花屋の後悔
十七歳の女子学生に、夫もあるのに手を出して、私は。栗毛に、いつもゆらゆらと揺らせている瞳孔に魅入られて、紺のエプロンに付けた研修中の札がぎらぎら白く輝く風景に、私は、恋焦がれずにはいられなかった。
ああ、素敵な、夢のような桃色。頬を覆うそれは恥や外聞も置き去りにする素直な、率直な愛をもたらすための色、花、それと同じ。
馬鹿女の正体見たり、枯れ尾花。三十路に差し掛かって法に触れ倫理に触れ、若いわけでもないのにそんな所業に手を染めた、愚かで目を当てるにも醜悪な私を、誰が裁いてくれるのだろう、せめて男の手ではもはや裁判をしてほしくはない。
別にそもそも、一人で切り盛りするに十分な花屋に、少女が働かせてくれと直接頼み込んで来たとき、私はイママデノヨウニ「求人はしていないの」と断りを入れるべきだったのだ。しかし、その純真な瞳を、そしてまるでそれ自体が花を人にしてしまう、純白のセーラー服を見て、そのセーラーにふた筋の光が走り抜けているのを見て、誰が軽い一言で追い返すことができただろうか。
私は面接の振りをして彼女にたくさんのことを聞いた。なぜ花屋なのと聞くと、そればかり見つめてきたからという貴女の、誰にも言えたことのないその理由に、私は不意に思いを馳せたのです。
だから、ではいつ来られますか、と聞くときには、明日とでも言ってくれと思っていた。もうそこから私の中にあるおかしな形をした歯車は、変なふうに業務を始めていたと言えるかもしれません。
ああ、誰も、止めてはくれなかった。止めて欲しいと思ってもおらず。生活に難があったか、夫と上手くいっていなかったかと言えば、まるでそんなことはなく、だからこそ私は申し開きの言葉も持ち合わせてはいませんでした。
あるいは、ずっと真っ直ぐ歩んできたのが悪かったのかもしれない。
少女は、私の邪な思いを通り越して、「今日からでも働けませんか」と言ってきた。それを聞いて、店の中の全部の花瓶が、落ちて割れてしまったかのような音が頭の中で響いて揺れて、私はただうんうんと頷くことしかできなかった。それで、その日、その少女に仕事の一や二を教える傍ら、可愛らしく仕事を覚えようとする貴女の横顔、驚くほどじっと花を見つめるその仕種、しなやかな右手と左手、その指先と爪の丸み、私には品種改良のされていない、世界で最初のお花に見えた。でもその時はきっと、私には穢らわしい感情までは浮かんでいなかった。でも貴女が、貧血らしくふらっと倒れて、私の胸の中に迷い込んできたとき、血の濁流がまざまざと決壊して、私は貴女に‘’抱かれる”ことを選びました。
その日、私は黒い一線を越えて、貴女を店の裏の部屋に招き入れ、そこで、花の仕事とは別のことを教えた。ぎこちなくも、利発な瞳で私の身体を見定め、長いまつ毛を瞬かせながら、私を悦ばせようとする貴女に、私は心臓の高鳴りを抑えられなかった。そして、ことが終わって、私が嘆息を洩らすと、貴女はじっと、壁に掛けられた一輪の青い薔薇を見つめて、後悔で放心したように見えたのです。
「ごめんね、ごめんね」
いまになってことの問題を理解した私の脳みそが、慌ててその花瓶の置かれた棚に手を伸ばし、そこから少しばかりのお札を数枚出して、彼女に手渡しました。美雪、という名の少女は、そんなお金を手に持つのが初めてだったのか、渡された何枚もの淡い色した紙切れを、丸い瞳でぼんやりと眺めてから、またすべてから逃げ出すように、青い薔薇を見ていた。
お金に慌てる様子もなく、返そうという気もなさそうに、しかしやはりどうしたらいいのか戸惑って、動けずにいる美雪さん、貴女を、私は無理やり追い出して、それで店も締め切ってしまった。
彼女が帰ったあとに残る部屋の中の芳香、虚空を見つめるようにして眺めていた視線のその先にある青い薔薇。私は縋るようにそれを撫で付けるしか、そのときの狂うような自分に対する嫉妬を落ち着ける手段はなかった。白い薔薇に、青い色水を吸わせただけの、ちんけな造り物の薔薇である。
その次の日、きっと来ないと思っていたのに、美雪さんは何食わぬ顔でやってきた。お客が来る度なぜか私は身が凍る思いで、でも同時に足元が熱くなるのを覚えていました。花束の作り方、茎を切る仕方、それを教えながら、時折盗み見る貴女の表情は和らげで、昨日の大事など覚えていないように見えて、それで私もふと、反省の色も消えたように、昨日のことを忘れてしまったのです。だのに、また貴女はふらっと私の胸元に寄りかかってきて、私は忘れたことも忘れて、奥の部屋に連れ込んでしまった。フラワースタンドを作った日、初めて牡丹を仕入れた日、リボンの結び方を教えた日、外は台風で客も来ないから、なに食わぬ会話をしただけの日、ぜんぶ、貴女は急に体調を崩したふりをして私に倒れ込んできて、それを合図に、抱いたり私に抱かれたりした。本当に美しい雪のような躯体で、可愛らしい嬌声を漏らしていた。やがて罪の感情も忘れて、私たちは愛し合って、けれどことが終わると、いつも私はお金を渡していた。
彼女はなにも言わずに受け取って、それですぐ帰っていった。私はその度言い知れぬ哀しさに包まれた。それは懺悔に他ならないのに、なんと寂しい懺悔だと思いました。私は花を売りながら、彼女という春を買っていたのだ。彼女もまた、春を売っているにすぎなかったのだ。それはお金だけの関係で、その渡したお金で彼女が、男やら女やらと遊んでいると思うと、虚しくて悲しくてたまらなかった。このお金がなくなったとき、彼女と別れなければならないという直感が走ると、私はついに家の手を付けては困るお金にまで手を付け始めてしまった。「いったい、あとどれだけ渡せば、美雪さんは永遠に私のものになってくれるの」と聞いたとき、貴女は首を傾げていましたね。あのとき、なにを不可思議に思ったのですか。永遠に私のものになんかならないという理由でですか、それとも、お金はいつまであるのかという疑問でですか。そうしたらいつ訴えようか、警察に出ようかという悩みでですか。いずれにしても、それを聞いて貴女が首をもたげたあとには、ごめんなさいという他なかったのです。
本当に、苦しくなって、こんな恋ともしれぬ恋をいつまでも続けるわけにいかないと思って、手首を切る寸前までいった日、私は美雪さんにほんの少しの花束と、そしてお金の束を差し上げて、これで最後です、もう来なくて構いません。厭な思いをさせてすみませんでした、そう告げて、それで終わりにしようと思いました。美雪さんは果たしてそれで、雨の中帰っていきました。
私に残ったのは、後悔と恐怖。いつ彼女の親が店に怒鳴り込んできて、いつ夫が私の情事に気付くかと、その日中怯えていました。棚の上に飾っていた青い薔薇は水も変えられず枯れ果てて、色をなくした花弁が棚の上に落ちていた。そして、不意に彼女が常に見つめていたそこを、私はじっと見つめたのです。私が立ち上がって、そして店の外に飛び出ると、大きい茶封筒がぽつねんと置かれていて、その中には、およそ私が渡したお金が、そのまま入っていたように見えて、絶句しました。ああ、もし、私が渡すお金を頼りにしていなかったのであれば、どうして毎日のように、私に抱かれたというのでしょう。それが愛なら、恋なら、どれだけ私は救われるだろうと思うつかの間、封筒に、「また咲きましたら」細い文字が書かれているのが目に入り、それでようやく気が付いたのです。
美雪さん、貴女は、青い薔薇を見に来ていたのですね。お金でも、私の身体でもなく。全てが終わるとじっと、後悔したように、なにも見るものがないから見つめているものとばかり思っていたけど、本当に、それを見ていたのですね。
私の部屋に入らなければそれが見られないから、貧血の振りをして、介抱のために私が部屋に招き入れるのを待ったのですね。最初の日に目を瞠ったのですね。たくさん聞いたときに、そればかり見てきたという、貴女の花々に対する愛は本物で、穢れなく、ただ私がその情緒を利用していただけだった。私はなんでもなかった。お金ですらなかった。品種改良のすえの栄光の花でもなく、ただ色水で無理やり彩りを与えただけの白い薔薇以下の、貴女の中の、雑草にも満たない――。