのせいじゃ──」

尚も悲痛な面持ちで、女性は甲高い声を響かせた。そして息子からの言葉を否定するように強く頭を振った。

「私のせいよ──あの時私が目を離したから……! ()()()()()()()のに……!」

いよいよ会話が成立しなくなってきた様子を見て、瑛久は咄嗟に我に返る。過呼吸の兆候が出ていると。

「星名さん! ゆっくり呼吸をしてください!」

慌てて患者の側に駆け寄り、呼吸の指示を出した。見れば相当顔も蒼い。それ程までに彼女は何かに責任を感じているのだ。

「は……、っ……! ごめん、なさ……っ」

己でも取り乱したことを理解したのか、浅い息遣いのまま医師に向けて謝罪を述べる。だがそんなことはどうでも良かった。

「水唯、ここまでだ。これ以上はお母さんの身体に障る」

「だい……じょうぶです──医師、大丈夫ですから……」

心苦しいがこれ以上の話し合いの続行は難しいと判断し、そう水唯に伝える。母親からの訴えに対しては棄却せざるを得なかった。

「すみません。医師としてこの状態で続けさせるわけにはいきません」

蒼い顔のまま、女性は項垂れる。残酷なことをしているとは思う。だが何より患者優先だ。恨まれても職務を全うするしかない。

水唯も突然の容体急変に困惑しながら了承の意思を示すように一歩身を退いた。その様子を視線の端で捉えたのか、最後にこれだけはと言わんばかりに女性が声を荒げる。

「水唯……っ、あなたは──安全なところにいて……! 鍵に関わりがないのなら……これ以上近付いてはダメよ……!」

途切れ途切れながら、息子に警告を発する。それを耳にして、二人は思わず口を噤んだ。一体何がここまで彼女を急き立てるのか。疑問を口にしたくとも現状では儘ならない。それをグッとおさえ、瑛久は処置に入る。

彼に場を譲った水唯は、その様を呆然と見つめながら今しがた届いた母親からの言葉を反芻する。確かに自分は守護者ではない。だが鍵に全く関わりがないとは言い切れない。そもそもその話をするために来たのだ。しかし母親からの警告を耳にして、やはり只事では無いのだと確信する。鍵という存在はそれほどまでに、関わる人間に大きな影響を及ぼすのだと。

「っは……、おねが、い……っ、とおる──……」

今度は誰に当てるでもなく、女性が呻き声のように呟いた。人の名前と懇願の単語だと理解は出来るが何に対してなのかは把握出来ない。現状は把握のしようがない。それよりも今は患者の容体を安定させることが第一だと瑛久は考えた。これ以上動揺させないようにと、水唯に病室から出るよう促す。戸惑いの色を見せながらも医師である瑛久の指示に従い、彼は扉から退室した。

病室の扉を背にして、止めていた息を一気に吐き出すかのように肩から力を抜く。ひとまずは母親の顔が見られただけで安心だった。だが事は予想以上に拗れている。何より無関係だと思っていた母が、恐らく父よりも鍵について懸念していた。それに彼女の話からは幾つか引っかかる点が見受けられた。己を責め立てるような言葉の羅列。かつての主人との間に一体何があったのか。

(……父さん──……)

離反してから一度も連絡をしていない。しない方が良いと判断した。彼の立場を考えて。

何かしら動いているはずだ。母の為ならば。今はそれに賭けるしかない。

水唯は一度目を閉じると、小さく息を吐いた。瞬間、鼻の奥がツンとする。一時前までいた場所の匂いを、思い起こさせるかのように。




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